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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 サッドヒルを掘り返せ 』 -神話に迫る感動的ドキュメンタリー-

Posted on 2019年3月31日2020年3月23日 by cool-jupiter

サッドヒルを掘り返せ 80点
2019年3月28日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:セルジオ・レオーネ エンニオ・モリコーネ クリント・イーストウッド
監督:ギレルモ・デ・オリベイラ

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ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイアを追い求めて、ついに発見したシュリーマンの気持ちとはこのようなものだったのだろうか。それほどの圧倒的な感動をもたらすドキュメンタリー映画である。本作は映画という芸術媒体の持つ力、その物語性、神話性を追究しようとした野心作でもある。

あらすじ

『 続・夕陽のガンマン 』のクライマックスの決闘の場面となったサッドヒル墓地。撮影から50年になんなんとする時、地元スペインの有志がサッドヒル墓地の復元に乗り出した。彼らはやがてSocial Mediaを通じて、世界中からボランティアを募る。そしてサッドヒルを復元させ、そこでの『 続・夕陽のガンマン 』の上映会を企画する・・・

ポジティブ・サイド

映画製作にまつわるドキュメンタリー映画には、『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』がある。スター・ウォーズ製作者のジョージ・ルーカスとファンの対立、意見の相違に焦点を当てた傑作である。また『 すばらしき映画音楽たち 』も忘れてはならない。ジョン・ウィリアムズやハンス・ジマーといった錚々たる映画音楽家から近現代ロックスターと映画音楽の関わりまでもを描く大作だった。本作もこのような優れた先行ドキュメンタリー作品と同じく、様々な関係者や当事者の声を丁寧に拾い上げ、映画製作の裏のあれやこれやを観る者に教えてくれる。だが、この『 サッドヒルを掘り返せ 』がその他の映画製作ドキュメンタリーと一線を画すのは、ファン達が『 続・夕陽のガンマン 』を神話に類するものとして扱うところである。というと、「スター・ウォーズも充分に神話じゃないか」という声が聞こえてきそうだが、Jovianの意見ではスター・ウォースは「おとぎ話」である。おとぎ話は、当時および各地の社会・文化的な要請から民話に超自然的な要素が加えられたものだと理解してもらえればよい。もしくは、スター・ウォーズは昔話である、もしくはジョージ・ルーカスを作者にした童話と言っても良い。子育て経験のある人なら分かるだろう。子どもは同じ話を繰り返し繰り返し聞くのが好きなのだ。「おじいさんは川へ洗濯に・・・」と言えば、たいていの子どもは不機嫌になって訂正してくる。児童心理学にまで切り込む余裕はないが、新旧スター・ウォーズのファンの対立、旧世代のファンとジョージ・ルーカスの対立の背景にあるのは、童話や昔話への子どものリアクションと本質的には同じなのである。

しかし、本作のファンは子どもではない。彼ら彼女は皆、一人ひとりが、伝説になってしまった物語に確かに描かれた舞台装置を探し求めるという点において、シュリーマンなのだ。スペインの荒野にひっそりと佇立する無数の墓標。それらを復元することに血道を上げることに何の意味があるのか。意味などない。ただただ、その世界に触れたい。その世界に浸りたい。自分という存在を確かに形作ってくれたものを自分でも形作りたい。それは生命の在り方と不思議なフラクタルを為す。『 続・夕陽のガンマン 』は、そのストーリーやキャラクター、映像美やその音楽の圧倒的なインパクト故に、何かを足したり、もしくは引いたりする必要が一切ない。それは神話である。ディズニーが、機は熟したとばかりに、次から次へと昔話やおとぎ話を実写映画化しているが、そこには必ずと言っていいほど現代的な読み変えが行われている。それは『 くるみ割り人形と秘密の王国 』でも指摘したようなフェミニスト・セオリーであることが多い。物語をその都度、作り変えていくのはディズニーだけではない。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行ったことがある人もない人も、ユニバーサル・スタジオは元々はフランケンシュタインの怪物やドラキュラ、狼男、透明人間などのおとぎ話や昔話を現代風に作り変えてきたということは知っているだろう。USJはゴジラやドラクエやモンハンまで取り込んで、最早何が何だか分からないテーマパークになっている。ディズニーもテーマパークを持っている。しかし、本作に登場する市井の人々はサッドヒルのテーマパーク化を一切望まない。それは繰り返すが『 続・夕陽のガンマン 』が神話だからである。キリスト教徒が創世記を書き変えたいと思うだろうか。作中で、ブロンディ(および『 荒野の用心棒 』のジョーと『 夕陽のガンマン 』のモンコ)の身に着けていたポンチョが、トリノの聖骸布=The Shroud of Turinの如く扱われているというエピソードも、このことを裏付けている。この信仰にも近い彼ら彼女らの純粋な想い故に、スペインの大地に神が舞い降りる瞬間のエクスタシーは筆舌に尽くしがたいものがある。Jovianは、「人生で最高の10分間だった」と振り返るシーン、神が降臨するシーン、そしてエンドクレジットでそれぞれ大粒の涙を流してしまった。何がこれほど人の心を揺さぶるのか。それを是非、劇場でお確かめ頂きたいと思う。

ネガティブ・サイド

『 続・夕陽のガンマン 』の一瞬一瞬を切り取るだけで絵になるのだから、変に静止画をいじくって動かしたりする必要は無かった。

また、セルジオ・レオーネやエンニオ・モリコーネのインタビュー映像があるにもかかわらず、イーライ・ウォラックやリー・ヴァン・クリーフのそれが無いのは何故だ。無いはずがないだろう。それとも編集で泣く泣く削ったとでも言うのか。とうてい承服しがたいことだ。

総評

異色のドキュメンタリーである。インディ・ジョーンズに憧れて鞭を振るったり、ジェダイに憧れてチャンバラに興じるのではなく、ただただ墓地を復元したいという人々の物語が何故これほど観る者の心を激しく揺さぶるのか。きっとそれが生きるということだからだろう。Ars longa, vita brevis. 芸術は長く人生は短い。Art is never finished, only abandoned. レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉とされる。けれど、もしもうち捨てられた芸術の復活に関わることができれば、神話を追体験できるのだ。そのような人々の生き様をその目に焼き付けることができる映画ファンは、きっと果報者である。

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Posted in 映画, 海外Tagged :ギレルモ・デ・オリベイラ, 2010年代, A Rank, エンニオ・モリコーネ, クリント・イーストウッド, スペイン, セルジオ・レオーネ, ドキュメンタリー, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:ハークLeave a Comment on 『 サッドヒルを掘り返せ 』 -神話に迫る感動的ドキュメンタリー-

『 夕陽のガンマン 』 -マカロニ・ウェスタンの傑作-

Posted on 2019年3月25日2020年4月26日 by cool-jupiter

夕陽のガンマン 80点
2019年3月21日 レンタルDVD
出演:クリント・イーストウッド リー・ヴァン・クリーフ
監督:セルジオ・レオーネ

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クリント・イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフの立ち居振る舞い、会話、銃撃。もうこの二人の存在感だけで満足できる。小学3年生ぐらいの時に、やはり親父と一緒にVHSで観た記憶がある。その頃はストーリーがほとんど分かっていなかった。それでもイーストウッドが帽子を何度も何度も銃で弾き飛ばすシーンは強烈な印象を幼心に残した。

あらすじ

賞金稼ぎのモーティマー大佐(リー・ヴァン・クリーフ)と、同じく賞金稼ぎのモンコ(クリント・イーストウッド)は、協力して賞金首の集団、インディオ一味を一網打尽にし、賞金を山分けすることに同意する。インディオ一味を内部から撹乱するために、モンコは一味に加わるが・・・

ポジティブ・サイド

本作も『 荒野の用心棒 』と並ぶマカロニ・ウェスタンの傑作である。のみならず、映画的技法においても最高峰であろう。ナレーションもなく、不必要に説明的な台詞をだらだらと喋るキャラもいない。ほんのちょっとしたショットの構図、キャラの表情や動きで、背景にあるストーリーやキャラの思考や感情が伝わる。冒頭のリー・ヴァン・クリーフの登場シーンと決闘シーンは象徴的である。牧師にしては鋭すぎる眼光、歴戦の強者に特有の話しぶり、そして彼我の獲物の射程距離を完全に把握した上での、余裕のある決闘シーン。演技と映像による語り、ビジュアル・ストーリーテリングの教科書に絶対に記載されなくてはならない場面である。

エンニオ・モリコーネの音楽についても触れないわけにはいかない。『 荒野の用心棒 』と同じく、乾いた大地と奥行きのある空を想起させるメロディラインに、火薬と血の臭いを感じさせる低音ヴォーカル、そして孤高の賞金稼ぎのシルエットをまぶたの裏に否応なく浮かび上がらせてくる口笛の旋律。エンニオ・モリコーネは、ジョン・ウィリアムズやハンス・ジマーに肩を並べる作曲家と評しても異論は出ないだろう。邦画の世界における伊福部昭か、それとも武満徹にも例えられるべき存在である。

クライマックスの決闘シーンのオルゴールの音色は永遠にも感じられる。この音楽が鳴りやんで欲しくない、と強く願ったが、それは『 ボヘミアン・ラプソディ 』における“We are the champions”について感じた気持ちと全く同質のものだった。これが鳴り終われば、この男の命の火が消えてしまう、という。

クリント・イーストウッドの変わらぬ存在感と、リー・ヴァン・クリーフの、ある意味での主役以上の存在感が、本作を傑作にしている。劇画『 ゴルゴ13 』の中には、プロがプロに依頼をする、またはプロがプロと共闘する話があるが、そうしたエピソードの源泉は本作にあったとしても不思議ではない。いや、本作のように銃で会話をするという技法を、漫画原作のなんちゃってコメディ映画の『 ルパン三世 』(監督:北村龍平 主演:小栗旬)が取り入れている(ルパンが五右衛門の銃を撃つシーン)ということが、本作が世界中の映画製作者に有形無形の巨大な影響を及ぼした証左ではあるまいか。一言、Timeless Classicである。

ネガティブ・サイド

モーティマーがインディオ一味を追う動機がなかなか明かされないことで、物語のトーンが安定しない。具体的には、この男が敵なのか味方なのか、観ている側が疑心暗鬼になってしまう。Jovianは彼の登場の仕方、その目つき、顔つきからして、「ははあ、こいつが今作のイーストウッドの敵役だな」と早合点してしまった。

銃撃によるコミュニケーションは痺れるほどにクールだが、果実を取ろうとする少年を助けるために、あそこまで撃ちまくる必要はあるのか。ちょっと手元が狂った、または少年が思わぬ動きをしてしまえば、過失致死傷害罪で自分が賞金首になってしまうだろう。

また、名シーンであるはずの帽子を撃ち続けるシーンを経ても、帽子にキズひとつ、穴ひとつ見当たらないのはどういうわけなのだ。小学生の時から持ち続けていた鮮烈な記憶が、少し怪我されてしまったようにすら感じた。血を一滴も流さない死体なども、せっかくのテーマ音楽のノイズになってしまっている。

総評

弱点は抱えていても、それを上回る面白さがある。また、西部劇という枠だけに括られない、バディムービーであり、ロードムービーでもある。クリント・イーストウッドの渋すぎる演技とリー・ヴァン・クリーフの存在感、モリコーネの音楽とレオーネによる監督術の全てが高次元で融合した傑作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1960年代, A Rank, イタリア, クリント・イーストウッド, リー・ヴァン・クリーフ, 監督:セルジオ・レオーネ, 西部劇, 配給会社:UALeave a Comment on 『 夕陽のガンマン 』 -マカロニ・ウェスタンの傑作-

『 翔んで埼玉 』 -私的2019年度日本アカデミー賞作品賞決定!-

Posted on 2019年3月11日2020年1月10日 by cool-jupiter

翔んで埼玉 80点
2019年3月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:GACKT 二階堂ふみ
監督:武内英樹

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漫画『 パタリロ! 』の魔夜峰央が原作で、漫画『 テルマエ・ロマエ 』の映画化を成功させた武内英樹が、これまた見事な映画を世に送り出してきた。私的2019年度日本アカデミー賞作品賞受賞作は、これでほぼ決まりである。面白さだけではなく、映画的な技法の面でも非常にハイレベルなものがある。それほどの会心の傑作である。

あらすじ

かつての武蔵国から東京と神奈川が独立、その余り物で構成された埼玉県人は、通行手形なしには東京に入ることもできないという迫害を受けていた。そんな時に、東京都知事の息子の壇ノ浦百美(二階堂ふみ)の属する高校に、アメリカから謎の転校生、麻実麗(GACKT)が転校してくる。始めは反目しあうものの、麗の都会指数の高さに徐々に魅せられた百美は、麗との距離を縮める。しかし、麗が卑しい埼玉の出であることを知った百美は東京と埼玉の間で引き裂かれるような思いに・・・

ポジティブ・サイド

『 テルマエ・ロマエ 』にも共通することだが、ギャグ漫画を映画化しようとするならば、製作者は至って真面目にならなければならない。阿部寛演じるルシウスが現代日本の温泉テクノロジーやデザインに度肝を抜かれる様が面白いのは、その姿に我々がギャップを感じるからだ。ギャップとは認識のズレのことで、このズレ具合が笑いを呼び起こす力になる。駄洒落が好例だろう。

「隣の家に囲いができるんだってねえ」

「へえ、かっこいい!」

というのは、へえ=塀、かっこいい=囲い、という駄洒落になっている。同じものでありながら、それを捉える時の認識の違いが面白さの源泉である(上の例が面白いかどうかはさておき)。本作の面白さは、第一に役者陣の大真面目な演技(≠素晴らしい演技)から生まれている。真面目にアホなことを語り、真面目にアホな行動を取る。特に百美が麗に完敗を喫する某テストは、その好個の一例である。学校という舞台で序列が決まるのは、往々にしてこのような出来事なのだが、本作はそれをギャグという形であまりにも端的に描いてしまった。この学校という舞台装置が曲者で、ここの生徒たちは誰もかれもが劇団四季のオーディションもかくや、と思わせるほどに大仰な演技および発声をする。詳しくは後述するが、それは東京都、特に山手線内部に象徴される、いわゆる「東京」という空間の虚飾性および虚構性とパラレリズムを為している。東京の富、およびそれを生み出す生産力、労働力は一体どこから供給されているのか。それは埼玉であり、千葉である。東京という中心の繁栄は、周辺の協力なしには絶対に実現しないのである。百美が父から離反し、麗のもとに走ることを決断したのは、この「経済学的に不都合な真実」を知ったからである。

埼玉や千葉の人間が東京に対して潜在的にどのように感じているかについては『 ここは退屈迎えに来て 』のレビューで指摘したことがある。本作の面白さの第二は、まさにこのような彼ら彼女らの意識が、極端なまでに肥大化された形で表現されているところだろう。本作に描かれる埼玉は、一漫画家の想像や妄想の産物ではない。彼が観察した埼玉県人に共通する、普遍的な埼玉県人性とでも呼ぶべき性質を、とことんリアルにパロディ化したものなのである。だからこそ本作は埼玉県で驚異的なヒットになっているのであろう。これは差別の逆構造である。『 グリーンブック 』のレビューで「差別とは、その人の属性ではないものを押しつけること」と定義付けさせてもらったが、この映画は埼玉についてのネタ的なあれやこれやを執拗に描写する。これはレッテル貼りではない。逆に、自己の再発見、再認識になっている。劇中での埼玉ディスのピークは、「ダサいたま、臭いたま・・・」とエンドレスで続く駄洒落であろう。驚くべきことに、これが Motivational Speech として抜群の効果を持つのである。なぜなら、外部からそのような属性を押しつけられれば、それはすなわち差別であるが、こうした属性を自分で自分に付与していく、そして自分にそのような属性が備わっていると知ったことで、それを乗り越えようとする意志が観る者の胸を打つ。これはJovianがヒョーゴスラビア連邦共和国の住人だからなのだろうか。

本作の面白さの第三は、語りの構造のギャップにある。百美と麗の物語は、都市伝説という形でラジオ放送されている。それが、劇中のキャラクター達とそれを車中で聞くとある家族という、もう一つのパラレリズムを形成している。我々は百美と麗の物語にいちいち反応するキャラクター達を見て、無邪気に笑う。しかし、映画は最終盤で一挙に我々の生きる現実世界を飲み込んでしまう。この物語の構造と展開には唸らされた。映画を観ている我々は、実はもっと高次の存在に見られていたのか。まるで『フェッセンデンの宇宙 』のようだ。散々笑った後に、思い返してちょっぴり怖くなる。それが現実を鋭く抉る批評的映画としての本作の素晴らしさである。

エンドクレジットでも絶対に席を立ってはならない。はなわの歌に耳を傾けながら、この作品を世に送り出したスタッフの一人ひとりに感謝の念を捧げ、精一杯の敬意を表そうではないか。

ネガティブ・サイド

東京都庁の攻囲戦がやや間延びしていた。また、このパートのみアクションが真面目で、もっと振り切ったバトルシーンを観てみたかった。また、埼玉vs千葉の、それぞれ輩出した有名人合戦は、もう何名か繰り出せたはずだ。編集で泣く泣くカットしたのだろうか。

もう一つだけ気になったのは、Jovian本人は本作を観ながら、そこかしこで笑いをこらえるのに必死になったが、生粋の大阪人である嫁さんは「さっぱり意味が分からない」という態であったことだ。これはJovianが東京都在住10年半の経験を持っていて、嫁さんは生まれも育ちも全部大阪だからという背景の違いのせいでもあるだろう。しかし、それ以上に大阪という、東京には遥かに及ばないものの、それでも強力な重力を有する土地に生まれ育った者には、マージナルマンのパトスは理解できないという民俗学的、文化人類学的な理由もあるだろう。ぶっちゃけて言えば、生まれも育ちも東京(≠東京都)です、というハイソな人、あるいは児童相談所の建設に頑なに反対する、一部の南青山の住人などには、刺さるものが無いのではないか。充分に現実を批評する力を持った作品だが、もっと東京を刺すような演出があれば85点~90点もありえたかもしれない。それだけがまことに悔やまれる。惜しい。

総評

2019年もわずか3カ月しか経過していないが、本作は年間最高傑作候補間違いなしである。エンターテイメント性とメッセージ性を併せ持つ、近年の邦画では稀有な作品に仕上がっている。カジュアルな映画ファンから、ディープな映画ファンまで、幅広い層を満足させうる傑作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, GACKT, コメディ, 二階堂ふみ, 日本, 監督:武内英樹, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 翔んで埼玉 』 -私的2019年度日本アカデミー賞作品賞決定!-

『 ダンガル きっと、つよくなる 』 -インド版アニマル浜口奮闘記-

Posted on 2019年3月6日2020年1月3日 by cool-jupiter

ダンガル きっと、つよくなる 80点
2019年2月27日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:アーミル・カーン ファーティマー・サナー ザイラー・ワシーム
監督:ニテーシュ・ティワーリー

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ダンガルというのはレスリングという意味のようだ。そしてアニマル浜口というのは比喩である。アーミル・カーン演じるマハヴィルは娘の教育と訓練に関してはアニマル浜口並みにクレイジーであると言えるが、その他の面では似ても似つかない。良いとか悪いとかではなく、あくまで比喩として彼の名前を挙げていることを了承されたい。

あらすじ

国の代表にまで上り詰めながら、夢を果たせなかったレスラーのマハヴィル(アーミル・カーン)は、まだ見ぬ息子にその夢を託したいと思うようになる。しかし、生まれてくれるのはギータ(ファーティマー・サナー)、バビータなど女の子ばかり。だが、マハヴィルは気付いた。彼女たちには並々ならぬレスリングの才能があることに。マハヴィルは村の皆からの嘲笑や偏見に負けることなく、娘たちを鍛え上げようとするが・・・

ポジティブ・サイド

まず、アミール・カーンの体作りに脱帽する。鈴木亮平からマシュー・マコノヒー、クリスチャン・ベールに至るまで、役者というのは役に合わせてある程度の体作りをするものである。しかし、アミール・カーンの磨き上げられた筋肉美を堪能できるのは冒頭の5分で終わりである。肉襦袢ではなく、自らの体で望んだカーンに敬意を表する。通常は、例えばロッキー映画恒例のトレーニングシーンのモンタージュを作るため、役者はハードなトレーニングを積む。『 ロッキー4 炎の友情 』でスタローンが垂直腹筋やドラゴンフラッグをしていたのは、その典型である。そうした意味での称賛はギータを演じたファーティマ-・サナーに向けられるべきであろう。アカデミーでトレーニングに励み、実戦に臨む彼女こそがロッキーである。カーンは数分(実際の撮影はもっと長かったはずだ)のシーンのために体を作り、その後は中年太りした体を作る。デ・ニーロのような役者は世界中にいるのである。

日本でレスリングと言えば、女子が花形である。吉田沙保里や伊調馨らの名前を知らない者はいないだろう。しかし舞台はインドである。『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』で知らされたように、そして近年でも「このようなニュース」が報じられるように、女性の生理現象に対して根強い偏見が残る国なのである。そのような国の、さらに辺境の村で幼い娘たちにレスリングを仕込み、肉食をさせ(これに対する拒否反応は『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でも見られる)、男だらけの村のレスリング大会にエントリーもさせる。もちろん、娘たちは反抗するわけだが、『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』のようなほのぼのさなので、安心して見ていることができる。

本作はただのレスリング映画ではなく、家族の再生物語でもある。父と娘の精神的に健全な、そして不健全な別離、さらに親子の和解の物語でもある。そしてそれはギータとバビータの姉妹の成長物語でもあるのだ。父と袂を分かつ姉、父と共にあり続ける妹、彼女たちの対立と融和は、陳腐ではあるが、それゆえに見る者の胸を打つ。このあたりは『 チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話 』にも通じる。勝利と栄光への道程、それが泥臭いほどに放たれる輝きはより強くなる。

ネガティブ・サイド

クライマックスにおいて、恐るべき人間の悪意を見せつけられる。これは史実ではないのだろうが、物語をよりドラマチックにするものとして作用していなかった。『 きっと、うまくいく 』における学長には人間性が付与されていたが、本作のNASのコーチには嫌悪感しか抱けない。この演出は失敗であった。

これは『 100円の恋 』でも感じたことだが、格闘技の試合のフィニッシュ・シーンにデ・パルマ的なスローモーションは既にクリシェである。『 クリード 炎の宿敵 』の決着シーンにはスローモーションは使われなかった。もっと別の見せ方を追求できたはずである。

総評

弱点を抱えるものの、本作は傑作である。レスリングの知識や素養がなくても分かるように作られているし、それを実に自然に見せる役者たちの見えない努力に思いを馳せれば、称賛以外に何もできなくなる。やはりインド映画に外れはないようである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミル・カーン, インド, ザイラー・ワシーム, ヒューマンドラマ, ファーティマ-・サナー, 監督:ニテーシュ・ティワーリー, 配給会社:ギャガ, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ダンガル きっと、つよくなる 』 -インド版アニマル浜口奮闘記-

『 きっと、うまくいく 』 -あまりにもチープすぎて逆に感動する友情物語-

Posted on 2019年2月24日2019年12月23日 by cool-jupiter

きっと、うまくいく 80点
2019年2月14日 レンタルDVD鑑賞
出演:アーミル・カーン R・マーダバン シャルマン・ジョーシー カリーナ・カプール 
監督:ラージクマール・ヒラーニ

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アーミル・カーンと聞くと、パキスタン系英国人ボクサーのアミール・カーンを思い起こすのはJovianがボクシングファンだからだろうか。近所のTSUTAYAでずっと気になっていた作品で、最近のインド映画のクオリティの高さから、ついつい手にとってしまった。インド映画にはずれなし!そう力強く断言してしまいたくなるほどの良作であった。

 

あらすじ

インド最高峰の大学ICE。そこに入学する自由人にして発明家のランチョー(アーミル・カーン)、実はエンジニアよりも動物写真家になりたいファラン(R・マーダバン)、科学よりも信仰のラージュー(シャルマン・ジョーシー)の三馬鹿トリオのハチャメチャな大学生活を送っていた。しかし、卒業後にランチョーは行方をくらませる。かつての旧友らと共に、ファランとラージューはランチョーを探す旅に出る・・・

 

ポジティブ・サイド

Interval後の20分程度で、映画に慣れている人ならかなりの程度まで筋書きが読めてしまうだろう。しかし、これは脚本のレベルが低いからというわけではない。逆に、懇切丁寧に作り込まれた脚本を忠実にスクリーン上で再現しているからこそ可能なことだ。消えたランチョーを探し求める旅というロードムービー兼ミステリの要素が強いが、本作は何よりもヒューマンドラマである。そしてビルドゥングスロマンでもある。そして極めて映画的な技法が駆使されている。映画的な技法とは、映像を以って語らしめるということだ。登場人物たちの心情の変化や葛藤、人間的成長と根源的に変わっていないところが、台詞ではなく動き、立ち居振る舞い、口調などで伝えられる。人間の成長とは、時に環境の変化に適応して生き抜くことであったり、逆にそうした変化においても自分の核の部分だけは決して変えることなく自分のままであり続けることでもあるということを、本作は全編を通じて高らかに宣言する。原題の“3 idiots”=三馬鹿は、自分の心の中の大切なものを決して見失わない。それがもたらすカタルシスは圧巻である。

 

本作はまた学園ものとしての性格も有している。そして、悲しいかな、そこでは闘うべき相手、倒すべき敵として認識させられてしまう人間もいる。つまりはヴィールー学長である。しかし、彼は決して『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のトラスク校長のようなキャラクターではない。なぜなら、彼には過去があり、家族があり、信念があるからだ。三馬鹿と学長の対立は、時に『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』のようなユーモラスなものでもあるが、その根底には教育に対する価値観の差違が存在する。これらの教育論的哲学に対する前振り、伏線もしっかりと回収されるところが素晴らしい。

 

キャラクターたちが学生であるということ単なる味付けに終わらないところも良い。日本映画でもハリウッド映画でも、結構な割合で「お前が学生であることは分かった。で、何を学んでいるんだ?」と言いたくなる作品がある。本作はそんな皮相的なキャラを扱う作品をせせら笑うかのように、工科大学の学生の活躍を存分に描いてくれる。魚の骨をいじくるだけの冒頭5分で学生としての属性を描くのを止めてしまった『 アヤメくんののんびり肉食日誌 』というキング・オブ・クソ映画を思い出してしまった。とにかく、本作に出てくる学生たちは生き生きとしている。それは、彼らが自分の本領を発揮しているからである。生きているという実感がそこにあるのである。彼らの ingenuity が一挙に爆発する終盤の事件は感動的である。

 

その感動をさらに上回るクライマックスは圧倒的ですらある。その映像美と構図、旧友との再会という点で『 ショーシャンクの空に 』とそっくりであるが、エンディングシーンの美しさにおいて、本作はショーシャンクに優るとも劣らない。インド映画の白眉にしてヒューマンドラマの一つの到達点である。

 

ネガティブ・サイド

途中で非常に悲惨な事件が発生する。もちろん、これが起きることで中盤の事件に深みが与えられるのだが、何か別の回避方法、または見せ方はなかったのだろうか。極端なことを言えば、ここで観るのを辞めてしまう人がいてもおかしくない。それぐらい衝撃的なことである。

 

もう一つだけ大きな弱点を挙げるならば、カリーナ・カプール演じるピアだろうか。彼女自身のキャラクターや演技力には文句は無い。それがインド的な価値観や社会制度なのだと言ってしまえばそれまでなのだろうが、あのようなクソ男と交際し、婚約するということにもう少しだけでも抵抗を見せてくれてもよかったのではないか。

 

総評

個人的に気になる点はいくつかあったものの、観る人によっては全く気にならない点であるだろう。しかし、本作のポジティブ要素は万人の胸に突き刺さるに違いないと確信できるものがある。それほどに優れた作品である。3時間近い大作であるが、レンタルや配信であれば、適宜にトイレ休憩も取れる。高校生以上であれば充分に理解できる内容だし、中年サラリーマンにとっては、若さの泉=fountain of youthたりうる、つまり草臥れてしまった時に見返してはパワーを補充できるような作品に仕上がっている。つまりは、万人に向けてお勧めできる傑作であるということである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, R・マーダバン, アーミル・カーン, インド, カリーナ・カプール, シャルマン・ジョーシー, ヒューマンドラマ, 監督:ラージクマール・ヒラーニLeave a Comment on 『 きっと、うまくいく 』 -あまりにもチープすぎて逆に感動する友情物語-

『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -二度目の胸アツ応援上映参戦-

Posted on 2019年2月22日2019年12月23日 by cool-jupiter

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また行ってしまった。本当は梅田の東宝シネマに行きたかったが、ほとんど満席だった。無理してそちらにいくべきだったか。

感想としては、伊丹の東宝シネマもMOVIXあまがさき同様、盛り上がりはいま一つであった。客の入りは1割にも満たなかったか。もしも、この夜の「エーーーーーーーーーーーーーオ!!」の間の ーーーーーー (映画でもここは聴衆のウェーブを上空から映すショットに切り替わるため、音が一瞬小さくなる)を劇場で聞いた、と言う人がいれば、それはJovianの声であったはずだ。そうそう、お一人、Radio Ga Ga の時に、右腕を大きく突き出す御仁がおられた。梅田なら、または東京の劇場なら、もっとノリノリの人が多くいるのだろうか。

以下は雑感。

監督のブライアン・シンガーのスキャンダルがアカデミー賞にどう影響を及ぼすのかは、神ならぬ身には分からない。しかし、新井浩文が逮捕され、事務所も解雇され、地検に起訴されたというニュースを聞いて、改めて彼の出演作がお蔵入りになってしまったことが残念だ。何が残念かと言えば、新井その人のキャリアではない。その映画の製作に関わった多種多様な人々の努力と労力が適切な評価を受ける機を逸したのが悔やまれる。『 空飛ぶタイヤ 』でも危惧したことだが、映画を作るのに携わった多くの人、そしてその映画の公開を待つさらに多くの人を裏切るようなことは誰にもしてほしくない。『 ゲティ家の身代金 』のように、ケビン・スペイシーが盛大にやらかしてくれたおかげで失われかけたものを、クリストファー・プラマーとリドリー・スコットが莫大なカネとほんのわずかな時間で取り戻してくれたのは奇跡だったのだ。

作品と作者の関係をアカデミーの面々、そして多くの映画ファンがどう判断し、どう評価するのかは分からない。しかし、本作が傑作であるという自身の判断は変えたくないし、変えようとも思わない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ラミ・マレック, 伝記, 監督:ブライアン・シンガー, 配給会社:20世紀フォックス映画, 音楽Leave a Comment on 『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -二度目の胸アツ応援上映参戦-

『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』 -インド発ロードムービーの傑作-

Posted on 2019年2月1日2019年12月21日 by cool-jupiter

バジュランギおじさんと、小さな迷子 80点
2019年1月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:サルマーン・カーン ハルシャーリー・マルホートラ
監督:カビール・カーン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190201102653j:plain

今年の初めにパンフレットを見た時に「おー、ジョン・ハムがインド映画に出るのか」と思ったのを覚えている。実際は全く別の役者さんだが、そのように見えてしまった映画ファンは全世界で数千人はいたのではないだろうか。

 

あらすじ

パキスタンの山奥で暮らす娘シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は口がきけない。お祈りのために訪れたインドで不運にも迷子になってしまう。そこでパワン、通称バジュランギ(サルマーン・カーン)と出会う。バジュランギは熱心なヒンドゥー教徒で、学歴は無いが素直で誠実で無邪気な男だった。彼はこの娘をムンニーと呼び、ビザもバスポートも無しにパキスタンに彼女を送り届けようと決意するのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 バーフバリ 』二部作、そして『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』に続くインド映画の傑作がまたも現れた。と思ったら、現地での公開は2015年だったとのこと。『 ウィッチ 』のように2年経ってから公開されるケースはあるが、4年ものスパンを空けてというのはかなり珍しいのではないか。それだけ、今このタイミングで、日本で劇場公開する意義を配給会社が認めたということなのだろう。

 

何よりも、シャヒーダーがあまりにも可愛い。このような純粋無垢な少女を前に、大人はあまりにも無力である。つまりはベイビネスである。実際は6歳ぐらいなので、シャヒーダーをベイビーであると看做すの無理がある。しかし、シャヒーダーの口がきけないという特徴が、彼女を赤ん坊的な存在に留める大きな役割を果たしている。赤ん坊の特徴はその無垢さ、タブララサ tabula rasa であることが挙げられる。赤ん坊は白紙なのだ。シャヒーダーは白紙の存在ではない。彼女はパキスタン人であり、ムスリムであり、クリケット好きである。しかし、周囲のインド人の目には、そうした属性が可視化されていない。つまり、彼女は彼女の最も純粋な部分、つまりは人間としての部分が扱われる。彼女が肉を食べ、イスラム教のモスクに入り、クリケットのパキスタン代表チームを応援することで、周囲の人間は彼女を異物であると認識するようになる。非常に悲しいことではあるが、日本人の中には、コンビニ店員がベトナム人、中国人、韓国人、フィリピン人であるというだけのことで、非常に居丈高になり、時には高圧的、攻撃的にさえなる者が存在する。人間には様々な違いがあるものだが、そうした違いのいくつかは非常に皮相的で、自分では決定的だと思っていた差違も、実は自分の心が作り出していた幻想に過ぎないということを、本作はある意味では非常にあっけらかんと明かしてしまった。インドとパキスタンの歴史は、西ドイツと東ドイツ、北朝鮮と韓国のようには、なかなか理解はできない。なぜなら前者の差違は宗教的なもの、つまりは心の問題であって、後者の差違は社会システム、つまりは制度的なものであるからだ。シャヒーダー、いやムンニーと旅するバジュランギは、自分がどれほど狭隘な精神世界に住んでいたのかを、旅の中で認識するようになる。彼がモスクの中でムンニーを見つめるシーンは、終盤で非常に鮮やかなコントラストを生み出す。これには唸らされた。信じる対象は異なっても、信じるという心の営みそのものには何らの違いもなく、等しく尊重されるべき心の在り様であるということを、本作は観る者に提示する。ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思う。

 

本作はさらにもう一歩踏み込んで、梅田望夫が言うところの「不特定多数無限大への信頼」を体現するプロットも組み込まれている。ネットの世界には技術的には国境は無く、マスコミと同程度、時にはそれ以上の信頼をミニコミが生み出すことさえある。そうした、非常に現代的な世界の在り方を本作はリアリスティックに映し出す。傑作インド映画『 ボンベイ 』で描かれたような、圧倒的な憎悪と暴力が発露される場面があるが、その同じ力が負ではなく正の方向に作用する時、観る者に圧倒的な感動をもたらしてくれる。事実、シネ・リーブル梅田は『 カメラを止めるな! 』以来の満席であったが、クライマックスでは劇場内のそこかしこからすすり泣きの声が聞こえてきた。インド映画、そしてインドという国に対する見方を我々はアップデートしなければならない時期に差し掛かっている。

 

そうそう、主演のサルマーン・カーンのフィルモグラフィーを事前にチェックしておくと、劇中でクスリとさせられること請け合いである。興味のある方はお試しあれ。

 

ネガティブ・サイド

最後の最後のショットがやや腑に落ちない。そこに至るまでは非常にハイレベルにまとめられていたのに、あのような構図にする必要があったのだろうか。端的に言えば、この美しい映画の物語の余韻を少し壊すようにすら感じられた。

 

また、一部で露骨に『 ビバリーヒルズ・コップ 』をパクった、またはパロったシーンがあるが、こうした場面でこそ本作のオリジナリティを発揮して欲しかったと願う。

 

総評

『 search サーチ 』の監督アニーシュ・チャガンティの活躍にも見られるように、インド映画、およびインド系の映画人は今後ますます活躍していくものと予想される。そうした大きな流れの端緒の一つとして、本作は記録され、記憶されるだろう。傑作であると断言する。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, インド, サルマーン・カーン, ハルシャーリー・マルホートラ, ヒューマンドラマ, 監督:カビール・カーン, 配給会社:SPACEBOXLeave a Comment on 『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』 -インド発ロードムービーの傑作-

『 クリード 炎の宿敵 』 -家族の離散と再生の輪廻にして傑作ボクシングドラマ-

Posted on 2019年1月18日2019年12月21日 by cool-jupiter

クリード 炎の宿敵 85点
2019年1月12日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:マイケル・B・ジョーダン シルベスター・スタローン テッサ・トンプソン ドルフ・ラングレン フロリアン・“ビッグ・ナスティ”・ムンテアヌ
監督:スティーブン・ケイプル・Jr.

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『 クリード チャンプを継ぐ男 』には、まだまだ追求すべきサブプロットがあった。アドニスのキャリアのその後はもちろん、ロッキーのホジキンリンパ腫、ビアンカのキャリアと聴力の問題、独りになってしまったメアリー・アンなどなど。それらを描きつつも、トレーラーが明かしたある名前に、ファンは騒然となった。運命の決着はいかに。

 

あらすじ

世界タイトルマッチの惜敗から、6連勝で世界ランクを駆け上がったアドニス(マイケル・B・ジョーダン)はついに世界ヘビー級タイトルを獲得する。その勢いのままにビアンカ(テッサ・トンプソン)にプロポーズ。ビアンカもほどなく妊娠し、アドニスは幸せそのものだった。しかし、そこに父アポロの怨敵、イヴァン・ドラゴ(ドルフ・ラングレン)の息子、ヴィクター(フロリアン・“ビッグ・ナスティ”・ムンテアヌ)が現れ、アドニスに挑戦を表明する。勝負を受けるべきでないと判断するロッキー(シルベスター・スタローン)からアドニスは離反、ヴィクターとの対決に臨むも・・・

 

ポジティブ・サイド

毎度のことではあるが、ボクシング映画に出演してボクサー役を演じる役者には敬服するしかない。体作りやボクシング的なムーブの習得は生半可な努力では不可能だからだ。わけても本シリーズは、ボクシングのリアリティを特に強く追求する。それは実際にパンチを当てるからではない。ボクサーのメンタリティをよくよく表現しているからだ。そこに、家族を持たなかったアドニスが、家族を得て、そして自分が決して知ることがなかった父という存在に、自分が成ろうとするドラマが織り込まれる。そしてそれは、ロッキーにも当てはまることだ。偉大すぎる父を持つ息子は、反発してカナダに移り住んだ。息子がいながらも、息子に対して上手く接することができないロッキー。父がいないながらも、その父の影を追うアドニス。この父と子の関係に、ドラゴ親子のドラマが重層的に折り重なって来る本作は、ボクシング映画にしてヒューマンドラマでもある。その両者の融合にして極致でもある。『 エイリアン 』がSFとホラーの両ジャンルで頂点を極める作品であるように、本作もマルチ・ジャンルの作品として、一つの到達点に達していると称えたい。

 

冒頭でいきなりWBC世界ヘビー級タイトルマッチに挑むアドニスにクエスチョン・マークが浮かんだファンも多いだろう。前作ではライト・ヘビー級ではなかったか、と。しかし、HBOの実況に前作から引き続きマックス・ケラーマンとジム・ランプリーが登場、そして字幕や画面には出てこなかったが、コメンテーターとしてロイ・ジョーンズ・Jrを迎えていたことに思わずニヤリ。ライト・ヘビー級からヘビー級に“飛び級”して王座を獲得した実在のボクサーをリングサイドに置くことによって、アドニスの体重増と階級アップを説明しようというわけだ。ボクシングファンに向けたファンサービスであると同時に高度なアリバイ作りというわけで、再度ニヤリ。

 

それにしてもマイケル・B・ジョーダンの演技とボクシングは素晴らしいの一語に尽きる。メディアを前にしてのオープン・ワークアウトでは圧巻のミット打ちを披露するが、このわずか十数秒のために、何十時間、いや百数十時間は費やしてきたのではないか。それは本シリーズのみならず、すべてのボクシング映画出演者にも言えることだが、スタローンや『 サウスポー 』のジェイク・ジレンホールを超えたと評しても良いように思う。ボクサーの苦悩、それは打ちのめされての敗北にあるのではない。その姿を誰がどう見るのか。それが問題なのだ。苦労人・西岡利晃は世界王座防衛の旅に、娘をリングに上げていた。つまり、西岡は自らの雄姿を娘に見せたかったのだろう。では、アドニスは自分の雄姿を誰に見せたかったのか。そして誰に見せられなかったのか。前作のクライマックスで彼は父アポロの姿を想起することでダウンから立ちあがった。今作で彼が絶体絶命のピンチで想起するのは誰なのか。彼が体感した世界とは何だったのか。Jovianはそのシーンで鳥肌が立った。あまりにも的確で、なおかつそれがあまりにもドラマチックで、あまりにもシネマティックでもあったからだ。スティーブン・ケイプル・Jrという新人監督の力量は見事である。ほぼ新人だったライアン・クーグラーを見出したのと同様に、スタローンはこの偉才をどうやって見出したのか。その眼力の確かさには御見逸れしましたと言うしかない。

 

本作が単なるスポーツもの、ボクシングものに留まらないのは、アドニスとロッキーの関係以上に、イヴァン・ドラゴとヴィクター・ドラゴの親子関係に依るところが大きい。あまり細かく述べるとネタばれになるのだが、あの亀田親子を思い出せば分かりやすいのではないか。ボクシングによって挫折を味わった父(亀田父はそもそもプロになれなかったが)が、自らの息子にボクシングを叩き込む。そこに母親の姿は無い。しかし、その母親(ブリジット・ニールセン)が帰って来た。まるで『 レッド・ドラゴン 』で蘇った(という表現は正しくないが)チルトン博士と再会した時のような気持ちになれた。『 ビバリーヒルズ・コップ2 』以来だったか。スタローン・・・ではなく、ドルフ・ラングレンの妻役として華麗にリターンして、息子の心をかき乱す。ドラゴ親子のひたすらに内向きな関係性は亀田親子のそれとよく似ている。亀田史郎は対内藤大助戦で大毅に反則指示を行ったが、イヴァンはヴィクターにどんな指示を送ったか。そこを見て欲しい。そこにイヴァンと亀田史郎の共通点があり、その後の対応に彼らの決定的な相違が現れる。これ以外に納得のいく決着の方法は無かったであろう。

 

ネガティブ・サイド

意外なことにクライマックスを欠点に挙げたい。というのも、ここだけは誰が監督でもこうなるだろうと思える出来だったからだ。ケイプル監督が“Gonna Fly Now” を使ってのビジョンを描いていたのは間違いない。誰でもそうする。Jovianが監督したとしても間違いなくそうする。悔しいのは、それでも心動かされてしまったことだ。本作はアドニスが父を追い、父と重なり、そして文学的な意味での父殺しを果たす物語でもあるのだ。ロッキー映画の公式をぶち壊すぐらいのことをしてほしかった。それほど、陳腐にして完成度の高いクライマックスだった。おそらく、これ以上の物語は必要ない。続編を作るとすれば、それはスタローンの晩節を汚し、マイケル・B・ジョーダンのキャリアの汚点となるようなものになるだろう。

 

もう一つだけ弱点を挙げれば、ニューメキシコのロードワークのシーンが弱い。照りつける太陽、吹きすさぶ砂嵐、飢え、渇き、敗北のビジョン、そうしたものをモンタージュ的にもっと効果的に見せられなかっただろうか。『 ロッキー4 炎の友情 』の、雪原でのロッキーのトレーニングと対象的なところを見せたいという意図があったのだろうが、そこのところの描写に説得力が欠けていたように感じた。

 

総評

大小いろいろと欠点はあるものの、それは観る者が何を期待しているかによる。一つ言えるのは、これにてロッキー、そしてアドニスの物語は終わりであるということ。続編を作ってはならない。『 ロッキー5 最後のドラマ 』は毀誉褒貶の激しい作品だが、個人的には蛇足にして駄作だったと思っている。あれをリメイクする必要はどこにもない。折しもカナダの超人アドニス・ステヴェンソンがあわやリング禍というダメージを負った。アドニス・クリードにグローブを吊るせと言いたいわけではないが、これ以上のストーリーは悲劇にしかならない。ロッキー世界という一大ボクシング叙事詩の閉幕を、ぜひ大画面でその目に焼き付けるべし。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, シルベスター・スタローン, スポーツ, ヒューマンドラマ, マイケル・B・ジョーダン, 監督:スティーブン・ケイプル・Jr, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 クリード 炎の宿敵 』 -家族の離散と再生の輪廻にして傑作ボクシングドラマ-

『 クリード チャンプを継ぐ男 』 -The torch has been passed-

Posted on 2019年1月12日2019年12月21日 by cool-jupiter

クリード チャンプを継ぐ男 80点
2019年1月6日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:シルベスター・スタローン マイケル・B・ジョーダン
監督:ライアン・クーグラー

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『 猟奇的な彼女 』と言えば、腰の入ったパンチ。パンチと言えばボクシング、ボクシングと言えば『 ロッキー 』。その魂はアポロ・クリードの息子、アドニス・ジョンソンに受け継がれた。クリードの最新作に備えて、前作を復習鑑賞した。

 

あらすじ

アポロ・クリードの息子、アドニスは我流でボクシング技術を磨いていた。メキシコのティファナで連戦連勝するも、アメリカの世界ランカーにはスパーで一蹴されてしまう。アドニスは父、アポロと激闘を繰り広げ、盟友となったロッキー・バルボアの指導を仰ぐべく、フィラデルフィアにやってきた。エイドリアンやポーリーが世を去る中、イタリアン・レストランを独り切り盛りするロッキーは、アドニスに“虎の目”を見出して・・・

 

ポジティブ・サイド

アドニスと拳を合わせる相手にSuper Sixの覇者アンドレ・ウォード、ミドル級のゲートケーパー的存在ガブリエル・ロサド、そして英国のやんちゃ坊主、トニー・ベリューと本物のプロボクサーを豪華に配置。これだけでもボクシングファンには嬉しいキャスティング。スタローン映画『 エクスペンダブルズ3 ワールドミッション 』に出演したヴィクター・オルティズは映画に出たことでキャリアが下降してしまったが、ウォード、ベリューらは既にキャリアの最終盤に入っていた。そうした意味でも安心できた。現役ボクサーが映画に出ても、あまり良いことは無いのだ。WOWOWでExcite Matchを熱心に観ている人なら、マイケル・バッファやHBOのマックス・ケラーマンやジム・ランプリーの存在が更なるリアリティを生んでいると感じられるだろう。そのHBOも2018年末でボクシング中継から撤退。何とも景気の悪い話である。

 

閑話休題。本作には Eye of the Tiger は流れないが、字幕が良い仕事をしてくれる。その瞬間は絶対に見逃しては、いや聞き逃してはいけない。

 

マイケル・B・ジョーダンは本作と『 ブラックパンサー 』のキルモンガー役で完全にトップスターの仲間入りを果たしたと評しても良いだろう。スタローンもボクシングのシルエットがきれいだったが、ジョーダンは元々の身体能力+ボクシングセンスで、スタローン以上のボクシング的な動きを披露する。

 

中盤の試合のワンテイクは圧倒的である。ズームインやズームアウトがされていたので、どこかで合成、編集されているのであろうが、はじめて東宝シネマズなんばで鑑賞した時は魂消たと記憶しているし、今回の復習鑑賞でもやはり驚かされた。

 

初代の『 ロッキー 』がそうであったように、本作も単なるボクシングドラマではない。アドニスというサラブレッドが、何者にもなれずにいることのフラストレーション、世間が自分を見る目と自分は自分でしかないという認識のギャップに、ロッキーが語った「自分はnobodyだった」という言葉が蘇ってくる。家族を失ったロッキーと、家族を手に入れようとするアドニスの、何とも切ない邂逅の物語なのだ。ロッキーがアドニスに自らの魂を渡す瞬間、“Gonna Fly Now”のファンファーレが響き渡る!!もう、この瞬間だけで100点を献上したくなる。

 

『 ロッキー 』シリーズはこれまでに何度も観てきたが、今後もふと疲れた時、目標を見失いかけた時、心が折れそうになった時に、何度でも立ち返るだろう。特に1、2と本作は何度でも見返すことだろう。

 

ネガティブ・サイド

中盤のアドニスの試合のワンショットだが、実時間では1ラウンド3分ではなかったし、ラウンド間のインターバルも1分ではなかった。そんなことに拘っても仕方がないが、映画ファンでもありボクシングファンでもあるJovian的には非常に気になるところではあった。体内時計世界王者対決というテレビ企画もあったように、ボクサーは3分を肌で分かっているものだ。映画はリアリティの追求が生命なのだから、試合の時間についてもリアルを追求して欲しかったと思うのは、高望みをし過ぎなのだろうか。

 

そして、これは完全に無理な注文だと分かってのことだが、オープニングのMGM(Metro Goldwyn Mayer)のレオを、本作に限って虎に変えるは流石に無理か。『 ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 』や『 ボヘミアン・ラプソディ 』でも、オープニングの20th Century Foxのロゴのシーンの音をいじっていた。レオを虎には・・・やはり無理だろうか。これをもって減点すべきではないのだろう。

 

総評

ボクシングは最も歴史の古いスポーツの一つであると同時に、最も近代的なエンターテインメントでもある。アメリカのラジオ放送でニュース以外に初めて放送されたのは、ボクシングの世界タイトルマッチであった。そんなボクシングを題材にした物語が、面白くないわけがない。ましてや、この物語は『 ロッキー 』世界の出来事なのだ。ロッキーファンのみならず、広く映画ファンに勧められる傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, シルベスター・スタローン, スポーツ, ヒューマンドラマ, マイケル・B・ジョーダン, 監督:ライアン・クーグラー, 配給会社:ワーナー・ブラザーズ映画Leave a Comment on 『 クリード チャンプを継ぐ男 』 -The torch has been passed-

『 猟奇的な彼女 』 -韓流ヒューマンドラマの傑作-

Posted on 2019年1月9日2020年3月17日 by cool-jupiter

猟奇的な彼女 80点
2019年1月5日 所有DVDにて鑑賞
出演:チョン・ジヒョン チャ・テヒョン
監督:クァク・ジェヨン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190109111417j:plain

 

『 ニセコイ 』というとんでもない駄作を観たせいで、どうしても口直しが必要だと感じ、近所のTSUTAYAへ。そこで目にしたSALE品の本作をほぼ衝動買い。これまでに4回ぐらいは鑑賞した作品だが、おそらく今後も折に触れて観ることだろう。うら若き乙女が男子をパンチでぶっ飛ばす映画としては本作が白眉である。

 

あらすじ

大学生のキョヌ(チャ・テヒョン)は、ある日、電車で酔っ払った女子(チョン・ジヒョン)を何故か介抱する羽目に。理不尽で凶暴な彼女だったが、いつしかキョヌはそんな“猟奇的な彼女”を癒してやりたいと願うようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

なんと言っても、本作はチョン・ジヒョンの魅力なしには成立しなかっただろう。それほど彼女の存在感と演技力は際立っている。韓国は時々、キム・ヨナに見られるような、高身長、腕長、脚長、端正な顔立ちのアジア人離れした女性を生み出す。日本では中条あやみがこれに該当するが、彼女は純国産というわけではない(国産が良い、と言っているわけではない、念のため)。そんな女性としてのフィジカルな魅力と全く相容れない内面を持つ“猟奇的な彼女”を具現化するのは並大抵のことではない。が、キャスティングの妙というべきであろう。チョン・ジヒョンは素晴らしい仕事をしてくれた。とりわけ、彼女のパンチは腰が入っていて大変によろしい。また、演技の空振りパンチであるにもかかわらずインパクトの瞬間に歯を食いしばるという渾身の演技。へっぴり腰で平手打ちする『 ニセコイ 』の中条あやみは本作を繰り返し観るべきであろう。

 

キョヌというキャラクターも実に味わい深い。いわゆる胸キュン展開などは全く無い。だからといってキョヌは欲望とは無縁の聖人君子かと言うと、さにあらず。旅館のベッドですやすやと寝息を立てる彼女の顔、唇、胸を眺めるのは健全な欲望の持ち主であることの証明だ。同時に、正しい男らしさの持ち主でもある。据え膳食わぬは何とやらではなく、男は包容力だと思う。特にキョヌのようなキャラを目にすれば、つくづくそう感じる。彼女の暴力や暴言、理不尽な要求を全て飲み込み、献身的に尽くす様は正しく男の中の男である。女性を守るのも男らしさであり、女性に愛を打ち明けるのも男らしさであるが、女性の断ち切れない未練をひたすら見守るのも男らしさであり、女性にきれいに振られてやるのも男らしさであろう。キョヌのような男でありたかったと心底から思う。

 

本作はキャラの立ち方だけではなく、韓国社会を描いたものとしても興味深い。店で酒を飲む、皆で鍋をつつく、安ホテルに泊まる、そして軍人が社会の一部として確実に存在する世界。似て非なる国としての韓国がそこにある。しかし、描かれている人間が誰もかれも少々クレイジーなところを除けば、それはそのまま日本にも当てはまることで、それは取りも直さず普遍的な事象を描いているということでもある。とりわけ“彼女”に名前が付与されていないことが、彼女の属性をより一層際立たせると共にミステリアスな存在に昇華させている。“猟奇的な彼女”は、案外そこかしこにいるのかもしれない。そんな気がしてくる。

 

ネガティブ・サイド 

“彼女”の描く映画のシノプシスは、正直なところ面白くない。というか、映像化する必要はあっただろうか。女ターミネーターのくだりはかなりクオリティが下がり、シリアスなラブコメという映画全体のトーンとの一貫性が壊れたように思う。

 

また嘔吐のシーンが少し生々しすぎる。食事しながら観ていた妻は、露骨に嫌悪感を示していた。ただ、これがあるからこそ彼女の外面と内面のギャップ、キョヌの優しさが際立つのだが・・・

 

総評

これは韓流映画の一つの到達点である。『 サニー 永遠の仲間たち 』の日本版リメイクはイマイチだった。日本映画界は、アメリカ版や韓国版続編などとは別路線で、正統派で本格的な『 猟奇的な彼女 』の日本版リメイクを作ってみてはどうか。その場合、彼女は中条あやみではなく小松菜奈でお願いしたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, A Rank, チャ・テヒョン, チャン・ジヒョン, ロマンス, 監督:クァク・ジェヨン, 配給会社:アミューズピクチャーズ, 韓国Leave a Comment on 『 猟奇的な彼女 』 -韓流ヒューマンドラマの傑作-

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