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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2018年5月

『 私はあなたのニグロではない 』 -差別の構造的問題を抉り出す問題作-

Posted on 2018年5月22日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:私はあなたの二グロではない 70点
場所:2018年5月20日 テアトル梅田にて観賞
主演:ジェームズ・ボールドウィン
監督:ラウル・ペック

自分の無知と無理解、想像力の欠如を思い知らされ、恥ずかしくさえ思ってしまう、そんなドキュメンタリー映画だった。メドガー・エバース、マーティン・ルーサー・キング・Jr、マルコムXらを軸に、アメリカという国でどのような差別が生まれ、行われ、助長され、継続され、そして解消されないのかを、ジェームズ・ボールドウィンの未完の原稿(タイトルは”Remember This House”)を元に紐解いていくのだ。

これまで映画における語りで最も印象に残っていたのは、ありきたりではあるが『 ショーシャンクの空に 』のモーガン・フリーマンだったが、本作のサミュエル・L・ジャクソンの静かで、怒りも憎しみも感じさせない語りの奥底にはしかし、強さと悲哀も確かにあった。哀切の念が胸に響いてくる、というものではなく、知って欲しいということを力強く、それでいて淡々と訴えかけてくるこの語り、ナレーションを持つことでこのドキュメンタリーは完成したとさえ言えるかもしれない。

人種差別の問題に肯定的に取り組んでいく話としてパッと思い浮かぶのは『 ヘルプ 心がつなぐストーリー 』、『 タイタンズを忘れない 』、『 ドリーム 』、『 それでも夜は明ける 』、差別の恐ろしさを前面に押し出した作品としては『 デトロイト 』、『 ジャンゴ 繋がれざる者 』あたりか。

本作はドキュメンタリーなので、ドラマ性を強調するのではなく、事実に対するJ・ボールドウィンの解釈、それに対する様々な人々の反応を追っていく形で展開していく。しかし、その方法が時にはクリシェ/clicheであり、時には非常に大胆に観客の不意を突いてくる。遊園地やスポーツの映像を交えながら、無邪気にレポーターがアメリカの娯楽を素晴らしさを称えながら、語りはそのままに突然、警官が民衆に暴力をふるうシーンに切り替わっていく。まるでこれもアメリカという国の娯楽なのですよ、と言わんばかりに。

また討論番組で、イェール大学の哲学教授が颯爽と現れ、ボールドウィンに「君の主張には重要な見落としがある。人と人が触れ合うのに、人種は関係ない。絆を結び方法も一つだけではない。私は無知な白人よりも教養ある黒人の方を身近に感じる」と述べるのだ。もっともらしい意見に聞こえるが、ボールドウィンは毅然と反論する。「私は警察官とすれ違うたびに、後ろから撃たれるのではないかという恐怖に苛まれてきた。そしてそれは私の思い込みではないく現実の脅威だった」と。

こうした場面が鮮やかなまでに対比して映し出すのは、差別者には恐怖心が無く、被差別者には恐怖心しかない・・・ということではない。ボールドウィンは言う、「私は二グロではない。私は人間だ。もしもあなたが私を二グロであると思うのなら、あなたの中にそう思いたい理由があるのだ」と。これこそが恐怖の核心であろう。よく差別者は「差別ではない。区別だ」と理屈を述べるが、その根底には被差別者に対する恐怖が存在する。これは黒人に限ったことではく、ネイティブ・アメリカンに対してもそうであるし、女性差別も構造的にそうであろう(そのことを端的に描き出した作品に『 未来を花束にして 』がある)。

アメリカという国に住む人間という意味で、皆は家族なのだ。家族でありながら、断絶があるのは何故か。ボールドウィンが書こうとして書き切れなかった “Remember This House” という本のタイトルの意味がここでようやく見えてくる。家族というのは、自分で選べない、気がつけばそこに存在しているという意味では、究極のファンタジーなのだ。アメリカという国に生まれ育ったものが、家族として一つ屋根の下に暮らせないことの欺瞞を嘆きつつも、融和への希望を捨てず、歴史を背負い、未来を見据えるボールドウィンの目に映るは、果たしてヒューマニズムかヒューマニティか。

アメリカ史をある程度知らなければ、チンプンカンプンとまでは言わないけれども、物語として咀嚼することが難しいだろう。しかし、このドキュメンタリーを観て、某かの意味を見出せないとすれば、それは余程の幸せ者か、さもなければドストエフスキー的ではない意味での白痴であろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジェームズ・ボールドウィン, スイス, ドキュメンタリ, フランス, ベルギー, 監督:ラウル・ペック, 配給会社:マジックアワーLeave a Comment on 『 私はあなたのニグロではない 』 -差別の構造的問題を抉り出す問題作-

『 スプリット 』 -多重人格ものの傑作にしてシャマラン復活の狼煙-

Posted on 2018年5月21日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:スプリット 75点
場所:2017年5月21日 東宝シネマズ梅田にて観賞
主演:ジェームズ・マカヴォイ アニャ・テイラー=ジョイ
監督:M・ナイト・シャマラン

*注意 本文中に本作のネタバレあり

M・ナイト・シャマランの映画は当たりと外れの落差が大きすぎる。しかし、本作は当たりなので安心して観賞してほしい・・・と言えないのが難しいところ。まず『スプリット』を本当の意味で理解し、咀嚼するためには『シックス・センス』、『アンブレイカブル』、『サイン』の全て、もしくはいずれかを観ておかなければならないからだ。

ストーリーは単純で、ジェームズ・マカヴォイ演じる正体不明の男がアニャ・テイラー・ジョイ演じるケイシーを含む女子高生3人を誘拐・監禁するところから始まる。そこで彼女らは自分たちを攫った男はDID(dissociative identity disorder)=解離性同一性障害、つまりは多重人格であることを知る。複数の人格の中には若い女性、9歳児、デザイナー、屈強な成人などがおり、中には話の通じる人格、上手く利用できそうな人格として現れるものもいるのだが、どういうわけケイシーはあまり動揺を見せず、淡々と状況に対処し、9歳児を上手く騙す手前までは行く。ここに至って観る者は「何故ケイシーはこの状況に対処できるのか」と不審に思うが、巧みに挿入されるケイシー自身の過去のフラッシュバックが徐々にその全体像を現わしてくることで、彼女の冷静さや強かさに納得できてしまう。

マカヴォイは定期的にカウンセラーと会いながらも、カウンセラーを欺こうとする。その一方で彼女の理解や協力を得ようとする動きも見せるなど、誘拐・監禁と同じく、観る者に疑念を植え付けていく。同時にビーストという人格の出現を予期させるも、カウンセラーは当初、「それはファンタジーである」として受け容れない。一体、このストーリーはどこに向かって進んでいくのか、観客が予測をつけられないままにビーストが出現し・・・

というのが大筋だが、詳しくは観て確かめてもらうしかない。賞賛すべきは、まず何と言っても複数人格を見事に演じ分けたジェームズ・マカヴォイに尽きる。圧巻なのは物語中盤のカウンセラーとの面談シーンで、数十秒、時には数秒間隔で人格を切り替えてみせるという離れ業を成し遂げた。また終盤にも人格が次々に入れ替わりながら心の声を叫んでいくというシーンは鳥肌もの。またこの時のカメラワークは恐ろしいほど完ぺきな角度とタイミングでマカヴォイの表情を捉えている。練りに練られて撮影されたシーンで、映画製作の時のお手本として取り上げたくなるような名シーンだった。

ケイシー役のアニャも負けていない。9歳児を巧みに操縦したかと思えば、その9歳児の迫力に圧倒されてしまうのだが、恐怖を飲み込む演技が非常に上手い。恐怖していることを9歳児には悟らせないように、しかし観る者に非常に分かりやすい形で伝えるという、矛盾する演技を堪能させてくれる。またそのシーンで9歳児バージョンのマカヴォイがダンスを披露してくれる。不気味さという点では、劇中随一だ。シャマラン監督に言わせると、死んでしまった人格がそのダンスを通じて蘇ってくることを表現しているとのことで、実に不安を掻き立てるワンシーンに仕上がっている。

物語の締めには何とデイビッド・ダンが登場し、ミスター・グラスに言及する。この瞬間、あるシャマラン信者は歓喜したであろうし、あるシャマラン信者は茫然自失したであろう。『スプリット』は『アンブレイカブル』の世界のスーパーヴィラン誕生の物語であり、この多重人格男は次回作でアンブレイカブルを体現するD・ダンことブルース・ウィリスとの対決が決定しているのだ。ダンがこの多重人格男に触れた時、一体何を読み取るのか、そして狂人ミスター・グラスは何をたくらみ、仕掛けてくるのか。今から2019年の新作『グラス(仮題)』公開が待ち遠しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, ジェームズ・マカヴォイ, スリラー, 監督:M・ナイト・シャマラン, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 スプリット 』 -多重人格ものの傑作にしてシャマラン復活の狼煙-

『 モーガン プロトタイプ L-9 』 -父親殺しの失敗作-

Posted on 2018年5月20日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:モーガン プロトタイプ L-9 40点
場所:2017年8月 レンタルDVDにて自宅観賞
出演:アニャ・テイラー=ジョイ ケイト・マーラ ミシェル・ヨー
監督:ルーク・スコット

巨匠リドリー・スコットの息子ルークの監督作品、となればある種の期待と一抹の不安を抱いて観賞に臨まざるを得ない。ましてテーマが人工生命。人工知能をいきなり通り越して人工生命ともなれば、そこで描かれる物語は、倫理、技術、文化、文明、政治、経済などを何かしらの形で反映させていなければならない。ちょうど『エイリアン』の世界では、超長距離貨物宇宙船が現代の貨物船ぐらいのノリで描かれていたように、人工生命の前段階にあるであろう、ロボットや人工知能についてもある種の説得力を以ってその存在を示唆してくるであろうと予想していた。そしてその予想は裏切られた。父を殺そうとして失敗する息子は大洋の向こうにもこちら側にもいるものである。

はっきり言って、出てくるキャラの行動が全て不可解すぎる。特に主役の人工生命モーガン(アニャ・テイラー=ジョイ)と面談セッションを持つ男性があまりにも非合理的で、モーガンが危険であるというよりも、モーガンというプログラムにバグを人為的に生じさせるのが狙いなのかと勘繰ってしまうほどだった。

SFサスペンス、もしくはSFスリラーの趣を漂わせながら進んで行くのが、ある時点からSFアクション映画になってしまうのも残念なところ。この手の失敗の最大級の見本としてはトム・クルーズ主演の『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』が挙げられる。元々はホラーであることが期待されていたはずが、開始2分でアドベンチャーを予感させ、その1分後にはアクション物になり、ようやくホラーの雰囲気が漂ってきたところでコメディ要素を放り込み、中盤から終盤にかけてははモンスター映画になるという、まさに軸が定まらない話だった。

本作はそこまで迷走はしていないものの、観る者が抱く予感を悪い意味で裏切ることが多い。また副題にもう少し細工を凝らしても良かったのではないか。普通に考えれば、プロトタイプL-1からL-8はどこに行った?となるだろう。

色々と酷評してしまったが、光る部分もある。それはやはりアニャ・テイラー=ジョイ。元々は『スプリット』を劇場観賞して、驚天動地のエンディングに打ち震えたのだが、結末と同じくらいアニャ・テイラー=ジョイの演技にも感銘を受けたし、将来性も感じた。無邪気でなおかつ残酷さも秘める少女から、弱さと強かさを同居させるキャラまで演じてきたが、なかなか二面性のある役というのは演じ切れるものではない。それをキャリアの若い段階でこれほど立て続けにオファーが来ているというのは、やはり業界でも注目の若手として高く評価されているのだろう。今後も応援をしていきたい女優である。というわけで、本作はアニャ・テイラー=ジョイのファンにだけお勧めできる映画である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, 監督:ルーク・スコット, 配給会社:20世紀フォックスLeave a Comment on 『 モーガン プロトタイプ L-9 』 -父親殺しの失敗作-

『 ウィッチ 』 -魔女映画の新境地-

Posted on 2018年5月20日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:ウィッチ 70点
場所:2017年7月 シネリーブル梅田にて観賞
主演:アニャ・テイラー=ジョイ
監督:ロバート・エガース

魔女映画の傑作(公開当時)と言えば『 ブレアウィッチ・プロジェクト 』が想起される。レンタルビデオで観た時はあらゆるシーンの意味が分からず、その場でもう一度見直したら、いくつか背筋が凍るような場面があった。ホラー映画は一部の傑作を除いてあまり楽しむことはそれ以来なかったが、本作は久しぶりの個人的ヒットであった。

冒頭、主人公一家が追放されるシーンの直後に森の遠景を映し出す、いわゆるEstablishing Shotがあまりにも暗く、家族の今後の生活に暗雲が立ち込めていることを明示していた。

しばらくは平穏に過ごす家族に、しかし災いが訪れる。赤ん坊がいきなり消えてしまうのだ。その場で子守りをしていたアニャ・テイラー=ジョイ演じるトマシンは家族の中で立場を失っていく。

この作品を観賞する上では、アメリカの家族文化やキリスト教に関する一定の理解があることが望ましい。それによって主導的な役割を果たそうとする父親を見る目が大きく変わってくるだろう。

本作では魔女が何度かその姿を見せる。時に不気味な老婆であったり、時に妖しい美女であったりと、観る者をも惑わせる。魔女は姿を変えるのか、と。姿かたちが特定できない魔物のような存在を描いたホラーの傑作と言えば『遊星からの物体X』が思い出される。一人また一人と隊員が死んでいく中で、誰が”The Thing”であるのかが分からないのが最大の恐怖。それと同じように、家族は次第に疑心暗鬼に駆られていく。中盤においては双子の妹が重要な役割を担うが、彼女らを見ていて不覚にもニコラス・ケイジ版の『ウィッカーマン』を思い浮かべてしまった。時に幼い少女の無邪気さほど邪悪なものは無いということを我々は思い知らされてしまう。

物語が進む中で、ついにはトマシンの弟も魔女の手にかかり死んでいくのだが、このシーンは筆舌に尽くしがたい恐ろしさを醸し出すことに成功している。観る者は魔女の呪いの恐ろしさと、家族の反応の異様さの両方に恐怖を感じるであろう。魔女がもたらす災いにより家族が崩壊していく様を目の当たりにすることで、人間が本質的に恐れるのは人間ならざる者ではなく、人間そのものであることが露わになる。そのことは実は、冒頭で共同体から追放される家族自身がすでに経験していることでもあったのだ。人間関係の崩壊、それこそが本作のテーマであると思わせておきながら、しかし思いもよらぬ結末が待っている。この結末をあるがままに受け取ることによって、劇中の魔女の不可解さが説明される。それと同時に、ある肝心なシーンが意図的に映し出されていないことが別の解釈の余地を観る者に与えている。この映画の視聴後の虚脱感はヘレン・マクロイの『暗い鏡の中に』を想わせる。こちらも同工異曲の小説で、かなり古い作品ではあるものの、現代にも通じる面白さを秘めている。

本作で他に注目すべきは、音楽の恐ろしさと英語の古さ。一瞬の不協和音でびっくりさせてくるようなこけおどしではなく、脳に響いてくる不協和音とでも言おうか。また英語の古さがリアリティを与え、非現実的な物語に逆に更なる深みを与えることに成功している。カジュアルな映画ファンにはキツイかもしれないが、スリラーやサスペンスが好きな向きにもお勧めしたい一本。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, カナダ, ホラー, 監督:ロバート・エガース, 配給会社:インターフィルムLeave a Comment on 『 ウィッチ 』 -魔女映画の新境地-

『 君の名前で僕を呼んで 』 -映像美と音声美と一夏の恋-

Posted on 2018年5月17日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:君の名前で僕を呼んで 80点場
所:2018年5月6日 MOVIX尼崎にて観賞
主演:アーミー・ハマー ティモシー・シャラメ
監督:ルカ・グァダニーノ

*注意 本文中に本作および他作品のネタバレあり

部隊は1983年の北イタリア、大学教授が大学院生のオリヴァーを別荘に招くところから物語は始まる。知的かつマッチョな大学院生(アーミー・ハマー)は教授の息子のエリオ(ティモシー・シャラメ)と徐々に距離を縮めていく。公開前や公開当初はゲイ同士の恋愛と誤解する向きもあったようだが、主演の2人はストレートもしくはバイセクシュアルである。惹かれ合うきっかけなど何でもいい。男が女に最初に、かつ最も強力に惹かれるのは往々にしてフィジカル面の魅力だ。そのことを恐ろしいほど分かりやすく我々アホな男性映画ファンに突き付けてきたのは『ゴーストバスターズ』(2016)だった。ヘムズワース演じるアホなイケメン受付男を救うのに、なぜ彼女らはあれほど血道を上げたのか。

本作品は逆に、男同士が惹かれ合うのにどれほど重大な理由が必要なのかを大いに疑問視する。北イタリアでの一夏のアバンチュールだと言ってしまえばそれまでなのだが、それがあまりにも美しく描かれている。ここでいう美しさとは”自然な美しさ”ということ。開放的・解放的な気分になって、ついついベッドインしてしまいました、的なノリではなく、芸術論や歴史的な認識に纏わる知的な会話から、一緒に街までサイクリングするなど、観る者がゆっくりと彼らの交流に同調していけるように描かれているのだ。『無伴奏』はお互いが雄になって相手を激しく求め過ぎていたように見えたし『怒り』では一方の男が他方の男を乱暴に犯しているように見えた。もちろん、異なる物語の似たようなシーンを比較しても意味は無いのだが、相手のことを徐々に、しかし確実に好きになっていくというプロセスを邦画2作は欠いていた。この交流の美しさは是非多くの映画ファンに味わってほしいと思う。

テクニカルな面で注目すべき点は2つ。一つはBGM。多くは合成されたり編集されたものだと思われるが、実に多くの小川のせせらぎ、木々のそよめき、牛の鳴き声、蝿の飛ぶ音などが効果的に使われていた。ほんの少しのオーガニックな音で、観客はその場にいるような気持ちになれるものなのだ。『ラ・ラ・ランド』の冒頭の高速道路のダンスシーンに、ほんのちょっとした風の音やクルマの走行音やクラクション、遠くの空から聞こえてくる飛行機のジェットエンジン音などがあれば、「あなたがこれから体験する世界は全て作りものですよ」的ながっかり感を味わわなくても済んだのだが。ぜひ本作では、映像美だけではなく音声の美も堪能してほしいと思う。

もう一つの注目点は、やたらと画面に映りこむ蝿だ。ほんの少しネタばれになるが、エンディングのシークエンスでエリオの肩にずっと蝿が止まっているのだ。これが何を意味するのかは見る者それぞれの解釈に委ねられるべきなのだろう。

この映画の結末部分のカタルシスは『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い 』に並ぶものがある。息子が男相手に一夏の秘め事に耽るのを、親としてはどう見守るべきなのか。ロッド・スチュワートの代表曲の一に”Killing of Georgie”というものがある。Georgieというゲイの男を人生を歌ったものだ。我が子がストレートでないということに戸惑う親は、ぜひ本作に触れてほしい。何かしらのインスピレーションを必ず受け取ることができるはずだ。

日本では、同性婚を巡っては自治体レベルで認めるところが出てきてはいるものの、国民全体で考えるべきという機運の高まりはまだ見られない。「同性とも結婚できるようになる」ということを何故か「同性と結婚せねばならぬ」と感じる人が多いようだ。また夫婦は必ず同姓であるべしという、ある意味で完全に世界に取り残された日本という国に住まう人に、なにかしらのインパクトを与えうる傑作としてお勧めできる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, イタリア, ティモシー・シャラメ, ブラジル, フランス, ロマンス, 監督:ルカ・グァダニーノ, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 君の名前で僕を呼んで 』 -映像美と音声美と一夏の恋-

『 いぬやしき 』 -人間の在り方、命の使い方を追窮する-

Posted on 2018年5月17日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:いぬやしき 65点
場所:2018年5月4日 大阪ステーションシネマにて観賞
主演:木梨憲武 佐藤健
監督:佐藤信介

30代後半~40代前半ぐらいの客層は、ほぼ無条件にこの映画の木梨に同情、共感できると思われる。なぜなら、その世代が小学生~中学生ぐらいの頃がとんねるずの全盛期だったからだ。それが、このような絵に描いたように落ちぶれたサラリーマンを演じていることに、軽い衝撃を受ける人も多かろう。そして佐藤監督はまさにその効果を狙っている。

対するは佐藤健。28歳にして、テレビドラマでも映画でも高校生役を無理なく演じることができる役者で、漫画原作の映画でも上手くキャラを作り、キャラを表現できるということは『 るろうに剣心 』で証明済みだ。本作でも高校生にありがちなニヒルさとある種の無邪気さを同居させ、ある時は母親思いの良き男の子、ある時は無味乾燥なターミネーターとして、人間性と非人間性の狭間を自在に行き交っていた。木梨と佐藤のコントラストだけでも、この映画は成功していると言える。

本作のテーマはHumanity=ヒューマニティ、つまり人間性である。人間を人間たらしめるもの、それは何か。もちろん人間としての肉体を持つことではない。人間の形をした悪魔は時に実在するからだ。では、人間を人間たらしめる条件とは何か。本作はそれに愛を挙げている。母親への愛、娘への愛、異性への愛、様々な愛の形が存在するが、特に最初の2つの愛がフォーカスされている。これは特に新しい問題提起でも何でもない。このテーマを追求した傑作に『 第9地区 』(主演:シャールト・コプリ― 監督: ニール・ブロムカンプ)という先行作品がある。興味のある向きは是非参照されたい。

本作のもう一つのテーマは「生きる」ということ。「生きる」とはどういう意味か。もちろん肉体が生命活動(呼吸など)を行っている、という意味ではない。ある命が、そのエネルギーを正しい方法で使用することを「生きる」と定義づけられるのではないか。その証拠に、我々は使命を果たした時にイキイキするではないか。大きな仕事を完成させて、家でひとっ風呂を浴びる、その後に冷えたビールを飲んだ時に「生き返った」と感じた経験のある人は多いはずだ。それは、我々は使命を果たした、つまり命を正しく使ったからに他ならない。

この作品は、観る者に「どのように命を使うのか」を問いかけてくる。殺戮マシンと化した佐藤の生き方に共感しても全くおかしくはないし、命を救うことに生き甲斐を見出した木梨を応援してもいい。観る者の心を激しく揺さぶる力を持った映画で、性別、年齢を問わず、幅広い層にお勧めできる良作である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, SF, 佐藤, 佐藤健, 日本, 木梨憲武, 監督:佐藤信介, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 いぬやしき 』 -人間の在り方、命の使い方を追窮する-

『 となりの怪物くん 』 -孤独な怪物のビルドゥングスロマン-

Posted on 2018年5月16日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:『となりの怪物くん』 55点
場所:2018年5月4日 MOVIXあまがさきにて観賞
主演:菅田将暉 土屋太鳳 池田エライザ 浜辺美波
監督:月川翔

原作の漫画の方では怪物である春はもっとぶっ飛んでいて、雫の方はもっと冷淡だったように思うが、そこは映画という枠組みに上手く嵌め込むためか、キャラ設定がややトーンダウンしていたようだ。

菅田将暉はさすがの安定感で、奇声を上げてニカッと笑うキャラが良く似合う。またはシリアスさの中に無邪気さを織り交ぜることにも長けている。けれど、なにか影が薄いのだ。存在感が無いというわけではなく、精神に陰影を持つキャラをなかなか演じる機会がないせいか、その高い演技力のポテンシャルはこれまで十全に引き出されてこなかった。そして本作でも従来通りの菅田将暉だ。

相対する土屋太鳳もややマンネリ気味か。同世代のフロントランナーの一人、広瀬すずがやや迷走を見せているが、土屋はいつになったら新境地に挑戦していくのか。こんなことを言うと完全にオッサンの世迷言か妄想になるのかもしれないが、いつの間にやら一定の年齢に達していて、ある時突然「脱いでもOK」になった蒼井優みたいになってしまうのでは?それはそれで歓迎する向きも多かろうが。それでも保健室で夕陽を浴びながら春に迫っていくシーンは、これまでにない色気があった。撮影監督や照明、メイクさんの手腕もあるだろうが、土屋本人の役者としての成長を垣間見れたような気がした一瞬でもあった。

少し残念だったのは委員長の浜辺美波の出番がかなり少なかったこと。「え、これでお役御免?」みたいな感じでフェードアウトしてしまう。『君の膵臓をたべたい』から着実なステップアップを見せてくれるかと期待したが・・・ それでもこの子の眼鏡姿は西野七瀬の眼鏡っ子ver並みに似合っている(と個人的に確信している)。池田イライザは反対にほとんど印象に残らなかった。

ストーリーは分かりやすく一本調子とも言えるが、春が家族に対して抱える苦悩を、なぜ雫は素直に共感できなかったのか。母親の不在とその距離、その穴埋めが、春の境遇への理解を妨げたというのなら、もう少しそれを感じさせるシーンが欲しかった。周囲の人間がさせてくれること、してほしいと思うことは、往々にして自分のやりたいこととは一致しない。必ずしも一致したから良い結果になるわけではないのだが、春という怪物の居場所が家庭にあるのだと雫が確信できるようなショットが一瞬でもあれば、物語全体の印象も大きく変わっていたはずだ。編集で泣く泣く監督もカットしたのかもしれないが。

月川監督は小説や漫画の映画化を通じて着実にキャリアを積み重ねている。オリジナルの脚本に出会って、それをどのように料理してくれるのか、今後にも期待できそうだ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ロマンティック・コメディ, 土屋太鳳, 日本, 監督:月川翔, 菅田将暉, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 となりの怪物くん 』 -孤独な怪物のビルドゥングスロマン-

『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』 -真実と事実の狭間へ-

Posted on 2018年5月15日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 65点
場所:2018年5月4日 TOHOシネマズ梅田にて観賞
出演:マーゴット・ロビー アリソン・ジャネイ ボビー・カナベイル
監督:クレイグ・ギレスピー

30歳か、それ以上の年齢の人ならリレハンメル五輪でのトーニャ・ハーディングの泣き顔と右足を上げての必死のアピールを覚えていることだろう。そしてあの忌まわしきナンシー・ケリガン襲撃事件を。今作はその事件の真相に迫る・・・わけではない。この映画はドキュメンタリー風の始まりと思わせておいて、いきなり第四の壁を破って来るのだ。つまり、観客が見せられるのはありのままの事実ではなく、あくまでトーニャやその母、トーニャの夫やその友人の視点からの物語なのだ。第四の壁を破るとはどういうことか、古畑任三郎が真相を解き明かす前に視聴者に話しかけるのが好例だ。最近だとデッドプールが分かりやすいか。マニアックな説明をするとすればエースコンバット2というゲームのとあるエンディングもそうだったりする。何が言いたいかというと、この物語は事実の描写ではなく、解釈ですよ、と製作者はのっけから宣言しているということだ。

話はトーニャの幼少期から始まる。マッケナ・グレース演じる幼少トーニャのスケートとの出会い、父との別離、母親の虐待と見分けのつかないしごきが非常にテンポよく映し出されていく。『ギフテッド』で天才的ともいえる演技を見せたマッケナは本作でも健在。くれぐれも『シックス・センス』の天才子役ヘイリー・ジョエル・オズメントのような尻すぼみ役者にならないように、彼女のハンドラー達にはくれぐれもお願いしたい。

しかし、この段階で観る者に最もショッキングなのは母親を演じるアリソン・ジャネイだろう。2017年年間ベスト級映画だった『スリー・ビルボード』の主演フランシス・マクドーマンドも強すぎるキャラクターだったが、こちらの母親も全く見劣りしない。鬼気迫る演技、という形容ではぬるいほどの衝撃を与えてくる。まず言葉が恐ろしく汚い。そして我が子をモノか何かのように扱う態度。他人は道具、さもなければ障害物ぐらいにしか思っていないサイコパスで、それが本人と瓜二つなのだ。ジャネイは『ガール・オン・ザ・トレイン』でも威圧感たっぷりの刑事を演じていたが、あの風貌で眼をクリント・イーストウッド並に細くすることで全く違う種類の迫力を醸しだす。恐ろしい女優である。そしてそれ以上に恐ろしい母親を演じている。

またスケート一筋だったトーニャが何かの間違いで恋に落ちる男が典型的なクズ。友人にキャプテン・アメリカがいれば、容赦なく盾でぶん殴られているであろうクズ。その友人もやはりクズ。というか、普通に犯罪者だ。そしてこいつらもびっくりするぐらいに本人にそっくり。メイクさんはさぞかし腕の振るい甲斐があったことだろう。

そして『スーサイド・スクワット』のハーレイ・クイン役で一気にスターダムにのし上がったマーゴット・ロビーによるトーニャ。観るべきはスケートではなく、私生活の方。それはカメラワークにも表れている。リンクの上を所狭しと滑り、怖いものなど何もないという具合にフィギュアに興じるトーニャ本人を、最も魅力的に見せるための角度や距離から映さないのだ。あっけらかんと「スケート映画ではないですよ」と言っているわけだ。

事実、最後の最後はスケートではないスポーツで締めくくられる。そしてトーニャが血反吐を滴らせながら、こう言うのだ。“There is no such thing as truth. Everyone has their own truth. And life just does whatever the fuck it wants. That’s the story of my life. And that’s the fucking truth!” 「真実なんてものは存在しない。誰もが自分の真実を抱えているんだ。人生ってやつは好き放題やってくれる。それが私の人生の物語。それが真実ってもんでしょ!」(英語は記憶、日本語は意訳)

この映画が本当に伝えようとしていることは、トーニャの夫の友人の言葉なのだろう。”But you don’t.” “But I do.” “But you don’t.” “But I do.”と不毛すぎる問答が行われるシーンがあるのだが、これが事実 ≠ 真実、という不等式を見事に表わしたシーンだと思う。そこまで小難しく考えなくとも十分に楽しめる作りになっているし、観終ってからじっくり考えたい、またはリサーチをするのが好きだという向きにも安心してお勧めできる佳作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, マーゴット・ロビー, 監督:クレイグ・ギレスピーLeave a Comment on 『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』 -真実と事実の狭間へ-

『 パティ・ケイク$ 』 -A White Trash Girl Lashes Out !!!-

Posted on 2018年5月14日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:パティ・ケイク$ 60点
場所:2018年4月29日 シネリーブル梅田にて観賞
主演:ダニエル・マクドナルド
監督:ジェレミー・ジャスパー

プロのラップミュージシャンになることを夢見る女の物語、と書いてしまうといかにもサクセス・ストーリーを予感させてしまうかもしれない。実際はそんなに単純な話ではなく、祖母と母と娘の関係、男友達、ストリートで知り合った男、偶像視している男など、主人公のパティを取り巻く人間模様は多様で複雑だ。

この物語をどこまで受容できるかは、ラップに対する理解というよりも、現状への満たされ無さ、不満の心をラップを通じてどこまで昇華できるのかという度合いに比例するように思う。なぜストリートで即興のラップバトルに興じるのか、それはストリートでブレイクダンスに明け暮れるB-BoyやB-GIrlと同じで、生き残るための場を確保するための必然的な努力なのだ。ある意味で非常に動物的な、本能的な生存競争なのだ。

主役のパティはまさにそうした存在だ。若い白人女性になんのディスアドバンテージがあるのかと、人によっては訝しむのかもしれない。しかし、太っていて定職もなく、父親のいない家庭に暮らし、同性の親友がいない、と彼女の属性を少し取り上げるだけで、いかにマイノリティなのかが浮き彫りになる。これはそういう物語なのだ。

それにしてもアメリカ映画に出てくる役者というのは、基本的に台詞回しが日本の役者のそれよりも遥かにスムーズだ。元々ローコンテクストな言語なので、声のテンポやピッチ、間の取り方、表情、身振り手振りも交えてのコミュニケーションが発達した結果というか副産物なのだろうが、日本の場合は演技以前の声の出し方からして未熟なままの役者がちらほら見られる。MLBとNPBではないが、やはり差というものはあるものだと実感させられる。

この映画の大きな特徴として、音楽の効果的な使い方にある。もちろん、BGMや効果音を使わない映画というのは一部のPOVぐらいで、本作にも音楽はふんだんに取り入れられている。注目すべきは劇中音楽の全てを監督のジェレミー・ジャスパーが手掛けたという点。ドキュメンタリー映画『すばらしき映画音楽たち』でも言及されていたが、ほとんどの映画監督はシーンに合った音楽を自分で生み出すことができないものだ。しかし近年は『 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー 』のジェームズ・ガン然り、『 ベイビー・ドライバー 』のエドガー・ライト然り、シーンと音楽を自在に組み合わせられる監督も増えてきている。ジェレミー・ジャスパーもスコット・スピアらと同じく、そうした新時代の映画監督の道を往くのかもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ジェレミー・ジャスパー, ヒューマンドラマ, 監督:ジェレミー・ジャスパー, 配給会社:GEM Partners, 配給会社:カルチャヴィルLeave a Comment on 『 パティ・ケイク$ 』 -A White Trash Girl Lashes Out !!!-

『 ラプラスの魔女 』 -奇想、天を動かさない-

Posted on 2018年5月14日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:ラプラスの魔女 40点
場所:2018年5月4日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:桜井翔 広瀬すず 福士蒼汰 豊川悦司
監督:三池崇史

悪い予感はしていた。個人的には東野圭吾の小説とは全く波長が合わないのだ。これまでに2冊試しに買って読もうとしてみたものの、その両方とも最初の20ページで放り出してしまった。とにかく文章の波長が合わない。そうとしか言いようのない相性の悪さがある。さらに三池監督が手がけた東野小説の映画化作品では『麒麟の翼』は普通に面白いと感じられたが原作東野、監督大友啓史の『プラチナデータ』は控えめに言って珍作、率直に言えば駄作だった。豊川悦司が無能すぎる刑事を好演していたから尚更だ。だからこそ悪い予感を抱いていたのだ。その予感は裏切られなかった。

まず主演の片方、広瀬すずの魅力を引き出せていない。広瀬自身、『第三の殺人』や『先生! 、、、好きになってもいいですか?』で、これまでの天真爛漫一辺倒キャラ(もちろん『海街diary』のような例外というかキャリア初期作品もあるが)からの脱皮を模索しようとしているようだが、残念ながらその試みはここまで実を結んではいない。小松菜奈や中条あやみに抜かれてしまうかも?

さらに主役の桜井の演技力が絶望的なまでに低い。彼の場合は当たり役に出会えていないだけかもしれないが、それなりの長さのキャリアを積み重ねてきてこの体たらくでは、今後も事務所、グループの看板だけでしか勝負できない三流役者のままだ。厳しい評価だが、そう断じるしかない。TVドラマ『謎解きはディナーの後で』の頃から演技のぎこちなさは際立っていたが、もう伸び代はなさそうだ。ただ同テレビドラマおよび原作小説は、そのお嬢様の推理、執事の推理ともに噴飯物だったのだが。

その他、福士蒼汰、リリー・フランキーや志田未来などのキャストは完全に予算の無駄使いだろう。脇を固めるキャラはそれに長けたベテラン、もしくは今後に期待できる若手に任せるべきだ。

脚本に目を向けると、元ネタであるラプラスの悪魔を何か捉え違えているように思えてならない。森羅万象を知りうる、計算しうる知性というものが存在するとしても、それが人間の心理を読めるものと同義ではないだろうし、ましてや知能や知識が向上するわけでもないだろう(”知能”と”知性”の違いについては山本一成著『人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?』参照のこと)。こうした新人類、超知性の描き出し方については高野和明の『ジェノサイド』という大傑作の小説が存在するわけで、素手で乱闘する公安などを劇中に登場させては、かえってサスペンスやリアリティを失わせるという逆効果になる。知性をテーマに物語を組み立てるなら、徹頭徹尾そこに拘るべきで、ちょっと格闘シーンも入れておくか、という気持ちで脚本を作ったのなら大間違いだ。原作未読者にこんなことを言う資格はないかもしれないが、小説を映像化するのなら、原作の描写に忠実である必要などない。原作が伝えようとしているエッセンスの中で、映像の形で最も上手に伝えられる、見せられるものを映像化すべきなのだ。

その他に気になったシーンとしては、サイコロの目を予測するシーン。計算に必要なデータ全てがあれば、超知性のリソースならサイコロの出す目を計算で導き出すことも可能だろうが、明らかにサイコロそのものが見えない状態から振られたサイコロの出目まで言い当てるのは矛盾だ。紙飛行機のシーンは建物全体の空調や、場合によっては外の風の流れまで計算しなくてはならないし(そしてそのデータは得られない)、鏡を使うシーンでは、日光の強さや角度は密室の中でも時計さえあれば計算できるとして、雲やその他の人工的遮蔽物の可能性はどのようにして除外できたのか。途中から全てがご都合主義になってくる。

ただ、こうした酷評は全てJovianの個人的感性が原作者や映画製作者の感性と波長が合っていないことから来ているので、異なる人が観れば異なる感想を抱いても全く不思議はない。主要キャストや原作者、監督のファンだという人にとっては良いエンターテインメントに仕上がっているのかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ミステリ, 広瀬すず, 日本, 桜井翔, 監督:三池崇史, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ラプラスの魔女 』 -奇想、天を動かさない-

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