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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2019年10月

『 リリイ・シュシュのすべて 』 -詰め込み過ぎたジュブナイル映画-

Posted on 2019年10月16日 by cool-jupiter

リリイ・シュシュのすべて 55点
2019年10月14日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:市原隼人 蒼井優
監督:岩井俊二

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『 マトリックス 』を20周年劇場鑑賞して以来、大学生時代に観た映画を再鑑賞したいという気持ちが生まれてきた。あの頃は田中麗奈のファンで、『 がんばっていきまっしょい 』や『 はつ恋 』を何度も繰り返し観ていた記憶がある。本作は確か銀座だか有楽町あたりの映画館で観た覚えがある。

 

あらすじ

栃木の田舎。蓮見雄一(市原隼人)は、同級生の星野と友人になる。しかし、その星野が非行少年に変貌したことにより、雄一は窃盗などの犯罪を強要され、悩み苦しむようになる。そんな雄一の救いは、リリイ・シュシュの音楽を聴くことだったが・・・

 

ポジティブ・サイド

閉鎖的な空間それ自体は、ある者にとっては居心地が良く、ある者にとっては居心地が悪い。後者は往々にして高校や大学への進学を機に、そうした閉鎖的なコミュニティを脱出していく。だが、小学生や中学生にはそれは難しい。中学受験は昔も今もそれほど一般的ではないし、公立の中学校というのは小学校時代の人間関係の延長線上にしか存在しないとさえ言える。本作は、そんな環境において、人間関係が突如として変質してしまったらどうなるのかを描き出している。

 

まず市原隼人が可愛らしい。これは言葉そのままの意味である。現役時代の亀田興毅のような険のある顔ではなく、声変わり前の中性的な面影を残す貴重な時期を上手く切り取った。『 誰も知らない 』における柳楽優弥のようだ、と言うのは流石に褒め過ぎか。蒼井優はあまり変わっていない。というか、この女優の現在のスタイル、すなわち色気があり、影があるという魅力の萌芽がこの時点で認められるのは新鮮な発見である。

 

中坊というのは、自分では大人と子どもの中間ぐらいに思っているのかもしれない。確かにJovian自身もそう勘違いしていた。だから、恰好つけるためだけに煙草を吸って、吸い殻をポイ捨てしたりしていた。とっくに時効だから書いてしまうが、そういう背伸びをしたくなる時期というのは誰にでも普遍的に存在するはずだし、ケンカはまだしもかっぱらいや恐喝、レイプなどは論外だが、社会の枠を意識的にはみ出してしまう行動を取ってしまう少年少女というのは、現実的にも比喩的な意味でも理解できないことはない。本作はそんな若者たちの残酷で底の浅い青春を確かに美しく切り取っている。そんな現実世界の濃密過ぎる、つまり地域や時代のせいで離れられない人間同士の関係とは別次元で、ネット上でリリイ・シュシュについて意見を共有し、時には戦わせるのは面白いコントラストであると感じた。広大なネット空間であっても、彼ら彼女らは非常に狭い領域に集ってしまう。それが子どもというものなのかもしれない。

 

1990年代はいわゆるJ-POPの全盛期だった。その大きな要因は音楽が“私有”されるようになったからだろう。Jovianも高校時代、雄一と同じようにCDプレイヤーを持ち歩き、通学の途上で、休日にどこに行くでもなく自転車であたりを巡る時に、あるいはそこらの道端でふと音楽を聞き耽っていた。1990年代後半から2000年頃というのはインターネットが黎明期を終えて、勃興期に入っていく時代だったが、それでも同好の士と巡り合い、語り合うことができるのは僥倖以外の何物でもなかった時代だった。掲示板は本当に掲示板で、文字以外の媒体、例えば画像や動画などは完全に容量オーバーだった時代。互いの好みを語り合い、時に談論風発し、ケンカ腰になりながらも、新しい形の人間関係を模索することができるようになり始めた時代でもあった。雄一の最後の行動は決して認められるものではないが、それでも自分の居場所を自分で確保したのだと思えた時、それが破壊されたとなると、その衝撃はいかばかりか。たかが十数年前ではあるが、その時代の空気を確かに味わわせてくれる貴重な映画であるように思う。

 

ネガティブ・サイド

光の使い方があまりにも下手くそである。特に夜のシーンは、不自然極まりない。もっとさりげない、月明かりよりほんの少し強い程度の光を、薄く、ぼんやりとカメラの撮影範囲に広げることはできなかったのか。また、窓からの光、刷りガラス越しの光などを必要以上に取り込んでいるせいで、画面全体にハレーションを起こしているようなシーンがちらほらあった。DVDの画質のせいだろうか。それでも、芸術然としたカットを撮ろう撮ろうと意識しすぎたせいで、全体的な光のトーンが一貫性を欠いている。ストーリーそのものがアンソロジー的な構成になっているのだから、逆に照明や音響といった部分に余計に一貫性を持たせる必要があったはずなのだ。本作の光の使い方は、二重の意味で残念である。

 

仕方がないと言えば仕方がないが、中学生連中の演技が拙い。蒼井優は、台詞は言うことはできていても、体の動かし方に遠慮が見られる。というか、男を蹴るのなら、もっと容赦なく蹴れ。岩井監督も演技指導が弱すぎる。その蒼井優が、川にその身を委ねるシーンがあるが、次のシーンではなぜかスカートが乾いていて、シャツは半乾き。何故だ。映画とは撮影時点では連続していないシーンとシーンを編集の妙味でそう感じさせなくすることが本義である。もっと細やかなリアリティを追求して欲しいものである。

 

時代がそうだったと言えばそれまでかもしれないが、現代とは比較にならないほど若者の倫理感が壊れている。しかし、映画化された『 ろくでなしBLUES 』や『 BE-BOP-HIGH SCHOOL 』のからっとしたケンカとは違い、本作が描写する数々の違法行為、犯罪行為は、あまりにも観る者の胸くそを悪くする。リアルタイムで観ていた記憶があまりないということは、当時の自分に刺さるものが少なかったということだろうか。しかし、今の目で見てしまうと、高く評価することは著しく難しい。

 

総評

映画は一にかかって芸術媒体であるが、光の使い方の拙さ、大雑把さが本作の大きな弱点である。また、子どもの世界に住まうことのない「大人」という種族が、あまりにもぼやけた姿でしか描出されない点も気にかかる。だが、蒼井優だけではなく大沢たかおや勝地涼など、今も活躍する俳優が相当数本作に出演している。ストーリーではなくキャストに注目すれば、再鑑賞の価値は少しは上がる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Is she seeing anyone?

 

蒼井優演じる津田に関する台詞で「あいつって、誰か付き合ってる奴いるのかな?」というような台詞があった。誰かと付き合う= date someone, go out with someoneなどの表現が一般的だが、be seeing anyoneは、しばしば疑問形で使われる。Are you seeing anyone? = 誰か付き合っている人がいるの?は、独身諸賢に是非とも使ってもらいたいフレーズである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 市原隼人, 日本, 監督:岩井俊二, 蒼井優, 配給会社:ロックウェルアイズLeave a Comment on 『 リリイ・シュシュのすべて 』 -詰め込み過ぎたジュブナイル映画-

『 ブルーアワーにぶっ飛ばす 』 -エンディングにぶっ飛ばされる-

Posted on 2019年10月15日2020年8月29日 by cool-jupiter

ブルーアワーにぶっ飛ばす 65点
2019年10月13日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:夏帆 シム・ウンギョン 渡辺大知 南果歩
監督:箱田優子

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シム・ウンギョンが熱い。日本語にはまだまだ違和感が残るが、数年もすれば日本映画界にとって欠かせないピースになるのではないだろうか。『 新聞記者 』と本作において、私的2019年海外最優秀俳優賞でホアキン・フェニックスの次点につけている。

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あらすじ

CMディレクターの砂田夕佳(夏帆)は既婚、子どもなしの30歳。職場の同僚と不倫関係にあり、仕事も修羅場続き。ある日、病気の祖母を見舞うために帰郷することになった砂田は、友人の清浦(シム・ウンギョン)の運転で茨城を目指すが・・・

 

ポジティブ・サイド

Jovianは出身地は兵庫県だが、岡山県に8年暮らし、東京でも10年半を暮らした。大都市、まあまあ都会、ド田舎の全てを肌で知っていると思っている。そういう背景を持つ人間には、痛いほどに伝わるサムシングが本作には確かにある。都市の変化は激しい。一方で、日本昔話級の田舎には、目で見て分かる変化はほとんど起きていない。だが、それは一つの幻想である。変わらないように見える人間も確実に変わっていく。当たり前だが、人間は年老いていく。そして、どんな人間にも幼少期がある。田舎がダサい、カッコ悪い、居心地悪いと感じるのは、それが自分で自分を好きになれない部分を投影しているからだろう。逆に言えば、田舎に帰省してホッとするという向きには本作の砂田の痛々しさは伝わらないのかもしれない。それでも、清浦が隠そうとしない旺盛な好奇心や高いコミュニケーション力は、誰でも好ましく感じるに違いない。その感覚を大切にしなくてはならない。人間、ポジティブに感じられることを基軸に考え、行動したいものである。

 

構成はユニークである。オープニングシーンでは、ブルーアワーに田舎のけもの道を話しながら疾走する幼女を描き、エンディングでは茨城から東京への家路をブルーアワーにひた走る車を描く。本作の特徴は、その説明の少なさ、徹底して映像で語ってやろうという意気込みにある。冒頭から不倫相手との同衾シーン、そこから帰宅に至るシークエンスであるが、これがかなり不自然な画の繋がり方なのである。え、そこで切って、そこに繋げるの?という編集である。これはいきなり失敗作・・・いやいや実験的作品なのか?との杞憂は、中盤に至っても消えない。『 ダンス・ウィズ・ミー 』のようなロードムービーを予感させた瞬間には、もう別シーンに切り替わっていたりと、常に観ているこちらの虚を突くような展開が続く。だが、どうか辛抱して欲しい。全てはある演出のためのもので、それが全て明らかになるエンディング・シーンは絶対に席を立ってはならない。

 

映像といえば、清浦が常に手にしているビデオカメラも重要なガジェットになっている。いつ、どこにそれがあり、誰がどういったタイミングでそれを使うのかに、これから鑑賞する方は是非注意を払ってみてほしい。同じく、出番が可哀そうなぐらいに少ない渡辺大知のシーンにも、是非とも注意を払ってみてほしい。

 

夏帆の母親役に果歩。名前だけではく、外見もかなり似せてきている。メイクアップアーティストさんやヘアドレッサーさんはGood job! である。

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ネガティブ・サイド

夏帆は良い意味で円熟期を迎えつつあるようだ。しかし、悪く言えばマンネリズムに陥る危機を迎えているとも言える。『 きばいやんせ!私 』の貴子というキャラクターと今作の夕佳というキャラクターは、重複するところがかなりある。彼女自身、あるいは彼女のハンドラー達は、型にはめないように注意をしてほしいもの。

 

東京という虚飾に塗れた都市と、その周辺・従属地域の対比という構図は、すでに『 翔んで埼玉 』や『 ここは退屈迎えに来て 』にて用いられた、いわば手垢のついたものである。そこに新たな視点を提供するという野心的な試みは本作にはなかった。シム・ウンギョンの演じる清浦の出身地を湘南ではなく、韓国のソウルもしくは釜山という大都市にするか、あるいは韓国の田舎出身にしてしまった方が、対比が鮮やかになったのではないだろうか。異邦人の目から見た日本国内の地域差というのは、これまで映画では取り上げられなかった視座ではないだろうか。ただ、それをやってしまうと、物語の根幹部分が崩れるという諸刃の剣でもあるが。

 

また、『 イソップの思うツボ 』で感じたアンフェアさが本作にも感じられる。もちろん、こちらは伏線を見事に回収しているのだが、その手法の鮮やかさ、インパクトの強さにおいて『 勝手にふるえてろ 』には及んでいない。この部分において斬新なアイデアを披露してくれていたら、たとえそれが失敗に終わっても、個人的には野心作として非常に好ましく思えたのだが。

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総評

かなり観る人を選ぶかもしれない。生まれも育ちも東京23区内です、両親の実家もそれぞれ名古屋と横浜です、などという人には正直なところ勧め難い。けれど、アラサー女子が感じる閉塞感や焦燥感を感じ取ることができれば、それで充分かもしれない。自分の頭と心が一致していないと感じることがあれば、本作から何かを感じ取ることができるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Oh, good for you.

 

序盤の夏帆の「 へー、良かったね 」という台詞である。日本語と同じで、祝福の意味でも皮肉の意味でも使われる。表現として何一つ難しいことはない。これも機会を見つけて使ってみるべし。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, シム・ウンギョン, ヒューマンドラマ, 南果歩, 夏帆, 日本, 渡辺大知, 監督:箱田優子, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『 ブルーアワーにぶっ飛ばす 』 -エンディングにぶっ飛ばされる-

『 ホテル・ムンバイ 』 -極限の緊張と恐怖に立ち向かえるか-

Posted on 2019年10月14日2020年4月11日 by cool-jupiter

ホテル・ムンバイ 85点
2019年10月13日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:デブ・パテル アーミー・ハマー
監督:アンソニー・マラス

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テロと聞けば9.11を思い浮かべるのは、それだけ我々がアメリカ的な価値観に染まっている証拠である。だが、世界ではテロが頻発している。テロリズムとは何かを定義するのは難しいが、私や個、あるいはその集団が国家あるいは国家に準じる存在・団体・組織に攻撃を仕掛けること言えはしないか。そうした意味でなら、本作は紛れもなくテロリズムを、そして世界の現実を描き出している。

 

あらすじ

2008年11月、ムンバイ各地で同時多発テロが発生した。タージマハル・パレス・ホテルも襲撃を受け、ホテル内には多数の客およびスタッフが取り残された。テロを鎮圧可能な特殊部隊は遠くニューデリーにいる。彼らの到着まではもたない。アルジュン(デブ・パテル)ら、ホテルマンの従業員たちは決死の覚悟で宿泊客らを匿い、逃そうとするが・・・

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ポジティブ・サイド

自分の拙い語彙力や表現力では、本作の凄さや価値を充分に伝えられない。例えて言うならば、『 グランド・ブダペスト・ホテル 』のような群像劇を、『 クワイエット・プレイス 』や『 ALONE アローン 』以上の緊張感、緊迫感で、そして『 デトロイト 』以上の臨場感で作り上げた、と言えば良いだろうか。

 

まず、銃声が怖い。マシンガンを乱射しているわけだから、当たり前と言えば当たり前だが、銃声の質をこれほどまでに追求した作品は、これまでに甘利生産されてこなかったのではないだろうか。邦画の任侠映画やアメリカの刑事ドラマのようなパァンパァンといった軽い音ではなく、腹の底にズシンと来るような重低音の聞いた銃声が、ひたすらに怖い。『 プライベート・ウォー 』も理不尽な暴力の描写方法がホラー映画のそれであったが、本作は効果音と音響効果だけでホラー映画に分類したくなるほどのリアリティと凄惨さである。

 

そして、テロリスト連中が怖い。無表情に、淡々と、それでいて油断なく動き回り、引き金を引くその指先に全く躊躇が無い。ブルという名のイスラム過激派組織の、まさに「考えない兵士」である。だが本作は、そんな末端のテロリストたちも生きた人間であるという描写をそこかしこに挿入する。血も涙もない殺人マシーンなのではなく、イスラムの教義に忠実な信者で、仲間を怒らせかねない冗談も飛ばし、水洗トイレをありがたがる年少の者たち。つまりは無邪気なのだ。アメリカ人を人質にし、インドは「お前たちの富を奪って発展した」と吹き込まれているが、その実、ピザを旨そうに喰い、履いている靴はNikeがどこかのスニーカー。ということは無知なのだ。本当の悪は、声だけしか出てこないブルであって、テロ実行部隊は操り人形に過ぎない。これは示唆的である。我々が大切にしている信念や理念は、どこから来ているのか。例えば、必死に会社のために頑張ってきたというのに、その会社が実は単なるブラック企業で、社会貢献を理念に掲げながら、実際は経営者の懐を潤すためだけに存在していたら?深刻さの度合いは全く異なるが、そんなことが、鑑賞後、ふと脳裏をよぎった。自分はお客さんに非人間的に接していないだろうか、と。

 

閑話休題。本作で最も印象に残るキャラクターは料理長のオベロイである。『 セッション 』におけるJ・K・シモンズを彷彿させるプロフェッショナリズムの塊のようなオジサンで、そのカリスマ性とリーダーシップは、確かに実在のシェフに基づくのだろう。

 

デブ・パテル=虐げられている、苦難に陥る、のようなイメージがあったが、その印象は本作を以ってさらに強化された。オベロイ料理長とはまた異なる意味でプロフェッショナルであり、ターバン(パグリー)と豊かな髭のせいで、ホテル客を疑心暗鬼にさせてしまうが、人間は外見ではなく内面で判断すべきということを我々に思い知らせてくれるシーンを披露する。『 PK 』でも用いられたネタであるが、我々はいかに外見で人を判断し、その内面を知ろうとしないのかを痛感させられる。多民族・多文化共生は言うは易く行うは難し。いつの間にか移民大国となった日本、大坂なおみやラグビー日本代表のようにダイバーシティを体現する存在がかつてないほど身近になっているからこそ、我々はインドに学ぶことが多い。

 

一部でチクリとCNNを刺すシーンがあるが、これはオーストラリア人監督としてのアメリカへのメッセージだろうか。

 

ネガティブ・サイド

全体的にストーリーに一本太い芯が通っていない。アーミー・ハマーが妻子を助けようと奮闘するぐらいだが、行き当たりばったり感が否めない。また、テロリストたちが客やスタッフを一人また一人と殺害していく、そしてホテルマンたちが客を匿おうとする、逃がそうとするシーンの一つひとつはこの上なくサスペンスフルであるが、客やスタッフの全体像が不透明であるため、何階建ての何階まで侵入された、何人中の何人が殺されてしまったという意味での、追い詰められる感覚が欲しかった。まあ、もしもそれがあれば窒息してしまったかもしれないが。

 

後はテロリストが「まだ少年じゃないか!」と形容されていたが、ちょっとそれは苦しい。どう見ても立派な20代だからだ。本当に10代半ばぐらいの俳優たちをキャスティングするという選択肢はなかったのか。それともそれが史実なのだろうか。それぐらいは映画的な演出として許容されると思うが。

 

冒頭で頼んでいない品を頼んだものと笑顔で言い張るインド人の食堂店員がいるが、個の描写は必要だったのだろうか。タージ・ホテルとその他のインドの店との格の違いを見せようという意図かもしれないが、そんなものは不要である。

 

最後にアルジュンが自宅に帰るシーンがあるが、普通は地元当局や警察に事情聴取も嵐を喰らうだろう。内部で一体何が起こっていたのか。どうやって生き延びたのか。そういったプロセスをすっ飛ばしてしまったのは頂けない。茫然としたまま原付に乗っていたが、茫然としたまま、聴取を受けて、茫然としたまま自宅に帰れば良かった。

 

総評

弱点も数多くあるが、間違いなく2019年公開作品の最高峰の一つである。よく知られたことであるが、世界史上の宗教戦争の99.9%は経済戦争である。テロリズムはその延長線上にある。ジハードの意味を、テロに利用された少年たち同様に、我々は決して誤解してはならない。信じるもののために奮励努力する。本作はそれを二極化された視点から描いているとも言える。分断・分裂によって起こる悲劇を描いたインド映画としては『 ボンベイ 』に並ぶ傑作が誕生したと言える。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Guest is God.

 

インドには日本と同じく、「お客様は神様です」という言葉が存在する。それが Guest is God である。あまりにも直球の訳であるが、実際にこう言うのだから仕様がない。英語ではもう少しマイルドになり、“The customer is always right.”となる。神様ならぬかみさんに頭が上がらない男性諸賢には“MEN to the left because WOMEN are always right! ”という言葉を贈る。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, インド, オーストラリア, サスペンス, デブ・パテル, ヒューマンドラマ, 監督:アンソニー・マラス, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ホテル・ムンバイ 』 -極限の緊張と恐怖に立ち向かえるか-

『 もしも君に恋したら。 』 -不器用な男の不器用な恋-

Posted on 2019年10月14日 by cool-jupiter

もしも君に恋したら。 60点
2019年10月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダニエル・ラドクリフ ゾーイ・カザン アダム・ドライバー マッケンジー・デイビス
監督:マイケル・ドース

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禁断の恋はいつでもドラマチックである。最もドラマチックなのは韓国ドラマでお馴染みの、実は二人は兄妹でした的な展開であるが、日常的なレベルでの禁断の恋は、彼氏彼女持ちを好きになってしまうことだろう。これは独身でも既婚者でも、自分にパートナーがいてもいなくても起こりうることで、それゆえに本作は共感を呼びやすく、同時に陳腐でもある。

 

あらすじ

ウォレス(ダニエル・ラドクリフ)は、内向的な青年。友人のアラン(アダム・ドライバー)に呼ばれて行ったパーティでシャントリー(ゾーイ・カザン)に出会い、ひと目惚れする。しかし、シャントリーには恋人がいた。しかし、ある日、映画館の外で偶然に再会した二人は意気投合。ウォレスとシャンとリーは友人関係を結ぶことを約束するが・・・

 

ポジティブ・サイド

ハリー・ポッター=ダニエル・ラドクリフだった頃の、あの少年はもういない。『 スイス・アーミー・マン 』で見事に生気のない役、というか死体を演じた演じる前だが、生気があまり感じられないという点では、本作の役と共通点は多い。ラドクリフ演じるウォレスには共感しやすい。男は基本的に奥手で受け身で自分が傷つきたくないという考える生き物だ。相手を傷つけたくないという配慮は、自分が傷つきたくないという軟弱な精神構造の裏返しなのだ。そんな典型的なダメ男を演じたラドクリフは、世界中のイケてない男の羨望の的である。

 

アダム・ドライバー演じる彼の親友のアランもいい。邦画の、特に少女漫画を映画化した作品では、主人公の親友はたいていの場合、物分かりの良い縁の下の力持ちに終始するが、アランは違う。極めて実践的なアドバイス、すなわち自分を清いままに保とうなどという甘ったれた観念をぶち壊せという助言をしてくれるし、あと一歩を踏み出せない友人と従妹シャントリーに、その一歩を超えられるような舞台設定もしてくれる。一見すると女性=セックス・オブジェクトとしてしか見ていないような男なのだが、実はそうではない。責任を取れる男なのだ。野郎同士の関係、特に悪友とのそれはなかなか変化しない。それは、あまり気持ちの良い例えではないが『 宮本から君へ 』のピエール瀧とそのラグビー仲間のオッサン悪童連を見ればよく分かる。だが、関係が変化せずとも人間は変わる。そして、人間が変わった時、その相手に差し向かう自分も変化を突き付けられる。これは遅れてきた男のビルドゥングスロマンであり、そういう意味ではダニエル・ラドクリフという俳優の人生をある意味で象徴している。まさに面目躍如である。

 

ゾーイ・カザンは安定のクオリティ。下着姿やセミヌードを惜しみなく披露してくれる女優で、容赦ないエロトークやエロティックな演技もできる一方で、slutty な感じを一切出さない。健康的なのだ。日本で比較できそうな女優は高畑充希か。芳根京子の今後の成長に期待。ベタではあるが、怒ったり拗ねたりした時の方が魅力が増す女子というのは、大切にしなければならないのである。

 

ネガティブ・サイド

ゾーイ・カザン演じるシャントリーの商業がアニメーターという設定が今一つ生きていない。ペンだこひとつない綺麗な手というのはどういうことなのだろう?例えば、ウォレスとの友情を誓い合う握手の時に、ウォレスが「ちょっと普通の手の感触と違うね?」みたいなことを言えば、彼女が真摯に仕事に打ち込むキャラクターであることも伝わるし、ウォレスはただのヒッキーではなく、実はそれなりに経験を積んだ男であることを仄めかすこともできただろう。シャントリーの職業的背景が、変てこアニメーション演出以外に特に活かされなかったのは遺憾である。

 

シャントリーのボーイフレンドであるベンを必要以上に dickwat に描く必要はあったのだろうか。高度な知識と技能を持つプロフェッショナルで5年も付き合ってきた女性にプロポーズもできていない時点で、ある意味ではウォレスに負けず劣らずのヘタレなのである。もう少し正攻法のウォレスとベンの対決を見てみたかった。

 

 

総評

全体的に予想を裏切る展開が少なく、予定調和的である。ただ、日本の少女漫画の映画化作品に食傷気味の向きには、A Rainy Day DVD または A Typhoon Day DVDとしてお勧めできるかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Did you guys meet?

 

Meetの意味は出会うではなく、「出会って挨拶や簡単な会話をする」ところまでを含む。『 モリーズ・ゲーム 』でも、ジェシカ・チャステインがイドリス・エルバに娘を紹介された時に“We met.”と返していた。またmeetは名詞としても使う。『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』でも水泳大会=Swim Meetと表現されていた。会=Meetと理解すれば、出会って何かを行う、というイメージをより強く持つことができるだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アイルランド, アダム・ドライバー, カナダ, ゾーイ・カザン, ダニエル・ラドクリフ, マッケンジー・デイビス, ラブロマンス, 監督:マイケル・ドース, 配給会社:エンターテイメント・ワンLeave a Comment on 『 もしも君に恋したら。 』 -不器用な男の不器用な恋-

『 蜜蜂と遠雷 』 -世界と自分の関わり方を考えさせてくれる-

Posted on 2019年10月12日2020年4月11日 by cool-jupiter

蜜蜂と遠雷 70点
2019年10月6日 鑑賞
出演:松岡茉優 松坂桃李 森崎ウィン 鈴鹿央士
監督:石川慶 

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恩田陸はJovianのお気に入りの作家のひとりである。最近は若い頃ほど本を読めないし、読む本の種類も変わってきた。だが、それでも恩田陸が原作とあれば観ないという選択肢はない。

 

あらすじ

一躍、若手の登竜門となった芳ヶ江国際ピアノコンクール。そこに集ったトラウマを抱えた少女・栄伝亜夜(松岡茉優)、年齢制限ギリギリの生活者代表・高島明石(松坂桃李)、名門音楽院在籍でマスコミも注目する寵児・マサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウィン)、パリのオーディションで彗星の如く現れた天才児・風間塵(鈴鹿央士)らはそれぞれの形でお互いに、そして音楽に向き合っていき・・・

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ポジティブ・サイド

異なる楽器に異なるストーリーを比べるのは愚の骨頂であるが、『 四月は君の嘘 』よりも遥かに音楽がクリアであった。演奏の先に景色が広がる。それがサウンドスケープというもので、『 羊と鋼の森 』でも少し触れた。音楽というものは不思議なもので、実体が無い芸術である。そこに様々な意味を付与するのは、演奏者と鑑賞者であろう。たとえば高島明石はそこに芸術家ではなく生活者としての音を表現しようとする。もちろん、それは我々の目には見えないし、我々の耳には聞こえない。少なくとも、それを感知するには並はずれた音楽的素養が必要だろう。だが、これは映画であり、それを感じ取るための映像体験を提供してくれる。高島の労働者、夫、父親としての側面を濃厚に描くことで、感情移入させようという作戦だ。シンプルだが、これは分かりやすい。また高島の言うとある台詞は、音楽家と生活者を分ける上で非常に示唆的であった。JovianはREI MUSICの裏谷玲央氏と懇意にさせていただいていたが、彼自身は自らを演奏者ではなく作曲家を以って任じている。彼の言葉に「一日に8時間とか10時間とかギター弾いている人は完全に別物なんですよ」というものがある。これから本作を鑑賞予定の方は、この言葉を頭の片隅に置いて鑑賞されたい。

 

松岡茉優のキャラの背景も複雑であり単純である。トラウマを抱えたキャラクターで、ピアノが大好きだが、そのピアノが弾けないというのが彼女の抱える課題である。トラウマを克服するには、荒療治であるが、そのトラウマの原因に正面から向き合うしかないという説もある。彼女は向き合えたのか。それは、劇場で確認して欲しい。唯一つ言えるのは、松岡の見せ場である演奏シーンは二つとも見逃してはいけないということである。特に中盤で『 月の光 』を連弾で奏でるシーンは幻想的である。音楽家は言葉ではなく音で対話ができるのである。同じ音楽系の邦画では『 覆面系ノイズ 』にギタリスト同士が音で対話するシーンがあった。もしくはプロレベルのそれを堪能したいということであれば、B’zの『 Calling 』のイントロとエンディングのボーカルとギターの対話に耳を傾けてみよう。クライマックスの松岡の演奏は『 グリーンブック 』のマハーシャラ・アリを彷彿させてくれる。最終的には、プロのピアニストの演奏にアリの顔を貼り付けたようだが、松岡はかなり体を張っている。その努力を大いに称えるようではないか。

 

本作は天才とは何かを問うてもいる。ピアノを持たずに、ピアノではないものでピアノの練習をする天才児。名高い指揮者とそのオーケストラにも臆することなく自分の感性をぶつけていく麒麟児。松坂や松岡のキャラクターたち以上に音楽にのめり込んでいる人種の在り様というのは、凡人の我々の理解を超えている。Jovianは大昔にピアノを習っていたことがあるが、今ではもうすっかり忘れてしまっている。ただ、何の因果か今は英語・英会話を教える職に就いている(いつまでもつのか、この商売・・・)。受講生の中には、高校生や大学生もちらほらいるが、明らかに自分以上のポテンシャルを抱えている若者も確かにいた。そうした者たちを指導する時には多大な緊張感があった。教える者、あるいは本作の中で審査する立場の者は、若い才能を前にして何を見出すのか。それは彼ら彼女らを潰さないこと、長所の芽を伸ばすこと、大きく育てることの責務だろう。指導者や教師が、生徒、弟子、受講生に見出すのは、自らの教えの成果、その結実である。あるいは自らの教えでダメにしてしまった若者である。別にこれは音楽や語学に限った話ではない。自分の子どもや親せきであってもよいし、職場の後輩であってもよい。自らを超える存在に向き合った時に、人は自分の使命を知るのかもしれない。本作は、そのように向き合うことができる作品でもある。

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ネガティブ・サイド

ピアニストは腰痛や肩こり、腱鞘炎に悩まされることが多いと聞く。松坂のキャラあたりに、もう少し腕を振ったり、あるいは無意識のうちにグーパーグーパーをして、腕の疲れを逃がそうとさせる動作や仕草があれば、生活者という面だけではなく年齢制限ギリギリという面を強調できただろう。

 

斉藤由貴が煙草を吸い過ぎである。それは別に構わないが、彼女自身がピアノと向き合うシーンが皆無なのは頂けない。調律師の仕事ぶりに一瞥をくれるとか、ピアノの運搬の様子を厳しく見守るだとか、何か映画的な演出ができたはずだ。それとも編集でカットしてしまったのか。若い才能と対峙するという役割をほぼ一手に引き受ける、つまり観客のかなり多くを占めるであろう年齢層の象徴的なキャラクターなのだから、ささやかな、それでいて印象に残る音楽家的なシーンが欲しかった。

 

総評

音楽好きにも、音楽にはそれほど造詣が深くないという層にも、どちらにも鑑賞して欲しいと思える作品である。演奏の質の高さとストーリーの質の高さが、非常に上手く釣り合った作品に仕上がっている。この世界で自分が果たすべき仕事とは何か、この世界で自分が未来に残すべきものとは何か。そのようなことを考えるきっかけを与えてくれる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I want to play a piano right now.

 

栄伝亜夜の「今すぐピアノを弾きたいんです」という台詞の英訳である。今でも塾や学校では楽器にはtheをつけましょう、と教えているらしいが、実際はtheの有無やthe以外の冠詞を使うかどうかは文脈によって決まる。British Englishならほぼほぼtheをつける。American Englishならtheをつけてもつけなくても良い。どれでもいいから、とにかく何らかの楽器を弾きたいということであれば、a + 楽器である。drumsのように最初から複数形の楽器もあるし、和太鼓のように単数形のdrumもある。何が言いたいかと言うと、英語の冠詞について「こうだ!」とズバリ言い切ってしまう講師がいる塾やスクールはお勧めしませんよ、ということである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 松坂桃李, 松岡茉優, 森崎ウィン, 監督:石川慶, 配給会社:東宝, 鈴鹿央士Leave a Comment on 『 蜜蜂と遠雷 』 -世界と自分の関わり方を考えさせてくれる-

『 宮本から君へ 』 -非力で不器用で我武者羅な男の人生賛歌-

Posted on 2019年10月12日2020年4月11日 by cool-jupiter

宮本から君へ 70点
2019年10月6日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:池松壮亮 蒼井優
監督:真利子哲也

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あらすじ

宮本浩(池松壮亮)は極めて不器用。しかし純真さと折れない心の強さを持っていた。中野靖子(蒼井優)の交際を開始したばかりの頃、靖子の自宅に元カレが現れ、靖子に暴力を振るう。「この女は俺が守る!」と言い放った宮本は、晴れて靖子と結ばれる。しかし、そんな二人の幸せにさらなる試練が迫って・・・

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ポジティブ・サイド

とにかく池松演じる宮本という男が良い。宮本の優しさ、暑苦しさ、芯の強さは男性の共感を呼ぶことは間違いない。何故か。それは上述した宮本の属性、特性が男が普遍的に備えているものだからだ。ここで大事なのは、ポジティブな属性や特性を肥大化させて描くことだ。男には当然ダメダメな属性も同じくらいか、あるいはポジティブ属性よりも多く備わっている。そうしたネガティブ属性に焦点を当てた作品は文学的な意味では成功することはあっても、映像芸術としては往々にして失敗に終わる。近年では例えば『 先生! 、、、好きになってもいいですか? 』、『 ナラタージュ 』などが挙げられる。いずれも男の普遍的にダメなところ、すなわち「相手を傷つけたくないと配慮することで相手を傷つけてしまう」というやつである。ちなみに先生と生徒の恋愛もので近年では突出した面白さだったのは『 センセイ君主 』である。また男の普遍的にダメなところを別の角度から捉えた秀作に『 奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール 』がある。

 

Back on track. 宮本はヒロインの靖子を持ち前の猪突猛進の暑苦しさで救い、そして大いに傷つける。そこには確かに男が最も苦手とする共感や思いやり、配慮が欠けている。だが、できないことはできないのだ。できないことをウジウジと悩むよりも、できることを全力でやる。そして当たって砕ける。本作のストーリーには目を背けたくなるようなシーンがあるが、悩んでいても問題が解決するわけではない。かといって当たって砕けても問題は解決しない。しかし、宮本はそこに突っ込んでいく。はっきり言ってアホである。だが、それがたまらなくカッコイイのである。男がアホになるのは、女絡みであることは古今東西の歴史が証明する通りである。この男のアホさ、それをポジティブに言い換えれば芯の強さになるわけだが、それをとことんまで突き詰めたのが宮本である。演じた池松に拍手を送れるかどうかで、その男の精神年齢が分かる。拍手を送れるのは、自分はそうなれなかったし、これからもそうなれないと悟っている中年以降の衰えゆくだけの男である。Jovianがまさにそうである。宮本に嫌悪感を抱けるとすれば、それはその男が宮本と適切な距離を取れない、つまり宮本に近いところにいるからである。逆にうらやましい。

 

ヒロインの靖子を演じた蒼井優も円熟期を迎えたと言えるだろう。劇中でもおそらく30歳手前ぐらいの年齢であると思われるが、男女の交際や結婚に幻想と現実的な感覚の両方を抱いているというキャラクターで、何かあるとコロッと落ちてしまう高校や大学の小娘とは一味もふた味も違うキャラを熱演した。『 彼女がその名を知らない鳥たち 』にも準レイプと言えるシーンがあったが、あちらはヨボヨボの老人、こちらは本格的なレイプシーンで相手は屈強なラガーマン。正直、正視に堪えないシーンである。その前に準・和姦(?)的な宮本と靖子のセックスシーンがあるせいか、余計に凄惨に映る。ベッドシーンそのものも魅せる。『 光 』の橋本マナミや『 無伴奏 』の成海璃子のように、不自然に乳首を隠すのではなく、自然に見えない、見えそうだけれど見えない、という非常に際どい撮影術を駆使しているところも見逃してはならない。絵コンテの段階から、監督、撮影監督、役者の間でこのシーンについてはかなり詰められていたのだろう。プロの仕事を称賛すべし。

 

宮本が立ち向かう敵は強大だが、相手が強い弱いを勘定に入れずに行動するところに強い憧れを抱く男は多いだろう。漫画『 DRAGON QUEST -ダイの大冒険 』のとあるキャラが「相手の強さによって出したりひっこめたりするのは本当の勇気じゃなぁいっ!!!」と喝破するが、この意味では宮本は本当の勇気を持っている。卑怯だとかどうこうとかは関係ない。殺るか殺られるかなのである。Kill or be killed なのである。宮本のような男になれるか。靖子のような女に出会えるか。人生とはままならないものであるが、宮本のような“芯の強さ”を少しでも持てれば、それだけで人生は少しだけ豊かになるのだろう。

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ネガティブ・サイド

宮本の骨折した指の描写はあったか?ギプスや添え木にJovianが気付かなかっただけか?さらに靖子の家族も、怪我人にアルコールをどんどん飲ませてどうする?ビールをコップ一杯ぐらいならまだしも、アルコールは飲めば飲むほど感覚がマヒしたり、判断力を低下させたりするわけで、怪我をしている部分に無理な力を入れてしまい、治癒が遅くなったり、最悪の場合は怪我が悪化するではないか。靖子の母は、宮本に含むところがあるキャラクターなのではないかと勘繰ってしまったではないか。

 

ピエール瀧が病院で「書くもの寄こせ」と言って宮本に教えた住所がタクマの女のヤサであるのはどういうわけか。ピエール瀧の自宅の住所ではなく、タクマの一人暮らししている家でもなく、なぜタクマの女の住所なのか。何か複雑な事情があるにしても、それを最低限の台詞はショットで説明してくれないことには意味が分からなかった。

 

個人的な願望であるが、ピエール瀧の同僚二人に天誅が下らないことも残念。そこは原作をいつか確認してみたいと思う。

 

総評

これは怪作である。いや、快作である。宮本という1990年代のキャラクターを現代に蘇らせた意味は何か。それは取りも直さず、現代人が忘れつつある熱量を取り戻すべしという真利子哲也監督からメッセージに他ならない。ゆとり世代にさとり世代などと揶揄される若い世代に、それよりも上の世代は熱量を以って接してきたか。宮本というキャラにどれだけ共感できるか、あるいはできないかで、観る者の精神的な老け具合が測られてしまうという恐るべき仕掛けが込められている。純粋に中年オヤジを応援したいという向きには『 フライ,ダディ,フライ 』をお勧めしておく。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Marry me!

 

「靖子、俺と結婚しろよ」という台詞があまりに強烈だ。学校ではよく get married to 誰それと学ぶと思うが、受け身になっているのは公式に結婚することを意味しているから。つまり、聖職者なり役所なりに、夫婦であるということを「認められる」必要があるからだ。そうではなく当事者間だけで結婚を論じる時には能動態でOKである。小難しい理屈はよく分からないという人は Bruno Mars の“Marry You ”を100回聴くべし。

 

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ラブロマンス, 日本, 池松壮亮, 監督:真利子哲也, 蒼井優, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:スターサンズLeave a Comment on 『 宮本から君へ 』 -非力で不器用で我武者羅な男の人生賛歌-

『 ジョーカー 』 -救世主の誕生秘話-

Posted on 2019年10月9日2021年11月7日 by cool-jupiter

ジョーカー 85点
2019年10月5日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ホアキン・フェニックス ロバート・デ・ニーロ
監督:トッド・フィリップス

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Believe the hype. という表現がある。「誇大広告を信じろ」、つまり「ガチですごいんだ」という意味である。公開前から世界中の批評家やPR担当者たちは本作を手放しで絶賛した。否が応にも期待が高まる。往々にして、Hype can ruin a film. 一部に誤っていると思われる広告やキャッチコピーの類もあるが、本作は間違いなく傑作である。

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あらすじ

アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、緊張すると笑ってしまうという障がいを抱えながらも、ゴッサムの片隅でピエロ稼業をしながら、コメディアンになることを夢見ていた。母親と二人暮らしで、フランクリン・マレー(ロバート・デ・ニーロ)がホストのテレビ番組を楽しんでいた。だが、街も人々も彼の存在をどこまでも軽んじる。そんな時、同僚から護身用にとアーサーは拳銃を手渡され・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭から異様な雰囲気である。男は笑いながら苦しんでいる。笑い過ぎて、呼吸ができず苦しくなったわけではない。その笑い声には陽気さはなく、悲愴感が漂う。笑うことそのものが苦しみで、その苦しみが更なる笑いをもたらしている。そのようにすら感じられる。何ともダークで不安を煽るオープニングである。

 

すでに世界中で100万回指摘されていることだが、やはり『 タクシードライバー 』によく似ている。その一方で必ずしも似ているばかりでもない。トラヴィスは劇中で最後に自分を袖にした女を華麗に見限るが、アーサーはそうではない。トラヴィスは劇中でも現実世界(我々の生きている映画の外の世界、の意)でも信者を得るが、アーサーは劇中では信者を、現実世界では共感者を得ている。トラヴィスは非モテ男の支持を得た一方で、アーサーの支持基盤は社会の底辺に生きる者、あるいは社会から疎外された者たちだろう。彼の住む集合住宅はオンボロもいいところで、立地も街の中心部から相当に離れている。なおかつ駅から降りてとんでもない上り階段に臨まなくてはならない。街には行政的な課題が山積しているが、市政は動かない。このような地域や状況は、先進国と言われる国でも密かに進行しつつある事態である。これだけでも我々はアーサーやその道化師仲間たちに共感させられる。底辺にいる俺たちだって生きているんだ。この時点で彼らにシンクロしてしまう人間は相当に多いはずだ。そのタイミングを狙って、DCやワーナーは本作を世に送り出してきたのではないか。だとすれば、マーケティング戦略としては満点であろう。

 

日本との類似を指摘する声も多い。実際にJovianもそう思う。十把一絡げに言ってしまえば、いわゆる嫌韓嫌中な方々がアーサーと同じような境遇にいそうだ。偏見であることは承知しているが、どうしても本作はそのように観る者に迫ってくる。社会が悪い。俺は悪くない。俺という人間が生まれきたことには意味があるはずだ。俺の生まれはこの国で、俺の親はこの立派な国の人間だ。そのような妄想的観念が覆された時に人はどうなるのか。KKKの熱心なメンバーがDNA鑑定を受けたら、4代前に黒人がいた、という話は実はよく聞こえてくる。それを機に改心する者もいれば、自殺する者もいたという。自分という人間の出自に関心を持つことは至極当然であろう。問題はそれに強すぎるこだわりを持つことだ。だが、アーサーのように社会に無視され、奪われ、虐げられるだけの者が、他に何を拠り所に生きろと言うのか。

 

アーサーがジョーカーに変貌していく過程にリアリティがあるかと問われれば、無いと答える。ひょんなことから銃を手に入れ、ふとしたきっかけで発砲せざるを得なくなることに必然性はない。だが、自分がそうした立場に置かれた時、どのように反応するだろうかという思考実験の材料にはなる。アーサーという個人に特徴的な意図せざる笑いがこみ上げてくるというコンディションを抱えており、それは確かにハンディキャップになっている。けれども、それが彼がジョーカーに変わっていく触媒ではない。アーサーをジョーカーに変えたものは、陳腐な表現をすれば社会の闇である。寄る辺なき者たちは、きっかけさえあればジョーカーになり得る。本作はそのように主張しているかのようだ。もっと言えば、悪とは善の対立概念ではない。悪とは善の欠如でもない。悪とは、それ自体が救いになりうる。そのような逆説を本作は提示している。クライマックスのジョーカーは、誰がどう見てもゼーロータイによって実際に担ぎ上げられてしまったイエス・キリストのアナロジーに他ならない。もしくは『 Vフォー・ヴェンデッタ 』のパラレル・ユニバースであるとも言えるかもしれない。

 

ホアキン・フェニックスの怪演には感動を覚えたが、特にとあるシーンでアーサーがじっと沈黙するシーンには身震いした。その黒い両目の奥に譬えようのない怒りと悲しみを感じ取ったからだ。目の演技としては今年一番と言っても差し支えないだろう。仮面をかぶる、あるいは顔面に過剰なメイクアップを施す。それは内心にある全ての負の感情を覆い隠すためのものである。顔では笑って、心では泣いている。もしくは顔は笑って、心は怒っている。そのような二律背反のキャラクターをJ・フェニックスは、ジャック・ニコルソンやヒース・レジャーと遜色ないレベルで演じ切った。米アカデミーがどのように反応するのかは分からないが、『 ドント・ウォーリー 』と本作で、本ブログにおける2019年の海外最優秀俳優はJ・フェニックスで決まりである。

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ネガティブ・サイド

終盤のテレビ番組開始前に、アーサーは少し喋りすぎだったように感じる。具体的に言えば、ロバート・デ・ニーロに“Can you introduce me as Joker?”と全てを尋ねる必要はなかった。単に、“Can you introduce me as … ”で、いったん別の場面へカット。そこから出演ゲストの紹介場面に戻って来た時に、初めて“Joker”という名前に言及した方が、よりドラマチックだったはずだ。陳腐と言われるかもしれないが、『 ダークナイト 』においても、バットマンが実際に劇中で“ダークナイト”と呼称されるシーンは最終盤だった。それゆえにそのシーンは観る者に鳥肌を立たせるほどの衝撃を与えた。ジョーカーという名前、顔、風貌にもっとインパクトを与える演出があったはずである。

 

また、これは映画に対する不平不満ではないが、【 本物の<悪>を観る覚悟はできたか? 】だとか【 本当の悪は笑顔の中にある 】というキャッチコピーこそ、誇大広告だろう。アメリカで一番多く使われたと思しき販促フレーズの一つは“PUT ON A HAPPY FACE”であるようだ。「幸せの仮面をかぶれ」という意味である。アーサーという人物の人生そのものがある意味で仮面であることを絶妙に言い表している。単に刺激的なキャッチコピーをつけてみました、というだけでは短期的な利益にはなるかもしれないが、長期的には信用を無くすだけだろう。PR担当企業にはよくよく考えてもらいたい。

 

総評

非常に野心的で挑戦的な映画である。悪が救いであると、ここまで高らかに謳い上げた作品は少ないのではないか。アーサーという心優しい、ある意味でとても哀れな男が壊れていく様には同情を禁じ得ない。しかし、その同情が共感に、共感が信仰に、信仰が人々の具体的な行動に結びついてしまった時、悲劇は起こる。これは純然たるフィクションなのだろうか。それとも現実世界のシミュレーションなのだろうか。一つだけ言えるのは、本作が今年を代表する一本であることは間違いないということである。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

EVERYTHING MUST GO

 

直訳すれば「あらゆるものが消えねばならない」だが、これでは意味不明だ。この go の使い方から“Let it go”を連想できれば英語学習の中級者またはそれ以上のレベルと言える。劇中での使われ方を見れば一目瞭然で「全品売り尽くしセール開催中」というような意味である。Jovianは実際に15歳でアメリカ、ニューヨークを旅行中にこの表示を見たことがあるし、その後のドラマや映画でもチラホラ見かける。知っておいて損はない表現である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, クライムドラマ, ヒューマンドラマ, ホアキン・フェニックス, ロバート・デ・ニーロ, 監督:トッド・フィリップス, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ジョーカー 』 -救世主の誕生秘話-

『 サラブレッド 』 -一筋縄ではいかない女の友情-

Posted on 2019年10月7日2020年4月11日 by cool-jupiter

サラブレッド 65点
201910月3日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:オリビア・クック アニャ・テイラー=ジョイ
監督:コリー・フィンリー

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Jovianは『 ウィッチ 』以来、アニャ・テイラー=ジョイの大ファンである。映画ファンならば、○○が出演していたら観る、あの監督の作品は観る、あの脚本家の作品は絶対にチェックする、そういう習性があるものだろうが、アニャはJovianの一押しなのである。

 

あらすじ

感情のないアマンダ(オリビア・クック)と彼女の家庭教師を引き受けている旧友のリリー(アニャ・テイラー=ジョイ)。二人は奇妙な友情を育んでいた。そして、リリーは憎い継父の殺害計画をアマンダと共に練るようになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

これまでも胸元を露わにする服装はちらほら着用してくれていたが、今回は遂に水着を解禁。アニャのファンは狂喜乱舞すべし。というのは冗談だが、それでもプールに潜るアニャは大画面に大いに映える。彼女はどこかファニー・フェイスなのだが、水中で目を閉じて黒髪がたゆたうに任せるアップのショットはひたすらに cinematic である。

 

オリビア・クックも魅せる。『 ラ・ラ・ランド 』でエマ・ワトソンが桁違いの演技力を見せつけたが、冒頭のリリーの住む屋敷を散策して回るシーンと、テレビを観ながら泣いて見せるシーンは、オリビアの演技力の高さを大いに物語っている。

 

監督のコリー・フィンリーは舞台の演出家で、映画の監督はこれが初めてのようだ。先に述べたアマンダの屋敷を見て回るシーンはロングのワンカットで撮影されており、カメラ・オペレーターが役者との絶妙な距離感を保ちつつ、どこか『 バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』を彷彿させるドラムを主旋律にした人間の不安を掻き立てるようなBGMが奏でられる。『 記憶にございません! 』の中井貴一と吉田羊の情事前のシーンは技術的に際立っていたが、映画的な技法としての完成度は本作のオープニングシーン(馬の後である、念のため)の方が上である。Establishing Shotの極致であり、迷走する人間関係と心理のメタファーになっている。

 

殺人を計画するにあたって、チンケなドラッグ・ディーラーを使うところもよい。やるかやらないか分からない、そんな根性がありそうでなさそうな pathetic な男と、獣性を秘めた女性たちのコントラストがサスペンスを盛り上げている。男という生き物は本質的には女の引き立て役なのかもしれない。Rest in peace, Anton Yelchin.

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ネガティブ・サイド

登場人物があまりにも少ないせいで、オリビアの感情の欠落が周囲の人間にどのように受けとめられてきたのか、あるいは受け入れられずにきたのかが分からなかった。ちょっとエキセントリックな奴、と思われるだけならいいが、「サラブレッドを殺した奴」というのはちょっと違うと思う。走れなくなった馬を安楽死させるのは、割とよく知られた事実であるし、レースに勝てず気性が穏やかな馬は、乗馬クラブに行き、レースに勝てず気性が荒い馬は動物園で肉食動物のエサにされている。これもよく知られた事実である。馬を殺したこと、その方法が残虐であったことを指してアマンダを「ヤバい奴」に認定するのはちょっと納得がいかなかった。これはJovianの実家がかつては焼肉屋で、Jovian自身も小学校6年生の時に牛の屠殺場に実際に親子で見学に行った経験を持つからかもしれない。

 

継父を殺したいほど憎く思っている背景の描写も弱い。登場シーンからして張りつめた空気が二人の間に漂っているが、そうした緊張感の漲るシーンをもう2,3か所、時間にして2~3分ほどでよいので、各所に挿入されていれば、劇中に二つ存在する真夜中のシーンのサスペンスがもっと盛り上がったのにと思う。

 

総評

女は怖い。つくづくそう感じさせてくれる。女性に対して満腔の敬意と言い知れぬ恐怖を抱くJovianのような小市民は、本作のような女の物語を非常に怖く、危うく感じる。これはネガティブにではなく、作品に対するポジティブな賛辞である。小市民男性は本作を観て、男と言う生き物のケツの穴の小ささを再確認しよう。亭主関白を自認する人は観ないことをお勧めする。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

outside the box

 

しばしば think outside the box という使い方をする。直訳すれば「箱の外で考える」だが、意訳すれば「固定観念にとらわれることなく考える」、「既存の枠組みを超えて思考する」ということ。これができるかどうかが、学生にとっても社会人にとっても、ますます重要になってくるだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, オリビア・クック, サスペンス, 監督:コリー・フィンリー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 サラブレッド 』 -一筋縄ではいかない女の友情-

『 惡の華 』 -クソ中二病によるクソ中二病展開のクソ物語-

Posted on 2019年10月6日2020年4月11日 by cool-jupiter

惡の華 20点
2019年9月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:伊藤健太郎 玉城ティナ 秋田汐梨
監督:井口昇

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劇場で予告編を何度か観ただけで鑑賞。予備知識ほぼ無し。なぜこんなクソ作品を観ねばならんのかとも思うが、カネを出して観てみないことには良いか悪いか分からない。大切なのは、作品を鑑賞した上で意見を述べることであろう。

 

あらすじ

春日高男(伊藤健太郎)は自分が灰色の無味乾燥した世界に生きていると感じる中学生。ボードレールの『 惡の華 』に惑溺することで自尊心を満たしていた。ある日、衝動的に憧れの女子である佐伯奈々子(秋田汐里)の体操服を盗んでしまったところを、問題児の仲村佐和(玉城ティナ)に目撃されてしまう。佐和に脅迫される形で契約を結んだ春日は、仲村に翻弄され、徐々に暴走していく・・・

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ポジティブ・サイド

『 L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。 』や『 青夏 きみに恋した30日 』で、うっすらと秋田汐里は印象に残っている。どことなく南沙良を思わせる獣性が感じられ、個人的には良い感じである。『 町田くんの世界 』の関水渚の良いライバルになりそう。切磋琢磨して頑張って欲しい。彼女らのハンドラーはしっかりと仕事をしてほしい。中高生あたりにありがちな意図しないお色気シーンや水着姿を楽しむ向きもあるかもしれない。というか10代半ばなのに、よくこんな○○○○(未遂?)シーンの撮影を引き受けたものだと素直に感心する。

 

飯豊まりえも、登場シーンはそれほど多くないものの、地に足のついたキャラクターを好演した。『 暗黒女子 』よりも、こういうキャラクターの方がより説得力を出せる。女王蜂キャラにはまだ足りないが、クラスの人気者キャラならば充分に見ることができた。

 

ネガティブ・サイド

主人公たる春日高男の中二病の根の深さが全く伝わらない。冒頭の街のシーンを多少セピア調に加工しても、そんなものは小手先のテクニックに過ぎない。街に自分の意識を閉じ込められて、精神に変調をきたしていく物語ならば『 タクシードライバー 』という不朽の名作(怪作?)もある。仲村さんが叫ぶ「どいつもこいつもセックスことしか考えてねえ!」という言葉は、原作を改変してでも高男の心の声にしてしまうべきだった。そうでないと高男が精神の平衡を失ってしまう過程に説得力が生まれない。または邦画の例に倣うなら『 ここは退屈迎えに来て 』で描かれたような、どこまで車で走っても全く変わり映えのしない同じような街並みがエンドレスで続いていくという地方都市の没個性さも使えたはずである。他にも小学生から中学生になっても街並みが何一つ変わっていかないという時系列的な描写があれば、それも高男の精神の変調を説明する役には立ったはずだが、それもなかった。ボードレールを読み耽っているだけの自意識過剰少年には何の共感も抱けないし、彼が壊れていく過程にもリアリティを認められない。「今この瞬間に抑圧された青春を過ごしている、またはかつてそうだった大人たちに本作を捧ぐ」みたいな序文から作品は始まったが、そのメッセージは果たしてどれくらいの人にどれくらいの迫真性をもって届いたのだろうか。疑問である。

 

佐和がエキセントリックなキャラクターであることは分かるが、そんな佐和と高男が共依存のような関係になる描写が決定的に弱い。自分が特別であると思い込まなければやっていられないような家庭環境で育ったわけでもなさそうだし、なにより高男のような読書家がこのような狭量な世界観を持つのだろうか。Jovian自身も相当に鬱屈した青春を過ごしたという自覚症状は今でもあるし、当時もそうした自覚はあったし、はっきり言って根拠のない自信に基づいて周囲の人間をクソムシ扱いしていた。けれどそれが自分の弱さであるという自覚もあった。自分が他人と何も変わるところがないとは認めたくないという過剰な自意識を、自分で意識することができていた。高男と佐和の物語にどうしても入り込めなかったのは、テロ紛いのことでしか意見表明ができない、遅れてやって来たプチ過激派にしか見えなかったからだろう。だが、そうした物語にも名作はある。リブート(続編?)に期待と不安の両方を抱かせる『 ぼくらの七日間戦争 』が好個の一例である。

 

何らかの場面の転換が、すべてキャラクターの絶叫で締めくくられるのもワンパターンすぎる。雨の中で叫べば、確かに何かが決定的に終わってしまったようにも感じられるが、一つの作品の中で似たような展開を繰り返すのはいかがなものか。そもそも高男自身にほんのちょっとの勇気があれば、佐伯さんに「付き合ってください」ではなく「ずっとずっと好きでした」と言えれば、円満に解決していた。というか、最近は「好きだ」と伝えずに、「付き合ってください」だけで男女の交際が始まるものなのか。『 勝手にふるえてろ 』でも松岡茉優による「付き合ってくれとは言われたが、好きだとは言われていない」と高揚が一気に冷めるシーンがあった。結局は高男がチキンなだけである。あるいは読書家ではあっても、書物から人間模様を学ぶことができなかった愚か者である。

 

総評

酷評させてもらったが、確かにこうした共依存の関係や過剰な自意識の防衛機制に共感を覚える人もいるだろうとは想像できる。すべては波長が合うかどうかだ。Jovianは、はっきり言ってクソ映画であるとは思うが、それはキャラクターがクソなのであって、演じる役者やそのキャラの生みの親たる原作者、さらに監督その人までがクソとはまでは思わない。『 覚悟はいいかそこの女子。 』では“欠損家庭”、“貧困家庭”といった社会派の要素を込めてきた井口監督であるが、個人の内面を描く物語に関しては、さらなる精進が必要ということだろう。捲土重来に期待。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I am a pervert, too.

 

劇中で仲村さんは「私も変態なんだ」と言っていたように記憶している。変態=pervert、と覚えておけば、ほぼ間違いはない。もう一つ、kinkyという単語もある。英語圏の人間に妙な勘違いをされたくないということから、近畿大学は英語名をKinki UniversityからKindai Universityにしたということである。変態は hentai という International Language にも実はなっている。これも、ある意味ではクール・ジャパンだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, サスペンス, 伊藤健太郎, 日本, 玉城ティナ, 監督:井口昇, 秋田汐梨, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 惡の華 』 -クソ中二病によるクソ中二病展開のクソ物語-

『 ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 』 -我々も目を覚ますべし-

Posted on 2019年10月3日 by cool-jupiter

ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 75点
2019年9月30日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クメイル・ナンジアニ ゾーイ・カザン
監督:マイケル・ショウォルター

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Jovianはインド映画好きである。だが、インドの隣国パキスタンのことはよく知らない。せいぜい『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でインドから宗教的に分離した国であるということぐらいしか知らなかった。そんなパキスタン出身のクメイル・ナンジアニ自身の逸話が映画化された。外国人が増加しつつある日本においても非常に示唆的な作品であると言えよう。

 

あらすじ

スタンダップ・コメディアンのクメイル(クメイル・ナンジアニ)はパキスタン出身。アメリカで芸人としてのキャリアを追求する一方、因習にうるさい母親たちを断り切れず、形だけの礼拝、形だけのお見合いをしていた。ひょんなことからアメリカ人のエミリー(ゾーイ・カザン)と知り合い、逢瀬を重ね、親しくなるが・・・

 

ポジティブ・サイド

脚本を書いて、それを自分でも演じる映画人としてM・ナイト・シャマランが思い浮かぶが、彼はチョイ役専門である。シャマランの本業は監督であるが、クメイル・ナンジアニはコメディアンにして、映画の主演も張る。そして、見事な演技力。自分で自分を演じるのは存外に難しいものと思う。なぜなら、そんな練習は普通はしないから。そこはしかし、スタンダップ・コメディアンのキャリアが生きている。あらゆる状況を自分の言葉と仕草と小道具で説明し、受け手に何らかの変化(特に笑い)を励起させるという意味ではお笑い芸人は案外、役者の素養を備えているものなのかもしれない。クメイルを見ていて感じるのは、彼は誰に対しても気後れしないのだな、ということ。異国で暮らすことは難しいことだ。異国だからこそ、自国のらしさにこだわってしまうことが人間にはよくある。『 クレイジー・リッチ! 』でも指摘したが、異邦人は自らのユニークさ、違いを殊更に強調しようとする傾向がある。クメイルはパキスタンそしてイスラムの伝統や因習を一方的には否定しない。しかし、それらを受け入れもしない。個人として自立している。アメリカ的と言えばアメリカ的だし、現代的と言えば現代的である。こうした個の強さを兼ね備えた人間の物語にはインスパイアされることが多いが、その逆に「こうした種類の人間にはとても敵わないな」とも思わされる。けれど、よくよく考えてみれば勝つだとか負けるだとかに思いを巡らせてしまうこと自体がおかしなことだ。クメイルの生き様から学ぶべきことは「自分らしくあれ」ということ。これは現代の日本人にとっても inspirational で motivational なことだろう。9.11はきっかけになっているが、たとえあのテロがなくとも、クメイルは自国および自分をネタにした可能性は高い。

 

そうそう、こんな辺境のブログを読んでいる英語教育関係者がいるかどうかは知らないが、multi-national students を教えるに際しては、外国および外国人のイメージをその国の出身者でない者に尋ねるのはタブーである。TESOL、またはそれに類した教授法を学んだ人であればお分かり頂けよう。外国のことはその国の人間に語ってもらう。生徒、受講生には自国のステレオタイプを語ってもらい、それをクラスでシェアするのが原則である。クメイルのパキスタンネタのコメディを笑うのは時に難しいかもしれないが、大坂なおみをネタにした芸人が壮絶に滑ったり、ダウンタウンの浜田がブラックフェイスを批判されても「差別の意図はなかった」として反省しなかったことを、我々はもっと真摯に受け止めねばならない。外国語の教育に携わる人間こそ、語学ではなく国際的な歴史と人権意識を学んでほしいと切に願う。この国では、文法と形式に拘泥するくだらない教育者もどきが余りにも数多く跋扈している。

 

Back on track. ゾーイ・カザンは相変わらずキュートである。プリティーである。こんな女性をバーで口説き、そのままベッドインできれば最高であろう。美人だから最高なのではない。語るのが辛い過去があり、クメイルを好いているが故に、自分を棚に挙げつつも、彼が秘密を打ち明けなかったことに激怒する人間らしさが魅力なのである。男という生き物は、なぜか女性に幻想を抱きがちである。そういった幻想をぶっ飛ばす(性的な意味ではない)夜の語らいシークエンスは、実話か、もしくはそれに近い逸話があったのだろう。このあたりが凡百のラブロマンスとは異なるところであり、我々が人種や宗教、国籍などを飛び越えて、クメイルとエミリーというカップルを好ましく思える所以である。

 

本作はアメリカ版『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』でもある。破局してはいるもののクメイルはエミリーのステディだった。そんな男が相手の女性の両親とどのように向き合い、どのように語り合い、どのように信頼を勝ち得ていくのか。たいていの男性既婚者が通る道ではあるが、見ていて大変に辛い展開もあり、微笑ましくなれるところもある。これらを通して、我々小市民もクメイルとエミリーのドラマに共感できるのである。確かに、我々はinternational / interracial な関係をなかなか築くことができる社会には生きていない。しかし、個としての強さを学ぶことはできるし、実は人種や宗教といった面を取っ払えば、我々一人ひとりは同じく等しく人間なのだというよく分かる。そのような見方を本作は許してくれる。『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』とセットで見比べてみるのも面白いかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

次から次に現れるお見合い相手のパキスタン人女性が揃いも揃って、とてつもなく美人である。そんなことがありうるのだろうか。パキスタン人女性に美人は少ないと言っているわけではない。念のため。アメリカにいるパキスタン人の皆が皆、クメイルのような男ばかりではないだろう。Jovianなら、あの母親が見繕ってきた一人目の相手に一目惚れしてしまったかもしれない。結婚するかどうかは別にして、好意的な気持ちは間違いなく抱く。そういった美女をすべてつれなく袖にしたというのは実話なのだろうか。どうにも信じがたい。『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』のように、存命の人間を描くと、その部分はどうしても美化されがちである。お見合いプロットに出てきた女性たちは、文字通りに美化されすぎていると推測する。そんなことをしなくても、エミリーの魅力は外見ではなく内面にあることは充分に伝わってきた。自身を持ってほしい。

 

クメイルのコメディアン仲間たちとエミリー、そしてエミリーの両親のinteractionはなかったのだろうか。コメディアン連中は全員、白人。これは事実に即してのキャスティングなのだろうが、無意識のうちに我々が異なる人種の間に感じ取ってしまう緊張感のようなものが、単なる虚妄に過ぎないという展開が、もっと欲しかった。

 

総評

これは傑作である。なぜ劇場公開をスルーしてしまったのか。痛恨の極みである。事実は小説よりも奇なりと言うが、そうした事実の一つひとつは、実は結構、陳腐なエピソードだったりする。例えば、ガールフレンドの父親と会話をするというのは、たいていの男にとっては必須の通過儀礼だ。そうしたイニシエーションは陳腐だが、一つとして同じものはない。クメイルとエミリーの関係も類型的ではあるが、とてもユニークだ。上質のロマンスに興味があれば、是非本作を観よう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I get it, man.

 

「 気持ちは分からんでもないがな 」という感じの意味である。【『ジョジョの奇妙な冒険』で英語を学ぶッ!】という奇書で、柱の男カーズが放つ台詞である。“I got it.”=分かった、“I get it.”=分かる、である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, クメイル・ナンジアニ, ゾーイ・カザン, ラブロマンス, 監督:マイケル・ショウォルター, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 』 -我々も目を覚ますべし-

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