題名:私はあなたの二グロではない 70点
場所:2018年5月20日 テアトル梅田にて観賞
主演:ジェームズ・ボールドウィン
監督:ラウル・ペック
自分の無知と無理解、想像力の欠如を思い知らされ、恥ずかしくさえ思ってしまう、そんなドキュメンタリー映画だった。メドガー・エバース、マーティン・ルーサー・キング・Jr、マルコムXらを軸に、アメリカという国でどのような差別が生まれ、行われ、助長され、継続され、そして解消されないのかを、ジェームズ・ボールドウィンの未完の原稿(タイトルは”Remember This House”)を元に紐解いていくのだ。
これまで映画における語りで最も印象に残っていたのは、ありきたりではあるが『 ショーシャンクの空に 』のモーガン・フリーマンだったが、本作のサミュエル・L・ジャクソンの静かで、怒りも憎しみも感じさせない語りの奥底にはしかし、強さと悲哀も確かにあった。哀切の念が胸に響いてくる、というものではなく、知って欲しいということを力強く、それでいて淡々と訴えかけてくるこの語り、ナレーションを持つことでこのドキュメンタリーは完成したとさえ言えるかもしれない。
人種差別の問題に肯定的に取り組んでいく話としてパッと思い浮かぶのは『 ヘルプ 心がつなぐストーリー 』、『 タイタンズを忘れない 』、『 ドリーム 』、『 それでも夜は明ける 』、差別の恐ろしさを前面に押し出した作品としては『 デトロイト 』、『 ジャンゴ 繋がれざる者 』あたりか。
本作はドキュメンタリーなので、ドラマ性を強調するのではなく、事実に対するJ・ボールドウィンの解釈、それに対する様々な人々の反応を追っていく形で展開していく。しかし、その方法が時にはクリシェ/clicheであり、時には非常に大胆に観客の不意を突いてくる。遊園地やスポーツの映像を交えながら、無邪気にレポーターがアメリカの娯楽を素晴らしさを称えながら、語りはそのままに突然、警官が民衆に暴力をふるうシーンに切り替わっていく。まるでこれもアメリカという国の娯楽なのですよ、と言わんばかりに。
また討論番組で、イェール大学の哲学教授が颯爽と現れ、ボールドウィンに「君の主張には重要な見落としがある。人と人が触れ合うのに、人種は関係ない。絆を結び方法も一つだけではない。私は無知な白人よりも教養ある黒人の方を身近に感じる」と述べるのだ。もっともらしい意見に聞こえるが、ボールドウィンは毅然と反論する。「私は警察官とすれ違うたびに、後ろから撃たれるのではないかという恐怖に苛まれてきた。そしてそれは私の思い込みではないく現実の脅威だった」と。
こうした場面が鮮やかなまでに対比して映し出すのは、差別者には恐怖心が無く、被差別者には恐怖心しかない・・・ということではない。ボールドウィンは言う、「私は二グロではない。私は人間だ。もしもあなたが私を二グロであると思うのなら、あなたの中にそう思いたい理由があるのだ」と。これこそが恐怖の核心であろう。よく差別者は「差別ではない。区別だ」と理屈を述べるが、その根底には被差別者に対する恐怖が存在する。これは黒人に限ったことではく、ネイティブ・アメリカンに対してもそうであるし、女性差別も構造的にそうであろう(そのことを端的に描き出した作品に『 未来を花束にして 』がある)。
アメリカという国に住む人間という意味で、皆は家族なのだ。家族でありながら、断絶があるのは何故か。ボールドウィンが書こうとして書き切れなかった “Remember This House” という本のタイトルの意味がここでようやく見えてくる。家族というのは、自分で選べない、気がつけばそこに存在しているという意味では、究極のファンタジーなのだ。アメリカという国に生まれ育ったものが、家族として一つ屋根の下に暮らせないことの欺瞞を嘆きつつも、融和への希望を捨てず、歴史を背負い、未来を見据えるボールドウィンの目に映るは、果たしてヒューマニズムかヒューマニティか。
アメリカ史をある程度知らなければ、チンプンカンプンとまでは言わないけれども、物語として咀嚼することが難しいだろう。しかし、このドキュメンタリーを観て、某かの意味を見出せないとすれば、それは余程の幸せ者か、さもなければドストエフスキー的ではない意味での白痴であろう。