ラ・ラ・ランド 55点
2018年8月1日 WOWO録画観賞
出演:ライアン・ゴズリング エマ・ワトソン J・K・シモンズ ローズマリー・デウィット ソノヤ・ミズノ
監督:デイミアン・チャゼル
『セッション』のJ・K・シモンズ演じるフレッチャーに違う形で再会してみたいと思い、本作を見返す。タイトルの『ラ・ラ・ランド』は、原題でも“La La Land”、LA=Los Angelesでもあり、現実から遠く離れたファンタジーの世界であり、そうした世界に住まう恍惚感を表わすTriple Entendreなのである。
ジャズ・ピアニストとして自分の店を持ちたいと願うセブ(ライアン・ゴズリング)と女優として大成したいと望むミア(エマ・ワトソン)は、最悪の形で出会いながらも、互いの夢へのリスペクトから惹かれ合うようになる。しかし、夢を追いかけるミアと、ミアとの将来のために、ジャズの店ではなく売れ筋バンドでの演奏を選択するセブは、すれ違い始める・・・
主題は至ってシンプルである。しかし、我々に投げかけられる問いは重く深い。男と女、お互いの夢を追求することがお互いの関係を疎遠にしてしまう時、自分なら何を選択するのか。相手の夢を叶えるサポートをしたいと心から願うのか。そのためには自分の夢をあきらめることも厭わないのか。しかし、自分が夢をあきらめることを、自分のパートナーが認めてくれない時、自分はどうすればよいのか。何もミュージシャンや俳優志望でなくとも、普通に誰にでも起こりうる事象である。Jovian個人としては、ミアが最後に夢見たラ・ラ・ランドのあまりの都合の良さに正直なところ、辟易してしまったが、逆にそうした一瞬のまどろみの中に見出した、ありうべきだった幸福な生活のビジョンこそが、観客へのメッセージだとの見方も成り立つ。夢よりも現実の幸せを選べ、と。いや、セブが最後に見せた一瞬の表情の陰りこそがメッセージなのかもしれない。自分こそが彼女の夢の後押しをしてしまったのだ、と。いずれにせよ、歌と踊りに彩られた華やかさの裏には、ほろ苦い悔恨の念がある。様々な意味を持つラ・ラ・ランドという言葉だが、本作が最も提示したかった意味はファンタジー世界のことだったのかもしれない。
J・K・シモンズは、『セッション』のノリと同じく、口うるさいレストランの支配人で、ジャズを何よりも愛するセブに、クリスマス・ソングを演奏しろとプライドを傷つける要求をする。セブのちょっとした反骨心に火がついてしまった時には、あっさりとクビを言い渡す。ほんのちょっとしたやり取りに、フレッチャーの姿がちらついてしまうのは、それだけの怪演、本人からすれば会心の演技だったからだろうか。
それにしても本作はゴズリングに尽きる。「ジャズは死につつある!」と、まるで「哲学は死につつある!」などと叫ぶ真面目過ぎる学徒の如く熱弁を振るう様に、究極的なギークの姿を見出せるが、それを微塵も感じさせず、逆に女性を惹きつけてしまうのだから大したもの。『博士と彼女のセオリー』でも、花火を見ながらホーキングが物理学を語って、女性を口説くシーンがあったが、ギークであっても、いや、ギークだからこそ惹きつけられる女性もいるのか。共通点は、どちらの映画でもヒロインは結局主人公の元を去ってしまうということ。
色々と示唆に富む映画で、観るたびに発見がありそう。『グレイテスト・ショーマン』とは違って、囁くような、呟くような歌が多いのもポイント高し。TOHOシネマズ梅田のDOLBY ATMOSでいつか再上映やってくれないかな。2800円でもチケット買うよ。