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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ラブロマンス

『 宮本から君へ 』 -非力で不器用で我武者羅な男の人生賛歌-

Posted on 2019年10月12日2020年4月11日 by cool-jupiter

宮本から君へ 70点
2019年10月6日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:池松壮亮 蒼井優
監督:真利子哲也

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あらすじ

宮本浩(池松壮亮)は極めて不器用。しかし純真さと折れない心の強さを持っていた。中野靖子(蒼井優)の交際を開始したばかりの頃、靖子の自宅に元カレが現れ、靖子に暴力を振るう。「この女は俺が守る!」と言い放った宮本は、晴れて靖子と結ばれる。しかし、そんな二人の幸せにさらなる試練が迫って・・・

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ポジティブ・サイド

とにかく池松演じる宮本という男が良い。宮本の優しさ、暑苦しさ、芯の強さは男性の共感を呼ぶことは間違いない。何故か。それは上述した宮本の属性、特性が男が普遍的に備えているものだからだ。ここで大事なのは、ポジティブな属性や特性を肥大化させて描くことだ。男には当然ダメダメな属性も同じくらいか、あるいはポジティブ属性よりも多く備わっている。そうしたネガティブ属性に焦点を当てた作品は文学的な意味では成功することはあっても、映像芸術としては往々にして失敗に終わる。近年では例えば『 先生! 、、、好きになってもいいですか? 』、『 ナラタージュ 』などが挙げられる。いずれも男の普遍的にダメなところ、すなわち「相手を傷つけたくないと配慮することで相手を傷つけてしまう」というやつである。ちなみに先生と生徒の恋愛もので近年では突出した面白さだったのは『 センセイ君主 』である。また男の普遍的にダメなところを別の角度から捉えた秀作に『 奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール 』がある。

 

Back on track. 宮本はヒロインの靖子を持ち前の猪突猛進の暑苦しさで救い、そして大いに傷つける。そこには確かに男が最も苦手とする共感や思いやり、配慮が欠けている。だが、できないことはできないのだ。できないことをウジウジと悩むよりも、できることを全力でやる。そして当たって砕ける。本作のストーリーには目を背けたくなるようなシーンがあるが、悩んでいても問題が解決するわけではない。かといって当たって砕けても問題は解決しない。しかし、宮本はそこに突っ込んでいく。はっきり言ってアホである。だが、それがたまらなくカッコイイのである。男がアホになるのは、女絡みであることは古今東西の歴史が証明する通りである。この男のアホさ、それをポジティブに言い換えれば芯の強さになるわけだが、それをとことんまで突き詰めたのが宮本である。演じた池松に拍手を送れるかどうかで、その男の精神年齢が分かる。拍手を送れるのは、自分はそうなれなかったし、これからもそうなれないと悟っている中年以降の衰えゆくだけの男である。Jovianがまさにそうである。宮本に嫌悪感を抱けるとすれば、それはその男が宮本と適切な距離を取れない、つまり宮本に近いところにいるからである。逆にうらやましい。

 

ヒロインの靖子を演じた蒼井優も円熟期を迎えたと言えるだろう。劇中でもおそらく30歳手前ぐらいの年齢であると思われるが、男女の交際や結婚に幻想と現実的な感覚の両方を抱いているというキャラクターで、何かあるとコロッと落ちてしまう高校や大学の小娘とは一味もふた味も違うキャラを熱演した。『 彼女がその名を知らない鳥たち 』にも準レイプと言えるシーンがあったが、あちらはヨボヨボの老人、こちらは本格的なレイプシーンで相手は屈強なラガーマン。正直、正視に堪えないシーンである。その前に準・和姦(?)的な宮本と靖子のセックスシーンがあるせいか、余計に凄惨に映る。ベッドシーンそのものも魅せる。『 光 』の橋本マナミや『 無伴奏 』の成海璃子のように、不自然に乳首を隠すのではなく、自然に見えない、見えそうだけれど見えない、という非常に際どい撮影術を駆使しているところも見逃してはならない。絵コンテの段階から、監督、撮影監督、役者の間でこのシーンについてはかなり詰められていたのだろう。プロの仕事を称賛すべし。

 

宮本が立ち向かう敵は強大だが、相手が強い弱いを勘定に入れずに行動するところに強い憧れを抱く男は多いだろう。漫画『 DRAGON QUEST -ダイの大冒険 』のとあるキャラが「相手の強さによって出したりひっこめたりするのは本当の勇気じゃなぁいっ!!!」と喝破するが、この意味では宮本は本当の勇気を持っている。卑怯だとかどうこうとかは関係ない。殺るか殺られるかなのである。Kill or be killed なのである。宮本のような男になれるか。靖子のような女に出会えるか。人生とはままならないものであるが、宮本のような“芯の強さ”を少しでも持てれば、それだけで人生は少しだけ豊かになるのだろう。

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ネガティブ・サイド

宮本の骨折した指の描写はあったか?ギプスや添え木にJovianが気付かなかっただけか?さらに靖子の家族も、怪我人にアルコールをどんどん飲ませてどうする?ビールをコップ一杯ぐらいならまだしも、アルコールは飲めば飲むほど感覚がマヒしたり、判断力を低下させたりするわけで、怪我をしている部分に無理な力を入れてしまい、治癒が遅くなったり、最悪の場合は怪我が悪化するではないか。靖子の母は、宮本に含むところがあるキャラクターなのではないかと勘繰ってしまったではないか。

 

ピエール瀧が病院で「書くもの寄こせ」と言って宮本に教えた住所がタクマの女のヤサであるのはどういうわけか。ピエール瀧の自宅の住所ではなく、タクマの一人暮らししている家でもなく、なぜタクマの女の住所なのか。何か複雑な事情があるにしても、それを最低限の台詞はショットで説明してくれないことには意味が分からなかった。

 

個人的な願望であるが、ピエール瀧の同僚二人に天誅が下らないことも残念。そこは原作をいつか確認してみたいと思う。

 

総評

これは怪作である。いや、快作である。宮本という1990年代のキャラクターを現代に蘇らせた意味は何か。それは取りも直さず、現代人が忘れつつある熱量を取り戻すべしという真利子哲也監督からメッセージに他ならない。ゆとり世代にさとり世代などと揶揄される若い世代に、それよりも上の世代は熱量を以って接してきたか。宮本というキャラにどれだけ共感できるか、あるいはできないかで、観る者の精神的な老け具合が測られてしまうという恐るべき仕掛けが込められている。純粋に中年オヤジを応援したいという向きには『 フライ,ダディ,フライ 』をお勧めしておく。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Marry me!

 

「靖子、俺と結婚しろよ」という台詞があまりに強烈だ。学校ではよく get married to 誰それと学ぶと思うが、受け身になっているのは公式に結婚することを意味しているから。つまり、聖職者なり役所なりに、夫婦であるということを「認められる」必要があるからだ。そうではなく当事者間だけで結婚を論じる時には能動態でOKである。小難しい理屈はよく分からないという人は Bruno Mars の“Marry You ”を100回聴くべし。

 

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ラブロマンス, 日本, 池松壮亮, 監督:真利子哲也, 蒼井優, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:スターサンズLeave a Comment on 『 宮本から君へ 』 -非力で不器用で我武者羅な男の人生賛歌-

『 ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 』 -我々も目を覚ますべし-

Posted on 2019年10月3日 by cool-jupiter

ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 75点
2019年9月30日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クメイル・ナンジアニ ゾーイ・カザン
監督:マイケル・ショウォルター

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Jovianはインド映画好きである。だが、インドの隣国パキスタンのことはよく知らない。せいぜい『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でインドから宗教的に分離した国であるということぐらいしか知らなかった。そんなパキスタン出身のクメイル・ナンジアニ自身の逸話が映画化された。外国人が増加しつつある日本においても非常に示唆的な作品であると言えよう。

 

あらすじ

スタンダップ・コメディアンのクメイル(クメイル・ナンジアニ)はパキスタン出身。アメリカで芸人としてのキャリアを追求する一方、因習にうるさい母親たちを断り切れず、形だけの礼拝、形だけのお見合いをしていた。ひょんなことからアメリカ人のエミリー(ゾーイ・カザン)と知り合い、逢瀬を重ね、親しくなるが・・・

 

ポジティブ・サイド

脚本を書いて、それを自分でも演じる映画人としてM・ナイト・シャマランが思い浮かぶが、彼はチョイ役専門である。シャマランの本業は監督であるが、クメイル・ナンジアニはコメディアンにして、映画の主演も張る。そして、見事な演技力。自分で自分を演じるのは存外に難しいものと思う。なぜなら、そんな練習は普通はしないから。そこはしかし、スタンダップ・コメディアンのキャリアが生きている。あらゆる状況を自分の言葉と仕草と小道具で説明し、受け手に何らかの変化(特に笑い)を励起させるという意味ではお笑い芸人は案外、役者の素養を備えているものなのかもしれない。クメイルを見ていて感じるのは、彼は誰に対しても気後れしないのだな、ということ。異国で暮らすことは難しいことだ。異国だからこそ、自国のらしさにこだわってしまうことが人間にはよくある。『 クレイジー・リッチ! 』でも指摘したが、異邦人は自らのユニークさ、違いを殊更に強調しようとする傾向がある。クメイルはパキスタンそしてイスラムの伝統や因習を一方的には否定しない。しかし、それらを受け入れもしない。個人として自立している。アメリカ的と言えばアメリカ的だし、現代的と言えば現代的である。こうした個の強さを兼ね備えた人間の物語にはインスパイアされることが多いが、その逆に「こうした種類の人間にはとても敵わないな」とも思わされる。けれど、よくよく考えてみれば勝つだとか負けるだとかに思いを巡らせてしまうこと自体がおかしなことだ。クメイルの生き様から学ぶべきことは「自分らしくあれ」ということ。これは現代の日本人にとっても inspirational で motivational なことだろう。9.11はきっかけになっているが、たとえあのテロがなくとも、クメイルは自国および自分をネタにした可能性は高い。

 

そうそう、こんな辺境のブログを読んでいる英語教育関係者がいるかどうかは知らないが、multi-national students を教えるに際しては、外国および外国人のイメージをその国の出身者でない者に尋ねるのはタブーである。TESOL、またはそれに類した教授法を学んだ人であればお分かり頂けよう。外国のことはその国の人間に語ってもらう。生徒、受講生には自国のステレオタイプを語ってもらい、それをクラスでシェアするのが原則である。クメイルのパキスタンネタのコメディを笑うのは時に難しいかもしれないが、大坂なおみをネタにした芸人が壮絶に滑ったり、ダウンタウンの浜田がブラックフェイスを批判されても「差別の意図はなかった」として反省しなかったことを、我々はもっと真摯に受け止めねばならない。外国語の教育に携わる人間こそ、語学ではなく国際的な歴史と人権意識を学んでほしいと切に願う。この国では、文法と形式に拘泥するくだらない教育者もどきが余りにも数多く跋扈している。

 

Back on track. ゾーイ・カザンは相変わらずキュートである。プリティーである。こんな女性をバーで口説き、そのままベッドインできれば最高であろう。美人だから最高なのではない。語るのが辛い過去があり、クメイルを好いているが故に、自分を棚に挙げつつも、彼が秘密を打ち明けなかったことに激怒する人間らしさが魅力なのである。男という生き物は、なぜか女性に幻想を抱きがちである。そういった幻想をぶっ飛ばす(性的な意味ではない)夜の語らいシークエンスは、実話か、もしくはそれに近い逸話があったのだろう。このあたりが凡百のラブロマンスとは異なるところであり、我々が人種や宗教、国籍などを飛び越えて、クメイルとエミリーというカップルを好ましく思える所以である。

 

本作はアメリカ版『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』でもある。破局してはいるもののクメイルはエミリーのステディだった。そんな男が相手の女性の両親とどのように向き合い、どのように語り合い、どのように信頼を勝ち得ていくのか。たいていの男性既婚者が通る道ではあるが、見ていて大変に辛い展開もあり、微笑ましくなれるところもある。これらを通して、我々小市民もクメイルとエミリーのドラマに共感できるのである。確かに、我々はinternational / interracial な関係をなかなか築くことができる社会には生きていない。しかし、個としての強さを学ぶことはできるし、実は人種や宗教といった面を取っ払えば、我々一人ひとりは同じく等しく人間なのだというよく分かる。そのような見方を本作は許してくれる。『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』とセットで見比べてみるのも面白いかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

次から次に現れるお見合い相手のパキスタン人女性が揃いも揃って、とてつもなく美人である。そんなことがありうるのだろうか。パキスタン人女性に美人は少ないと言っているわけではない。念のため。アメリカにいるパキスタン人の皆が皆、クメイルのような男ばかりではないだろう。Jovianなら、あの母親が見繕ってきた一人目の相手に一目惚れしてしまったかもしれない。結婚するかどうかは別にして、好意的な気持ちは間違いなく抱く。そういった美女をすべてつれなく袖にしたというのは実話なのだろうか。どうにも信じがたい。『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』のように、存命の人間を描くと、その部分はどうしても美化されがちである。お見合いプロットに出てきた女性たちは、文字通りに美化されすぎていると推測する。そんなことをしなくても、エミリーの魅力は外見ではなく内面にあることは充分に伝わってきた。自身を持ってほしい。

 

クメイルのコメディアン仲間たちとエミリー、そしてエミリーの両親のinteractionはなかったのだろうか。コメディアン連中は全員、白人。これは事実に即してのキャスティングなのだろうが、無意識のうちに我々が異なる人種の間に感じ取ってしまう緊張感のようなものが、単なる虚妄に過ぎないという展開が、もっと欲しかった。

 

総評

これは傑作である。なぜ劇場公開をスルーしてしまったのか。痛恨の極みである。事実は小説よりも奇なりと言うが、そうした事実の一つひとつは、実は結構、陳腐なエピソードだったりする。例えば、ガールフレンドの父親と会話をするというのは、たいていの男にとっては必須の通過儀礼だ。そうしたイニシエーションは陳腐だが、一つとして同じものはない。クメイルとエミリーの関係も類型的ではあるが、とてもユニークだ。上質のロマンスに興味があれば、是非本作を観よう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I get it, man.

 

「 気持ちは分からんでもないがな 」という感じの意味である。【『ジョジョの奇妙な冒険』で英語を学ぶッ!】という奇書で、柱の男カーズが放つ台詞である。“I got it.”=分かった、“I get it.”=分かる、である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, クメイル・ナンジアニ, ゾーイ・カザン, ラブロマンス, 監督:マイケル・ショウォルター, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 』 -我々も目を覚ますべし-

『 スラムドッグ$ミリオネア 』 -典型的かつ爽快サクセス・ストーリー-

Posted on 2019年9月20日 by cool-jupiter

スラムドッグ$ミリオネア 80点
2019年9月17日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:デブ・パテル フリーダ・ピント イルファン・カーン
監督:ダニー・ボイル

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インド映画と見せかけてイギリス映画である。『 ヒンディー・ミディアム 』でイルファン・カーンを見て、「そういえば『 ジュラシック・ワールド 』以来だったな」と感じ、再会を求めて近所のTSUTAYAへ。やはり面白い。

 

あらすじ

ジャマール(デブ・パテル)は人気テレビ番組の「クイズ$ミリオネア」で順調に正解を続け、賞金を積み上げて行っていた。しかし、番組司会者に不正を疑われ、警部(イルファン・カーン)に取り調べを受けることに。ジャマールは訥々と自身の過去を回想していくが・・・

 

ポジティブ・サイド

みのもんたを思い出してしまったが、やはり「クイズ$ミリオネア」はサスペンスフルであった。1ルピーは約1.6円で、1000万ルピーはおよそ1600万円となる。しかし、映画公開時の通貨価値の違いを考えれば、おそらくその価値は1億6千万円ぐらいであってもおかしくない。スラム街出身のジャマールからすれば、想像を絶する大金であろう。Jovianも1億円欲しい。

 

本作はクイズ番組の映画ではなく、クイズ番組を通じてインド社会の矛盾をさらけ出し、さらにそこで雄々しく生きる個人にスポットライトを当てた物語なのだ。『 存在のない子供たち 』のゼインのように、スラムで生まれ育ち、『 判決、ふたつの希望 』のように、宗教や民族の違いで謂われのない暴力にさらされてしまう。そして child predator の存在。こうした社会の理不尽が赤裸々に、しかし、エンターテイメント色豊かに描かれるところがインド映画(これはイギリス映画だが)の強みなのだろう。

 

これはサスペンス映画であると同時にラブロマンスでもある。幼少の頃からの初恋の相手、ラティカを狂おしいまでに追い求めるジャマールの一途さは観る者の心を打つ。男と女の心情の違いが露わになる中盤の展開には胸が締め付けられる。小学校高学年ぐらいで手塚治虫の『 火の鳥 乱世編 』の弁太とおふうを思い出した。両作品のその後の展開は異なるが、当時の自分にはおふうの心変わりというか、気持ちが理解できなかった。今なら分かる。だからこそ、ラティカのジャマールへの冷たい対応にも説得力がある。国が違っても、男女の心の在り様には一定の普遍性が認められる。

 

クイズの正答の根拠がジャマールの過去の様々なエピソードに潜んでいるというのは面白いし、オープニングが取り調べシーンというのもショッキングで良い。否が応でもそれまでに何があったのかと物語に引き込まれるからだ。犯罪まがい、というか窃盗や詐欺でサバイバルするジャマールが、苦難を乗り越えてミリオネアになっていくのは、そのままムンバイという土地の成長の勢い、ひいてはインドという国そのものの成長の勢いのメタファーだろう。ちなみに日本はもう間もなくあらゆる意味でインドに追い抜かれてしまう。映画だけではなく、あらゆる面で。何故だ?という向きには、『 沸騰インド:超大国をめざす巨象と日本 』をお勧めする。Jovianの大学の先輩が著者なのである。先輩と言えば『 運び屋 』で紹介した『 運び屋 一之瀬英二の事件簿 』もよろしく。

 

ネガティブ・サイド

 

冒頭の肥え溜めにドボンのシーンはもう少し控え目にしてもらえたらと思う。

 

ジャマールの兄、サリムのクズっぷりももう少し抑えることができたはずだ。彼なりに弟を想う心はあったのだろうが、それを押し殺して悪事に手を染めているという描写や演出があれば、もっとキャラクターが立っただろうに。

 

総評

普通に面白い。当時にブログをやっていたら、年間最優秀外国映画の候補に挙げていたはずだ。ダンスがねーぞ!と思うなかれ。エンディングのクレジットシーンは、クライマックスに次ぐカタルシスが待っている。インド映画ファンなら(イギリス映画だが)、必見の傑作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

That’s for sure.

 

劇中では、You’re not a liar, Mr. Malik. That’s for sure. という具合に使われていた。for sureで「確かに」という意味合いだが、用法の過半数は ~~~~. That’s for sure. だろう。Itは基本的に単数形の名詞、もしくは正体不明の何かを指して、Thatは直前に触れられた事柄(≠事物)を指すと理解しよう。

 

He is a great tennis player. That’s for sure.

You will pass the exam with ease. That’s for sure.

 

洋画でしょっちゅう聞こえてくるので、映画館で耳をすませてみよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, A Rank, イギリス, イルファン・カーン, サスペンス, デブ・パテル, ヒューマンドラマ, フリーダ・ピント, ラブロマンス, 監督:ダニー・ボイル, 配給会社:ギャガ・コミュニケーションズLeave a Comment on 『 スラムドッグ$ミリオネア 』 -典型的かつ爽快サクセス・ストーリー-

『 ガーンジー島の読書会の秘密 』 -絆と信頼の物語-

Posted on 2019年9月7日2020年4月11日 by cool-jupiter

ガーンジー島の読書会の秘密 70点
2019年9月1日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:リリー・ジェームズ
監督:マイク・ニューウェル

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Jovianはアンニャ・テイラー=ジョイ、ヘイリー・スタインフェルド、そしてリリー・ジェームズ推しである。『 シンデレラ 』以来、彼女の虜なのである。どれくらいファンなのかというと、彼女が脱いでいる『 偽りの忠誠 ナチスが愛した女 』は観ないと決めているほどである。なので、どうしても点数が甘くなるのである。

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あらすじ

 

作家のジュリエット(リリー・ジェームズ)は、偶然からガーンジー島の住民と文通を始める。そして、ナチス占領下で始まったガーンジー島の読書会に惹かれ、ついに島を訪れる。しかし、そこには会の創始者であるエリザベスの姿がなかった。ジュリエットは島民たちとの交流を通じて、真相を追うが・・・

 

ポジティブ・サイド

ナチス・ドイツに占領されていた島の住民が抱える秘密となれば、その中の一人あるいは相当数がダブル・エージェントだったと考えるのが自然だろう。冷戦時代をフィーシャーしたスパイ小説や現代のスパイ映画に余りにたくさん接してしまうと、戦時の秘密=裏切りという思考の陥穽にはまってしまう。本作はそのようなclichéにはあらず。また、島民たちの人間関係にもダークな面はあるものの、横溝正史が描いたりするような日本の閉鎖的な田舎のそれではないので、安心してほしい。

 

リリー・ジェームズは本作でも可憐である。しかし、単なる可憐な花ではない。彼女は文通から始まったガーンジー島の住民との交流と、島への訪問、そして読書会への参加に大いなる喜びを感じながらも、その喜びがロンドンで得られるそれはとは異なる類のものであることにも気づいてしまう。これは、ジュリエットが与えられる幸せではなく、自らが幸せを掴み取りにいく物語なのである。女性に対しては自立を促すメッセージ性を有しており、男性に対しては自身を持つように促すメッセージ性を有している。

 

『 ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男 』と同じく、リリー・ジェームズがタイプライターをカタカタと叩き、『 マイ・ブックショップ 』的な雰囲気がほんのり漂うガーンジー島の物語は、戦争後に個人が依って立つべき生きる基準のようなものが示してくれる。

 

ネガティブ・サイド

ガーンジー島の読書会の面々は、少し口が軽すぎる。スリルやサスペンスが今一つ盛り上がらない。なぜエリザベスの姿が見えないのか。彼女が消えた理由は何か、どこへ行ったのか。それらが解き明かされる際のカタルシスが弱い。というのも、それがある意味でデウス・エクス・マキナ的にもたらされるからである。

 

またジュリエット自身が少々無節操に見えてしまうのも弱点である。アメリカ人の婚約者とガーンジー島の読書会のメンバーの間で揺れ動くのは、clichéと言えばclichéであるが、許容可能な定番設定である。しかし、編集者の男性にまで思わせぶりな態度を取る必要はない。というよりも、このキャラは普通に女性で良かったのではないか。何でもかんでも現代的にアレンジすれば良いというわけではない。

 

島の人間関係に、あまりにも戦争が影を落とし過ぎているのも、ちと気になった。日本ほどではないだろうが、英国も多様な文化を誇る島国。それはつまり、多種多様な人間関係の模様があるということである。それが、あまりにも戦争一色に塗り変えられたように感じられた。島民たちの間にはもっと清々しく、もっとドロドロした人間模様が戦争前からあったはずだ。それが感じ取れなかった。そういうものを消し去ってしまうのが戦争だと言ってしまえばそれまでかもしれないが。

 

総評

ヒューマンドラマの佳作である。ミステリ要素もサスペンス要素もそれほど強くないが、島民たちが触れようとしない真実の物語が、主人公の成長の軌跡と不思議なシンクロをしているところが印象的である。ぜひ劇場にどうぞ。一人でも多くの方に、リリー・ジェームズのファンになってもらいたいものである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Off you go.

 

『 デッドプール 』でもエド・スクラインが使用していた台詞である。「もう行ってくれ」、「出て行け」、「さあ、行った行った」のようなニュアンスで捉えればよいだろう。

 

I am all ears.

『 GODZILLA ゴジラ 』でデヴィッド・ストラザーンが渡辺謙に言う台詞でもある。「聞こう」、「ぜひ聞きたい」、「あなたの話をしっかりと聞くつもりだ」というニュアンスと思えばよい。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, フランス, ラブロマンス, リリー・ジェームズ, 監督:マイク・ニューウェル, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ガーンジー島の読書会の秘密 』 -絆と信頼の物語-

『 火口のふたり 』 -歪な実写版セカイ系物語-

Posted on 2019年9月4日2020年4月11日 by cool-jupiter

火口のふたり 65点
2019年8月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:柄本佑 瀧内公美
監督:荒井晴彦

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『 幼な子われらに生まれ 』の脚本家が監督をしていると知り、平日の昼間から映画館へ。予告編では『 娼年 』や『 殺人鬼を飼う女 』のようにエロシーンを通じて何らかのメッセージを発してやろうという作品かと思っていたが、実際はちょっと趣が異なる作品だった。

 

あらすじ

賢治(柄本佑)は父から電話を受ける。直子(瀧内公美)の結婚式への出席するか?というのだ。故郷の秋田に帰省する賢治は、直子に「一晩だけ、あの頃に帰ろう」と言われ、関係を持ってしまう。だが、それは互いの身体の言い分を呼び覚ましてしまい・・・

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ポジティブ・サイド

『 娼年 』の松坂桃李は、ちょっとその愛撫は優しさが足りないんじゃないのか?と観る側に思わせたが、柄本佑はどちらかというと成田凌タイプ。つまり、本当に彼自身がやっていそうなちょっと無理めの前戯を演じてくれる。男性ホルモンが旺盛に分泌されていそうな雰囲気を漂わせる柄本は適役である。新井晴彦が脚本を担当した『 幼な子われらに生まれ 』でも、浅野忠信という役者がナチュラルに醸し出す迫力や威圧感、いわば暴力の予感が効果的に演出されていたが、柄本もそれに近い使われ方を本作ではしている。

 

瀧内公美は『 娼年 』には勿体なかったのだろう。美女がイケメンとセックスするところを見てもあまり楽しい気分にはならないが、これほどの美女が柄本のようなムンムンの男子中学生がそのままデカくなりました的な男とまぐわうのは、言葉そのままの意味で面白い。映画撮影的にも非常にチャレンジングなショットがいくつも見られる。つまり、ワンカットの多用である。カメラアングル的に斬新なものは皆無だったが、濡れ場に繋がるシーンはほぼすべてロングのワンカットで、それにより臨場感が増している。これは監督の手腕であろう。瀧内の裸体に妙なフォーカスをすることなく、それでいて彼女の裸体の魅力をスクリーンにぶちまけている。このおっさんは流石にエロの大家である。瀧内の他の出演作もぜひ鑑賞してみたくなった。

 

本作は映画というよりもドラマである。といっても、一つひとつのサブプロットがテレビドラマの一話一話に対応しているというわけではない。登場人物は、はっきり言って賢治と直子だけで、これは舞台上で繰り広げられる対話ベースのドラマ技法で作られた映画である。ほんのちょっとした一言が、我々観る側にとっては二人の背景や関係性、過去の出来事についての実に多くの情報の流入となる。これは単に役者が台詞で状況説明をしているのではない。こうした何気ない一言ひとことが、画面上の現実の薄皮を一枚また一枚と剥いでいっているのだ。人間も様々に纏っている社会性や人間性といった薄皮を剥いでいけば、案外残るのは類人猿なのかもしれない。頭でっかちで理屈ばかり先行しがちなくせに、下半身のマグマの抑制はあまり効かないタイプの賢治と、睦み合いと愛情は別と割り切って、結婚前夜に婚約者以外の男と性交する直子は、ある意味では今の時代のアダムとイブなのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

もっと五感に強く訴えるような映像表現が欲しかった。劇中で直子が賢治のにおいに言及するシーンがあるが、その直子の感覚を観る側と共有できるようなカットあるいは、直子のほんのちょっとした表情の変化を捉えたショットが欲しかった。これは追憶の物語で、誰にとっても、カネはあまりないが若さとエネルギーだけは有り余っていた頃があるのだ。つまり、我々は皆、賢治であり直子なのだ。そうした我々の感覚や感情、記憶を刺激する映像上の工夫が不足していた。

 

これは当事者ではない者の感想だが、東日本大震災を少し茶化しているというか、賢治の生き方、それに対する言い訳めいた「言い分」が、現実感を奪い取ったように思う。賢治の人生が上手くいっていないのは、震災のせいもあるが、本人の人間性の問題の方が原因としては遥かに大きいように感じられた。Jovianは10代半ばで阪神大震災を経験したし、Jovianの両親が経営していた焼肉屋は0-157と狂牛病のダブルパンチであえなくcrash and burnした。一個人の力ではどうしようもない不運や災害、事故などは存在する。肝心なのは、そこからどう立ち直るかだ。賢治というキャラクターには愛すべきところもあるが、その生き方や生き様には、同じ男としてとうてい共感できないところも多い。

 

総評

R18指定だが、大学生カップルが観に行くような映画ではない。セックスシーンを鑑賞する作品ではなく、セックスに至るには人間がまとう虚飾を剥いでしまわなければならないということを再確認する作品である。35~45歳ぐらいがメインとなるべきターゲットであろう。賢治と直子と同世代、またはそれより少し上ぐらいのdemographicが青春の追体験と現実からの逃避のために観る映画である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I will set you free by then.

「その頃までには解放してやるよ」と賢治は不敵に言う。つまりは直子の婚約者が帰ってくるまでには、直子の前から消えるということだ。by thenやby nowなどをさらっと口頭英作文に組み込めるようになれば、初級者は脱したと思ってよいだろう。

 

Oh, it’s 10 PM. He should by home by now.

I guess that milk will have gone off by then

 

状況を思い浮かべながら、声に出してみよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ラブロマンス, 日本, 柄本佑, 瀧内公美, 監督:荒井晴彦, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 火口のふたり 』 -歪な実写版セカイ系物語-

『 あなたの名前を呼べたなら 』 -ほろ苦さ強めのインディアン・ロマンス-

Posted on 2019年8月17日2020年4月11日 by cool-jupiter

あなたの名前を呼べたなら 70点
2019年8月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ティロタマ・ショーム ビベーク・ゴーンバル
監督: ロヘナ・ゲラ

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原題は Sir である。インドは国策として映画作りを推進しているが、だんだんとインド特有の歌や踊りを減らしていくという。個人的にそれはつまらないと感じるが、グローバルなマーケットで売ろうとするためには、柔軟さも必要か。本作はそうした、ある意味ではデタラメなパワーを持つインド映画らしさではなく、普通に近い技法で作られたインド映画なのである。

 

あらすじ

建設会社の御曹司アシュヴィン(ビベーク・ゴーンバル)は挙式目前。しかし、婚約者の浮気が発覚し、結婚は破談した。通いのメイドのラトナ(ティロタマ・ショーム)は、そんなアシュヴィンに甲斐甲斐しく尽くす。彼女には夢があった。いつかファッションデザイナーになり、自立した女性となる夢が。だが、彼女は19歳で結婚した身。今は未亡人でも、新たな恋愛や結婚は因習的に許されない。いつしか惹かれ合い始める二人だが・・・

 

ポジティブ・サイド

とてもとても静かな立ち上がりである。アシュヴィンとラトナの間に恋愛感情が芽生えることは誰もが分かっている。そのbuild-upをどうするのかが観る側の関心なのであるが、ロヘナ・ゲラ監督は淡々と二人の日常生活を描いていくことで、二人の間の距離感を丁寧に描写していく。食事のシーンが好例である。ラトナがアシュヴィンに供する食事は、どれも一皿に一品で、ナイフとフォークで食するようなものばかりである。一方で、自分がとる食事は大皿にナンや野菜や鶏肉などを全て乗せた、いわゆるインド的なカレーであったりする。この対照性が二人の距離である。

 

だが、二人には共通点もある。ラトナはファッションデザイナーになるという夢があり、将来は妹とともに独立して自分たちの力でビジネスを営みたい。そのために妹の学費を自らの稼ぎから工面している。一方でアシュヴィンはアメリカに留学し、ライター稼業をしていたが、兄の死によって自らが事業継承になるためにインドに帰国してきた。つまり、ラトナもアシュヴィンも、本当の意味での自己実現を果たしているわけではないのである。全くとなる背景を持つ二人であるが、自分にはどうしようもない事情で現在の自分があることを受け入れている。だからこそアシュヴィンはラトナが仕立て屋に通うことや裁縫学校に行くことを快く承諾してくれるし、ラトナはアシュヴィンに執筆業への回帰を促す。それが互いへの思いやりであり配慮である。そのことが、しっかりと伝わってくる。安易にさびしさに負けて、なし崩し的にキスからベッドインなどという展開にはならない。しかし、二人が互いに秘めていた想いを一瞬だけ露わにするシーンは、見ているこちらが緊張するほどぎこちなく、それでいて甘く、激しい。近年のラブロマンスにおいては、白眉とも言えるシークエンスである。

 

ラストシーンが残す余韻も素晴らしい。終わってみれば「なるほどね」なのだが、この一瞬のために、ここまでドラマを積み上げてきたのかと得心した。そのドラマとは、ラトナの精神的、そして経済的な自立への旅路であり、アシュヴィンにとっては家族、そして友人関係のしがらみからの解放への旅路でもある。そして、二人はインドの因習からの独立を目指す同志でもあるのだ。使用人とその主人という縦の関係を、水平的な関係に転化させる一言を絞り出すラトナの表情に、我々は心の底から祝福のエールを送りたくなるのだ。

 

アシュヴィンを演じたビベーク・ゴーンバルはアメリカ帰りという設定ゆえか、非常に流暢な英語を操る。彼の台詞のかなりの割合が、非常にスタンダードな英語なので、英語悪習者の方は、ぜひ彼の台詞に耳を傾けて欲しい。本作の感想ではないが、インド人はそこそこの割合で英語を話せる。また、人口の結構な割合の人々が英語を聞いて理解できると言われている。確かに『 きっと、うまくいく 』の講義は英語だったし、『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』でも、ラクシュミは英語を話すのは苦手だったが、リスニングはできていた。英語の運用能力を持つことがそれなりのステータスであるという点で、日本はインドとよく似ている。しかし、インドにおいて英語力というものは、おそらく運転免許証のようなものなのだと推測する。なくてもそこまでは困らないが、だいたい皆が持っている。そういうことである。

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ネガティブ・サイド

アシュヴィンのone night standは必要だったのだろうか。別にこのシーンがなくとも、ストーリーはつなげられるように感じた。もちろん、結婚が破談になったアシュヴィンが人肌恋しく思うのは理解できるが、その相手をバーで調達してしまうというのは、あまりにも安易ではないか。また、ラトナに「彼女はもう帰ったのか」と尋ねるのもいかがなものか。自分が求めているのは刹那的な関係ではなく、長期にわたって真剣に互いを高め合える、あるいは補い合えるような関係であると気付くのであれば、破談になった相手との関係を振り返る、あるいはアシュヴィンの姉や友人に劇中以上にそのことを喋らせれば良かった。このあたりはゲラ監督とJovianの波長は合わなかった。

 

もう一つ。アシュヴィンが最初からあまりにも物分かりの良いご主人様で、少々ご都合主義のようにも感じられた。召使いとして甲斐甲斐しく恭しく使えるラトナは、メイド仲間の愚痴を聞くシーンが何度か挿入されるが、その仲間の愚痴がことごとくアシュヴィンに当てはまらないのだ。そうではなく、仲間が愚痴ってしまうようなシチュエーションが自分にも訪れた時に、主人であるアシュヴィンがどのように反応するのか、そうした展開があってこそ、ハラハラドキドキ要素がより一層盛り上がるというものだ。それが無かったのは惜しいと言わざるを得ない。

 

総評

静かな、大人のラブストーリーである。韓国ドラマのように、互いが互いを想いながらも絶妙にすれ違う展開にイライラさせられることはなく、むしろ近くて、けれどなかなか縮まらない距離感をじっくりと鑑賞できる構成である。そこにインド独特の因習や女性蔑視への眼差しもあるのだが、決してそれらに対して批判的にならず、そうした障害を乗り越えていく予感を与えてくれる作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

アシュヴィンが友人からの誘いに対して“Rain check?”と返す場面がある。これは野球の試合が雨天順延になった時に、rain check=再試合のチケットを受け取ることから、「別の機会にまた誘ってくれ」という意味で使われる表現である。主に北米=野球が行われる地域でしか通用しない。なので、オーストラリアやニュージーランドの人間に使うと「???」と返されることがある。アシュヴィンのアメリカ帰りという設定、そして野球にちょっと似ているクリケットが盛んなインドのお国柄を考えてみると面白い。ちょっとした慣用表現の向こうに、様々な世界が見えてくる。同表現は『 パルプ・フィクション 』でJ・トラボルタも使っている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, インド, ティロタマ・ショーム, ビベーク・ゴーンバル, フランス, ラブロマンス, 監督:ロヘナ・ゲラ, 配給会社:アルバトロス・フィルムLeave a Comment on 『 あなたの名前を呼べたなら 』 -ほろ苦さ強めのインディアン・ロマンス-

『 風立ちぬ 』 -今だからこそ見るべき矛盾に満ちた物語-

Posted on 2019年7月22日 by cool-jupiter

風立ちぬ 85点
2019年7月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:庵野秀明 瀧本美織
監督:宮崎駿

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2019年7月19日の夜にこのレビューのdraftを書いている。つまり、参議院選挙の2日前である。戦後レジームからの脱却を声高に唱え続ける与党であるが、それこそが戦前の空気の醸成であることに気がつかないのか。それとも気付いていて、意図的にそうした空気を作り出しているのか。官憲に公文書を改竄させ、さらには自身の選挙演説を野次る一般市民を官憲の力で強制排除する。これは現実の出来事なのだろうか。『 君の名は。 』は夢と現が混ざり合う不思議な物語であったが、夢と夢がシンクロしてつながるというアイデアは本作の方が先に採用していた。あらためて見返してみて、100年近く前の日本と現代の日本に驚くほど共通点があることにショックを受ける。

 

あらすじ

堀越二郎(庵野秀明)は小さな頃から、空への憧れを抱いていた。長ずるに及んで、彼は技術者となった。そして飛行機の設計技師として頭角を現していく。そして運命の相手、菜穂子(瀧本美織)と結婚する。だが、日本には戦争の影が、菜穂子には結核という病魔が迫っていた・・・

 

ポジティブ・サイド

映画とは芸術の一形態である。芸術には、メッセージが込められている。そうしたメッセージというのは、作家個人が発するものであったり、または時代や社会と切り結ぶことで生まれてくるものであったりする。後者のメッセージを発し続けるものとして、『 ゴジラ 』が挙げられる。本作は、宮崎駿本人の作家性と、堀越二郎という人物の生きた時代背景と現代に通じるテーマ、その両方を追求している。軽快に飛ぶ航空機を作り出すという純粋な夢、それが獰猛な兵器に転化してしまうという恐れ。国民が貧困にあえぐ中、多大なカネを費やして飛行機の設計と製作に携わっていく。部品一つの値段で、何人の子どもたちの食費がどれだけの期間賄えてしまうのか。矛盾である。大いなる矛盾である。よく知られていることであるが、宮崎駿は兵器オタクにして反戦論者である。これも矛盾である。中高老年のオッサンが、好んで少女を主人公にした映画を作る。これも矛盾である。アニメキャラの声の担当に声優ではなく俳優や、場合によっては素人も使う。これも矛盾である。本作は、人間の抱える矛盾に大きくフォーカスした作品であると言える。人間は美しい部分だけで成り立っているわけではない。主人公の二郎の生き様は決して褒められたものではないところもある。病床の菜穂子を気遣いながらも、プロジェクトXさながらに家庭を顧みず、仕事に打ち込む。そうした二郎の姿勢についての不満は妹の加代が、視聴者の心情のかなりの部分を代弁してくれる。そして、カストルプさんが指摘する「チャイナと戦争してる、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本破裂する。ドイツも破裂する」という、日本の忘却能力、反省の無さは、間接的な現代社会批判だろう。同時に二郎の言う「この国はどうしてこう貧しいんだろう」という言葉も同じである。本庄の言う「恐るべき後進性」もそうだ。宮崎は現代日本を鋭く抉っている。しかし、『 シン・ゴジラ 』における矢口の演説と同じく「我が国の最大の力は現場にある」ということを、二郎や本庄その他のエンジニアたちの自主的な研究会を通じて描き出す。日本という国の弱点と美点、つまりは矛盾をここでも浮き彫りにしている。

 

ことほど左様に矛盾に満ちた物語であるのだが、それは取りも直さず我々の生きることそのものが矛盾に満ちているからに他ならない。死ぬと分かっていながら生きるしかない。別離が来ると分かっていても結ばれるしかない。そうした矛盾を飲み込んで、それでも生きるしかない。菜穂子が最後に語る言葉がそのまま宮崎駿が我々に送るメッセージであろう。“The show must go on”ならぬ“We must live on”である。

 

夢と夢がシンクロするということに類似のアイデアは『 君の名は。 』にも使われたが、本作の二郎とカプローニの会話は、ある意味で究極の自己内対話である。幼少のころから辞書を片手に洋書に親しんできた二郎は、カプローニに私淑していた。単に書を読むだけではなく、夢の中でシンクロしてしまうほどに読み込んでいたわけだ。これはまさにちくま新書『 私塾のすすめ 』の140-141ページにおいて斎藤孝と梅田望夫が語る「自己内対話」に他ならない。であるならば、最後の最後の夢で、二郎が菜穂子と言葉を交わすシーンで、様々なものが逆転する。我々は二郎をselfishなworkaholicであって、彼が菜穂子を愛している度合いを疑問視させられてしまう。しかし、菜穂子も二郎と同じ夢を見ていたのだ。会えない二郎、離れていくことしかできなかった二郎と菜穂子は、奥深い部分でつながっていたのだ。これは見事な脚本にして演出である。

 

ネガティブ・サイド

二郎の卓越したセンスというものが、もう一つ伝わりにくい。魚の骨の曲線に美しさを見出すエピソード以外にも、紙飛行機を作る所作や紙の折り方にこだわる様子などを映してほしかった。

 

個人的に思うことだが、二郎と菜穂子の閨房のシーンは必要だったか。もちろん直接に描写されたわけではないが、もっと間接的に、匂わせるだけの描写の方が、このカップルには相応しいのではなかったか。玄関先でのキスシーンも同様で、アップではなく、もっと引いたところからのショットの方が、逆にロマンチックに、もっと言えばエロティックにすらなったのではないだろうか。人間は見えているものよりも、よく見えないものの方により想像力を働かせるからである。

 

総評

これは傑作である。次代を超えた普遍的なメッセージを送っているとともに、現代日本の「今」という瞬間を極めて健全に批判している。苦しくとも生きる。辛くとも生きる。愛する者のために生き、愛する者を残しても生きる。見終わって爽快感などは得られない。しかし、心底から苦しいと感じた時に、自分はこの作品に帰ってくるかもしれないと感じた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, アニメ, ラブロマンス, 庵野秀明, 日本, 瀧本美織, 監督:宮崎駿, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 風立ちぬ 』 -今だからこそ見るべき矛盾に満ちた物語-

『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

Posted on 2019年7月21日 by cool-jupiter

君の名は。 65点
2019年7月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:神木隆之介 上白石萌音 長澤まさみ
監督:新海誠

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これはStar-crossed loversの物語である。Starには星や、スター誕生のスターなど色々な意味を持っているが、「運命」という意味もある。そうしたことは『 グレイテスト・ショーマン 』でのゼンデイヤとザック・エフロンのデュエットが『 リライト・ザ・スターズ 』(Rewrite The Stars)『 きっと、星のせいじゃない 』の原題が“The Fault In Our Stars”(英語学習者で意欲のある人は、何故fault in our starsであって、fault with our starsなのか調べてみよう)であったりと、星は運命を司るものの象徴だった。そのことを真正面から描いた作品には希少価値が認められる。確か封切の週の日曜日の夕方に東宝シネマズなんばで鑑賞した記憶がある。あまりの観客の多さに、上映時間が20分ぐらいずれたと記憶している。『 天気の子 』の予習的な意味で再鑑賞してみる。

 

あらすじ

地方の田舎町に暮らす宮水三葉(上白石萌音)と東京に暮らす立花瀧(神木隆之介)は、互いの身体が入れ替わるという不思議な夢を見る。しかし、それは夢ではなく、二人は本当に入れ替わっていた。決して出会うことのない二人は互いへの理解を深めていく。その時、1200年に一度の彗星が迫って来ており・・・

 

ポジティブ・サイド

 

以下、ネタばれに類する記述あり

 

グラフィックは美麗の一語に尽きる。特に森の木々や空の雲、水面が映す光など、オーガニックなものほど、その美しさが際立っている。映画とテレビ番組の最大の違いは、映像美、そのクオリティにある。大画面に生える色彩というのはインド映画で顕著であるが、アニメーションの世界でも、いやアニメーションの世界だからこそfantasticalな色使いを実現することができるのだ。そのポテンシャルを存分に追求してくれたことをまずは讃えたい。

 

ストーリーも悪くない。星を身近に感じない文化はおそらく存在しない。要は、星をどのようなものとして捉えるか。その姿勢が、観る者の心を掴むことにもつながる。劇中でも言及されるシューメーカー・レヴィ第9彗星、それに百武彗星、ヘールボップ彗星などは一定以上の年齢の人間には懐かしく思い出されるだろう。また、こうした彗星を懐かしく思える人というのは、小惑星トータチスや、さらにはノストラダムス絡みの終末論などをリアルタイムで“楽しんだ”世代の人間だろう。新海誠氏はJovianのちょっと年上であるが、For our generation, stars are romanticized symbols. 星とは死と再生、破壊と創造の架け橋なのだ。そうしたモチーフとしてのティアマト彗星が、RADWIMPSの楽曲とよくフィットしている。七夕を現代的に大胆にアレンジすれば、このようなストーリーになってもおかしくない。

 

逢魔が時、黄昏時、誰彼時。確かに夏の日などには、ほんの数分、世界が紫の光に包まれる瞬間がある。生と死、陰と陽(これも分かりやすく町長の部屋にあった)、そうしたものが溶け合い混じり合う瞬間こそが、本作のハイライトである。それは夢現である。夢なのか、それとも現実なのか。『 となりのトトロ 』の「夢だけど夢じゃなかった」という、あの感覚である。そして、夢ほど忘れやすいものはない。たいていの人は、どうしても忘れられない強烈な夢の記憶が二つ三つはあるだろう。しかし、昨日見た夢さえ人は忘れてしまう。いや、悪夢にうなされて目覚めても、わずか数分でどんな夢だったかすら、我々は簡単に忘れてしまう。身体を入れ替える。それは、ある意味では究極の愛の実現である。アンドロギュヌスは男女に分裂してしまった。だからこそ、互いに欠けた状態を求め合う。それがエロスである。性欲や性愛ではなく、失われた半身を無意識のうちに探してしまう。それが瀧と三葉の関係である。そして、瀧は愛する三葉のために三葉になる。アガペーとも概念的に融合したキリスト教的な愛である。我々は愛する人が病気などで苦しんでいる時に、できることならその苦しみを自分が代わりに引き受けてやりたいと願う。しかし、それは神ならぬ身の自分にはできない。キリスト教の神は、人の罪を購うために一人子のイエスを遣わし、自ら死んだ。愛する人の代わりに死ぬ。それが究極の愛なのかもしれない。久しぶりに、ロマンチックな物語を観たと思う。

 

ネガティブ・サイド

普通に考えれば、瀧と三葉が入れ替わっている時に周囲の人間は異常事態に気付くはずである。「昨日はちょっと変だったぞ」では済まない。絶対に。ファイナルファンタジーⅧのジャンクションではなく、本当に中身が入れ替わっているのだから。例えばJovianの中身が、Jovianを非常によく知る人と入れ替わったとしても、Jovianの妻は一発で見破るであろう。夫婦の間でしか通じないパロールやジェスチャーがあるからだ。

 

また日本中の何十万人もの人が突っ込んだに違いないが、一応自分でも突っ込んでおくと、瀧の時間と三葉の時間にずれがあることは絶対にどこかで気付くはずだ。携帯電話でも、テレビでも、カレンダーの日付と曜日でも、新聞でも、なんでもよい。さらに、入れ替わる先の時間が異なっているというのは、ファイナルファンタジーⅧだけではなく、ゲームのPS2ゲーム『 Ever17 -the out of infinity – 』(厳密には入れ替わりではないが・・・)がネタとしては先行している。または同系列のPS2ゲーム『 12RIVEN -the Ψcliminal of integral- 』にも同じトリックが仕込まれていた。さらに遡れば『 市民ケーン 』も、一本道のストーリーと見せて、時間が大胆に飛ぶ構成になっていた。リアルタイムで展開されていると思われた二つの事象が時間線上の異なる点での出来事だったというのは、個人的にはこの上ないクリシェであった。

 

全体を通じて感じられるのは、RADWIMPSのためのミュージック・ビデオのような作りになっているということである。映像は美しく、キャラクター達もそれなりに魅力があり、ストーリーは陳腐ではあるが、美しくもある。しかし、そうした作品の長所や美点を支えているのが、音楽であるかのように感じられるのは何故なのだろうか。前世、運命、未来。そうしたバナールなお題目は、物語全体を以って語らしめるべきで、優れた楽曲に仮託するものではないだろう。本作のテーマは『 ボヘミアン・ラプソディ 』ではないのだから。

 

総評

悪い作品では決してない。むしろ優れている。ただ、新海誠監督の美意識というか様式美というか、『 秒速5センチメートル 』や本作などに見られるように、現実と非現実、此岸と彼岸、現世と幽世の境目、そこにある断絶の広がりを追い求めるのが氏のテーマである。今作はそれが若い世代の嗜好にマッチして爆発的なヒットになったことは記憶に新しい。しかし、もうそろそろ違うテーマを探し始めてもよいのではないだろうか。『 天気の子 』も同工異曲になるのだろうか。そこに一抹の不安を感じている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, ラブロマンス, 上白石萌音, 日本, 監督:新海誠, 神木隆之介, 配給会社:東宝, 長澤まさみLeave a Comment on 『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』 -多重人格ものの実験的作品-

Posted on 2019年6月27日2020年4月11日 by cool-jupiter

ジョナサン -ふたつの顔の男- 60点
2019年6月25日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:アンセル・エルゴート スキ・ウォーターハウス パトリシア・クラークソン
監督:ビル・オリバー

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多重人格ものには豊かな歴史がある。小説そして映画にもなった『 ジキル博士とハイド氏 』から、M・ナイト・シャマランの『 スプリット 』、日本の小説ではJovianだけが面白い面白いと評価している月森聖巳の『 願い事 』などが挙げられる。本作もありきたりのDIDものかと思わせておいて、ちょっとした趣向が凝らされていた。

 

あらすじ

建築事務所にパートタイマーとして務めるジョナサン(アンセル・エルゴート)には、もう一つの人格、ジョンが宿っていた。彼らは午前7時~午後7時、午後7時~午前7時をそれぞれ分け合って生活していた。互いの時間に経験した事柄をビデオ録画することで周囲にDID(Dissociative Identity Disorder)であることを知られずに生活していた二人だったが、いつしかジョナサンはジョンの行動にちょっとした疑問を抱くようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

多重人格ものの歴史は長い。異なる人格同士は対立または協力関係にあるのが定石である。本作はどうか。35歳以上の世代なら漫画原作でテレビドラマ化もされた『 銀狼怪奇ファイル〜二つの頭脳を持つ少年〜 』を覚えておられるだろう。本作はそういう物語である。しかし、本作が最もユニークなのは、ジョナサンのもう一つの人格であるジョンの視点を観客と決して共有しないところである。それにより、観る側は否応なくジョンのビデオメッセージの裏読みをしてしまう。いや、それだけではなく、いつしか我々はビデオメッセージそのものがジョンという存在の全てであるかのような錯覚にまで陥る。これは怖いことだ。何故なら、自分という存在の半分が消えてしまったかのように感じるからだ。我々はネット上のフォーラムなど文字や画像だけでやりとりする人間にも親しみを感じる。ハンドルネームだけしか知らない人間が、ある日、突然投稿を止めただけでも不安になる。お気に入りのブログが更新されなくなっても不安になる。ジョナサンとジョンは一心同体・・・ではなく異心同体なので、片方が無事であればもう片方も無事であることが分かる。しかし、自分の身に何が起こったのか分からない。酒にしこたま酔って、道端や終点駅で目覚めた経験のある人なら、分かる感覚だろう。ジョナサンの不安を、アンセル・エルゴートは巧みに表出していた。

 

異なる人格が同じ女性と恋に落ちるというストーリーは、Jovianは映画や本で体験したことは残念ながらない。だが、これはかなりバナールなプロットではないだろうか。陳腐でありながら、しかし、その後の展開が切ない。観る者の想像力を掻き立てる見せ方、映し方は、低予算映画の常套手段である。それを室内の鏡やテーブルなど、光を反射する素材を効果的に使い、インターミッションとして暗転を用いることで、一人にして二人、一人にして不連続の存在を、映画的演出で以って描写できていた。静謐にして激しい、非常に示唆に富むエンディングには賛否両論あるかもしれないが、あれはジョンを主人格、ジョナサンを副人格とした、新たな一個人の誕生であると受け止めたい。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、すでに『 シンプル・フェイバー 』で既に使われたネタが本作にも仕込まれている。まあ、それも飛浩隆の『 象られた力 』所収の短編『 デュオ 』が先行して使っているトリックであるのだが。

 

また、ジョナサンの抱えるDIDは、医学的に存在しうるケースなのだろうか。別人格は生まれてくるものであって、生まれながらにDIDであるという点に疑問が残った。同時に、『 ミスター・ガラス 』でも感じたことだが、人格の交代をコントロールしうる装置が存在することにどうしても納得ができない。外部環境の改善やコミュニケーション、カウンセリングにより複数の人格も統合しうることを小説『 十三番目の人格 ISOLA 』およびその映画化作品『 ISOLA 多重人格少女 』は示した(小説は面白いが、映画はスルー推奨である)。パトリシア・クラークソンなら、『 スプリット 』におけるベティ・バックリーに匹敵するようなカウンセラーを演じられたはずなのに、どうしてこうなった・・・

 

総評

サスペンスフルであり、スリラーテイストもあり、SF的でありながら、ヒューマンドラマでもある。ジャンルとしては、ボーイズ・ラブが一番近いのかもしれない。『 銀狼怪奇ファイル〜二つの頭脳を持つ少年〜 』を楽しめたという人なら、本作もおそらく楽しめるはずだ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, アンセル・エルゴート, サスペンス, スキ・ウォーターハウス, スリラー, パトリシア・クラークソン, ラブロマンス, 監督:ビル・オリバー, 配給会社:プレシディオLeave a Comment on 『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』 -多重人格ものの実験的作品-

『 愛がなんだ 』 -この不条理な愛という心の形-

Posted on 2019年4月29日2020年1月28日 by cool-jupiter

愛がなんだ 70点
2019年4月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:岸井ゆきの 成田凌
監督:今泉力哉

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愛とは何かと問われて即座に返答できるのは、宗教学者や哲学者であろう。しかし、彼ら彼女らの出す答えというのは往々にして一般人の肌感覚とは合わない。それなら、「愛とはためらわないことさ!」と、どこかで聞いた台詞でごまかすのも一つの手だ。本作はそんな愛の形を非常に興味深い形で映し出す。

 

あらすじ

山田テルコ(岸井ゆきの)は、マモちゃんこと田中守(成田凌)にぞっこんで、呼ばれれば深夜に赴き、飯炊きから風呂掃除まで甲斐甲斐しく彼の世話をしていた。だが、守はテルコを恋人にするつもりはさらさらなかった。ある時、守とついにベッドインを果たしたテルコは有頂天になるも、突然部屋から追い出され、それから守からの連絡が途絶えてしまうのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

まずは岸井ゆきのの演技に敬意を表したい。『 娼年 』における桜井ユキと、『 食べる女 』における広瀬アリスの両方の属性をさらに誇張したようなキャラを見事に体現してくれた。入浴シーンや、直接的ではないベッドシーンもあるので、スケベ視聴者はその辺にも期待して良い。何よりも注目したいのは、テルコが自分を客観視する視線の痛々しさと、自分で自分をまるで客観視できない痛々しさを同居させているキャラであること。特に即興ラップのシーンと銭湯のシーンには笑わされてしまった。こうした自己と対象との間に距離が生じた時、同一もしくは類似の対象への認識にずれが生じた時に、笑いが励起される。「人のふり見て我がふり直せ」と言うが、テルコの恋愛面での痛々しさは、多くの人間、おそらくはテルコと同じ20代後半女子の共感を呼ぶことだろう。ここで言う共感とは、テルコがマモちゃん一辺倒になって仕事も何もかもそっちのけで尽くそうとする様に対して「分かる、その気持ち」と感じることと、「えー、そんなのダメ」という相反する気持ちの両方を抱かせるということだ。このことは劇中でも一種のフラクタル構造になっていて、他キャラクターがもう一方のキャラクターへの接し方、大げさに言えば存在の在り様が、自分に重なりつつも自分とは違うという感情を呼び起こす。それは自己認識のずれであり、多くの人間が陥る「恋は盲目」状態である。そうした姿を時には激しい口論の形で提示する本作は、非常に上質なエンターテインメントである。恋やら愛やらは美しいものであること以上にドロドロとした醜悪なものでもある。テルコのストーカーまがいの気持ちは、美醜両方を兼ね備えていて、それゆえに岸井ゆきのの演技が光っている。

 

成田凌は、ようやくエキセントリックではない男の役がまわってきたか。いや、本作のキャラも充分に下衆な男ではあるが、それは守というキャラの一面に過ぎない。冒頭から玲淡とすら思わせる言動を見せつけてくれるが、それが物語終盤に鮮やかにひっくり返るロングのワンテイクの対話シーンがあり、守という男が単なる嫌な男ではなく、まず一人の人間であって、必死に甲斐甲斐しく尽くそうとするテルコに全く見合わない男なのではなく、彼自身にも彼の在り方があるのだということがしっかりと伝わってきた。注意すべきは、守というキャラクターもまた、様々な人間模様のフラクタル構造の一部であるということ。テルコに対する彼の姿勢は、そのまま江口のりこ演じるキャラの守への姿勢として跳ね返って来ているということ。

 

本作はテルコと守の閉じた関係を描くのではなく、テルコの親友やその友人男性(この男もまた痛々しい、それが泣けるし笑わせてくれる)らを巻き込んで、物語のあちらこちらに人間模様の相似形が展開されていく。これが何ともリアルである。中盤以降に、江口のりこのキャラクターが、あるキャラの一途な想いをぶち壊そうと口舌を振るうが、これが『 君が君で君だ 』における向井理とYOUのように、偏執的な想いに凝り固まったキャラの頭にガツンと一発見舞ってくる。そこからフラクタルは崩壊に向かい、一つの模様に帰着するのだが、これまた何とも痛々しい。テルコに拍手。テルコに乾杯だ。

 

本作は撮影に関しても優れている。カメラの長回しをするのであれば、それはキャラクターに焦点を強く長く当てたい時だ。であるならば、彼ら彼女らの表情や息遣いをそこに収めなければならない。少女漫画の実写化で何故か遠景からのショットを延々と撮り続ける意味不明なワンカットが一頃横行していたが、本作のような基本に忠実で、観る者に本当に見せたいショットをワンカットで提供するようにしてほしい。

 

ネガティブ・サイド

成田凌演じる守を「かっこいい」と「かっこよくない」に二分法で「かっこよくない」に分類するのは難しいのではないか。かっこいいの定義は人による。しかし、何よりも映像や絵を見せる映画という媒体では、かっこいい=外見、見目麗しさを指すものだと捉えられる。ならば原作小説を翻案して、「いいひと」か「あんまりいい人じゃない」のように変えてしまう必要性も認められたのではないだろうか。

 

後はテルコ目線で、もう少し守の最大の魅力である手を描いたり、あるいはたいてい何かをパクついているテルコの食べ物をもう少し映し出してほしかった。テルコの良いところは(?)は、はたから見れば疲れてしまう環境、状態におかれてもお腹はしっかり減るところ、何かをがっつり食べるところで、それは一般的な恋愛模様とは真逆である。典型的には、女子は恋をすると食べ物がのどを通らなくなり、痩せる。したがって綺麗になる。テルコは逆で、常に何かを食べている。テルコは無償の愛を与える側ではなく、むしろ対象から栄養を吸い取るような、屈折した愛情の持ち主であるというフラクタル構造が見て取れる。だから、テルコが食べているもの=テルコ目線での男の良いところ、を観る側にもっとシェアして欲しかった。そう思えてならないのである。

また、愛をアガペーやエロス的なもの、もしくはキリスト教的な愛(=対象に変わりたい)という、やや哲学的、宗教的な匂いのする観念が散りばめられているのが、個人的には少々ノイズであった。このあたりは気にしない人も多いだろうけれど。

 

総評

久々に良い邦画を観たと感じた。今泉監督の、観る側や原作者に媚びない姿勢というか、「俺の世界解釈はこうなのだ」というビジョンを共有できた気がする。人間関係というのは自己と他者の関わり以外にも、自己と自己の関わり、自己内対話でも成り立っている。単なる恋愛感情以上のものがそこにあることを提示してくれる本作は、20代以上の男女に是非とも観て欲しいと思わせる逸品である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ラブロマンス, 岸井ゆきの, 成田凌, 日本, 監督:今泉力哉, 配給会社:エレファントハウスLeave a Comment on 『 愛がなんだ 』 -この不条理な愛という心の形-

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