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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 国内

『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

Posted on 2018年10月24日2019年11月3日 by cool-jupiter

泣き虫しょったんの奇跡 60点
2018年10月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:松田龍平 渋川清彦 イッセー尾形
監督:豊田利晃 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181024024021j:plain

将棋界が熱い。昨年2017年の羽生善治の前人未到、空前絶後の永世七冠達成と藤井聡太フィーバー、さらに加藤一二三の完全タレント化、それ以前にも映画化された『 聖の青春 』やアニメおよび映画化された『 三月のライオン 』など、将棋ブームが到来し、定着しつつあるようだ。もちろん、コンピュータ将棋の恐るべき進化、特に将棋電王戦でのプロ棋士の通算成績での負け越しや叡王戦での名人・佐藤天彦の完敗を忘れるべきではないだろう。もちろん将棋は偉大なるボードゲームで、その目的の第一は楽しむことである。当然、そこから派生するエンターテインメントも豊かに生まれてきた。近年だけでも小説『 盤上のアルファ 』がNHKでテレビドラマ化される見込みであるし、元奨作家による『 サラの柔らかな香車 』、『 サラは銀の涙を探しに 』も上梓された。そんな中、満を持して瀬川晶司の『 泣き虫しょったんの奇跡 』が映画化と相成った。

 

あらすじ

しょったんこと瀬川晶司は、勉強でも運動でも特に取り柄のない小学生。しかし将棋が大好きな子だった。兄やクラスメイト、隣の家の子らと切磋琢磨するうちに、プロ棋士の存在を知り、それに憧れ、奨励会に入会する。しかし、そこは天才少年、神童たちが鎬を削る過酷な世界だった。しょったんは青春を将棋に懸けるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

松田龍平の演技が光る。顔は瀬川棋士に似ているとも似ていないとも言えるのだが、それはオールデン・エアエンライクがハリソン・フォードに似ている程度には似ていると言えよう。つまり、それほど似ていない。が、雰囲気が実によく似ている。

 

だが、松田よりも特筆すべきは豊川孝弘役(と敢えて書く)を演じた渋川清彦だ。豊川はNHK杯での二歩による反則負けで一躍その名を全国に轟かせ、その後も地味にB1に昇給したり、バラエティやネット配信などで得意の親父ギャグを連発するなど、加藤一二三には及ばないものの、棋界の変人の末席に連なる人物と言える。風貌も相当に似ているし、話し方や表情などもかなり似せる努力をしていたのが見て取れる。その豊川本人が久保役で出演していることにも笑ってしまった。

 

しかし、本作で最も強烈なインパクトを残してくれたのはイッセー尾形である。しょったんの通う将棋道場の席主であり、将棋の技術ではなく、心構えの師匠役を完璧に演じてくれた。はっきり言って序盤の主役はイッセー尾形である。人によっては松たか子であると言うかもしれないが、Jovianの目にはイッセー尾形がより強力な輝きを放っているように映った。

 

将棋というのは躍動感にはどうしても欠けてしまう。それは『 聖の青春 』や『 三月のライオン 』でも、しっかりと描くことはできなかった部分だが、本作は飛車が盤の端から端まで動くのを接写することで、躍動感を生み出した。ありきたりなようでいて、実は新しいこの撮影手法には大いに喝采を送りたい。漫画『 月下の棋士 』の氷室将介のように大きく振りかぶって駒を打ちつけてしまうような演出は一二三だけで十分だ。

 

瀬川の少年時代に少し時間を割きすぎとの印象も受けたが、松たか子演じる小学校の担任の言葉が瀬川にとっての心の拠り所でもあり、またある意味での呪いになってしまっていることを描き出すためには致し方なかったのだろう。実際に将棋指し=芸術家+研究家+勝負師なわけで、この勝負師という部分の弱さ=優しさが対局の相手を利することになってしまう場面がある。情けを知るトップのプロ棋士ならいざ知らず、奨励会の、しかも3段リーグという鬼の棲家では、この甘さは致命傷だ。実際に妻夫木聡演じる奨励会員が「ここでは友達を無くすような手を指さないと勝てない」とこぼすが、これは紛れもない事実だ。激辛流で名人位まで獲った男もいるのだ。そうした弱さを、非常に分かりやすい形で観客に伝えることは、将棋指しの世界の厳しさをそれだけ浮き彫りにしてくれる。元奨の監督ならではであろう。

 

なお、もしもまだ本作を未見で劇場鑑賞を考えている方がいれば、ぜひこちらのニコニコ動画を参照されたい。原作書籍『 泣き虫しょったんの奇跡 』以外に予習しておくべきものがあるとすれば、この動画である。1から5まであるが、ぜひ参照されたい。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、いくつかの弱点も存在する。現実世界に符合しないものが多々描写もしくは説明されるのだ。いくつか気になった点を挙げると、しょったんと親友が将棋道場に足繁く通う描写と説明だ。土日になると開店時間の11:00にすぐに入店したと言うが、瀬川が小学校高学年から中学生にかけての時代はまだ学校週休二日制は導入されていなかった。小学校でも5-6年生は3~4時間目までは授業があったはずで、土曜の11:00に入店は難しいのではないか。また1980年代初頭(‘80~’82)に、電車の駅にはアイスクリームの自販機は無かった。

 

他にも明らかに事実とは異なる描写が見られた。プロ編入試験がプロ相手に3勝と説明されたが、実際は奨励会員に女流棋士も試験官を務めたのだから、この説明はおかしい。一般人の監督であればリサーチ不足と切って捨てるだけだが、元奨の監督なのだから、ここは厳しく減点せざるを得ない。他にも、棋士や奨励会員が一手を指す時に、持ち駒を使う描写がやけに多い。素人のへぼ将棋ならまだしも、プロ一歩手前の実力たちの対局を描くにあたって、この辺は少し気になった。

 

また、瀬川のプロ編入試験の5局目で席主や元奨連中が一様に瀬川のニュースを知って驚くのだが、これも不自然極まりない演出だ。将棋の駒の動かし方すら知らない人間であればいざ知らず、瀬川のプロ編入試験は大々的に報じられていたし、一局ごとにテレビやネットで中継され、藤井聡太の連勝中ほどではないが社会現象化していたのだ。

 

最後に、日本将棋連盟執行部にプロ編入を嘆願する際のプロ側の態度。あれはどれほど事実に即しているのだろうか。当時の連盟会長の米長は、常に“行乞の精神”を説いていた。名人戦の移管問題でとんでもない騒動を引き起こしたが、逆に言えば話題作りに長けた男でもあった。名人位には特権的な意識を抱いていただろうが、プロ棋士という地位や肩書に胡坐をかいて、あれほどの特権意識をひけらかす男だっただろうか。このあたりに豊田監督の限界を見るように思う。元奨の残念さという点では、電王戦FINALで21手で投了した巨瀬亮一を思い出す。FINALはハチャメチャな手が飛び出しまくる闘いの連続で、特に第一局のコンピュータの水平線効果による王手ラッシュ、第二局のコンピュータによる角不成の読み抜け(というか、そもそも読めない)など、ファンの予想の斜め上を行く展開が続いた。特に第二局は、▲7六歩 △3四歩 ▲3三角不成 という手が指されていれば一体どうなっていたのか。

 

閑話休題。元奨の中には将棋界に憎悪を抱く者も少なくない。豊田監督は駒の持ち方、指し方に強いこだわりを示していたそうだが、心のどこかに将棋および将棋界へのネガティブな感情がなかっただろうか。監督が強くこだわるべきリアリティにこだわれなかったせいで、傑作になれたであろうポテンシャルを発揮できないままに本作は完成させられてしまった。そんな印象を受けた。

 

総評

ライトな将棋ファンには良いだろう。特に観る将ならより一層楽しめるだろう。将棋は何も指すだけが魅力ではなく、それを指す人間の面白さも大事なのだ。でなければ、誰が棋士の食事にまで関心を持つというのか。一方でディープでコアな将棋ファンの鑑賞に耐えられる作品かと言うと、そこは難しい。シネマチックにすることとドラマチックにすることは似て非なるもので、リアリティをそぎ落とすことでしか追求できない面白さもあるが、本作には当てはまらない。良い作品ではあるが、将棋ファンを唸らせる逸品ではない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, イッセー尾形, ヒューマンドラマ, 伝記, 日本, 松田龍平, 渋川清彦, 監督:豊田利晃, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

『 散り椿 』 -傑作に成り切れなかった作品-

Posted on 2018年10月16日2019年11月1日 by cool-jupiter

散り椿 50点
2018年10月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:岡田准一 西島秀俊 麻生久美子
監督:木村大作

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散り椿

すっかりアイドル路線から俳優路線にシフトした岡田准一である。しかし、出身地である大阪府枚方市ではご当地ひらパー園長を務め、大真面目に面白おかしいひょうきん兄さんを演じる好漢でもある。ヒット作品もイマイチな作品も、岡田准一なのだからと妙に納得できる力をつけてきている。そして、出番こそ少ないものの麻生久美子である。『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』では男子高校生の欲情を微妙に、絶妙にそそる駐在妻を演じ、『 シーサイドモーテル 』では娼婦を、『 モテキ 』、『ニシノユキヒコの恋と冒険』、『 ラブ&ピース 』あたりでは幸薄い大人の女を演じるなど、常にそこはかとない色気を振りまいてきた麻生久美子である。これだけで映画の成功は半分は約束されていたはず、だったが・・・

 

あらすじ

剣の達人にして清廉の武士、瓜生新兵衛(岡田准一)は、藩の上層部の不正を届け出た。しかし調査の最中、ある藩士が殺害された。その下手人としての疑いが新兵衛にかけられたことで、新兵衛は、妻の篠(麻生久美子)と共に出奔。それから八年、篠の死を看取った新兵衛は、藩政の正道化を目指すかつての仲間にして出奔の原因ともなった榊原采女(西島秀俊)のいる国もとを訪れる。藩政の行方が懸かった権力闘争に、新兵衛も巻き込まれていく・・・

 

ポジティブ・サイド

殺陣の迫力と、その長回しでの収録には恐れ入った。西部劇にドンパチ対決がなくてはならないように、時代劇には必ず殺陣がなくてはならない。その殺陣を、編集の力を極力借りることなく一気に描き切り、撮り切ったことに、役者、照明、音声収録、カメラオペレーターらの苦労を思い知る。武士を描く、もしくはチャンバラを描く映画は定期的に生み出されるが、これほどしっかりとした時代劇は『 一命 』以来である。

 

岡田准一の存在感は相変わらず高いレベルで安定している。本来ならば馬を称えるべきなのだろうが、暴れ馬を一瞬で御してしまうシーンを冒頭に持ってくることで、新兵衛は単なる剣術馬鹿なのではなく、一廉の武士であることを明示した。これがあることで悪代官の権化のような石田玄蕃(奥田瑛二)と対峙しても、その格を保っていられる。また悪役側の雄たるべき新井浩文の役に対しても格上であることを観客に一瞬で知らしめた。これこそが映画の技法である。

 

篠の妹の里美(黒木華)や、新兵衛や采女の盟友の娘、美鈴(芳根京子)らの女優陣も作品に落ち着きと生活感をもたらしている。『 クレイジー・リッチ! 』でも顕著であったが、ある特定の地域や時代、もしくは家庭や生活の背景を物語る際に、家政のシーンを描写するというのは非常に効果的である。もしくは『 万引き家族 』を思い出しても良いだろう。あのごちゃごちゃした空間は、生活レベルの低さ、貧しさを言葉ではなく映像で如実に説明した。本作も里美が忙しなく動き回るシーンをいくつか挿入することで、新兵衛が帰ってきた藩、そして家に生活感があることが感じられる。最愛の妻を亡くした新兵衛が、落ち着いて逗留できる場所を見つけられたことの新兵衛の安堵の気持ちを、縁側のシーンで鮮やかに描き切った。これもまた映画の技法である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、指摘しておかねばならない弱点もある。物語が余りにも特定の人物の周辺だけで展開されている。農民のために新田を開墾するというのなら、武家の坂下家だけではなく、ほんの数ショット、時間にして20秒で良いので藩の農民の生活ぶりを映し出す必要があったと思う。それがあれば、後半の殿の江戸からの帰還の重みと采女の心情と信条の強さがより際立ったであろうと思う。

 

もう一つ残念なのは、後半に颯爽と登場する殿がデウス・エクス・マキナになるのかと期待させながら、狂言回しにすらならないことだ。また石田玄蕃の終盤での行動の必然性が分からない。何故あそこで、このキャラクターを狙ったのか。それは玄蕃の思惑というよりも作者の思惑だ。物語を進め、ドラマを盛り上げたい以上の意図が読み取れない事件が発生するのである。ここから本作は一挙に陳腐化する。水戸黄門であれば印籠を出して最後にシャンシャンで済むわけであるが、本作はテレビドラマではなく、小説を基にした映画である。殺陣の迫力のみでクライマックスを押し切ってしまうのは大したものと言えなくもないが、悪役の玄蕃の言動や行動原理が首尾一貫せず、また死に様にも美しさが無い。もっと陳腐な死に方でよいのだ。結局は小物だったのだから。もしくは福本清三や、あるいは斬られ侍の藤本長史が決して出来ない(してはならない)顔芸で死んでいっても良かった。クライマックスに至る過程とその決着の必然性と美しさの欠如が、本作から大きく減点しなくてはならない要素になってしまっている。

 

最後にもう一つ細かい点を追加するなら、雪のシーンは何とかならなかったのだろうか。黒と白のコントラストは映画館では特に映えるものだが、そこに映像美以外のものが込められていなければ、それは製作者の自慰に過ぎない。手を血で染め、愛する人もなくし、友を支えることもできずに悶々とした日々を過ごして新兵衛と、前途に洋々たる希望を抱く若武者の坂下藤吾(池松壮亮)が対比されるシーンがあったが、これで良いのだ。逆にオープニング早々の雪がしんしんと降るシーンは画としては美しくとも、映画としては失敗であると断じさせていただく。

 

総評

時代劇というのは年々難しくなっているジャンルである。水戸黄門すら打ち切られて久しい。今後も戦国時代をパロディ化した原作を基に映画を作るというトレンドは続くと思われるが、本格的な時代劇映画の再興は遠いと思われる。が、岡田准一、西島英俊というキャスティングからも、製作者たちは本作をカジュアルな女性ファンにも届けたいと願っているのは明白である。そうした層に向けてのヘビーな絵作り、ライトな物語というのであれば、納得できないことはない出来である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, 岡田准一, 日本, 時代劇, 監督:木村大作, 西島秀俊, 配給会社:東宝, 麻生久美子Leave a Comment on 『 散り椿 』 -傑作に成り切れなかった作品-

『 おと・な・り 』 -音と大人とお隣と音鳴りの物語-

Posted on 2018年10月14日2019年10月31日 by cool-jupiter

おと・な・り 70点
2018年10月11日 レンタルDVD鑑賞
出演:岡田准一 麻生久美子
監督:熊澤尚人

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タイトルはおそらくquadruple entendreになっている。【音】、【大人】、【お隣】、【音鳴り】の4つの意味が考えられる。これは音を鍵にした物語であり、二人の30歳の大人の物語であり、その二人は同じアパートのお隣さん同士であり、音を媒介に人と人とが繋がる物語である。

 

あらすじ 

風景専門の写真家に転向したいのだが、事務所や仕事の状況がそれを許してくれない野島聡(岡田准一)。フランスに留学し、フラワーデザイナーになるという目標に邁進する登川七緒(麻生久美子)。同じアパートに住む隣人同士だが、顔を合わせたことはない。しかし。幸か不幸か、安普請のアパートで互いの生活音や大きな声は筒抜け。二人には奇妙な連帯感が生まれていた・・・

 

ポジティブ・サイド

「基調音」は、『 羊と鋼の森 』のレビューで概説した、サウンドスケープの構成概念である。街行く人の多くがイヤホンで耳をふさぎ、個人の趣味や学びに没入する時代であるが、それでも自分の生活圏やコミュニティ特有の音というものには親しんでいるはずである。おそらく多くの人がお盆や年末年始に帰省することで、それを実感しているものと思われる。例えば都会に住んでいる人が地方の田舎に帰れば、静けさと鳥や虫の鳴き声などに驚き癒され、あるいは田舎の人間が大都市に出てくれば、電車や車の走行音や人々の雑踏に驚き煩わされるかもしれない。基調音は、読んで字のごとく生活のベースに根付いた音なのである。そういう意味では、我々が基調音を最も意識するのは、基調音が存在しない時と言えるであろう。

 

本作で聡が出す声や音、七緒が出す声や音は、互いの生活リズムに深く刻まれている。その基調音が非在の時、もしくはそこに強烈なノイズが混じった時、自分はどう感じるのか。どう動くのか。そんなことを思わず考えさせられてしまう。

 

また30代という、難しい年齢そのものがテーマにもなっている。ステレオタイプな見方を本作は採るが、男は自分のキャリアの方向性について大きな決断を迫られ、女は恋愛や結婚に向けて動くべきなのか、それともキャリアを追求すべきなのかを迫られる。迫られる、という受動態に注目されたい。自分にその選択を迫ってくる主体は誰なのか、何であるのか。それは両親かもしれないし、友人かもしれないし、知人かもしれないし、上司かもしれないし、耳を傾けることを拒否してきた自分の内なる声かもしれない。本作は、その内なる声を、非常に独創的な方法で鑑賞者に聞かせる手法を取る。これは上手い。女性をロマンティックに誘う時には、相手に本音を言わせてはならない。女性を怒らせる時には、相手に喋らせる。個人差はあるだろうが、女性という生き物は確かにこのような性質を有しているようだ。

 

映画というのはリアルを積み重ねて、面白さを追求していく媒体であり芸術だ。そして、我々が最もリアルを感じるのは、キャラクターに共感できた時なのである。そうした意味で本作は30歳前後で人生の岐路に立つ男女に、大きな示唆を与えうる作品である。

 

また、エンディング・クレジットにも注目、いや注耳してほしい。陳腐と言えば陳腐だし、画期と言えば画期的な仕掛けが施されている。レンタルする方は最後までしっかりと鑑賞をしてほしい。

 

ネガティブ・サイド

ペーシングにやや難ありと言わざるを得ない。まるで韓国ドラマを観ているかの如く、「早く出会え、早く気付け」と思わされてしまう。また、そこに至るまでにSHINGOの話を引っ張りすぎている。谷村美月は素晴らしい仕事をしたが、彼女の出演シーンはもう3分は削れただろう。それを岡田准一と麻生久美子のパートに費やして欲しかった。しかし、それを見せずに想像させるのも、一つの手法として認められるべきだろう。音がテーマの本作なら尚更である。なので、このあたりのネガティブな評価は意見が分かれるところだろう。

 

もう一つケチをつけるとするなら、岡田准一のカメラマンとしてのたたずまいが少し弱い。風景専門のカメラマンならば、『 LIFE! 』におけるショーン・ペンのような雰囲気を醸し出して欲しかった。つまり、ベストショットを撮れるまで辛抱強く待ち構える根気と、ベストショットを嗅ぎつける動物的な嗅覚である。もちろん、かつて写真を撮った橋の、度の位置のどの方角かまでしっかりと記憶しているというプロフェッショナリズムは垣間見えたが、もっとカメラマンを演じて切ってほしかった。これも無い物ねだりだろうか。

 

総評

非常に完成度の高いヒューマンドラマに仕上がっている。2009年の作品だが、岡田准一のキャリア自身も投影されていたのではないだろうか。アイドルとしての自分と俳優としての自分。どの道を選択し、究めようとするのか。そのあたりの人生の岐路を役に託して撮影に臨んだのかもしれない。その他、麻生久美子、岡田義徳、市川実日子、森本レオらも素晴らしい仕事した。アラサーに大きな示唆を与えうる映画であるし、キャリアや人間関係にストレスを抱える人の鑑賞にも耐える作品である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, B Rank, ラブロマンス, 岡田准一, 日本, 監督:熊澤尚人, 配給会社:ジェイ・ストーム, 麻生久美子Leave a Comment on 『 おと・な・り 』 -音と大人とお隣と音鳴りの物語-

『 あのコの、トリコ。 』 -漫画の技法を映画に持ち込むべからず-

Posted on 2018年10月14日2020年1月3日 by cool-jupiter

あのコの、トリコ。 20点
2018年10月11日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:吉沢亮
監督:宮脇亮

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全く立たないキャラクター、中学か高校の学芸会レベルの演技。あまりにもご都合主義過ぎるプロット展開などなど、誰が何をどのように作れば、これほどの駄作になるのか。調べてみると、映画の監督はこれが初という宮脇亮氏。テレビ番組作りと同じノリで映画を作ってしまったのだろうか。テレビ番組というのは、基本的には明るい部屋で、比較的小さな画面で、ご飯を食べたり、携帯やPCをいじったり、料理をしたりしながら観ることが多い。視聴者を画面にくぎ付けにするのではなく、ゆる~く、ライトに観られる。それがテレビの本質の一部である。対照的に、映画は真っ暗な空間で、大画面と大音響で、観客をスクリーンに吸い寄せるかのごとく美しい光と影のコントラストを映し出さねばらない。本作は映画であったのか。答えは残念ながら否である。

 

あらすじ

鈴木頼(吉沢亮)、立花雫(新木優子)、東條昴(杉野遥亮)の3人はいずれも役者を夢見る幼馴染。3人でオーディションを受けるものの、頼はいつも不合格。親の転勤でいつしか2人とも離れ離れに。しかし、ある時、雫がモデルとして雑誌に出ているのを目にし、心の奥底に燻っていた想いが蘇ってきた。雫のそばに行きたい。俳優になりたい。頼は上京し、雫と同じ学校に転入し、雫との再会を果たす。そして、何故か雫の付き人になってしまうのだが・・・

 

ポジティブ・サイド 

残念ながら、そのようなものは無かった・・・で、終わらせるのはあまりにも容易い。しかし、『 銀河英雄伝説 』でラインハルトがキルヒアイスを評したように「ゴミ溜めの中にも美点を見出す」ことも時には必要であろう。

 

強いて挙げれば、主演の吉沢と岸谷五朗の演技だけが及第点~合格点に近い。特に吉沢に関しては、冒頭の5分で主人公の頼の属性をナレーションに頼ることなく過不足なく演技だけで説明できていた。押しの弱さ、声の小ささ、やたらと広いパーソナル・スペース、猫背でトボトボと歩く様、LINEの他愛のないスタンプで心ときめかせてしまう初心さ、人と極力、目線を合わせようとしない=軽度の視線恐怖症の症状など、対人スキルの未熟さを一気に見せた。そして、そこがピークだった。

 

岸谷は、舞台・映画の監督役として、寡黙でいて妙な迫力を醸し出し、現場ではカリスマ性と統率力を併せ持つキャラクターを演じていた。今でも岸谷のベストパフォーマンスは『 月はどっちに出ている 』とテレビ映画の『最後のストライク~炎のストッパー・カープ津田恒美 』だと思っているが、本作は岸谷のキャリアの中ではトップ15に入るかもしれない。プロミスのCMの谷原章介のような服装、格好が以外にハマる。Jovianは岸谷の演技力や存在感を少し見誤っていたのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

こちらはもう何から挙げて、何で終わればいいのか分からない。何よりも雫役の新木優子、昴役の杉野遥亮ともに演技が下手すぎる。かろうじて棒読みではないというだけで、声の強弱のコントロール、抑揚の付け方、リズム、区切りなどなど、自主製作映画界に連れて行っても、演技偏差値は50前後ではなかろうか。それに表情についても、もっと研究し、鏡の前で練習すべきだ。それだけではもちろん不足で、演技指導者にきっちりフィードバックをもらう必要もある。雫に関しては劇中で二度、感情を吐露というか、一気に吐き出すシーンがあるのだが、その二つともが単にいつもより大きな声を出してみました、という演技。しかも表情に変化はほとんど無し。監督は何故これをOKテイクにしたのか。それとも何十通りと撮り切って、最もマシなものを編集でつなぎ合わせたのがコレだと言うのか。とうてい納得がいくものではない。実際にJovianが映画を観終わってトイレに向かう途中ですれ違った女子高生と思しき二人組は「新木優子、あかんわ。演技下手すぎ」「なー、ホンマに!」と実に忌憚のない感想を述べ合っていた。新木には1,800円の内、300円を返せと言いたい。

 

さらに輪をかけて酷いのが二人いる。一人は杉野遥亮だ。あまり率直に評すと批評ではなく攻撃になりそうなので止めておく、としか言えない。ただ、新木ともども、この程度の演技力で俳優、女優を演じ、トントン拍子に映画の世界の出世階段を昇っていくというのは、リアリティに欠ける。映画というのは、というよりも一般に娯楽とされるものの多く(それは小説であったり、ゲームであったり、遊園地やテーマパークのアトラクションであったりだ)は、リアリティを積み重ねて大きな幻想を作り上げるというコンセプトで成り立っている。その最大の媒体はやはり映画だ。その映画の作り手として、この監督を持ってきてしまったこと自体が最大のミスだ。杉野と宮脇には1,800円の内、1,000円を返せと言いたい。

 

宮脇監督に(こんな声など届かないと知りつつ)強く言っておきたいのは、観客を信用しなさい、ということだ。主演三人の中で唯一、まともな演技ができる吉沢の心の声をナレーションにして観客に聞かせる一方で、表情や立ち居振る舞いで思考や感情を表現することができない未熟な役者二人にはそれをさせないというのは、「この映画を見に来る一番の客層は吉沢ファンの中高生女子だろう。だったら吉沢のパートを丁寧に描いて、ついでに分かりにくいかもしれないから心の声も聞かせてやれ。漫画の吹き出しと同じ原理だ」などと考えていたとしてら、それは失敗であり侮辱である。漫画の技法をそのまま映画に持ち込んでも成功するとは限らない。いや、往々にして失敗する。持ち込むべきはキャラクターであって、描写や演出方法ではない。

 

他にもシーンとシーンのつながりの不自然さ(昼間のシーンなのに、太陽の位置が下がっていたり)や、キャラの立たせ方の不自然さ(頼の演技力の不自然な高さ)など、99分の上映時間に収めたのは立派かもしれないが、もう5~10分を費やして詰めるべき細部があったのではなかろうか。あまりに詳細を書き出すときりがないため、残りは割愛せざるを得ないが、物語以前の部分で破綻してしまっているシーンが多いし、それが目に付いてしまうのである。大きな減点対象だ。

 

総評

『 ママレード・ボーイ 』も度肝を抜かれるような駄作だったが、吉沢の出演作は外れになるというジンクスでもあるのだろうか。『 BLEACH 』も酷い出来だった。MIYAVIも大根だったが、杉野も負けてはいない。五十歩百歩である。どちらが五十歩であるかは観る人それぞれの判断に委ねたい。よほど原作に強い思い入れがある、もしくは吉沢亮の大ファンであるという以外の向きにはお勧めは難しい。または、新木優子の下着姿に興味があるという健全な男子は、そこを見終えたら静かに退出するというのも一つの選択肢ではある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ロマンス, 吉沢亮, 日本, 監督:宮脇亮, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 あのコの、トリコ。 』 -漫画の技法を映画に持ち込むべからず-

『 パーフェクトワールド 君といる奇跡 』 -テーマの重さを描き切れていない-

Posted on 2018年10月8日2019年8月24日 by cool-jupiter

パーフェクトワールド 君といる奇跡 30点

2018年10月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:岩田剛典 杉咲花
監督:柴山健次

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 本作の主題は、「障がい者と恋愛できるか」ということ。そしてその奥にあるテーマは、「障がい者を見る目線は、自分が障がい者になった時に人から向けられる目線である」ということ・・・ではなかった。一瞬でも良いので登場人物の行動を通じて、そのような心理を描写して欲しかったと思うのは贅沢というものだろうか。

 川奈つぐみ(杉咲花)は、職場の同僚との飲み会に高校の先輩にして初恋の人である鮎川樹(岩田剛典)が来ることを知り、飲み会に参加する。再会した樹はしかし、車イスに乗っていた。大学3年生の時に交通事故にあり、脊髄に損傷を負ったのだ。仕事に真摯に、健気に気高く生きる樹に、つぐみは抑えていた思慕を募らせる。二人の距離は縮まる。果たして恋人になれるのか。そしてその先には・・・

 結論から言うと、本作は失敗である。何よりも訴えたいテーマが無い。いや、原作の漫画にはあるのだろうが、それを2時間弱の映画に過不足なく織り込むことには失敗している。この分野にいくつかの優れた先行作品がある。その最たるものは『 博士と彼女のセオリー 』であると思っている。そこには肉欲もあり、愛情だけでは乗り越えられないケアの問題もあり、愛情を超えた互いへのリスペクトもあり、さらには美しい後悔もあった。また『 ブレス しあわせの呼吸 』でも、夫婦(もしくはカップル)としてのドロドロとした人間関係の部分というか、閨房も映しだしていた。もしくはある意味でこの部分に特化した作品として『パーフェクト・レボリューション』を挙げても良いだろう。映画はだいたいにおいてフィクションであるが、その面白さは虚構性よりも迫真性、真実味、現実感などから生まれてくるものだからだ。

 脊髄損傷のため歩けない、移動は車イス、ということがどれほどのハンデになるのかという描写からしてまず弱い。たとえば車イスを押したことがある人なら、もしくはベビーカーを押したことがある人なら、減ってきたとはいえ、日本の街にどれほどのバリアが残っているかをしみじみと実感したことがあるはずだ。そうしたネガティブな感覚というのはいつしか降り積もり、そのストレスが思わぬ形で噴出されてしまう。ベタだが、そうしたシーンを挿入する余裕もなかったか。いや、それでもテレビドラマだが、この分野には『 Beautiful Life 〜ふたりでいた日々〜 』という先行テクストもある。何故つぐみは樹を好きになったのか。そして、その好きという感情が車イスに乗る樹を目の当たりにした時、どう揺らいだのか。そしてその揺らぎが収まり、想いが溢れるまでに至ったきっかけは何であったのか。つぐみが本来感じなくては不自然な、感情や思考のジェットコースターが、ほとんど描写されないままに二人は恋人となる。それは確かに胸を打つのかもしれないが、非常に皮相的な感動だ。樹が排泄障害について言及するところなど、本当はぼかしてはいけないシーンなのだ。つぐみが樹の抱える様々な困難に対して、人間的に葛藤し、苦悩し、それでも寄り添っていたいと自律的に考ねばならないのに、それを樹自身の強さに仮託してしまってはいけない。パースの仕上げに、元美術部員として腕を奮うようなつぐみが、もっと随所に出てこなくてはいけなかった。

 本作の弱点は他にもある。エンドクレジットは一応全て見たつもりだが、医療監修がいなかった。これは致命的だ。物語の面白さは細部のリアリティへのこだわりで補強されるのだから、樹の病院での処置シーンにはもっと監督はこだわるべきだった。最も眩暈がしたのは、樹の初期段階の褥瘡にガーゼを貼付するシーンだ。劇場で鑑賞した医師、看護師、その他の医療従事者の方々は映画製作者の不勉強に頭を抱えたことだろう。また、軽度とはいえ、つぐみの父がおそらく左脳に脳梗塞を発症させ、おそらく右側に軽い麻痺が残ってしまったのだろうが、そのことによって父が何か苦労するシーンが無かった。健常者から障がい者となった時、どのように自己像が揺らぐのかを描写しない限り、ただの嫌な中年わがまま親父にしか見えない危険性がある。また、爪切りはないだろう、爪切りは。ただでさえ樹が感覚障害から足先に知らぬ間に怪我を負ってしまう(重度の糖尿病患者にはよく見られるものなので、ご存知の方も多いだろう)描写があるのに、ちょっとした怪我につながりかねないパチンといくタイプの爪切りを使うとは・・・爪やすりの存在を知らないのか。原作が、時代背景があってそうなっていないのかもしれないが、現代の映画として改作するのであれば、リアリティを増す方向に行ってもらいたい。映画は小説やアニメと違って、現実を最も忠実に描写する文化芸術なのだということを、日本の映画製作者はもっと心してもらいたい。

 良いテーマを持つ作品を映画化したとは思うが、そのテーマの重さを映画製作者側が受け止めきれなかった、もしくは中高生向けにライトな内容だけに絞り込みすぎてしまった、という印象はどうしたって拭えない。柴山監督には猛省と次作へ向けての一層の奮励を促したい。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ラブロマンス, 岩田剛典, 日本, 杉咲花, 監督:柴山健次, 配給会社:LDH PICTURES, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 パーフェクトワールド 君といる奇跡 』 -テーマの重さを描き切れていない-

『コーヒーが冷めないうちに』 -無数の矛盾とパクリに満ちたお涙ちょうだい物語-

Posted on 2018年10月7日2019年8月24日 by cool-jupiter

コーヒーが冷めないうちに 25点

2018年10月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:有村架純 石田ゆり子 伊藤健太郎 波瑠 林遣都 深水元基 薬師丸ひろ子 吉田羊 松重豊房 
監督:塚原あゆ子

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181007030725j:plain

 *以下、ネタばれに類する箇所は白字表記

 まず広報担当者に文句を言いたい。「4回泣けます」とは一体何のことなのか。これで泣けるのは、元から相当に涙腺が弱いか、もしくは「涙を流してさっぱりしたい!」という強い欲求を持っている人ぐらいだろう。つまり、純粋に物語の力で観客を泣かせる力を有した作品ではなかった。いや、勘違いしないでいただきたい。泣ける映画というのは確かに存在する。しかし、泣くという行為は「受動的な泣き」と「衝動的な泣き」の二つに大別される。つまり、前者はもらい泣きで、後者は主に悔し泣きや嬉し泣きである。本作の宣伝文句の「4回泣けます」が「4回もらい泣きできます」なら、それはそれで良い。Jovianの心の琴線には触れなかったが、そういう意味で泣ける人は確かに存在するだろう。しかし、そうした映画は、作品としてのクオリティは決して高くない。

 喫茶店フニクリ・フニクラで働く時田数(有村架純)が、特定の席に座ったお客さんに特定のタイミングでコーヒーを淹れると、そのお客さんは強く思い描いた時に行くことができる。しかし、それはコーヒーが冷めるまでの間だけ。他にも様々な条件があり、実際にそれを試すお客は少ないのだが・・・

 まず、タイムトラベルものというのは、何をどうやっても矛盾が生まれるものだ。そういうジャンルなのである。であるからして、SF的な要素は一切排除し、これはファンタジーなのですよ、という姿勢を冒頭から鮮明にする点は評価できる。何と言ってもフニクリ・フニクラである。鬼のパンツなのである。我々がよく知っているはずのものが、本当はこういうものでした、と思わせるインパクトを十分持っている。またヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』やミヒャエル・エンデの『モモ』といった小道具も、物語のforeshadowingとして機能している。こういう、分かる人には分かるものを挿入するのは、サービス精神の表れとして評価したい。が、もう少しダイレクトさに欠けるものは見つからなかったのだろうか。まあ、プルーストの『失われた時を求めて』でなかったから、これはこれで良いのだろう。

 Back to the topic. 時間移動には常にパラドクスがつきまとう。本作も例外ではなく、最も???となったのは、認知症の妻の手紙を持ち帰れてしまったことだ。次に???となるのは、蚊取り線香のシーン。灰になってしまった部分が過去、今じりじりと燃えているところが現在、これから燃えるところが未来、という過去の不可逆性を強く印象付けるシーンだったはずが、その後のちゃぶ台返しで・・・???ちょっと待て。未来の数の娘の力を使って、数を過去に送り込むというのは、未来視点、いや未来支点と言うべきか?からすると、過去の改変にならないのか。新谷の言う「明日の開店前の8時にお店に来てほしい」は予言ではないのか。何故その時間に幽霊が席を空けると知っていたのか。というよりも、未来の未来が数を送り込む過去が、現在の時間線と一致することが何故分かるのか。その線で考えると、何をどうやっても変えられないのは過去ではなく未来になってしまわないか。また。時田の娘の定義は何なのか。伯父の娘でもOKになるのなら、家系図を引っ張り出してきて、五代前のご先祖様ゆかりの血筋に全て当たるべきだろう。というか、5代前だと、ざっくり見ても100~120年前になるが、その時からフニクリ・フニクラの指定テーブルは存在したのか。日本におけるコーヒーの歴史とは合致するが、では初代はどの過去にどのようにして人を送り込んでいたと言うのか。とにかく、タイムトラベルものの矛盾がこれでもかと噴出してくる作りで、そういったところを気にしてしまう人は絶対に本作を観るべきではない。ゲーム『ファイナルファンタジーⅧ』のエルオーネの能力、森博嗣の小説『全てがFになる』の密室トリック、法条遥の小説『リライト』、漫画『どらえもん』の「やろう、ぶっころしてやる」エピソードから丁重にアイデアを拝借し、その全てごちゃ混ぜにした挙句、ちんぷんかんぷん物語に仕立て上げてしまったようにしか思えない。松重と薬丸の芝居だけしか見られるものがない。珍品に興味がある、という向きにしかお勧めできない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 有村架純, 監督:塚原あゆ子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『コーヒーが冷めないうちに』 -無数の矛盾とパクリに満ちたお涙ちょうだい物語-

『食べる女』-愛情を表現したくなる、優しさ溢れる作品-

Posted on 2018年9月24日2019年8月22日 by cool-jupiter

食べる女 70点

2018年9月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:小泉今日子 鈴木京香 沢尻エリカ 広瀬アリス シャーロット・ケイト・フォックス 前田敦子 壇蜜 ユースケ・サンタマリア 間宮祥太朗
監督:生野慈朗

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180924015437j:plain

派手なアクションや手に汗握るスリル、背筋が凍るような恐怖感や息もできなくなりそうなサスペンスを求める向きには全くもってお勧めできない作品である。映画とは、何よりもまず、一般家庭では享受できないような大画面と大音響を楽しむための媒体で、そうした文字どおりの意味でのスペクタクルはこの作品には全く盛り込まれていないからである。だからといって本作には劇場鑑賞する価値が無いのかと言えば、さにあらず。充分にチケット代以上の満足感は得られるだろう。

餅月敦子(小泉今日子)ことトン子は、古本屋と文筆業の二足のわらじを履いている。同居人は猫の“しらたま”である。古本といっても料理に関連するものばかりで、トン子自身もかなりの腕前の持ち主。そんなトン子の編集者の小麦田圭子(沢尻エリカ)ことドド、トン子の親友にして割烹料理屋の女将、鴨舌美冬(鈴木京香)、ドドの飲み友、テレビドラマ制作会社のアシスタントプロデューサー白子多実子(前田敦子)らは、定期的にトン子宅で料理に舌鼓を打ちながら、男や仕事について語り合うのであったが・・・

まずエンドクレジットの特別協力だったか特別協賛だったかの、

 

      sagami original

 

というデカデカとした表示に我あらず笑ってしまった。もちろん、商品そのものは映らないのだが、それを使っているであろうシーン(使ってなさそうなシーンも)しっかり用意されているから、スケベ視聴者はそれなりに期待してよい。最もそういったシーンが期待できるはずの壇蜜     と鈴木京香    にそれがなく、逆にシャーロット    が体を張ってくれたことに個人的に拍手を送りたい。

さて、冒頭に記したようにドラマチックな展開にはいささか欠ける本作であるが、ドラマがないわけではない。実は非常に深いテーマも孕んだドラマがある。それは「人間は変わりうる」ということである。変わると言っても、何も宗教的回心のような、それこそ劇的な体験のことではない。日々の生活の中で得るほんのちょっとした気付きがきっかけになったり、人間関係の変化であったり、経済的な変化であったり、身体的な変化であったりもする。我々は普段、そうした変化があまりにも静かに進む、もしくは起きることが多いために、そうした変化を見過ごしがちである。しかし、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉「万物は流転する」を引くまでもなく、変化しないものはない。仏教にも≪諸行無常≫と言うように、人間の本質は古今東西においても変化なのである。そんな変わっていく自分、変わっていく他者に愛情を注ぐことができれば、それは自分という存在そのものを肯定することにもつながる。なぜなら、繰り返しになるが人間存在の本質が変化であるからだ。こんな自分は嫌いだという人は変化を求めれば良いし、こんな自分が好きという人は、そのように変化していく自分をそのまま楽しめば良い。なにやらニーチェの永劫回帰思想やゲーテの『ファウスト』にも通じるものがありそうだ。

印象的なプロットを紹介すると、ドドとタナベの出会いが思い浮かぶ。これなどは正に、“袖振り合うも多生の縁”を地で行くような Story Arc である。もう一つは、あかりの受動から能動への変化である。詳しくは本作を観てもらうべきだろう。一見すると下半身がだらしない女のように見えてしまうが、貞操概念に欠けるのではなく、愛情を注がれることに快楽を見出す女なのだ。それは例えば料理をおいしそうに食べてくれたり、あるいはベッドで自分を愛撫し、動いてくれることだったりする。そうではなく、愛情をストレートに自分から表現しにいくシークエンスは、昨今の少女漫画原作の映画化作品に見られる、ヒロインが走っていくのを横から車で並走しながら撮影していく、アホのような画の再生産ではなく、本当に真正面からのものだった。非常に新鮮で、『巫女っちゃけん。』あたりから既に変化の兆しは見られていたが、広瀬アリスという役者の大いなる成長を目の当たりにしたかのようだった。最後に、シャーロット・ケイト・フォックスである。そそっかしいという自覚のある人は、彼女の Story Arc を決して早合点しないようにしてほしい。ダメな女の成長物語と唐竹割の如く切って捨てるように評するのはたやすい。しかし、そうした見方をしてしまう時、我々は既に自分の中に「ダメな女」像と「できる女」像を抱いてしまっていることを自覚せねばならない。人間というものを変化する主体ではなく、固定されたキャラクターであるかのように見てしまう癖が、どうしても我々にはあるようだ。しかし、古代中国の故事に「士別三日、即更刮目相待」とある。三日で人は変わりうるし、我々も見る目を変えねばならない。割烹料理屋での無音の中でのやりとりに、静かな、それでいて非常に力強いドラマが進行していることを、本作は感じさせてくれた。こここそが本作のハイライトで、凝り固まった頭の男性諸賢は心して観るように。

反面で指摘しなければならない粗もいくつかある。ジャズバーのシーンでは明らかにBGMが編集されたものだったが、ここは店内の雰囲気をもっと濃密に醸し出すために、それこそLPレコード音を背景に撮影するぐらいでも良かった。デジタル全盛の時代ではあるが、古い写真に味わいが出てくるように、レコードにも味わいが出てくるものだ。そういえば古さを賛美する印象的なシーンが『マンマ・ミーア! ヒア・ウィ―・ゴー』で見られた。” Sir, in your case, age becomes you. As it does a tree, a wine… and a cheese.”という、コリン・ファースへの台詞だ。映画の醍醐味には音という要素もあるのだから、ここを生野監督にはもっと追求してほしかった。また、ネコが前半で大活躍するのが、名前がしらたまというのはどうなのだろうか。稲葉そーへーの某漫画を連想したのはJovianだけではあるまい。

弱点、欠点はいくつか抱えているものの、それでも本作は秀逸な作品である。十数年前になるか、某信販会社にいた頃、20~30代女子向けに“自分にご褒美”キャンペーンとして、週末のホテル宿泊を推していたことがあった。おそらく2000年代あたりから、モノの消費から、コトの消費へと個の快楽の追求はシフトし始めていたが、本当にそれが根付き定着したのはごく最近になってからではなかろうか。失われて久しい、皆で卓を囲んでご飯を味わうという体験の歪さと新鮮さを『万引き家族』は我々に見せつけたが、本作の女たちの食事シーンは、ある意味での人間関係の最新形と言える。愛情は男女間だけのものではなく、自分で自分に向けるものでもあるし、ほんのちょっとしたことで知り合う他者にも大いに注いで良いものなのだ。それが実践できれば、愛しいセックスをしている時と同様に、人は暴力や差別から遠ざかることができるのだろう。その先に、“修身斉家治国平天下”があるのだろう。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 小泉今日子, 広瀬アリス, 日本, 沢尻エリカ, 監督:生野慈朗, 配給会社:東映, 鈴木京香Leave a Comment on 『食べる女』-愛情を表現したくなる、優しさ溢れる作品-

『 ゲド戦記 』 -父殺しを果たせず、端的に言って失敗作-

Posted on 2018年9月22日2020年2月14日 by cool-jupiter

ゲド戦記 15点

2018年9月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:岡田准一 手嶌葵 菅原文太 田中裕子 香川照之 風吹ジュン
監督:宮崎吾朗

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180922030156j:plain

冒頭から、息子による父殺しが行われる。文学の世界においては、父親殺しはオイディプス王の頃から追究される一大テーマである。吾朗は、駿を殺す=乗り越えると、高らかに宣言している。そしてそれは失敗に終わった。それもただの失敗ではない。悲惨な大失敗である。

凶作や英奇病に苦しむ王国の王子アレン(岡田准一)は、父王を殺し出奔する。その途上、大賢人ハイタカ(菅原文太)に巡り合い、世界の均衡を崩す要因を追究する旅に同行する。そして、テルー(手嶌葵)とテナー(風吹ジュン)と邂逅しながらも、人狩りのウサギ(香川照之)やその主のクモ(田中裕子)との争いにその身を投じていく・・・

まず宮崎吾朗には、商業作品で自慰をするなと強く言いたい。『 パンク侍、斬られて候 』は石井岳龍の実験なのか自慰なのか、判別できないところがあったが、今作は完全に吾朗の自慰である。それもかなり低レベルな。それは原作小説の『ゲド戦記』の色々なエピソードを都合よく切り貼りしてしまっているところから明らかである。まずゲド戦記のすべてを2時間という枠に収めることは不可能である。であるならば畢竟、どのエピソードをどのように料理していくかを考えねばならないが、吾朗はここでハイタカとアレンの物語を選ぶ。少年と壮年もしくは老年の旅を描くならば、そのたびの過程そのものに父親殺しのテーマを仮託すればよいのであって、冒頭のシーンは必要ない。『太陽の王子 ホルスの大冒険』のように、いきなり狼の群れにアレンが囲まれるシーンに視聴者を放り込めばよいのだ。本作は父殺しをテーマにしているにも関わらず、アレンがハイタカを乗り越えようとする描写が皆無なのだ。影が自分をつけ狙うというのもおかしな話だ。影がハイタカをつけ狙い、隙あらば刺し殺そうとするのを、アレンが止めようとするのならばまだ理解可能なのだが。これはつまり、偉大なる父親を乗り越えたいのだが、結局は父の助力や威光なしには、自らの独立不羈を勝ち得ることはできないという無意識の絶望の投影が全編に亘って繰り広げられているのだろうか。

本作のアニメーションの稚拙さは論ずるに値しない。一例として木漏れ日が挙げられよう。『 耳をすませば 』でも『借りぐらしのアリエッティ』でも『 コクリコ坂から 』でも何でもよい。光と影のコントラスト、その自然さにおいて雲泥の差がある。別の例を挙げれば、それは遠景から知覚できる動きの乏しさである。ポートタウンのシーンで顕著だが、街の全景を映し出すに際しては、光と影から、時刻や方角、季節までも感じさせなければならない。随所に挿入される如何にも平面的なのっぺりとした画を、『もののけ姫』でも『風立ちぬ』でも何でもよい、駿の作品と並べて、比べてみればよい。その完成度の高さ、妥協を許さぬ姿勢において、残念ながら息子は父に全くもって及ばない。

はっきり言って、15点の内訳は香川照之の演技で15点、菅原文太の演技で15点、手嶌葵の演技でマイナス15点の合計点である。哲学的に考察すればいくらでも深堀りできる要素がそこかしこに埋まっている作品であることは間違いないが、吾朗はそれをおそらく自分の中だけで消化してしまっており、観る側がイマジネーションを働かせるような余地というか、材料を適切な形で調理することなく皿に載せて「さあ、召し上がれ」と言ってきたに等しい。こんなものは食べられないし、食べるにも値しない。ゆめ借りてくることなかれ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, F Rank, アニメ, ファンタジー, 岡田准一, 日本, 監督:宮崎吾朗, 配給会社:東宝, 香川照之Leave a Comment on 『 ゲド戦記 』 -父殺しを果たせず、端的に言って失敗作-

『 幼な子われらに生まれ 』 -家族の静かな崩壊と再構築への希望の灯-

Posted on 2018年9月21日2020年2月14日 by cool-jupiter

幼な子われらに生まれ 70点
2018年9月18日 レンタルDVD鑑賞
出演:浅野忠信 田中麗奈 南沙良 宮藤官九郎 寺島しのぶ
監督:三島有紀子

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180921024132j:plain

『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』で鮮烈な印象を銀幕に残した南沙良の映画デビュー作ということで近所のTSUTAYAで借りてきたが、これはなかなかの掘り出し物である。原作は重松清の同名小説だが、そちらの出版は1996年というから20年以上前である。離婚やDVが格段に増えた現在では、本作のような家族構成はさほど珍しいものではなくなった。だが、今日の日本社会の在りようを透徹した目で予見していた重松清の想像力と構想力、そんな彼の作品を現代にこそ映像化する価値があると確信した三島有紀子の炯眼を称えたい。

大企業の係長として順調に40代を送る信(浅野忠信)は子持ちのバツイチ。妻の奈苗(田中麗奈)もバツイチ子持ち。再婚同士で、奈苗の連れ子である2人の娘、薫(南沙良)と恵理子(新井美羽)とともに府中の新興住宅地に暮らしていた。元々、信には心を開かなかった薫が、早苗の妊娠を機にさらに態度を硬化。信を指して、パパではない、他人だと言い、本当の父との再会を望むようになる。が、実父の沢田(工藤官九郎)はDV男であった。だんだんと薫の扱いに手を焼き始めた信は、薫を沢田に引き合わせようとし、さらには堕胎と離婚までも望むようになる・・・

これは、特に男性サラリーマンにとって、非常に身につまされる話である。信自身の言葉を借りれば、「ツギハギ家族」の物語だからである。家族の在り方は時代や地域と共に変わっていくのが必然であるが、それでも我々は家族というものに大いなる幻想を見るし、また見出したがってもいる。こうした家族の形態を別の面から映し出した秀作に『万引き家族』がある。家族というものを機能的な面から切り取りながら、大人の情緒や心理が時に一方通行になりがちであるということを鮮やかに残酷に描き出した傑作である。本作の主題はどうか。血のつながりのある子どもと、血のつながらない子ども、両方を同時に育てられるかということだ。そして、その奥底にあるのは、家族としてのまとまりは血に依るのか、情に依るのかという命題で、さらには機能に依るのかという側面も垣間見える。

主人公の信は、上司の課長の評するところによると、

「有給を全部使う」

「休日出勤は断る」

「飲み会は一次終わりで退散する」 

「子どもを遊園地に連れていく」

「子どもをお風呂に入れてやる」

という、現代の言葉で評せば、まともに父親業に精を出す男ということになろうか。育メンという言葉は当てはまらないだろう。非常に批判を受けやすく、誤解を与えやすい概念である以上に、信は最も手間のかかる時期に二人の娘の面倒は看ていないからだ。そんな信に上司は、

「仕事に打ち込む姿を見せてやるのが子育てなんじゃないのか」

と諭すように言う。これも一つの識見であろう。特に平成も終わりになんなんとするこのご時世、どういうわけか昭和的な価値観のかなりの部分がゾンビのごとく生きており、そうした価値観は、一部の組織や共同体では連綿と受け継がれているようである。信の勤める会社はまさにそうしたところで、信はあえなく倉庫送りとなり、ピッキング業務に従事させられる。この辺りから、信の家族内の亀裂は大きくなり始める。同時に、信の前妻(寺島しのぶ)の夫が末期がんで死の間近にあることも知る。そのことを知らされる信の反応は、弱みを見せる女性に対するものとしては最低最悪の部類に入る。よく知られているように、男は基本的に論理というラベルで記憶をタグ付けし、女は基本的に感情というラベルで記憶をタグ付けしている。夫婦喧嘩でこの特徴はてきめんに現れる。女性の言い分はしばしば、「だいたいあなたはいつもそうなのよ。だから○年前のあの時も~~~」という形を取る。男性には理解できない。すでに終わった事柄で論理的につながりのある事例ではないからだ。しかし、怒りという感情が記憶のタグに書き込まれているとしたら、過去に怒りを感じたエピソードが次々に想起されてくるのは当たり前のことで、信はここを前妻に徹底的に責められる。男性視聴者は心して観るように。恐ろしいのは、こうした女性の特徴が小学校6年生の薫にも既に見られることである。「私、なんかこの家、嫌だ」という薫に、「何故だ」と問いかける信。これでは平行線をたどるのも当たり前である。その信が、最終盤では劇的な変化を遂げる場面がある。詳しくは観てもらう他ないが、年頃の娘の扱いに手を焼いているという男性は、本作から学ぶことは多いはずだ。娘や妻に話しかけるときは、論理的な答えを求めてはならないし、論理的な答えを与えてもいけない。

「妊娠中毒のリスクがあるんだって」

という奈苗の言葉に、

「妊娠しているから中毒になるんだ。堕ろせば中毒にはならない」

と信が返す一幕があるが、これなどは愚の骨頂としか思えない返答だ。どう思った?どう感じた?そうか、そう感じたのか、という寄り添いの姿勢を見せることが肝要であるのに、この時の信は限界まで追い詰められていて、そんな余裕がなかった。我々はこれを反面教師としなければならない。

ありうべき父親像については、クドカン演じるDV男が驚くべきというか、恐るべき変貌を見せる。また、信の実の娘もまた、それ以上の変貌を見せる。詳しくは書けないが、家族が家族であるためには血のつながりは決定的に重要なものではないと本作は力強く断言する。それにより初めて信は薫との和解の途に就くことができた。道は険しいが、確かにその道を歩き始めた。そこに新しい命が生まれてくる。その命を守ることで、家族は家族になれる。そんな夢とも幻想ともつかないビジョンを我々は抱くことができる。何ともいえない浮遊感のようなものが本作の特徴である。明晰夢を見せられているような感覚とでも言おうか。

本作を鑑賞する時には、ぜひカメラワークにも注目してほしい。家族間の不和が増大していくシーンではカメラオペレーターの手ぶれが加わっており、まるで我々自身がその場に傍観者として存在しているかのような感覚を味わうことができる。そうではないシーンは定点カメラ、固定カメラによる撮影が行われている。そして浅野忠信の笑顔と不安と怒りとを綯い交ぜにしたような表情を味わえるだけでも美味しいのであるが、そこに南沙良の本能的、直観的な演技も堪能できるという一粒で二度おいしい話である。物語としても、映像芸術としても、非常に秀逸な作品である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, 南沙良, 宮藤官九郎, 日本, 浅野忠信, 田中麗奈, 監督:三島有紀子, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 幼な子われらに生まれ 』 -家族の静かな崩壊と再構築への希望の灯-

『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

Posted on 2018年9月18日2020年2月14日 by cool-jupiter

響 -HIBIKI-  50点
2018年9月17日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:平手友梨奈 北川景子 小栗旬 アヤカ・ウィルソン 高嶋政伸 柳楽優弥 野間口徹 吉田栄作
監督:月川翔

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180918020051j:plain

編集者の花井ふみ(北川景子)は、新人賞への応募作品に衝撃を受ける。著者は鮎喰響(平手友梨奈)、15歳の女子高生。その文才は、天才という言葉以外では名状しがたいものだった。しかし、響を響きたらしめるのは、その文才よりもむしろ、あまりにも直截すぎる対人関係スキルであった。すなわち、社会性の欠如である。響にとっての人間関係とは、常に個と個のつながり、もしくはせめぎ合いであるようだ。我々はついつい響のエキセントリックな行動の数々、なかんずくその暴力性に目を奪われてしまう。それは時に親友の凛夏(アヤカ・ウィルソン)や編集者のふみにも及び、女と女の仁義なき戦い、平手打ち合戦からピローファイトにまで発展する。その一方で、響は面白い作品を世に送り出す作家には、呼び捨てをしてしまうという社会性の欠如は見られるものの、自ら駆け寄り、無邪気な笑顔で握手を求めるという、年齢相応の行動を見せたりもする。それとは逆に、大御所であっても、名作を生み出す力を無くして久しい作家には敬意を表することはない。むしろ、ハイキックをお見舞いする始末である。

我々は彼女の行動に社会性の欠如をこれでもかと見出すが、その一方で社会性という言葉の持つ空虚さを響に見せつけられもする。その最たるものが、記者会見での謝罪要求を突っぱねるところだろう。暴行を加えた相手に個人的に謝り、相手もその謝罪を容れたのだから、これ以上誰に謝る必要があるのか?という理屈だ。蓋し正論であろう。現実の世界でも、芸能人や著名人、社会的に一定以上の地位にある人間が不祥事を起こした時には、謝罪のための記者会見がセッティングされる。日本人は根本的に謝罪が好きなのだ。そうした謝罪をフルに楽しむための映画には阿部サダヲ主演の『謝罪の王様』が挙げられる。もしくは謝罪会見のお手本中のお手本としては某大学のアメリカンフットボール部部員の例が挙げられよう。

Back to the topic. 社会性と我々が言う時、我々は結局、自分自身の意見を大多数の顔も名前も知らない他者たちに仮託しているに過ぎないことを、響は明らかにしてしまう。「○○○と感じる人もいると思いますが」、「中には□□□という意見もあるようですが」。これらは記者会見だけではなく、ネットの論説記事などでよく見られるセンテンスの類型である。≪editorial we≫と呼ばれる手法である。野間口徹演じる週刊誌記者に対して、響は相手の息子をある意味で人質に取るかのような発言をし、相手から譲歩を引き出す。人間は、社会的な肩書をひっぺがして、徹底的に個の部分を突いてしまえば、実は非常に弱く脆い生き物である。このことは小林よしのりがその著『ゴーマニズム宣言』において、川田龍平氏と厚労省の官僚の面談の場で、あまりにも非人間的な対応に業を煮やした小林は「あなたの子どもに、『お父さんは人殺しなんだよ』と伝えようか」と迫る。その時に初めて、官僚が人間の顔を見せたという一幕が描かれていた。響も記者から記者の皮を剥ぎ取り、人の親たる個の姿を引きずりだした。そうすることで初めて、自分も誰かの子であると相手に思い起こさせたわけだ。我々は人間関係において、相手という人間部分を見ず、相手の社会的な地位や属性にばかり目を向けたがる。大御所作家の祖父江秋人(吉田栄作)の娘の凛夏をデビューさせるところなど、まさにそうだ。大作家の娘にして現役女子高生という属性が話題を呼びやすいだろうという打算がそこにまず働いている。

異形、異能、異端。我々は天才あるいは社会の規範に収まりきらない才能をしばしば異類もしくは異種として扱う。天才だから突き抜けた存在になれるわけではない。逆で、我々は突き抜けた存在にしか天才性を見出せない。なぜなら、我々が金科玉条のごとく敬い奉る社会的属性を、天才はそもそも纏わないから。将棋の世界は天才だらけだが、名棋士列伝というのは、そのまま変人・変態列伝であったりもする。そのことは加藤一二三先生を見ればお分かり頂けよう。これは日本だけに当てはまる話ではなく、チェスのグランドマスターを列伝体で語るならば、それもそのまま西洋文明世界の奇人変人列伝となる。特に、ボビー・フィッシャーは『完全なるチェックメイト』で映画化されたが、彼の奇人変人狂人っぷりは伝記『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』に詳しい。

Back on track. 本作では本棚が重要なモチーフになっている。あるキャラクターが本棚の本を、ある法則でもって分類整理しているのだ。そのことを貴方はどう見るだろうか。本の面白さとその著者の人格は統合して考えるべきだろうか。それとも分けて考えるべきだろうか。気に入らないことがあればすぐに暴力に訴える女子高生の部屋に、年齢・性別相応のかわいいぬいぐるみがあることを、貴方はどう受け止めるべきなのだろうか。我々の思考は危険な二分法の陥穽にはまりがちだ。AはAであって、非Aではない。そう感じる我々に絶妙のタイミングで「動物園でキリンをバックに写真撮影するシーン」が訪れる。ここで我々は響は、その異能性にも関わらず、普通の女の子と何ら変わることのない属性を有していることを知り、愕然とする。天才とは突き抜けた存在ではなく、我々が勝手に敬して遠ざける対象であることを知るからである。思い出してほしい。響は、たとえそれがキックであれ握手であれ、舌鋒鋭い批評であれ友情の言葉であれ、常に自分から他者との関係の構築もしくは調節に動き出していた。社会性の欠如は、天才の側ではなく、天才に接してしまった凡人の中に生じるのだ。非常に回りくどいやり方ではあるものの、確かに我々は現実世界でもそのように振る舞っている。

本作の欠点をいくつか挙げさせてもらえれば、まず第一にキャラクターの弱さである。特に幼馴染っぽい男と文芸部に再入部してくれる不良は、マネキンのごとく、ただ突っ立っているだけのことが多かった。また、小栗旬のキャラクターが初めて登場するシーンで、PCで小説を執筆するシーンだが、あれは本当に文字を打っていたのか?それとも適当にキーボードをがちゃがちゃやっていただけなのだろうか?というのも、右手の小指がEnterや句点、読点の位置に全く来なかったように見えたからだ。もちろん、そういう可能性もある。小説家の奥泉光は、小説修業時代に、始めから終わりまでただの一文で書き切る小説や、地の分だけ、逆に会話文だけで完結する小説など、種々の制約を自らに課して物書きに励んだと言う。小栗も、そうした手法を用いていたのかもしれないが・・・ 最後に、直木賞や芥川賞に、現代それほどの価値が認められているだろうか?という疑問がある。又吉直樹の『火花』はそれなりに面白い小説および映画であったが、どう見ても私小説の域を超えていない。いや、ジャンル分けはどうでもよい。現代という、食べログや映画.comといった既存の権威(一部の評論家など)を破壊して、一般大衆の個々の意見を丁寧に拾い上げるシステムが構築され、一定の力を得ているようになった時代に、賞でもって作品の格付けをしようとすることそのものが天才と凡人を分ける思考そのものではないのだろうか。そして、今やネット上の民主的なシステムですら脱構築されようとしているのではないだろうか。そうした時代にあって、天才と向き合うことをテーマにした本作が発するメッセージは決して強いとは言えないだろう。本作を観ようかどうか迷っている向きは、こんなブログ記事の言うことなどあてにせず、「文句を言うなら観てからに」するように(台詞うろ覚え)。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, サスペンス, 北川景子, 小栗旬, 平手友梨奈, 日本, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

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