Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: D Rank

『 春待つ僕ら 』 -あまりにも薄っぺらいバスケと恋愛のコラボ-

Posted on 2018年12月26日2019年12月6日 by cool-jupiter

春待つ僕ら 40点
2018年12月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:土屋太鳳 北村匠海 小関裕太
監督:平川雄一朗

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181226021500j:plain

巷間言われて久しいが、土屋太鳳は本当にもうそろそろ女子高生役は卒業すべきだ。せっかく『 累 かさね 』で一皮むけたところを見せながら、これでは元の木阿弥ではないか。彼女のハンドラー達は何をやっているのだろうか。また、今作も漫画を映画化するにあたって、漫画的な文法を取り入れている。映画と漫画は異なる媒体なのだから、世の映画監督たちはもっと原作者と突っ込んだ議論を行い、おおいに芸術論を戦わせればよい。原作者や原作ファンをリスペクトすることと、彼ら彼女らに阿ることは全くの別物なのだ。

 

あらすじ

春野美月(土屋太鳳)は引っ込み思案な女子。しかし、高校入学を機に自分を変えようと思い、周囲に溶け込もうと努力するも空回り。そんな時、バイト先のカフェで同じ高校のバスケ部の面々と知り合うことに。バスケ部と過ごすうちに確かな変化を実感する美月の前にしかし、幼馴染が現れて・・・

 

ポジティブ・サイド

どうしても題材として同じ競技を扱う『 走れ!T校バスケット部 』と比較せずにはいられない。バスケをプレーしているシーンに限っては、本作の圧勝である。T高の方は、あまりにも珍妙なプレーシーンが多かったし、何よりもストーリーとバスケの試合内容が噛み合っていなかったのが致命的だった。本作は、役者連中にかなりバスケを練習させたと見え、一連のプレーやシュートシーンに合成の類はほとんど無かったように見えた。これは大きな加点材料だ。特に北村匠海と磯村勇斗は意外にバスケの動きが様になっている。経験者なのだろうか。

 

また小関裕太も良い味を出すようになった。演技力には改善の余地があるが、何を観ても金太郎飴的な演技しかできないアイドルやなんちゃって役者が跳梁跋扈する日本映画界で、それなりに幅のある役を任せられる(それらを見事に演じ切っているかどうかは別にして)というのは、ポテンシャルが認められてのことだろう。本作でもかなりユニセックスな演技を披露してくれる。来年か再来年には、『 クローズ 』に出ていそうなヤンキー役をやってくれないだろうか。

 

ネガティブ・サイド

これでもかというぐらい欠点や弱点がある作品だが、それらを全て指摘することに意味は無い。なので、どうしてもこれだけは見逃せない、許せないという類のものに焦点を当てたい。

 

まず第一に、北村匠海のキャラ、永久に「寝たらなかなか目覚めない」などという属性付けは必要だったか。そんな『 SLAM DUNK 』の流川の二番煎じキャラに何の意味があるのだ?原作がそうなっているからといって安易にそれを踏襲し、そして肝心の映画ではその属性に何らかの意味があったのだと感じさせるシーンがゼロと来れば、監督に文句の一つや二つも言いたくなる。10巻以上の漫画の物語を2時間という尺に過不足なく収めるのは至難の業だ。それこそが脚本や監督の腕の見せ所のはずなのだが・・・ また同じシーンで美月が「起きて!!」と大声を出すシーンがあるが、これも必要だったか?引っ込み思案で内気な少女が、友情に触れることで変わり、成長し、仲間の応援のために心の底から大声を張り上げられるようになる、という余りにも分かりやすい展開のために、美月の大声はもっと後までとっておくべきではなかったか。といっても、トレイラーで件のシーンはしこたま強調されているので、今更そんな指摘をしても詮無いことではあるのだが。

 

バスケのプレーについては、それなりにリアリティのある絵を撮れていたものの、その他の描写が弱い。というよりも首を傾げざるを得ないものもある、というのが残念である。例えば、いくらアメリカ帰りのバスケの申し子とはいえ、シュート成功率90%はないだろう。NBAのトップ中のトップでもフリースロー成功率が90%を超えるのはイースタン、ウェスタン、両カンファレンス合わせても毎年10人にも満たないはずだ。それこそシャキール・オニールを日本の高校に連れて来てプレーさせでもしない限り、そんな数字は絶対に生まれない。漫画は漫画であるが、映画とは大きな嘘をつくために細部のリアリティに徹底的にこだわりぬかねばならないのである。

 

最後に、永久と亜哉の 1 on 1 のシーン。何度も倒され、顔に泥がついた永久のシャツがびっくりするぐらい真っ白なのはどういうことなのだろうか。また、「チャラくは無いな、皆マジでバスケやってるから」と豪語する部員たちのスポーツバッグが、夏を過ぎても新品同様にしか見えないのは何故なのか。運動部の連中がバッグを使いこめば、数カ月もすれば、あちらこちらに擦り傷や綻びが目立ってくるものだ。そうした、バスケに費やした時間を観る者に感じさせる小道具が一切出てこないのが最大の減点材料だ。平川監督はそれなりにキャリアがあるが、もう一度、映画監督の仕事とは作品世界を存立させるに足るリアリティを担保することであるということを勉強し直してほしい。

 

総評

40点なのか45点なのか悩んだが、総合的には『走れ!T校バスケット部』と同点か。バスケシーンでは本作の勝ち。バスケ以外のリアリティはT高の方が上。しかし、良作とも光るところはあるものの、欠点の方が大きく目立った。土屋や北村のよほどのファンでなければ、わざわざ劇場でチケット代を払ってまで観ることはない。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, スポーツ, 北村匠海, 古関裕太, 土屋太鳳, 日本, 監督:平川雄一朗, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 春待つ僕ら 』 -あまりにも薄っぺらいバスケと恋愛のコラボ-

『 オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式 』 -アメリカ版『 テルマエ・ロマエ 』・・・ではない-

Posted on 2018年12月20日2019年12月6日 by cool-jupiter

オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式 50点
2018年12月12日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジョン・キューザック クラーク・デューク クレイグ・ロビンソン ロブ・コードリー
監督:スティーブ・ピンク

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181220153154j:plain

原題は“Hot Tub Time Machine”、邦題はおふざけが過ぎるかもしれないが、内容を考えれば、これぐらいぶっ飛んだタイトルの方が逆に的確かもしれない。主役はジョン・キューザックだったはずだが、あるところからロブ・コードリーが文字通りの意味でsteal the showを行う。『 ジュラシック・パーク 』ではサポーティング・アクターだったはずのジェフ・ゴールドブラムが、『 ロスト・ワールド ジュラシック・パーク 』では主役に躍り出たような感じか。

 

あらすじ

アダム(ジョン・キューザック)は同棲していた彼女に捨てられ、自棄になっていた。そこに旧友のルー(ロブ・コードリー)が自殺未遂を図ったとの連絡を受け、病院に急行。そこでもう一人の旧友ニック(クレイグ・ロビンソン)とも再会を果たす。ルーは回復、日常の憂さを晴らすべく、かつて3人で盛り上がったスキー・リゾートにアダムの甥っ子ジェイコブ(クラーク・デューク)と共に繰り出す。街の凋落ぶりに落胆する3人だったが、気を取り直してジャグジーで乾杯。そして目覚めた時には1980年代にタイムスリップしていた・・・

 

ポジティブ・サイド

高校生がロッカールームで騒ぐ、あるいは大学生が寮内で騒ぐのと同じノリを、いい年こいたおっさん連中が維持していることにはある種の爽快感と痛快さがある。こうした超高速会話劇は日本では『 シン・ゴジラ 』が傑作とされているが、英語圏では(言語特性の違いも大きいが)ごく普通のスピードだったりする。英語に堪能な人は、ぜひ本作のキャラクターたちが使いこなす、いわゆる four-letter words を研究してみよう。

 

本作のテーマは、人生における後悔、怒り、不都合な真実をタイムトラベルによって解消できるかということである。これだけなら何の変哲もないタイムトラベル物語なのだが、タイムマシンがお風呂であること、そして過去に行き着いた主人公たちは自分たちの認識では中年(一人未成年含む)なのだが、鏡に映された姿は若い頃の自分たち。そして、周りの人間にも若い=同時代の人間であると認識されるところだ。まるで藤子・F・不二雄の漫画『 未来の想い出 』のようだ(€ちなみに映画化作品の『 未来の想い出 Last Christmas 』はまだ観ていない)。人間は往々にして現状の不満の原因を過去に求める。それをやり直すチャンスが得られたら、トライするだろうか?それとも現状を受け止めて、過去には一切手を触れないようにするだろうか。

 

本作では興味深いサブプロットが進行する。現在の世界で片腕の無い男が、過去ではその片腕があるのだ。この部分は以外に面白い。いったい、いつこの男は片腕を無くすのか?しかも、どのように?馬鹿馬鹿しいプロットではあるが、これがあるために劇中のとあるシーンにスリルとサスペンスが生まれている。

 

ネガティブ・サイド

少し80年代をチープに描き過ぎではなかろうか。また、タイムパラドックスの代表例とも言える親殺しのパラドクスは、もう少しうまい具合に料理できなかったか。この分野には『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』という不朽の名作が天高く聳え立つが、いっそのことパロディ色を前面に押し出しても良かった。また、『 バタフライ・エフェクト 』を思わせるような、過去のほんの少しの改変が未来に巨大な影響を及ぼすかのような描写もあったが、そのあたりのシリアスさは全くもってスルーされてしまった。冒頭にも述べたが、主人公が途中で交代してしまったかのようなちぐはぐさも気になった。こうしたことは稀に起こるが、成功例は少ない。最近では『 ボーダーライン 』でベニシオ・デル・トロがエミリー・ブラントから steal the show をした例が挙げられる。全体的に色々なものをパッチワーク的につなぎ合わせたような不揃い感が強く残り、コメディとしての面白さは維持しているが、映画としては失敗作という印象を受けた。特に夜中のとある屋根の上のシーンの星空の作り物感にはガッカリさせられた。リゾート地の星空なのだから、もう少しリアリスティックかつロマンティックな星空を描くべきだ。タイムトラベルという大ウソをつくのだから、細部のリアリティにもっとこだわるべきだ。

 

総評

珍妙な邦題をつけられた作品が好きだ、という向き以外には強くお勧めする理由はない。ただ『 プールサイド・デイズ 』で割と真面目でまともな隣人を演じていたロブ・コードリーの、頭のねじを意図的に外したような演技に興味があるという人は、雨の日にでも観てみよう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, コメディ, ジョン・キューザック, ロブ・コードリー, 監督:スティーブ・ピンクLeave a Comment on 『 オフロでGO!!!!! タイムマシンはジェット式 』 -アメリカ版『 テルマエ・ロマエ 』・・・ではない-

『 ヘレディタリー/継承 』 -ホラーではなくスーパーナチュラル・スリラーに分類すべき-

Posted on 2018年12月14日2019年11月30日 by cool-jupiter

ヘレディタリー/継承 50点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:トニ・コレット アレックス・ウルフ ミリー・シャピロ アン・ダウド ガブリエル・バーン
監督:アリ・アスター

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181214032146j:plain

 

heredityという言葉がある。遺伝という意味で、よりなじみ深い英単語ならinheritが挙げられるだろう。ityがつくことで、性質や状態を意味する。身近な例としては、abilityやunity、facilityがある。これにさらに、aryをつけると、場所や範囲、領域を意味するようになる。好個の一例がdictionaryだろう。dictについては、predictやcontradictから類推は容易だ。原題も”Hereditary”であることから、誰かが何かを受け継いでいることを指すのは一目瞭然なのだが、誰かとは誰か、何かとは何であるのかを理解するのは一筋縄ではいかなかった。

 

あらすじ

その一家は祖母を亡くした。その娘のアニー(トニ・コレット)は母には複雑な感情を抱いていながらも、仕事のミニチュア・ハウス作りに没頭する。息子のピーター(アレックス・ウルフ)と娘のチャーリー(ミリー・シャピロ)も日常に回帰しようとするが、名状しがたい異様な空気を一家は振り払うことができず、ある夜、悲劇が発生してしまう・・・

 

ポジティブ・サイド

非常に珍しい Establishing Shot から始まる映画である。ミニチュアのドールハウスを映したかと思えば、その部屋の一つにどんどんズームインしていく。それがピーターの寝室とぴたりと重なるところで、父がピーターを実際に起こしに来る。のっけから唸らされた。今からあなたが観るのは、全て誰かが組み立てた話なのですよ、とあけっぴろげに語られたような気がしたからだ。そして、実際にその通りなのである。

 

何と言ってもチャーリーを演じたミリー・シャピロに拍手を送りたい。強面のジェイソン・クラークをそのまま性転換させ幼児化させたようで、メイクの力もあるだろうが、尋常ならざる雰囲気を見た目だけで醸し出している。天才肌のグレイス・マッケナとは一味違う、一種異様な空気を纏うことができる子役だ。『 エクソシスト 』のリンダ・ブレアのようなキャリアを歩まないことを切に願う。

 

アメリカのメジャーな映画の母親役はトニ・コレットかアリソン・ジャネイとでも決まっているのだろうか。ほんの少し前まで、邦画のきれいなおばあちゃんは吉永小百合、ちょっとエキセントリックなおばあちゃんは樹木希林だったように。本作では主演だけではなく製作総指揮も務めたとのことだが、おそらく鏡の前で相当に顔の筋肉を動かしてから撮影に臨んだに違いない。恐怖の演出のための表情が、コメディ一歩手前にまで到達してしまっている。トニ・コレットでなければギャグになってしまうところを、その存在感と卓抜した演技力で見事に場面を締め付けている。

 

顔芸ではピーターも負けてはいない。特に運転席のシーンでは、観ているこちらも冷や汗をかくというか、脂汗をかくというか、バックミラーを見て後ろを確認すると、そこには!という演出は、おそらく『 ジュラシック・パーク 』で一気にスパークし、今やクリシェと化したが、今作はバックミラーを覗きこみたくても覗きこめないという演出で観る者の不安と恐怖を掻き立てた。残念なのは、恐怖の描写ではこのシーンがピークだったことか。

 

ネガティブ・サイド

ホラーとは何か、については実に興味深い議論がある。Cinemassacreの二人(James RolfeとMike Matei)による Is it horror? という動画がある。議論の冒頭で“Horror is something that’s always changing and adapting to the state of the world”=「ホラーは常に変化して、世界の状態に適応していくもの」という指摘がなされるが、これは正しい。そして、その議論を援用するならば、ホラーの定義は地域によって異なってもよいはずだ。極めて日本的なバックグラウンドを持つ人が、この映画から感じ取る恐怖とは、視覚的な恐怖や聴覚的な恐怖であったり、家族の崩壊の恐怖であったりで、宗教的・哲学的な意味での恐怖を感じ取る人がいたとすれば、相当に鋭い感受性か、もしくは類まれな知識と教養の持ち主と思われる。この映画から後者の意味での恐怖を受けるとすれば、それは西洋文明に相当明るい人のはずだ。Jovianは平均よりも上の知識をその方面に有していると自負しているが、正直なところ、家族の崩壊以上の意味を感じ取ることは難しかった。最後の最後の場面で諸々の伏線、前振りが回収されていく様は見事であったが、それはホラーといよりもサスペンスやスリラーであるように感じられた。

 

ホラー=恐怖とは、理不尽なもの、理屈が通じない状況から生まれるものだろう。しかし、本作の悲劇の始まりは、チャーリーがある行動を取ったから、という実に他愛のないものだった。隠す意味もないのだが、その行動とは「ケーキを食べる」である。もう、これだけでホラーの要素が薄まってしまうだろう。もちろん、その後の悲劇は本当に悲劇としか言いようがないのだが、その過程で観る者が感じるのはサスペンスであってホラーではない。これは西洋人であろうと東洋人であろうと同じだと考えられる。

 

本作は『 ローズマリーの赤ちゃん 』になろうとして、しかし『 タロス・ザ・マミー/呪いの封印 』になってしまった、と言えば通じるだろうか。誰がどう見ても怖い作品を作ろうとして、謎解き要素が強めの作品が出来上がったという感じである。同工異曲でもっと怖い作品を観たいという人は、『 ウィッチ 』を観よう。色々と腑に落ちた点をしっかりと頭に叩き込んでもう一度劇場に向かえば異なる感想を持つ可能性は高いが、残念ながらその予定はない。

 

総評

おそらく評価が真っ二つに分かれる作品である。恐ろしさを感じる人は感じるだろうし、スリルやサスペンス、またはミステリー要素を感じ取る人も相当数いると思われる。ホラーというものは常に現実に即しながら、必ず現実をはみ出た部分を持っている。どの方向にどの程度はみ出るかによって、どのような人にどの程度の恐怖感を催させるかが決定されるわけだ。そうした意味では、観る人を選ぶ作品である。もしもトニ・コレットのファンならば、即、劇場へGO!! である。イヤミス好きという人にもお勧めできる。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181214032413j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

 

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, トニ・コレット, ホラー, 監督:アリ・アスター, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 ヘレディタリー/継承 』 -ホラーではなくスーパーナチュラル・スリラーに分類すべき-

『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

Posted on 2018年12月12日2019年11月30日 by cool-jupiter

くるみ割り人形と秘密の王国 40点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マッケンジー・フォイ キーラ・ナイトレイ モーガン・フリーマン
監督:ラッセ・ハルストレム ジョー・ジョンストン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181212024607j:plain

チャイコフスキーの“くるみ割り人形”と言えば、圧倒的に「行進曲」と「花のワルツ」のイメージが強いだろう。この軽快にして優雅な調べは、聴く者の心に沁み入るような印象をもたらす。この典雅な音楽に乗せて展開される映像世界はどのようなものになるのだろうかと期待に胸を躍らせていたが・・・

 

あらすじ

母を亡くして以来、内向的になってしまったクララ(マッケンジー・フォイ)は、あるクリスマス・イブに名付け親のドロッセルマイヤー(モーガン・フリーマン)の邸宅を訪れる。そこでは各人へのクリスマスプレゼントが用意されており、自分の名前が書かれた札のついた紐をたどっていく仕組みだ。そしてクララが紐をたどっていく先には、不思議な世界が広がっていた・・・

 

ポジティブ・サイド

インターステラーのマーフがここまで大きくなったかと、マシュー・マコノヒーならずとも父のような目で見てしまう。クロエ・グレース・モレッツ的な存在になるのか、それともジェニファー・ローレンスのような恐れ知らずの女優にまで変貌するか。今後が実に楽しみである。なんとなくルックスが杉咲花を思わせるのだが、出演作は本人およびハンドラーもしっかりと吟味をしてほしいと切に願う。

 

ゴッドファーザーのモーガン・フリーマンも、日本の国村準に負けず劣らずのハイペース出演。正直なところ、この偉大なる俳優のキャリア、というか寿命もそこまで長くは残されてはいないだろう。彼の今後の一作一作が、文字通りの遺作になる覚悟で臨んでいる。言えるうちに言っておこう。この不世出の名俳優に乾杯。

 

そしてキーラ・ナイトレイである。『 はじまりのうた 』や『 アラサー女子の恋愛事情 』では典型的なお姉さんキャラを演じていたが、本作ではハイテンションお姉さんキャラに変貌を遂げた。しかし、大人でありながら大人の余裕をそれほど感じさせないお姉さんキャラという点では、いつものキーラなので、彼女のファンであってもそうではなくても、安心して鑑賞できる。このことをポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは人による。Jovianは好意的に受け取った。キーラは何となく、蒼井優を思わせる。可愛らしさ、色気、儚さ、物憂げな様子、名状しがたい負の感情、倒錯。そうしたところが共通しているように思う。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーそのものに真新しいところはない。というよりも、ディズニーらしい改変が加えられている。ディズニーがよく知られた物語を実写化すると、しばしばフェミニスト・セオリーなどの現代的な読み変えを行う。女性はどこまでも受け身で、物語を雨後がしていくのはもっぱら男性的なキャラクター達というのが古典的な物語の在り様だ。赤ずきんちゃんでも白雪姫でも何でもよい。そうしたおとぎ話の女性の受動性とディズニー映画の女性の積極性には見事なコントラストがあるのだが、それが常に成功するわけではない。なぜクララがいきなりガンガン闘えるのか。なぜクララに女王の威厳が備わっているのか。なぜクララが機械仕掛けに精通しているのか。こうした男性的な特徴を、特に説明もなくクララが持っていることが、物語にマイナスに作用しているように思う。近年の実写ディズニー映画で個人的に最も面白かったのはリリー・ジェイムズの『 シンデレラ 』だ。なぜなら、女性の女性性を損なうことなく、一貫した物語に仕上がっていたからだ。クララ本人とその母親、そして四つの王国の背景がほとんど語られないままにキャラが動き出すせいで、観客は置き去りにされたかのように感じてしまう。

 

また、CGの量は何とか抑えられなかったのだろうか。全ての王国の背景が、あまりにも作り物然としていた。CGが今後どれほどの進歩を見せるのかは分からないが、それでもCGはCGとして目に映るだろう。最近観た『 グリンチ(2000) 』でも感じたことだが、着ぐるみや特殊メイクは幼稚かもしれないが、存在感という点ではいかなるCGにも勝る。最近も『 GODZILLA 星を喰う者 』で、ほとんど動かないキングギドラを見せられたが、かつての昭和、平成のキングギドラは二十人ほどの操演によって動いていたという。しかし、ピアノ線による操演技術はロストテクノロジーとなって久しい。今ではエキストラの人間さえもCG作成して合成してしまう映画が多いが、ディズニーほどの予算を持っているのなら、オーガニックな素材をふんだんに使った映画を作り続けるべきだ。本作のCGヘビーな面は、技術の進歩というよりも技術の後退、継承の失敗という文脈で捉えるべきではないだろうか。

 

総評 

はっきり言って、本作にはストーリー上の面白さは無い。キャストにお気に入りがいないのであれば、素直にスルーするのが吉である。そうはいっても、チャイコフスキーの音楽の調べによって語られる物語の映像美は、雨の日の過ごし方やちょっとした時間つぶしのためには最適であるのかもしれない。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181212024758j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, ファンタジー, マッケンジー・フォイ, モーガン・フリーマン, 監督:ジョー・ジョンストン, 監督:ラッセ・ハルストレム, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』 -物語よりも、まずはキャラを立てるべし-

Posted on 2018年12月8日2019年11月30日 by cool-jupiter

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 50点
2018年12月1日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー クアリソン・スドル エズラ・ミラー ゾーイ・クラヴィッツ ジョニー・デップ ジュード・ロウ
監督:デビッド・イェーツ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181208021105j:plain

原題は“Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald”、『 ファンタスティック・ビースト:グリンデルバルドの罪 』というわけだが、ウィザーディング・ワールドでは罪の概念がマグル/ノーマジの世界とは異なるのだろうか。個人的には、グリンデルバルドはそこまでつの罪を犯しただろうか?と首をかしげてしまった。

 

あらすじ

悪の大魔法使い、グリンデルバルド(ジョニー・デップ)が移送中に逃亡に成功。ダンブルドア(ジュード・ロウ)と接触したニュート(エディ・レッドメイン)は、彼に代わってグリンデルバルドの追跡を依頼される。大魔法使いのダンブルドア自身がその任にあたらないことに訝しさを覚えつつも、ニュートはロンドンからパリへと向かう・・・

 

ポジティブ・サイド

シリーズと呼ばれる作品は映画界に数多く存在する。しかし、Saga / サーガ と見なされうるだけの力と奥深さを持つ作品は少ない。『 スター・ウォーズ 』や『 ロード・オブ・ザ・リング 』は間違いなくサーガだが、『 猿の惑星 』や『 ミッション・インポッシブル 』はサーガではないと感じている。サーガとは英雄譚であると同時に、魅力的なキャラクターと物語を生み出す世界観そのものだろう。「ルークやダース・ベイダー(≠アナキン)が出てこないから、新三部作はスター・ウォーズではない!」と怒るファンはいなかった。我々スター・ウォーズファンが怒り、嘆き悲しんだのは、フォースと言う銀河に満ちる神秘的な力を生物学的に解釈してしまったところだった。世界観を破壊されたからなのだ。そういった意味では、キャラクターではなく世界観こそが、シリーズとサーガを分ける一つの大きな指標だろう。『 ハリー・ポッター 』は紛れもないもサーガだった。本作もサーガの一端を担っていると言える。それはニュートやティナが登場していること以上に、魔法や魔法生物の存在によるところが大きい。前作でかなり唐突にアメリカに舞台を移したことには面食らったが、今作はパリ、さらには中国の妖怪も大暴れし、日本の妖怪も一瞬だけ登場する。世界の奥深さ、広大さを切り取った素晴らしい構成だと感じた。

 

ネガティブ・サイド

登場人物が一気に増えすぎた感は否めない。前作のニュート、ティナ、ジェイコブ、クイニーのリユニオンが期待されていたはずだが、そこへ持ってきてニュートの兄、その兄の婚約者、さらにクリーデンスの親など、メインのプロットであるグリンデルバルドの追跡とは直接に関連しないサブプロットが多すぎる。『 アントマン&ワスプ 』でもそうだったが、ストーリーは詰め込めば詰め込むだけ良いというものではない。過剰なサービス精神が必ずしもエンターテインメントになるわけではない。

 

冒頭でも述べたことだが、本作の最大の弱点は、グリンデルバルドが多くの魔法使いを扇動するばかりで、罪と呼べるのはオープニングの闘争および逃走シーンぐらい。だいたい、こんな危険な魔法使いが逃げ出したというのに、魔法省は数ヶ月間も動かず。ハリポタ世界でもヴォルデモートの復活を信じず、闇の軍団の成長に楔を打ち込もうとする動きは大きくならなかった。魔法使いは皆、基本的に能天気なのだろうか。闇祓いというのはアラスター・ムーディのような、好戦的・・・とは言わないまでも、闘うことに慎重になりすぎず、闘うとなれば手足や目玉ぐらいは犠牲に闘うものではないのか。ニュートが闇祓いを忌み嫌うのは、自分たちの知識や理解の範疇に収まらない生物を駆除しようとするからではなかったか。なぜグリンデルバルドにもっと立ち向かっていかないのか?映画的ご都合主義が見え隠れしていた。これは大きな減点材料だ。

 

総評

本シリーズは全5作で完結するとされている。であるならば、次作ではマクゴナガル先生の若い頃versionが登場してもおかしくない。個人的には、ハリポタ世界でスネイプ先生に次いで最も好きなキャラクターだ。ダンブルドアがストーリーに絡んできたからには、彼女の登場も期待される。作品としてはもう一つだが、Wizarding Worldの広大さを感じられるという意味では及第点。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181208021303j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, エディ・レッドメイン, キャサリン・ウォーターストン, ジョニー・デップ, ファンタジー, 監督:デビッド・イェーツ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』 -物語よりも、まずはキャラを立てるべし-

『 リピーテッド 』 -フランスの映画・小説の技法を盛り込んだ作品-

Posted on 2018年12月4日2019年11月23日 by cool-jupiter

リピーテッド 50点
2018年11月28日 レンタルDVD鑑賞
出演:ニコール・キッドマン コリン・ファース マーク・ストロング
監督:ローワン・ジョフィ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181204033832j:plain

少ない登場人物でサスペンスを生み出すのがフランス流だが、本作はイギリス・フランス・スウェーデンの合作とのこと。納得の仕上がりである。カトリーヌ・アルレーが現代によみがえったら、きっとこんな小説を書くのだろう。

あらすじ

クリスティーン(ニコール・キッドマン)が目を覚ますと、ベッドには見知らぬ男が。彼(コリン・ファース)はベンと名乗り、自分は夫であると言う。クリスティーンは事故により、一日しか記憶を保持できないのだ。一方、ナッシュ医師(マーク・ストロング)からの電話でビデオカメラの録画を観るように促された彼女は、過去の自分からの語りかけに次第に混乱させられていく。信じるべきはベンなのか、それともナッシュなのか・・・

 

ポジティブ・サイド

まずキャスティングだけで本作は一定の成功を収めている。早い話が、ベンとナッシュ、どちらが怪しいのだ、というのがクリスティーンの疑惑であり、観る者の関心である。英国の誇るコリン・ファースが果たして悪役なのか、それとも強面でありながら、結構良い人ばかりを演じるマーク・ストロングが悪役なのか。物語が始まって、すぐに我々は引き込まれる。

 

物語は二転三転し、ある日はナッシュを疑ったかと思えば、次の日にはベンを疑う。クリスティーンが一日の終わりに撮り溜めていくビデオはどんどんと積み重なっていく。それがある閾値に達しつつある時、クリスティーンの記憶の鍵も外れ始める。この演出は陳腐ながら見事である。記憶喪失ものは往々にして、完璧なタイミングで完璧な記憶を取り戻すからだ。ご都合主義の極みである。本作は安易なご都合主義は取らないし、人間の記憶の確かさと曖昧さの両方を、非常に説得力ある方法で描き出す。その点で凡百の記憶喪失ものとは一線を画している。

 

ネガティブ・サイド

いくつか不可解というか、設定が生かされない点もあった。クリスティーンは毎朝20代に戻るわけだが、そのことを強く示唆するようなシーンが必要だった。それが無いために、終盤で真実の一端が明かされるシーンの迫力が減じてしまっていた。また、二人の男性以外に出てくる重要人物のもたらす情報が、クリスティーンの記憶を刺激しないというのは、やや腑に落ちなかった。

 

記憶喪失とタイムトラベルもしくはタイム・パラドクスは、序盤の面白さを生み出すことにおいては数あるジャンルの中でもトップクラスであろう。それは間違いない。問題は着地なのだ。サスペンスフルな展開でせっかくここまで引っ張ったのだから、最後までそのトーンを維持して欲しかった。ファイトシーンなどは無用であった。

 

総評

名作かと言われれば否だが、駄作と言うほどでもない。雨の日のレンタルにちょうど良いだろうか。ニコール・キッドマン、コリン・ファース、マーク・ストロングのファンなら、押さえておいて損は無いだろう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, イギリス, コリン・ファース, サスペンス, スウェーデン, スリラー, ニコール・キッドマン, フランス, マーク・ストロング, ミステリ, 監督:ローワン・ジョフィ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 リピーテッド 』 -フランスの映画・小説の技法を盛り込んだ作品-

『 GODZILLA 星を喰う者』 -本当は副題で「星を継ぐもの」と言いたかったのでは?-

Posted on 2018年11月14日2019年11月22日 by cool-jupiter

GODZILLA 星を喰う者 50点
2018年11月10日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:宮野真守 櫻井孝宏
監督:静野孔文 瀬下寛之

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181114014335j:plain

ゴジラ映画におけるアニメーションと言えば、『 ゴジラ対ヘドラ 』の劇中において挿入された謎の銀河解説アニメが強烈な印象として残っている。そして、このアニメ・ゴジラ三部作も遂に完結。どれほどのインパクトを世のゴジラファンに与え、植え付けるのか。どのように着地するのか。『 GODZILLA 決戦機動増殖都市 』でも触れたが、怪獣の怪獣性をどのように描き切るのか。本作に期待される点は多い。しかし、その期待は応えられたと言えるのだろうか・・・

 

あらすじ

決戦機動増殖都市メカゴジラ・シティとヴァルチャーによる攻撃でゴジラ・アース打倒まであと一歩に迫るハルオらであったが、ビルサルドとの対立により、ゴジラ抹殺の千載一遇の機を逃してしまう。もはやゴジラを倒す手段は無いのか・・・ 一方、エクシフの宗教家メトフィエスは信者を着実に増やし、遂にはギドラを降臨させる・・・

 

ポジティブ・サイド

怪獣とは何であるのか。怪獣の怪獣性とは何なのか。そのことに一定の答えが提示された。怪獣は、人間によってどうこうできる存在ではないということ。怪獣は闘うべき相手ではないということ。怪獣とは死と滅びと終焉の究極のメタファーであるということ。怪獣に対する勝利とは、対象の抹殺ではなく、自らの生存と繁殖、繁栄であるということ。行き過ぎた文明の発達に対する歯止めとしての怪獣ではなく、人間を含めた文明ですら、怪獣を産み出す下地に過ぎないということ。結局は「怪獣惑星」に回帰するということ。どこか『 シン・ゴジラ 』にも通底するテーマである。これこそが製作者の呈示する世界観の論理的帰結であるというなら受け入れようではないか。

 

今作の最大の注目点ギドラである。ギドラと言えばゴジラ映画シリーズに7回の登場を誇る、もはやお馴染みの怪獣である。そして、ゴジラ映画の文法から外れることが多いアニメゴジラ世界のギドラが、恒例の三大特徴をしっかりと踏まえていることもポイントが高い。ギドラの三大特徴とは

 

1.宇宙からやってくる

2.操られている

3.実は弱い

 

である。ゴジラ・アースという規格外のゴジラのが存在する宇宙に、規格外ながらもゴジラ世界の文法に則ったギドラが登場してくれたことは、大いなる安息であった。

 

ゴジラがグローバルなコンテンツになってしまった今、日本版のゴジラが立ち返るべきは本多猪四郎の発したメッセージ、すなわち行き過ぎた文明はそれ自身によるしっぺ返しを食らう、という教えである。実際に『 シン・ゴジラ 』は震ゴジラであった。本作においても、ハルオが選択した生命主義的行動は、芹沢博士がオキシジェン・デストロイヤーを発明してしまったことに対して責任を自ら取った行動と重なる。『 宇宙戦艦ヤマト 完結編 』における古代進を彷彿とさせるその決断と行動には胸を打たれた。

 

ネガティブ・サイド

元々いかがわしさと胡散臭さを撒き散らしていたエクシフであるが、ゲマトリア演算については最後の最後までJovianの理解を超えていたようだ。計算の結果、この宇宙は有限であり、いつか必ず終焉を迎える。であるならば美しい終焉を求めてギドラを召喚するところが特に意味が分からない。とにかくゲマトリア演算というと、小林泰三の『目を擦る女』所収の短編「あらかじめ決定されている明日」のような、とてつもなく胡散臭さを感じる。この宇宙が有限でも、別の宇宙が存在するならば、何とかしてそちらに移住する方法を編み出そうとは考えないのか?

 

ギドラ登場シーンにも不満が残る。アラトラム号を混乱の極みに陥れ、破壊した描写は圧倒的であったが、観る側に何もかもを説明するかのようなキャラクターの不自然な(=やたらと説明的な)台詞が耳障りだった。ギドラという別宇宙の怪獣によって異なる物理法則が支配する領域に叩き込まれたアラトラム号を描写するならば、それこそ観る側をも混乱させるような演出が必要だった。例えば、音声や効果音と絵が一致しない、時間の経過を非連続的にする、などが考えられる。観る者までも混乱に叩き込み、地上でゴジラに噛みつき絡みついたところで、マーティン・ラッザリにあれこれと実況および解説させればよかった。ギドラの圧倒的なビジュアルと存在感はしかし、残念ながらアクションにはつながらなかった。非常に静的な画面が続くので、なおさら上述したような混乱の演出が欲しかった。

 

ギドラの存在の位相についても不満がある。もともとゴジラの攻撃が当たらないのであれば、熱戦を捻じ曲げる必要もないわけで、素通りさせればよかった。その上で、ゴジラの攻撃が当たるようになってしまった時、熱戦に対して最初の数発はディフレクトできたものの、最終的にその圧倒的な火力とエネルギーに屈してしまったという描写にできなかったのだろうか。まるで『 ダイの大冒険 』の死神キルバーンと『 HELLSING 』にてアーカードを消滅させたシュレディンガー准尉を想起させるアイデアは良いのだが、その見せ方が映画的ではなく娯楽的ですらなかった。本作の成功の大部分はギドラに負っているのだから、ギドラに関する演出のマイナス面は、そのまま作品全体の評価へのマイナス点に直結する。

 

総評

前作、前々作を観た者からすれば、これを観ないということはありえない。しかし、それは本作が素晴らしいということを主張するものではない。むしろ、このアニメゴジラの一応の着地点を確認するしかないという、やや消極的な理由である。全体的には残念な作品に仕上がってしまっているが、しっかりとしたメッセージを受け手に送ってくれる作品にはなっている。

 

追記

すでにYouTubeで観た方も多いと思われるが、USAゴジラの正統続編『ゴジラ:キング・オブ・ザ・モンスターズ』のトレーラーを大画面で見られたのは、やはり胸躍るものだった。ドビュッシーの『 月の光 』を思い起こさせるBGMと共に、ゴジラの姿、モスラ、ラドン、キングギドラのシルエットを観て、ふと思った。こいつらが登場した後にキングコングの出る幕は果たしてあるのか、と。やはり『 ランペイジ 巨獣大乱闘 』の生物巨大化メカニズムをコングに無理やりにでも適用するのだろうか。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, 宮野真守, 怪獣映画, 日本, 櫻井孝宏, 監督:瀬下寛之, 監督:静野孔文, 配給会社:東宝映像事業部Leave a Comment on 『 GODZILLA 星を喰う者』 -本当は副題で「星を継ぐもの」と言いたかったのでは?-

『 ヴェノム 』 -独創性を産み出せなかったダークヒーロー-

Posted on 2018年11月12日2019年11月22日 by cool-jupiter

ヴェノム 45点
2018年11月8日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:トム・ハーディ ミシェル・ウィリアムズ リズ・アーメッド
監督:ルーベン・フライシャー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181112010211j:plain

『 スパイダーマン3 』でかなり唐突に現れ、かなりアッサリと倒されてしまったヴェノムのスタンド・アローン映画である。その人気の高さから『クローバーフィールド/HAKAISHA 』は、ヴェノム誕生の前日譚なのではないかとの揣摩臆測も呼んだ、ヴィラン(?)・・・というか、悪役生物である。MCU(Marvel Cinematic Universe)において特異な位置を占めるスパイダーマン、そのスパイダーマンの一番の宿敵ヴェノムをフィーチャーするのだから、期待が高まらないはずはない。が、本作は正直なところ、かなり微妙な出来である。本国アメリカではかなり酷評されているため、ポイント鑑賞でチケット代を節約させてもらった。

 

あらすじ

エディ(トム・ハーディ)は持ち前の正義感、行動力、そして舌鋒の鋭さで社会問題に鋭く切り込む売れっ子ジャーナリストだった。しかし、恋人にして弁護士のアン(ミシェル・ウィリアムス)のEメールを盗み見たことから、天才科学者のドレイク(リズ・アーメッド)率いるライフ財団に「人体実験で死者も出しているのではないか」と切り込んでいく。それをきっかけにアンとは破局、仕事でもクビを宣告されるが、財団からの内部通報者の協力を得て取材を続けるうちに、自身も謎の宇宙生物シンビオートに寄生されてしまう・・・

 

ポジティブ・サイド

トム・ハーディが硬骨のジャーナリスト役がハマっているし、寄生され始めた段階でのクレイジーな行動の数々を、コメディとシリアスタッチの境界線上を行くような絶妙のバランス感覚で演じている。エディという役を、序盤に関しては巧みに表現できていた。

 

悪役のリズ・アーメッドも良い味を出している。無表情のまま、サラリと冷酷極まりないことを口にしたり、いきなり声の調子を変えて恫喝してくるところなどは、インテリやくざを思わせる。マッド・サイエンティストの代表例とも言える死の天使ヨーゼフ・メンゲレよろしく、自らの信ずる道のためならば、人命など鴻毛の軽きに等しいと考えるタイプの科学者で、非常に分かりやすい悪玉である。見ただけで、「なるほど、コイツが倒すべき敵なのだな」と素直に予感させてくれる存在感に I’ll take my hat off.

 

残念なのは、その他の要素(監督、脚本、撮影)にはあまり感銘を受けられなかったところ。もしもヴェノムをフルCGではなく、一部でもよいのでオーガニックな手段で表現できていれば、各キャラクターにもっと血肉が通ったであろうに・・・

 

ネガティブ・サイド

まず言えることは、かなり多くの日本の映画ファンが『 寄生獣 』を思い浮かべただろうということ。特にヴェノムが右腕の先っぽから顔を出すシーンは、ミギーへのオマージュのように思えてならなかった。同時にまさしくそのシーンのヴェノムは『 エイリアン 』のゼノモーフの頭の形も模しており、これもオマージュと捉えるべきであろう。何らかのエイリアンを描くとき、H・R・ギーガーおよびリドリー・スコットの影響から完全に逃れることは難しいのである。問題はオマージュではなく、その先にあるべきはずの独創性がなかったことである。

 

まず冒頭の探査機の地球帰還シーンからして『 ランペイジ 巨獣大乱闘 』のオープニング・シークエンスと丸かぶりしているし、寄生生命体のシンビオートの寄生前の状態は『 ライフ 』のカルビンをかぶっている。またアクションシーンの山場の一つである、バイクで車の追跡を振り切ろうとするシーンはバットマンを想起させる。とにかくやたらとパッチワーク的な作りになっていて、ヴェノムという魅力的であるはずのキャラクターがどうにも陳腐に映ってしまう。

 

問題はアクション関連のシークエンスだけではない。天才であるはずのドレイクが宇宙探査や外宇宙への移住を目指すのはよい。が、その手段が宇宙生命体との共生???シンビオートが寄生によって地球という好気性の環境に適応するというのなら、人類が何らかの系外惑星なり系外衛星に住むとなった時、真っ先に考えるべきは寄生ではないのだろうか。共生(synbiosis)は基本的に長い時間を経た上で構築される進化論的帰結である一方、寄生は常に一方通行の片利的な関係として起こりうるからだ。これがカイチュウやサナダムシならまだ救いがあるが、脳や神経系に巣食う生物となると洒落にならない。だが、現実的に宇宙に生存できる可能性を求めるとなると、人類が寄生する側にまわるほうがリアリティがあると思うのだが・・・

 

本作の最大の弱点というか欠点は、ヴェノムの回心のプロセスが不透明であることだ。エディに備わっている人並み外れた正義感であるとか、アンへの一途な想いの強さであるとか、相手の社会的地位で態度を変えない公平性であるとか、シンビオートがエディから受ける有形無形の影響をもっと鮮烈に描くべきだった。異色のダークヒーローにして一心同体バディ(buddy ○ body ×)の誕生が、単に寄生してみたら相性が良かった的に描くのは、はっきり言って手抜きではないか。このあたりを追求しないことには、単なるB級SFアクションの一派生作品にしかならない。

 

総評

これから観に行くつもりの方には、MUC有数の人気ヴィランを鑑賞しに行く!という強い気持ちを持たないように注意喚起をしたい。ちょっと暇とカネがあるので『 スーサイド・スクワッド 』の亜種でも観に行ってみるか、ぐらいの気持ちで臨むのが正しい。ただし、『 恋は雨上がりのように 』のあきらのような『 寄生獣 』の熱心なファンであるならば、時間を作って、お近くの劇場へGoである。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アクション, アメリカ, トム・ハーディ, ミシェル・ウィリアムズ, リズ・アーメッド, 監督:ルーベン・フライシャー, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 ヴェノム 』 -独創性を産み出せなかったダークヒーロー-

『 覚悟はいいかそこの女子。』 -社会派要素を交えた異色ロマコメ-

Posted on 2018年11月11日2019年11月22日 by cool-jupiter

覚悟はいいかそこの女子。 55点
2018年11月8日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:中川大志 唐田えりか 小池徹平 伊藤健太郎
監督:井口昇

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181111125306j:plain

おそらく誰もが食傷気味の少女漫画の映画化を何故観ようと思い立ったのか。それは『 食べる女 』にチョイ役ながら出演することで映画sceneに帰って来た小池徹平を観るために他ならない。決して唐田えりか見たさではなかった・・・はず。

 

あらすじ

自他共に認める愛され男子の古谷斗和(中川大志)は、実はただのヘタレ男だった。彼女を作った友人に「鑑賞用男子」と揶揄されたことに発奮、彼女を作ろうと意気込んで三輪美苑(唐田えりか)に「俺の彼女になってくれない?」とイケメンオーラ全開で臨むも、あっさりと撃墜されてしまう。それでも懲りずに猛烈アタックを続ける斗和は、ある出来事をきっかけに美苑の住む部屋の隣で一人暮らしを始めて・・・

 

ポジティブ・サイド

単なる少女漫画ものと思うなかれ。意外にも社会派の側面を持った作品である。具体的には貧困問題と一人親家庭である。後者はかつては欠損家庭とも呼称されていた。離婚もしくは片親・両親の死などによって、子が親以外の血縁者と暮らす世帯は“欠損”していると看做された時代が、ほんの十年、二十年前までは確かにあった。ヒロインである美苑を取り巻く環境は、主人公の斗和のそれとは違い、重く暗い。それをどう取り除くのか。言い換えれば、斗和がどれだけ三枚目になれるのか、または汗水垂らして頑張れるのかが見所になる。ただのイケメンでは貧困も寂しさも紛わせないからだ。そして中川大志は予想を超えるとはまでは言わないが、期待を裏切らない仕事をした。特にある決意を固めるときの表情と、三枚目に「堕ちる」時の表情は味わい深く良かった。中でも『 ハナレイ・ベイ 』のサチのありがたい教えの一つ、「美味しいものをたくさん食べさせてあげる」を実行したのはポイントが高い。

 

本作は『 センセイ君主 』や『先生! 、、、好きになってもいいですか? 』と同じく、女子高生が教師に恋心を寄せる話でもある。その相手の教師・柾木隆次(小池徹平)がとある事情から舞台を去る理由も、極めて社会的である。こうした事情を受け入れられる背景には、日本の社会の成熟と国民の意識の変化(向上と呼んでも差し支えは無いだろう)があるからなのだが、それ以上に柾木先生の抱える事情が美苑の抱える事情と表裏の関係にあるからだ。同時に、虎が死んで皮を残すように、美苑の父は娘に絵画の才能を遺していった。柾木はその才能を豊かに花開かせた。子どもには positive male figure が必要になる時期があるが、美苑にとっての positive male figure の役割をすべて引き受けようとする斗和は見事である。これこそが本作が単なる少女漫画とは一線を画す理由である。好きな女を、その女が好きな男のところに敢えて連れて行ってやる男というのは、漫画『 スクールランブル 』を始め、いくつかの先行テクストが既に存在する。しかし、恋人以外の属性を積極的に担おうとする男を描く作品はあまり生産されてきていない。この点に本作の新しさが認められる。

 

ネガティブ・サイド

まず声を大にして言いたいのは、あんな漫画的な借金取りは存在しないし、存在してはならない、ということだ。というよりも普通に法律違反だ。Jovianは昔、信販会社にいたから分かる、というか誰でも知っていることだ。ちょっと見ただけでもドアの鍵を破壊する=器物損壊、関係のない住人宅に踏み込む=住居不法侵入、その他、恐喝、脅迫や大声で借金をしていることを周囲に知らしめてしまう、借金に全く関係ない高校生に支払いを促すような声かけなどなど、脚本家や監督、さらには原作者も何を考えているのか。『 闇金ウシジマくん 』ではないのだ。もちろん社会派の物語であるからには百歩譲ってこのような描写の数々を許容するにしても、その後に借金取りが人情味のある言葉を美苑にかけるシーンは必要か?散々に相手を痛めつけておきながら、ちょろっと優しさを見せるというのは、『 追想 』のレビューで指摘した「女をこれでもかといたぶったヤクザが、情感たっぷりに涙を流しながら「ごめん。ホンマにごめん。でも、お前のことを愛してるんやからこうなってしまうんや」という構図と本質的には同じである。映画の最後にでも、「借金の取り立てシーンは違法ですが、ドラマチックな演出のためのものです」という文言を入れておくべし。動物愛護の観点からの注意書き、但し書きはあるのだから、こうしたことももっとアピールをすべきだ。闇金の恐ろしさを過小評価したいのではない。闇金には関わってはいけないし、もしも闇金に関わってしまったら、ホワイト・ナイトを待って耐え忍ぶのではなく、適切に対処しなくてはならない。20万人の中高生が本作を観たとして、そのうち2,000にんぐらいが何らかの間違った理解をしてしまわないことを願う。

 

他に指摘しておくべき細かい点としては、タクシーを使えということ。最後くらいは呼び捨てをやめなさいということ。まあ、高校生というのは昔も今もこのようなものなのかもしれない。

 

総評

個人的思考および嗜好に合わない部分があることから辛めに点をつけたが、存外に見どころのある作品である。父と息子のペア、または母と娘のペアなどで鑑賞すれば、親子の対話を促進させる材料になるかもしれないし、日本社会の不都合な真実というか現実に対する関心も高められるかもしれない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ロマンティック・コメディ, 中川大志, 伊藤健太郎, 唐田えりか, 小池徹平, 日本, 監督:井口昇, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 覚悟はいいかそこの女子。』 -社会派要素を交えた異色ロマコメ-

『 走れ!T校バスケット部 』 -スポーツものとしても青春ものとしても中途半端-

Posted on 2018年11月6日2020年1月15日 by cool-jupiter

走れ!T校バスケット部 40点
2018年11月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:志尊淳 椎名桔平 佐野勇斗 早見あかり
監督:古澤健

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181106022011j:plain

監督が古澤健ということで不安はあった。この人はスリラーは作れても、漫画を映画化するとイマイチになってしまうからだ。では、実話ベースの映画作りはどうか。随所に光るものは見えたが、色々なものを追求しようとしたせいで、どれもこれも中途半端になってしまったような印象を強く持った。

 

あらすじ

子どもの頃からバスケが大好きだった田所陽一(志尊淳)は、母親を早くに亡くしたために父親(椎名桔平)と二人暮らし。特待生としてバスケ強豪校に入学したものの、ふとしたきっかけから陰湿ないじめの標的に。バスケを辞め、ただの高校・・・ではなく、多田野高校、通称T高に転校してきた。バスケはもうしないと誓っていた陽一だったが、自分に真摯に向き合ってくれる大人や級友たちのおかげでバスケを再開。しかし、そのことを父親にはなかなか打ち明けられず・・・

 

ポジティブ・サイド

もしもこれが少年漫画あるいは少女漫画なら、母親不在という設定は編集者によって強硬に反対されていただろう。息子という存在を際立たせる親は、何よりも母親だからだ。ごくごく最近の映画に限ってみても、『 ハナレイ・ベイ 』、『 エンジェル、見えない恋人 』、『 パーフェクトワールド 君といる奇跡 』など、息子に寄り添うのはたいてい母親だ。それは『 ビブリア古書堂の事件手帖 』にも共通していた。父親が息子に真剣に向き合う物語は、これまではありそうでなかなか作られてこなかったのではないか。本作の事情とは異なるが、日本の離婚率もまあまあの水準まで高まってきている。性差によって役割を固定せず、家庭内の仕事をするべき人間が行うということを明示してくれているのは非常に貴重なことであると思う。椎名桔平の演技および演出も良かった。佐々木蔵之介のテレビ映画『 その日のまえに 』で、酒の力を借りて子に語り掛けようとして、逆に一喝されてしまうというシーンがあった。父は息子相手に高圧的になっても、へりくだっても、ましてや真正面からではなく搦め手で攻めようなどとはかんがえてはならないのだ。そうした父と息子の厳しくも理想的な関係を本作は描き出す。この部分がしかし、本作のハイライトになってしまった。

 

ネガティブ・サイド

本作をどのジャンルに分類すべきかと尋ねられて、悩む人は多いだろう。ヒューマンドラマであり、スポ根物語であり、ビルドゥングスロマンであり、社会派でもあるからだ。しかし、タイトルにバスケット部とあるからにはスポーツものの要素が最も強いはずだし、実際にはバスケットボールをプレーしているシーンは、いくつか合成やCGがあったように見えたが、役者たちがかなり練習してきたことが見て取れた。それでも、いくつかのシーンには???となったことを覚えている。NBAは確かフリースローは10秒以内に放らないとバイオレーションとなるが、日本の高校の試合では何秒だ?また、フリースローはジャンプしながら放ってはならないはず・・・

 

終盤前にサプライズキャラが登場し、バスケに関するアドバイスをくれるシーンがあるが、これが全くもってちぐはぐだった。それは助言の内容ではなく、その助言が物語の展開や進行にまったく影響を及ぼさないことだ。陽一と他のチームメイトの間に実力的なギャップがある。それは分かっている。だからこそ、試合では仲間を活かそうとするよりも自分の力だけで決めに行くような決断も必要になる。一瞬の迷いが命取りになる。というアドバイスは、全く生かされなかった!白瑞高校を倒すために、非情とも言える個人技連発を予感させるような前振りをしながら、見事に伏線を回収せず。これはスポーツものでは決してない。そうそう、シュートの角度とスウィッシュの方向が一致しない描写もあった。左45度からシュートしたのに、ボールは右45度からスウィッシュしてくるとか、編集はいったい何をやっているのだ?

 

いまさら言っても詮無いことだが、T高の田所陽一にフォーカスするのではなく、日川高校の田中正幸にフォーカスするべきだった。もちろん、日大アメフト部の超悪質タックル問題を思わせるような描写もあり、時代の要請に上手く答えられている面もあったが、肝心の物語があまりにもテーマを拡散させすぎて、一貫性を欠いてしまっているという印象はどうしても否めない。実話ベースではなく、バスケ漫画を原作に映画を作るべきだったのではないか。まあ、この分野には『フライング☆ラビッツ』という珍作があるので、一定以上の水準ならどれでも良作に見えてしまうものだが。

 

最後に、志尊淳に英語くらいは喋らせよう。吉田羊に英語指導した先生を連れてきて猛特訓すれば、モーガンさんともっとスムーズにコミュニケーションが取れたはずだ。バスケの練習で忙しかったなどというのは言い訳だ。これからの世代の役者も、英語くらいある程度使えて当然にならなくてはならない。福士蒼汰が英検2級合格をネタに使うようでは、日本のエンターテイメント業界の先細りは見えている。

 

総評 

悪質ないじめ描写から、予定調和的なエンディングまで、最後まで観る者を引っ張る力はある。しかし、楽しませる力はない。特に細部のリアリティと全体像との整合性、一貫性にこだわるようなうるさい映画ファンには非常に物足りなく映ることであろう。椎名桔平ファンなら要チェックと言えるかもしれない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, 佐野勇斗, 志尊淳, 日本, 早見あかり, 椎名桔平, 監督:古澤健, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 走れ!T校バスケット部 』 -スポーツものとしても青春ものとしても中途半端-

投稿ナビゲーション

過去の投稿
新しい投稿

最近の投稿

  • 『 桐島です 』 -時代遅れの逃亡者-
  • 『 あの夏、僕たちが好きだったソナへ 』 -青春を追体験する物語-
  • 『 ジュラシック・ワールド/復活の大地 』 -単なる過去作の焼き直し-
  • 『 近畿地方のある場所について 』 -見るも無残な映画化-
  • 『 入国審査 』 -移住の勧め・・・?-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年8月
  • 2025年7月
  • 2025年6月
  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme