Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: イラン

『 英雄の証明 』 -人は偏見から自由になれるのか-

Posted on 2022年6月12日 by cool-jupiter

英雄の証明 75点
2022年6月11日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:アミール・ジャディディ
監督:アスガー・ファルハディ

カンヌ国際映画祭のグランプリ作品ということで注目を集めていた一作。SNSによる狂騒が偉く喧伝されていたが、もっと直接的な人間関係に注目した作品だった。

 

あらすじ

刑務所から仮出所したラヒム(アミール・ジャディディ)は、婚約者が金貨入りのバッグを拾ったことを知る。着服しようという考えも頭をよぎるが、結局は拾得物として警察に届け出る。落とし主が出てこなければ、婚約者が落とし主として名乗り出ればいいと考えて。しかし、実際に落とし主が現れたことで、ラヒムは感謝され、また刑務所幹部らもラヒムを称賛し、ラヒムはTVメディアにも出演することになるが・・・

以下、ネタバレあり

 

ポジティブ・サイド

主人公のラヒムは徹頭徹尾、小市民である。タイトルは英雄であるが、この男を英雄と呼ぶのは難しい。人間らしいと言えば人間らしいのだろうが、心の弱さというか未熟さというか、そういったものが冒頭からずっと見えている。だが、そのことを誰が責める気になれようか。借金が返済できず刑務所に入っているというのに、婚約者がたまたま見つけた拾得物のカバンに入っている金貨を着服しようと考えるなど言語道断!などと考えられるのは、よっぽどの聖人君子だろう。

 

出所直後にバスに乗り損ねてしまったラヒムがたまたま金貨を手に入れて、しかし気まぐれからそれを届け出て、落とし主が現れた。正直な囚人として一時のメディアの寵児となるラヒムだが、アスガー・ファルハディ監督はラヒムを一方的な悪者にはしない。物語のここまでの段階で観る側はラヒムの積み重ねてきた小さな嘘や不実の数々を知ることになる。またラヒムが負った負債は結局、債権者(意外な人物!)には返せていない。英雄的な行為があっても、結局は債務者であることに変わりはない。真人間への道を歩み始めようとするラヒムだが、色々な横槍が入ってくる。それが誰によるものなのかを物語は明示しないが、観る側はあれこれと邪推してしまう。

 

そう、邪推する。邪な推測をしてしまうのである。ラヒムの視点からすれば、元妻やその家族は自分を認めようとしない分からず屋ということになるが、彼らの視点に立てば、ラヒムは借りた金を返さない不誠実な男ということになる。ラヒムが善意で金貨を持ち主に返したかどうかは大して意味を持たない。お互いの視点はすでに固定されてしまっているからだ。ラヒムおよびその周辺の人物たちは、まさに確証バイアスに囚われている。

 

これらの人間関係の不和に加えて、序盤から中盤にかけては、金貨の持ち主である女性に擁護してもらうべくラヒムは彼女を探すが、ここで『 幻の女 』風味のミステリも味わえる。また、その過程で知り合うことになる元服役者のタクシーの運転手と吃音賞の息子との一種のロードトリップの要素も併せ持っている。地味な作風ではあるのだが、エンタメ要素を盛り込むことも忘れていない。

 

終盤には、ラヒムが起こした騒動が動画に撮られてしまう。そしてその動画が拡散される危険が迫る。ラヒムのイメージ低下を防止せんと、刑務所や支援団体はラヒムの息子による父親の擁護動画を作成しようとする。結局は多数の人間の認知に働きかけようとするばかりである。これは非常に重要なことを示唆しているように思う。ある事柄が事実であるかどうかは、客観的に決まるのではなく、極めて主観的に決まるということである。英語の fact はラテン語の facio を語源に持つ、「作られたもの」という意味の語である。ラヒムが終盤に下す決断は、事実を確定させるためではなく、自分自身の誇り、名誉のための行動だった。人は自分の見たいように現実を見てしまう、つまり人にそのように見られたいという思いから行動しがちであるが、ラヒムのたどり着いた結論はそのことに真っ向から異議を唱えるものだった。 

 

最後の最後に刑務所に帰っていくラヒム。入れ替わりで出所していく男。迎えに来てくれた女性とスムーズに出会い、スムーズにバスに乗り込んでいく。彼とラヒムの違いは何であるのか。ほんのわずかなタイミングの違い、運命の気まぐれのようなものに思いを巡らせつつ、物語は閉じていく。

ネガティブ・サイド

最も重要であるべき、金貨入りバッグをラヒムとファルコンデが拾うという発端部分にかなりの曖昧さが残る。ファルコンデがバッグを拾得する。それを警察または銀行に届け出るか考える。仮出所してくるラヒムに相談するとどんな反応をするだろうか・・・というシーンがあれば、それ以前、そして以後の二人の関係性についてもっと考察を深められただろうと思う。

 

息子の吃音症の設定は必要だったのだろうか。『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』でも描かれていた通り、吃音は結構な心理的なダメージを与える。はっきりとものを言えない息子を利用する「大人たち」に対してラヒムは抵抗を見せるが、ラヒム自身が息子の気持ちを代弁する、または言葉を介さずに息子と分かり合うようなシーンがないために、終盤の展開が少々陳腐になってしまっている。

 

総評

SNSが云々という宣伝文句を見かけるが、それは終盤のごく一部で、なおかつネット上で炎上が起きて・・・といったような展開はない。少なくともそうした直接的な描写はない。日本の配給会社や代理店は何故このようなプロモーションを行うのか。それはさておき、主人公ラヒムと彼の周囲の人間の誰もかれもが非常に人間らしさに溢れている。論語に「一人に備わらんことを求むるなかれ」と言うが、過去に罪を犯したからといって、今も罪を犯しているとは限らない。完全な善人がいないように、完全な悪人などもいない。イラン特有の問題ではなく、日本にも当てはまる展開が多いと感じる。偏見なしに人を見られないというのは、現代社会というよりも人間の業の問題なのだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

stutter

名詞ならば「吃音」、動詞なら「どもる」の意。英会話ではたまに

A: Come again? = もう1回言って?
B: Did I stutter? = 俺、どもったっけ?

のような皮肉っぽいやり取りをすることがある。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アミール・ジャディディ, イラン, ヒューマンドラマ, フランス, 監督:アスガー・ファルハディ, 配給会社:シンカLeave a Comment on 『 英雄の証明 』 -人は偏見から自由になれるのか-

『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

Posted on 2020年6月14日 by cool-jupiter

ハーフェズ ペルシャの詩 60点
2020年6月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:メヒディ・モラディ 麻生久美子
監督:アボルファズル・ジャリリ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200614230819j:plain
 

近所のTSUTAYAでジャケットだけ見て借りてきた。あるすじも読まなかった。ジャケ買いならぬジャケ借りである。それにしても難解であった。一応、宗教学や比較人類学をやっていたJovianにも理解が及ばない部分が多くあった。

 

あらすじ

シャムセディン(メヒディ・モラディ)はコーランの暗唱者“ハーフェズ”の称号を得たことで、大師の娘ナバート(麻生久美子)がチベットからやって来た際に、家庭教師に任命された。コーランの教えを読み聞かせするうちに、シャムセディンはナバートに恋心を抱く。だが、それは許されぬ恋慕であった・・・

 

ポジティブ・サイド

シリアスなラブロマンスのはずだが、冒頭のシーンから笑ってしまった。シャムセディンと詩塾の先生との対峙が、まるで『 パティ・ケイク$  』や『 ガリーボーイ 』のストリート・ラップバトルと重なって見えたからだ。言葉と言葉の格闘技、詩歌の空中戦である。笑ってしまったと同時に唸らされもした。詩文を即座に暗唱するのは、記憶力に拠るものではなく熱情によるものだということが、このシーンでは強く示唆されていたからである。頭で考えてみると答えはXだが、心で考えてみると答えはYになる。そうした時に、人はどうすべきなのか。それが本作のテーマであることが、あらすじを読まずとも冒頭のシーンだけで伝わってきた。この監督は手練れである。

 

面白いなと思うのは、同じ名前を持つ二人の男という設定だ。厳格なシーア派優位のイラン・イスラム社会では、一昔前の日本など比較にならないほど家父長および共同体の長の権限が強い。婚姻も裁判も、法治主義国家ではなく人治主義国家のそれである。個人の自由がない社会で、共同体の規範からはみ出る者には容赦の無い排除の論理が適用される。このあたりは、程度の差こそあれ、日本も「人の振り見て我が振り直せ」であろう。片方の男は妻を愛しながらも、妻に愛されない。片方の男は、女を愛しながらも女への愛を忘れるように強要される。どこでもある物語だが、ハーフェズのシャムセディンが辿る忘却の旅は、行く先々で様々な社会矛盾をあらわにしていく。

 

なぜ処女信仰(という名目で、実際は女性への差別と抑圧に他ならない)をここまで大っぴらにするのか。愛を忘れるために処女7人に儀式に協力してもらうというのは、人の心をコントロールしたいという願望か、あるいはコントロールできるという過信の表れだろう。そしてジャリリ監督は、ある意味でそうしたイスラム社会の因習を嗤っている。それもユーモアのある笑いではない。毒を含んだ笑いだ。この村の処女は私だけだ、と語る老婆の一連のシークエンスは、悲劇であると同時に喜劇である。外国人(日本人)キャストを起用したのは、本作を諸外国に売り込むためで、その目的の一つは外部世界の視線を自国に集めることだろう。近年、レバノンが『 判決、ふたつの希望 』や『 存在のない子供たち 』を世に問うているように、2000年代のイランも、自国の矛盾を外部に観てほしいと感じていたのだ。

 

詩想の面でも本作はとても美しく、また力強い。数々の言葉が空中戦、銃撃戦のように繰り広げられるが、その中でも最も印象に残ったのはハーフェズのシャムセディンの「あなたの歩いた道の砂さえ愛おしい」というものだった。これは『 サッドヒルを掘り返せ 』のプロジェクト発起人の一人が「クリント・イーストウッドの踏んだ石に触れたかった。理由はそれだけで十分だ」という考え方に通じるものがある。クリミア戦争の前線の野戦病院では、ランプを手に夜の見回りをするナイチンゲールの影にキスをする兵士がたくさんいたと言う。このような間接的なものへの愛情表現は、一歩間違うと下着泥棒などに堕してしまうが、だからといってその気持ち、心の在りようまでは決して否定はできない。宗教でも哲学でも道徳でも、なんでもかんでも行き過ぎてしまうと有害になる。まさに、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。なかなかに複雑な悲恋であり、なおかつ恋愛の成就である。

 

ネガティブ・サイド

イラン社会に関する説明があまりにも少なすぎる。チベット帰りという設定のナバートにコーランの読み聞かせの家庭教師をつけているのだから、コーランの文言以外にも、イラン社会の風俗習慣についてもっと語るべきだった。あるいは公序良俗についてもっと映像をもって説明すべきだった。

 

「シャムセディンが二人いる、二人に見える」というセリフが繰り返し子ども達などによって放たれるが、これも分かりにくい。シャムセディンはおそらく男性性の象徴(性的な意味ではなく)で、それが分裂している、あるいは統合失調症的症状を呈していると言いたいのだろうか。または、男性性が社会・文化・宗教によって引き裂かれている、システムの一員としてのパーソナリティと独立した個人としてのパーソナリティに分裂していることの表れなのだと思うが、どちらのシャムセディン自身の交友関係も描写がないので、内面の事象なのか外面の事象なのかが分かりづらい。というか分からなかった。

 

鏡というのは比喩的なアイテムであるが、それを処女に拭いてもらうことの意義もよく分からなかった。ペルシャ語やペルシャ文化が精通すればよいのだろうか。最大の問題は、ハーフェズという歴史上の詩人が現代イランでどのように受容され、評価されているのかが観る側に伝わってこないところだ。『 ちはやふる -上の句- 』の中で1千年前の藤原定家の歌が唐紅のイメージで描写されたように、ハーフェズの詩の世界観を、ほんの少しで良いので映像や画像で表してみてほしかった。そうすれば、言葉ではなくイメージで、ハーフェズの詩歌の影響力や遺産、その功績の大きさなどが多少なりとも伝わったのではないか。

 

総評

なんとも解釈が難しいストーリーである。はっきり言ってちんぷんかんぷんな部分も多い。ただし、一つ言えることは、今後の日本社会を考えるうえでヒントになる作品であるということである。『 ルース・エドガー 』と同じく、異文化育ちながら日本に“帰って来る”者たち(大坂なおみetc)は、今後増えることはあっても減ることは無い。そうした者たちをどのように受け入れるのか。問われているのそこである。そうした意味で本作を観れば、個の尊重と共同体の維持のバランスがいかに難しいかが肌で感じられるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント語学学習レッスン

今回は勉強法である。麻生久美子は『 おと・な・り 』でもフランス語を熱心に勉強していたが、大人(おおむね20歳以上)の語学学習はインプット→アウトプットが原則である。耳で聞く、文字を読む、それを声に出す。このサイクルを崩してはならない。もしもあなたの通う英会話スクールや、あなたが使っている教科書・参考書が「四技能をバランスよく学習する」と謳っていれば、勉強法を変えた方が良いかもしれない。語学をやるなら、リスニング50、リーディング20、スピーキング20、ライティング10ぐらいの配分で良い。中級者以前ならなおさらである。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, C Rank, イラン, メヒディ・モラディ, ラブロマンス, 日本, 監督:アボルファズル・ジャリリ, 配給会社:ビターズ・エンド, 麻生久美子Leave a Comment on 『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

最近の投稿

  • 『 今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は 』 -青春の痛々しさが爆発する-
  • 『 28週後… 』 -初鑑賞-
  • 『 28日後… 』 -復習再鑑賞-
  • 『 異端者の家 』 -異色の宗教問答スリラー-
  • 『 うぉっしゅ 』 -認知症との向き合い方-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme