羊と鋼の森 85点
2018年6月9日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:山崎賢人 三浦友和 鈴木亮平 上白石萌音 上白石萌歌
監督:橋本光二郎
漫画、それも特に少女漫画の映画化に際しての御用達俳優としての地位を一頃確立してしまっていた山崎賢人が遂に殻を破った。間違いなく山崎のこれまでのキャリアにおけるベストである。そして2018年はまだ半分を消化していないにもかかわらず、Jovianは本作を年間最高の邦画として推したいと思う。
雪が降りしきる北海道の学校で、何とか食べていける職業につければと漠然と考える山崎賢人演じる外村直樹は三浦友和演じる調律師と出会い、その仕事振りに魂を揺さぶられるほどの衝撃を受け、同じ道を志すために東京の調律学校を2年かけて卒業し、地元の街の楽器店に就職する。そこで、鈴木亮平演じる先輩調律師やピアノに励む上白石姉妹らとの厳しくも美しい関係を通じて成長をしていく。
これだけだと典型的なビルドゥングスロマンなのだが、何よりも小説という文字媒体で音楽、そしてピアノの調律を描いていたものを、さらに映像化しようというのだ。眩暈がしそうな労苦だ。
マリー・シェーファーというカナダ人作曲家が提唱した「サウンドスケープ」という概念がある。音の風景、音風景、音景などと訳されることが多い。音という要素が景色として理解される瞬間というのは、誰もが一度は経験したことがあると思う。本作ではピアノの音をしばしば森の風景に翻訳する。それが主人公の外村のバックグラウンドに密接に関わっているからだ。音が人間の感覚に与える豊饒な影響については『すばらしき映画音楽たち』に詳しいので、興味を抱かれる向きは是非DVDなどで観賞を。本作はクライマックスの手前でジョン・ケージの”4分33秒”を彷彿させるシーンがあり、音楽方面に造詣が深い観客をも深く満足させる力を持っている。
それだけではなく、この映画はビジュアルストーリーテリングのお手本、教材にも成りうる作品であるとも評価できる。冒頭から、陰鬱とも言える暗いシーンが続く。それは語りのトーンの暗さではなく、視覚的な暗さでもある。その中でも、窓だけが一際明るく、その向こうに雪や新緑、光などのナチュラルな風景の広がりを感じさせ、外の世界とこちらの世界の接点としてのガジェットとして効果的に機能している。また登場人物の顔にも不自然、不必要とも言える照明が当たらず、服装も地味もしくは単色に抑えられ、否が応にもピアノの黒鍵と白鍵のコントラストを観る者に想起させる。それゆえに音の先に広がる豊饒な風景の色彩が一層の迫力と臨場感、説得力を以って我々に迫って来るのだ。
この映画はお仕事ムービーでもある。アニメ・ゴジラは世界の世界性を問いかけてきたが、ハイデガー哲学のもう一つの柱は道具である。道具的存在と道具の道具性。道具的連関。世界は道具でつながり、道具は素材から作られ、素材は自然から生まれる。劇中で外村が言う、「この道なら世界に出ていけると思う」という世界は、国際社会ではなく、生活世界、あるいはマルクスの言う【歴史】そのものだ。主人公の外村が自分に対しての自信の無さと、それは間違いであるということを厳しく優しく諭す鈴木亮平のキャラクター。仕事に自信を持ち始めた時、仕事に慣れ始めた時の陥穽。視覚や触覚の動員。コミュニケーションの大切さと、それを重視し過ぎてはいけないという教訓。感覚の言語化。調律という職業、職務を通じてこれらが描かれていくのだが、それは調律師に限ったことではなく、仕事や人間関係などのあらゆる面において応用されうる、また基本でもある事柄がさりげなく、それでいて大胆に開陳される。職業人も、そして中高生や大学生にこそ観てほしいと切に願う。
それにしても山崎は橋本監督と相性が良いのだろうか。繊細かつ些細な演技をこの監督の作品では見せることができるのに、なぜ他の作品では判で押したような紋切り型のキャラクターになってしまうのだろうか。やはり監督の演出のセンスとこだわりなのか。たとえば同監督の『 orange オレンジ 』はそれほどの良作ではないが(失礼!)、随所にリアリティある演出が観られた。一例として、土屋太鳳の独白とも言える語りかけに無言を貫くシーンで、山崎の喉が良いタイミングで動くのだ。心理学に詳しい人なら、観念運動について知っているだろう。人間の思考はしばしば筋肉の動きに連動するが、それが最も顕著に表れる身体部位は喉なのである。同じく、刺激(光に限らない)に対する脳の反応として最もよく現れる運動の一つが瞬きである。本作では山崎の瞬きが実に効果的に映し出されており、これは橋本監督の知識、教養の広さと深さ、そして演出へのプロフェッショナリズムを山崎に叩き込んでいることの証明に思えてならない。三浦や鈴木が演技を通じて山崎を導いたように。
観終った時、主人公の名前が外村直樹であることと道具的存在者の意味について、余裕のある方は考えてみてほしい。宮下奈都という作家の哲学的識見の広さと深さ、そして橋本光二郎という監督の表現力の大きさに、畏敬の念を抱くはずだ。そして久石譲の作るピアノの旋律に、「懐かしさ」を感じてほしい。それは明るく、静かに、澄んでいるから。音楽という空気の振動でしかないものが、いかにして芸術足り得るのか。それを生みだす道具としての楽器が、どれほど複雑玄妙に作られ、維持されているのか。物質としてのピアノと芸術としての音楽をつなぐ存在として立ち現れる調律師に、あなたは自分と世界の関わりを観るに違いない。これは、文句なしの大傑作である。