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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 エリザベス∞エクスペリメント 』 -ご都合主義が過ぎる凡作スリラー-

Posted on 2019年8月13日2019年8月13日 by cool-jupiter

エリザベス∞エクスペリメント 40点
2019年8月8日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アビー・リー キアラン・ハインズ
監督:セバスチャン・グティエレス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190813211539j:plain

確か、未体験ゾーンの映画たちでパンフか何かだけ手に取った記憶がある。地雷臭がプンプン漂っていたが、Again, I was in the mood for garbage. 夏と言えばサメがゾンビのクソ映画祭りなのだが、たまには違うジャンルをば。本作はSFというよりもシチュエーション・スリラーである。しかし、シチュエーション・スリラーと呼ぶには、話があまりにもとっ散らかっているという印象である。期待せずに観た。そして、それで正解であった。

 

あらすじ

エリザベス(アビー・リー)は年の離れた億万長者の夫ヘンリー(キアラン・ハインズ)の自宅へと帰ってくる。そこは山中の湖畔にある豪邸で、室内プールにワインセラー、ブティックかと見紛うほどのドレスに靴まであり、自然に囲まれた別天地だった。しかし、ヘンリーはとある部屋にだけ、エリザベスが入ってはならないと言う。ある時、エリザベスがその部屋で見たものとは、彼女のクローンだった・・・

 

ポジティブ・サイド

ある時点までは万人の予想通りに進む。しかし、そのある時点からはやや予想の斜め上を行く展開になる。屋敷の使用人たちが発する雰囲気が、どこか『 ゲット・アウト 』の屋敷の住人およびゲストたちのそれと似ているのだ。こういう映画は観る者の予想を裏切ってナンボなのである。

 

男女、そして夫婦の仲というのは難しい。『 ゴーン・ガール 』を観るまでもなく、男(夫)と女(妻)が、腹の中に何を抱えているのかは外部の人間からは窺い知れない。夫は妻に何を求めているのか。そのような問いを突き付けられた時、そして本作のヘンリーのような夫に自分がなってしまってはいないかとの不安に襲われる諸賢は多かろうと推測する。いくら天才的科学者であっても、男はその本質においてアホなのではないか。英雄色を好む。古人に言によれば「英雄、色を好む」ということだが、逆に言えば「色を好むから英雄である」とも考えられる。

 

ヘンリーも相当であるが、オリバーもかなり危ない男である。エリザベスが魔性の女だからだと勝手に思い込むことなかれ。この盲目の青年の情念は、正常だとか異常だとかの尺度で測ってはならない。やっていることが、まんま山本弘の小説に出てきそうな無邪気で、それでいて自己中心的な思春期真っ只中の子どもの妄想である。というか、山本弘の小説に、地球が自分の意思で世界を二つに割って、片方に生きていたい生物、もう片方に死にたがっている生物を選り分けるような短編があったが、そこに出てくるアホなガキンチョとオリバーは、本質的に同じ思考、同じ行動原理を持っている。キモイの一言に尽きる。

 

男というのは、どうしようもなくアホな生き物であるということをまざまざと見せつけてくる怪作である。

 

ネガティブ・サイド

いくらなんでもセキュリティが緩過ぎるだろう。本当に見られたくないのなら、厳重に施錠しろ。というか、出入り口を作っては駄目だろう。大富豪にしてノーベル賞受賞者なら、もうちょっと頭を使って欲しい。本作はほぼ全編、邸宅内でストーリーが進行する。つまり、舞台が一つだけなのであるが、このようなご都合主義的なドラマツルギーは創作、演出上の逃げである。こういった部分でサスペンスを生み出し、それを終盤のドンデン返しへの伏線とするような脚本が望まれているのだ。

 

その一方で、家の外に出るためのセキュリティが固すぎる。というか、屋敷の外に通じる道が巧妙にふさがれて、あるいは防弾使用になっていることで、ヘンリーの秘密のクローン保管室への扉がいとも簡単に開いてしまうことに納得ができなくなる。このマッドサイエンティストは頭が良いのか悪いのか、分からなくなってしまう。本作のテーマの大きな部分に、クローンという存在に対してどのような感情を以って接するべきかというものがある。理性と感情は別物である。それは分かっている。だが、それでもヘンリーの行動原理や思考には首を傾げざるを得ないところが多々ある。結婚を「誘拐」に例えるセンスには眉をひそめてしまうし、無数にクローンが存在するならばまだしも、6人しかいない貴重なクローンをいとも簡単に始末してしまうところなど、彼の言う愛は自己と他者の関係のことではなく、性欲のことではないのかとさえ感じられてしまう。底知れないキャラクターに見せかけて、非常に底浅く感じられるのである。

 

また、盲目のオリバーについても疑念が残る。というよりも不可解さが残る。盲目であっても、信じられない能力や技能というのは身につくものだ。フィクションの世界では座頭市しかり、実在の人物では石田検校しかり。だからオリバーが銃をぶっ放すぐらいは気にしない。しかし、注射器を巧みに操るというのは一体全体どういうことだ?どの瓶に入っているのがどの薬品で、その薬品の有効期限はいつまでで、なおかつその薬品の適切な投与量がどれくらいなのかを、盲目でありながらどのようにして把握したというのか。合理的な説明が見当たらないし、思いつかない。

 

総評

扱っているテーマは面白い。しかし、邦題がまずい。∞マークは完全なるミスリード材料だ。同じようなSFチックなシチュエーション・スリラーなら、『 トライアングル 』(2009年 クリストファー・スミス監督作)や『 月に囚われた男 』をお勧めしたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アビー・リー, アメリカ, キアラン・ハインズ, シチュエーション・スリラー, 監督:セバスチャン・グティエレス, 配給会社:アットエンタテインメントLeave a Comment on 『 エリザベス∞エクスペリメント 』 -ご都合主義が過ぎる凡作スリラー-

『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』 -脚本家は長谷敏司か、庵野秀明か-

Posted on 2019年8月12日2020年4月11日 by cool-jupiter

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 40点
2019年8月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:佐藤健 有村架純 波瑠
監督:山崎貴

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少し前までは中高生でも『 ゴジラ 』を知らない子たちがいた。しかし、さすがに『 ドラゴンクエスト 』や『 ファイナルファンタジー 』を知らないということはないようだ。大学生の頃に、ドラクエはⅦまで一応クリアしたんだったか。それ以降はクリアしていない(プレーはした)。しかし、ⅢのSFC版やⅣのプレステ版はかなりやりこんだ記憶がある。Ⅴの初回プレーでは、もちろん名前はトンヌラ・・・ではなくユーリルと入力。久美沙織の小説の影響である。あの頃は周辺小説(『 アイテム物語 』、『 モンスター物語 』)だけではなく『 4コママンガ劇場 』にもハマっていた。早い話が、当時の自分は少年だったわけである。

 

あらすじ

リュカ(佐藤健)は父パパスと共に世界を旅していた。しかし、謎の妖魔ゲマによりパパスは絶命。リュカはラインハットの王子ヘンリーともども奴隷にされてしまう。十年後、辛くも脱出したリュカとヘンリーは、それぞれの生活に帰っていく。リュカはかつて暮らしていたサンタローズを目指すが・・・

 

  • 以下、本作品、ドラゴンクエストⅤおよび関連作品のネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

グラフィックの美しさとゲームっぽさのバランスが素晴らしい。実際のゲームでも『 ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち 』はFC、『 ドラゴンクエストV 天空の花嫁 』はSFCである。ファミコンからスーパーファミコンへのレベルアップ時の衝撃は、それをリアルタイムに体験した者にしか分からないだろう。その後、PSやPS2、X-BOXも出てくるわけだが、FCからSFCへの移行ほどのインパクトはなかった。ちょうど良い具合に当時の少年少女、大人たちの想像力を刺激してくれたのだ。デフォルメされた2Dグラフィックが、我々の脳内でほどよくリアルな姿に変換されたのだ。リュカやパパス、サンチョの姿に、少年の日のあの頃を思い返した。

 

原作改変には賛否両論あろうが、少年時代をダイジェスト的にゲーム画面で済ましてしまうのもありだろう。安易にナレーションに逃げるよりはるかにましである。基本的に映画というのものは1時間30分から2時間に収めてナンボである。

 

ベビーパンサーの名前がゲレゲレなのもポイント高し。おそらくリアルタイムの初回プレーでこの名前を選んだのは、漫画家の衛藤ヒロユキ氏とJovian、その他数百名ぐらいではないかと勝手に勘定している。確か父親が何か別のソフトと抱き合わせで買ってきてくれたんだったか。ビアンカの命名センスに喝采を送ったあの日を思い出した。

 

すぎやまこういちの楽曲の力も大きい。小学生の頃にレンタルVHSで『 ドラゴンクエスト ファンタジア・ビデオ 』で、あらためてドラゴンクエストの音楽の魅力を確認したんだった。特に、フィールドの音楽。個人的にはⅢのフィールドの音楽がfavoriteだが、Ⅴのそれも素晴らしい。やはり少年の日のあの頃を思い起こさせてくれた。

 

ネガティブ・サイド

なぜ息子一人だけなのか。娘はどこに行った?その息子の名前がアルスというのは漫画『 ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章 』由来なのか。だから最後に異魔神が登場するのか?スラリンがワクチンだというのも、漫画『 DRAGON QUEST -ダイの大冒険- 』のゴメちゃん=神の涙、というネタの焼き直しなのか。占いババは『 ドラゴンボール 』のそれか、またはドラクエⅥのグランマーズか。だからゲマの最期はデスタムーアの最終形態なのか。BGMもⅤ以外が混ざっていたが、そこはなんとかならなかったのか。唐突に登場するロトの剣も、天空シリーズと全く調和しない。それはさすがに言い過ぎか。

 

本作への不満の99%はラストのシークエンスにある。とにかくミルドラースが異魔神なのである。と思ったらウィルスなのである。この世界はすべて遊園地のVRアトラクションだったのである。それを匂わせる描写は確かにいくつかあった。妖精ベラの台詞(「今回はそういう設定なの」)。リュカの口調や口癖(「マジっすか!?」など)。唐突に「クエスト」などという、Vには存在しなかったシステムにリュカが言及する。倒されたモンスターが消える。ゴールドに変化する。ゲーム世界の文法で考えれば当たり前であるが、映画世界の文法ではそうでは無い事柄が散見された。そこはフェアと言えばフェアである。

 

問題は、映画を鑑賞する者の少年時代あるいは少女時代、あるいはその精神を否定する権利がいったい誰にあるのかということである。夢を見て何が悪い?現実から一時的にでも目を背けて何が悪い?何も悪くないだろう、それが社会的に著しい不利益を引き起こさなければ。何よりも、当時も今もゲームはコミュニケーション・ツールなのだ。どのモンスターを仲間にした、仲間にしていない。どのモンスターがどのレベルでどんな強さになるのか。PCは少しは普及していたものの、インターネットなどが影も形もない時代に、小中高校生がお互いの家に遊びに行って、ドラクエやらFFやらストⅡやらに興じて、友情を確かめ合い、深め合ったのだ。それだけではない。関連する小説や漫画で、ゲーム以外でもキャラクター達と出会い、交流していたのだ。そういった体験を虚構であると断じるのは容易い。しかし、虚構に価値が無いとは決して認めたくない。それをしてしまえば、DQだけではなく、あらゆるフィクション(映画、テレビドラマ、舞台演劇、講談、etc)を否定してしまうことになる。大人になれ、というメッセージを発するのは構わない。だが、誰もが持っている楽しかった少年時代を棄損することは許されない。いい大人がいつまでもpuer aeternus=永遠の少年では困る。大人には責任や職務、義務があるからだ。けれど、その大人の心の中に住まう「永遠の少年」を攻撃することは、人格攻撃に等しい。この手法は認められないし、許されない。なによりもこれは『 劇場版エヴァンゲリオン 』の焼き直しではないか。なぜ今になって、このような周回遅れのメッセージを発するのか。岡田斗司夫が『 オタクはすでに死んでいる 』で喝破したように、オタクという人種が隔離され、忌避される時代は終わった。誰もがマイルドにオタクであり、社会もそれを容認しているのが今という時代なのだ。そこに、このようなメッセージを携えて『 ドラゴンクエストV 天空の花嫁 』を映画化する意義はゼロであると断じる。

 

総評

ドラゴンクエストのファンは観てはならない。観なくてもよい、ではない。観てはならない。特に貴方がJovianと同じくアラフォーであれば、本作は忌避の対象である。しかし、ラストのシークエンスを除けば、しっかりしたストーリーのある映像作品として成立してしまっている。そうした意味で、若い世代、またはリアルタイムでファミコンやSFCはけしからんと感じていた、60代後半以上の高齢世代が、本作を適度な距離感で鑑賞できるのかもしれない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ファンタジー, 佐藤健, 日本, 有村架純, 波瑠, 監督:山崎貴, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』 -脚本家は長谷敏司か、庵野秀明か-

『 ANON アノン 』 -近未来SFの凡作-

Posted on 2019年8月8日 by cool-jupiter

ANON アノン 50点
2019年8月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クライブ・オーウェン アマンダ・セイフライド
監督:アンドリュー・ニコル

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TSUTAYAでふと目にとまり、あらすじに興味をひかれた。野崎まどの小説『 know 』のや林譲治の小説『 記憶汚染 』の前駆的な世界、映画『 ザ・サークル 』のテクノロジーと思想が行き過ぎた世界であるように感じられた。暑過ぎて劇場に出向くのが億劫になるので、この時期は自宅での映画鑑賞率が高くなる。

 

あらすじ

あらゆる人間の記憶が記録される世界。第一級刑事サル・フリーランド(クライブ・オーウェン)は他者の記憶にアクセスし、単純作業のように事件を捜査・解決していた。しかし、ある日、街中で何の情報も読み取れない謎の女アノン(アマンダ・セイフライド)に遭遇する。ただの検知エラーだと思うサルだったが、その後、視覚をハッキングされて殺害される人間が次々に現れ・・・

 

ポジティブ・サイド

本作に描かれる社会はSFチックではあるが、充分に我々の予想の範囲内にあるものである。例えばビッグデータの管理と有効活用が叫ばれるようになって久しい。たいていの犯罪は、防犯カメラの映像が決め手になる。人がその目で見るものすべてを記録し、権限のある者だけがそれにアクセスできる社会は、犯罪抑止の観点からはむしろ望ましい。問題はプライバシーが守られるか否かである。Jovianは以前に大手信販会社で働いていたが、そこでは当然のように個人情報保護に腐心していた。だが、会社がもっと注力していたのはプライバシーの保護である。よく言われることであるが、個人情報、すなわち個人を識別できる情報(それは氏名であったり、電話番号であったり、住所であったりする)はある程度の数を集めなくては有用とはならない。プライバシーはそれ自体が貴重な、または危険な情報となる。例えば、貴方がたまたま上司のクレジットカードの明細書を見ることができたとしよう。そこに「○月×日 アデランス ¥43,200」という記載があったら?

 

本作は単なる情報とプライバシーの境目が曖昧になった世界の危うさを描いている。それはプライベートな情報をDFE(Delete Fuckin’ Everything)できるからで、さらに言えば、人間の記憶と記録の境目すらも曖昧になってしまうからだ。『 華氏451 』でも、物理的な実体あるものとしての書物は忌避された。なぜなら、アナログなもの全てを書き換えるのは実質的に不可能だからである。

 

本作でアマンダ・セイフライドが見せる記録操作の鮮やかさやサルの見る世界に、Augmented Reality(AR)やユビキタス社会に思いを馳せずにはいられなくなる。それがユートピアになるかディストピアになるかは誰にもわからない。しかし、セックスが重要なモチーフになっているところに本作の功績を認めたい。何もかもを情報空間で済ませる世界であっても、肉体と肉体をぶつけあう性行為に意味があるとアンドリュー・ニコルは言っているわけだ。エキサイティングなSF作品ではないが、ありうべき未来予想図の一つとして鑑賞する価値は認められる。

 

ネガティブ・サイド

視覚をハッキングすることだけでなく、プロット全体が『 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 』の焼き直しに近い。というか、パクリと呼ばれても仕方がないのではないか。士郎正宗はサイバーパンク分野の先駆者である。手塚治虫の『 ジャングル大帝 』がディズニーの『 ライオン・キング 』の元ネタであることは世界中の人間が長年にわたって疑っていることである。本作も士郎正宗のパクリなのではないかという疑惑に今後長く晒されるだろう。

 

サルの上司の無能っぷりが目立つ。なぜ視覚をハッキングする犯罪者がいると分かっていながら、視覚記録を信じようとするのか。殺人事件が起きておらず、サルだけが不可解な経験をしているというのなら話は分かるが、すでに人が何人も死んでいるのだ。もちろん、エンタメ作品やフィクションの警察というのは大体が権力と通じていたり、腐敗していたりするものだ。しかし、そこまでクリシェである必要はない。本作は既に東洋西洋の優れた先行作品にあまりに多くを負っている。

 

犯人の目星があっという間についてしまうのも弱点だ。普通は後から思い起こして、「ああ、あの時のクローズアップはこういうことだったのか」、「あのカット・アウェイはそういうことだったのか」と思わせるカメラワークではなく、「こいつが怪しいですよ」とこれ見よがしに見せつけるようなカメラワークというのは斬新ではあるが、陳腐でもある。極めて少ないキャラクターの中でこれをやられると、否が応でも犯人はこいつであると見当がついてしまう。ミステリ作品ではないとはいえ、これは興醒めである。

 

総評

起伏に乏しい作品である。派手なドンパチも、脳髄をひりつかせるようなミステリもサスペンスもない。だが、文明を見つめる視線がそこにはある。インターネットにどっぷりと漬かっている人ならば、そそられるシーンもいくつかある。梅雨時や猛暑日に室内で時間つぶしに鑑賞するのに適した作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アマンダ・セイフライド, クライブ・オーウェン, ドイツ, 監督:アンドリュー・ニコル, 配給会社:カルチュア・パブリッシャーズLeave a Comment on 『 ANON アノン 』 -近未来SFの凡作-

『 天気の子 』 -不完全なセカイ系作品-

Posted on 2019年7月26日2020年4月11日 by cool-jupiter

天気の子 55点
2019年7月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:醍醐虎汰朗 森七菜
監督:新海誠

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あらすじ

関東は異常気象で数十日も雨が降り続いていた。家出少年の帆高(醍醐虎汰朗)は、ふとした縁から、オカルト記事ライターの事務所で職を得る。精勤する穂高は、ある時、陽菜(森七菜)という少女のピンチを救う。弟と二人暮らしの陽菜は、しかし、実は祈ることで天気を晴れにすることができるのだった・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190726005428j:plain

以下、ネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

雨、雨、雨で気分が滅入るが、その分、晴れ間の美しさはとびきりである。そして『 シン・ゴジラ 』を思わせる、近未来的な東京(武蔵小杉は神奈川か)の景観はファンタジーとリアリティの境界線上にあると感じられた。現実の世界での突拍子もない事象にリアリティを持たせるためには、まずは舞台となる世界そのものを現実<リアル>から少しずらすことが必要である。本作はその導入部で成功している。何故なら、東京の爛熟した発達模様と、大都市に特有の不潔で冷酷な生態系が発達する場所の両方がフォーカスされるからだ。そして、穂高と陽菜の二人、いや主要なキャラクター達は全員、比喩的な意味での日の当たる場所に出ることはない。東京という摩天楼のひしめく街区ではなく、木造のおんぼろアパートや、明らかに空襲を免れた痕跡である、込み入った狭い路地が錯綜する地域に住まうのが穂高や陽菜である。この舞台設定により、我々はほぼ自動的にこの若い男女に感情移入させられるのである。

 

メインヒロインの陽菜のキャラクターは本作を救っている。はっきり言って、狙って作ったキャラクターである。新海誠の趣味が全開になったようである。あるいは、全ての男に媚びを売るためなのだろうか。器量良し、料理良し、家事良し、人柄良し、そしてなによりも年上と思わせておきながら年下である。これは反則もしくは裏技である。姉萌えと妹萌えの両方を満足させるからである。といっても、前振りや伏線はしっかりと用意されているので、アンフェアではない。

 

そして穂高についても。本作は典型的なボーイ・ミーツ・ガールであるが、同時に A Boy Becomes a Manのストーリーでもある。A Child Becomes an Adultでないところに注意である。大人とは何か。それは『 スパイダーマン ホームカミング 』で、ピーターとトニーが交わす会話に集約されている。つまり、責任ある行動を取れるかどうかなのだ。しかし、少年と男は違う。我々はよくプロ野球選手などが「優勝して、監督を男にしたい」と言ったりするのを聞く。ここでいう男が生物学的な意味での雄を意味するわけではないことは自明である。男とは、自らの信念に忠実たらんとする姿勢、生き様のことなのだ。そういう意味では、穂高は子どもから大人になろうとしているのではなく、少年から男になろうとしている。大人であっても男ではない男はたくさん存在する。むしろ、大人になってしまうと男になることは難しい。それは大人だらけのプロ野球の歴史を見ても、“男”という枕詞が定冠詞の如く使われる選手は、「男・前田智徳」ぐらいしか見当たらないことからも明らかである。そして、穂高は確かに男になった。その点においては、自らの信念に忠実であり続けた新海誠監督を評価すべきなのだろう。

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ネガティブ・サイド

これは周回遅れのセカイ系なのか。ひと組の男女の関係がそのまま世界の命運に直結するというプロットを、我々は90年代後半から00年代終盤にかけて、これでもかと消費してきたのではなかったか。『 君の名は。 』も、確かにそうした系譜に連ねてしまうことはできなくもないが、星というこの世(地球)ならざるものの存在が、世界をセカイに堕してしまうことを防いでいた。天気は、しかし、それこそ身近すぎて、世界がいともたやすくセカイに転化してしまう。それがJovianの受けた印象である。宇宙的なビジョンが挿入されるシーンがあるが、そのようなものは不要である。蛇足である。天気・天候と宇宙の関係を追求したものとしては梅原克文の伝奇・SF小説の傑作『 カムナビ 』がある。話のスケールもエンターテインメント性も、こちらの方が遥かに上である。惜しむらくは、梅原の著作はどれも映像化が非常に困難だということである。しかし、いつか勇気あるクリエイターたち(できれば『 BLAME! 』をアニメ映像化したスタジオにお願いしたい)が『 二重螺旋の悪魔 』をいつか銀幕上で見せてくれる日が来ると信じている。

 

Back on track. セカイ系は既にその歴史的な役目を終えたというのが私見である。それは西洋哲学史が、神、絶対者、歴史という抽象概念な概念としての世界から、フッサール以降は「生活世界」にフォーカスするようになり、さらに現代哲学は言葉遊びと現象学、脳神経科学、、心理学などが複雑に絡み合う思想のサーカス状態である。セカイ系は、思想的には「生活世界」=森羅万象という思考に帰着するものだ。自らの生きる、実地に体験できる範囲の世界のみを現実と認識することだ。しかし、そこには重要な欠落がある。想像力だ。人間の持つ最も素晴らしい能力である、想像力を弱めてしまうからだ。穂高は陽菜のために関東を犠牲にしたと言えるが、それは少年が男になる過程としては受け入れられても、子どもが大人になる過程としては違和感しかない。穂高もそうだが、それは須賀というキャラクターに特に象徴的である。この人物は、大人にも男にもなり切れず、大人のふりをした決断をする。もちろん、アニメ映画の文法よろしく、最後には主人公の味方になるのだが、それまでに見せる須賀の想像力の無さには辟易させられる。まるで自分というおっさんの至らない面をまざまざと見せつけられているようだ。「大人になれ」という須賀の台詞には、軽い怒りさえ覚えた。それも監督の意図するところなのだろうが。

 

雨を降らせ続けるという決断を下したのであれば、それがどれほど甚大な被害をもたらす決断であるのかをしっかりと描かなくてはならない。昨年(2018年)の西日本豪雨の被害はまだ我々の記憶に新しい。土砂災害もそうであるが、長雨により発生するカビ、金属の腐食、農作物の不作、疫病の発生、生態系への影響など、「昔に戻る」で決して済まない事態が出来することは日を見るより明らかだ。だいたい、あの銃があの状況で使えてしまうことがそもそもおかしい。いずれにせよ、穂高と陽菜の決断の結果、世界が“想像を超えた災厄”に見舞われていないと、それはセカイ系の物語としては不完全だ。というよりも、セカイ系の文法からも外れているではないか。特に世界全体がリアリティを欠いている。児童相談所は一体何をやっている?地域の公立小中学校は?警察も無能すぎる、と言いたいところだが、富田林署から逃げ出した男が実在するわけで、ここは減点対象にしない方が良いのだろう。

 

空の世界の描写も『 千と千尋の神隠し 』の白と式神のオマージュなのだろうか。もっとオリジナリティのあるビジョンは描けなかったのだろうか。細かい部分にも不満は残るが、全体を通じてやはりミュージック・ビデオ的な作りであるとの印象は避けられない。愛にできることを問うのは美しいが、愛が必然的に伴うネガティブな部分の描写の弱さ故に、子ども向け作品としてしか評することができない。

 

総評

最近、特に年齢を感じる。肉体的にそうだ。風邪をひいて、回復するのに4~5日を要するようになってしまった。精神的な老いも感じる。対象の新しい可能性を探ろうとするよりも、既知のものとのアナロジーで語ることが多いことは自覚しているが、仕事でも私生活でも何かを変えなければならない時期に来ているのかもしれないと感じた次第である。本作について言えば、オッサンの鑑賞に堪える部分は少ないだろう。しかし、中高大学生カップルあたりは、『 君の名は。 』と同じくらいに楽しめるのではなかろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ファンタジー, 森七菜菜, 監督:新海誠, 配給会社:東宝, 醍醐虎汰朗Leave a Comment on 『 天気の子 』 -不完全なセカイ系作品-

『 ピンカートンに会いにいく 』 -アラフォー女の人生惨禍・・・もとい賛歌-

Posted on 2019年7月18日 by cool-jupiter

ピンカートンに会いにいく 55点
2019年7月15日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:内田慈 松本若菜 小川あん 田村健太郎
監督:坂下雄一郎

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『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』とプロットはよく似ている。かつてグループだった女子たちが、幾星霜を経て再会を果たすというものである。だが、公開は『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』よりも、本作の方が早かったのである。

 

あらすじ

アイドルグループのピンカートンは、ライブ当日に突然解散してしまった。それから20年、神埼優子(内田慈)は、派遣社員としてコールセンターで働きながら、芸能界にしがみついていた。そんな時に、レオード会社の松本(田村健太郎)がピンカートン再結成という企画を持ってくる。優子は元メンバーたちを探し歩くが、当時最も売れていた葵(松本若菜)の行方が杳として分からず・・・

 

ポジティブ・サイド

クリント・イーストウッドではないが、この世には二種類の人間がいる。過去をよりどころに現在を生きる人間と、未来をよりどころに現在を生きる人間である。かつてのアイドル時代の夢を忘れられず、それでも仕事をより好みしながら、時には闇営業で役者の仕事を得ていた。事務所を通さずに個人で仕事をゲットしてくることのリスクは、巨大事務所でも弱小事務所でも変わらない。芸能界の闇を、現実に一歩先んじて見せてくれた点は面白いし、評価すべきなのだろう。優子は過去に生きている。そのこと自体は否定も肯定もされるべきではない。しかし、自分の生き方を基準に他人の生き方を否定してはならない。優子がかつてのピンカートンのメンバーたちと再会し、再結成を持ちかける時の話しぶりは醜い。それは優子の語りが、まるで元メンバーたちが自分たちの人生の主役ではないかのように聞こえるからだ。何故か。それは、元メンバーたちが未来を志向して生きているからだ。例えば、子どもがいるメンバー。子ども=未来。分かりやすい等式である。現在の子どもにコミットしなければならないし、一定の年齢までその子どもを育てなければならない。過去を見る暇などない。過去と未来の二項対立ほど分かりやすいものはなかなかない。だからこそ、そこには無数のドラマが生まれ得る。

 

ピンカートンの再結成企画を通じて、メンバーたちが向き合うことになるのは、過去の解散の真相だけではない。現在の自分たちでもある。ブレイク前のアイドルというのは、何者でもない。小説および映画の『 何者 』でも描かれていたが、人間のアイデンティティというものは社会的な属性が第一義である。だからこそ大人は“What do you do?”という問いかけを普遍的に使うのである。だが、その社会的属性にも、自らが獲得するものと社会の側から押し付けられるものとがある。母親像というのは後者の典型であろう。女性は、長ずるに及んで性を奪われ、姓を奪われ、そして名前も奪われる。つまり、誰々さんの奥さん、誰々さんのお母さんという属性や関係で呼称されるようになってしまう。そう喝破したのは栗本薫だったか。

 

何者にもなれなかった自分たちと、何者かにされてしまった自分たち。そんな彼女たちが本当の自分を追い求めてたどり着いたステージは感動的である。過去と現在が交錯し、まだ見ぬ未来への眼差しが生まれる。そこには新しい可能性がある。ステージ上の彼女らと同世代であるJovianも思わずホロリとさせられてしまった。優子は過去の自分から、「これが自分のピークなの?」と問われるが、その答えがクライマックスのステージ上にある。

 

もう一つ、優子と葵の再会のシーンも見どころである。かみ合わない会話がかみ合う。かみ合っているはずの会話がかみ合っていない。その二人の対話が、実はピンカートンの解散の真相と構造的に重なる。このメタ構造には唸らされた。脚本家はかなりの手錬れである。

 

ネガティブ・サイド

内田慈の演技はやや過剰であった。英語にすれば She chewed up the scenery. である。もう少し“演技をしている状態”と“演技をしている演技をしている状態”を峻別して欲しかった。彼女ぐらい豊富なキャリアの持ち主であれば、それは困難なタスクではない。

 

元メンバーの一人娘が難しい年頃で、反抗期にして不登校なのだが、その娘を巡るサブプロットがあまり上手に機能していないように感じられた。冒頭のライブ直前の解散にがっかりさせられる松本少年と相似形を為す存在になるかと思われたのだが。この娘が、母親の再結成パフォーマンスを見ることで未来に向けて一歩を踏み出すことができれば、それは、それがピンカートン再結成の大いなる意義になったはずだし、ピンカートンのメンバーたちの止まっていた時を動かす契機にもなったはずなのだ。このサブプロットを見る側の脳内補完だけに委ねるのは惜しい。というか、監督や脚本、場合によっては編集の職務怠慢であるとさえ言えるだろう。

 

総評

悪い出来ではない。むしろ佳作である。個人的には『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』よりも面白いと感じる。しかし、『 サニー 永遠の仲間たち 』には遠く及ばない。カメラワークや照明、シーンとシーンの繋ぎの編集などに「ん?」と思わされる箇所がちらほらと散見される。それでも現状に閉塞感を感じる人、自分が何者であるのかに悩む人に勇気を与えられる作品に仕上がっている点を評価したい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 内田慈, 小川あん, 日本, 松本若菜, 田村健太郎, 監督:坂下雄一郎, 配給会社:アーク・フィルムズ, 配給会社:松竹ブロードキャスティングLeave a Comment on 『 ピンカートンに会いにいく 』 -アラフォー女の人生惨禍・・・もとい賛歌-

『 イット・カムズ・アット・ナイト 』 -“イット”・ムービーの拍子抜け作品-

Posted on 2019年7月16日 by cool-jupiter

イット・カムズ・アット・ナイト 40点
2019年7月15日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジョエル・エドガートン
監督:トレイ・エドワード・シュルツ

スティーブン・キング原作の『 IT イット 』、『 IT イット “それ”が見えたら、終わり。 』に代表されるように、Itは元々、正体不明の存在を意味する。身近なところでは、It is a beautiful day today. や It’s really cold in this room.、It’s not that far from here to the station. などのような英文の主語It は、それ単独では意味が決定できない。必ずそれに続く何かがないと、天気なのか、気温なのか、距離なのか、正体は分からない。『 イット・フォローズ 』でもそうだったが、怪異の正体が不明であること、それが恐怖の源泉というわけで、ホラー映画のタイトルに It を持つ作品が多いのは必然なのである。それでは本作はどうか。はっきり言って微妙である。

 

あらすじ

ポール(ジョエル・エドガートン)は、老人を射殺し、遺体を焼いて、埋めた。彼は森の奥深くで家族を守りながら暮らしていたのだ。ガスマスクと手袋、そして銃火器で彼らは“何か”から身を守っていた。そこへウィルという男性が現れる。彼は自分にも家族がいるのだと言い・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭からミステリアスな雰囲気が漂う。同時に、観る者に考えるヒントを与えている。ガスマスクや手袋に注目すれば、細菌またはウィルスの空気感染もしくは飛沫感染が疑われる。ならば保菌者は?これは銃が有効な相手。となると小動物や虫ではなく大型の動物。普通に考えれば人間ということになる。そしてそれは十中八九、ゾンビであろう。It comes at nightというタイトルから、太陽光線の下では活動できないゾンビであることが容易に推測される。そうした設定のゾンビは、リチャード・マシスンの小説『 地球最後の男 』から現在に至るまで、数千回は使われてきた。低予算映画とは、つまりアイデア型の映画なわけで、陳腐な設定にどのような新しいアイデアがぶち込まれてきているのかが焦点になる。そうした意味で、本作の導入部はパーフェクトに近い。

 

またジョエル・エドガートンの顔芸も必見である。『 ある少年の告白 』でも、恐ろしいほど支離滅裂ながら、なぜかカリスマ的なリーダーシップを発揮する役を演じていたが、本作でもその存在感は健在。恐怖心と勇気、愛情と非情、相反する二つの心情を同居させながらサバイバルしようとする男が上手く描出できていた。

 

ネガティブ・サイド

意味深な導入部を終えると、ストーリーは一転、停滞する。It comes at night. というタイトルにも関わらず、何もやってこない。いや、色々なものが夜には出現してくる。それは思春期の少年と年上女性とのロマンスの予感であったり、夜な夜な見てしまう悪夢であったり、開けてはいけないとされる扉を開けてしまいたくなる誘惑であったりする。問題は、それらが怖くないこと、これである。恐怖の感情は、恐怖を感じる対象の正体が不明であることから生まれる。しかし、本作のキャラ、なかんずくポールの息子のトラヴィスは、恐怖の感情そのものに恐怖している。つまり、彼の恐怖の感情と見る側のこちらの恐怖の感情がシンクロしにくいのである。彼らは恐怖の対象が何であるのかある程度理解しており、その対策のための防護マスクや手袋を持っている。こちらは、恐怖の正体についてある程度の推測はできているため、いつそれが姿を現すのかを待っている。つまり、恐怖を感じるのではなく、やきもきするのである。じれったく感じるし、イライラとした気持ちにすらさせられるのである。

 

設定がよく似た作品に『 クワイエット・プレイス 』があるが、ホラー作品としてはこちらの方が王道的展開で安心できる。本作は、「(ゴジラより)怖いのは、私たち人間ね」と喝破した『 シン・ゴジラ 』の尾頭ヒロミよろしく、人間関係そのものが恐怖であることを描く、陳腐な作品である。似たようなテーマを持つ作品としては『 孤独なふりした世界で 』の方が優れているし、正体不明の何かが迫ってくる映画としては『 イット・フォローズ 』に軍配が上がる。

 

総評

真夏日に家の外に出たくない。そんな時に気軽に暇つぶしする感覚でしか観られないのではないか。人間関係の微妙な機微の描写や、ポスト・アポカリプティックでディストピアンな世界観の構築をそもそも追求していない作品だからである。ホラーというよりはシチュエーション・スリラーで、そちらのジャンルを好む向きならば鑑賞してもよいかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, シチュエーション・スリラー, ジョエル・エドガートン, ホラー, 監督:トレイ・エドワード・シュルツ, 配給会社:ギャガ・プラスLeave a Comment on 『 イット・カムズ・アット・ナイト 』 -“イット”・ムービーの拍子抜け作品-

『 Diner ダイナー 』 -映像美は及第、演出は落第-

Posted on 2019年7月8日2020年4月11日 by cool-jupiter

Diner ダイナー 50点
2019年7月6日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:藤原竜也 玉城ティナ 窪田正孝 本郷奏多
監督:蜷川実花

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漫画原作で藤原竜也が出演する作品はハズレが少ないという印象を持っている。『 カイジ 』シリーズしかり、『 デスノート 』シリーズしかり、『 るろうに剣心 』シリーズしかり。それでは原作は小説で、漫画化もされている本作はどうか。かなり微妙な出来栄えである。

あらすじ

人間不信だったオオバカナコ(玉城ティナ)は、ある時、異国の色鮮やかな光景に魅了された。どうしてもそこに行きたいと願ったカナコは即日30万円というバイトに応募する。しかし、それは殺し屋のgetaway driverの仕事だった。裏社会の連中に始末されそうになったカナコは料理の腕をアピールする。すると殺し屋専門のダイナーに送り込まれ、凄腕シェフのボンベロ(藤原竜也)と出会う・・・

 

ポジティブ・サイド

このDinerの内装のサイケデリックさよ。常識ではありえない設定のレストランだが、馬鹿馬鹿しいまでの工夫を施せば、それもリアリティを生み出す。壁のピンクを基調にシックに決めたカウンターとテーブル席から、カビ臭ささえ感じさせる薄暗い個室まで、このDinerは確かに狂っている。客もシェフも狂っている。そんなサイケでサイコな世界に足を踏み入れたカナコが全裸になって全身を清めるのも蓋し当然である。これは禊ぎなのである。そして眼福でもある。『 わたしに××しなさい! 』ではYシャツのボタンをはずして首元、胸元をあらわにしたが、本作ではさらなるサービスをしてくれている。この調子で頑張って欲しい。

 

まるっきりCGだったが、最も原作に忠実に再現されていたのは菊千代であろう。一家に一頭、菊千代。店一軒に一頭、菊千代。こんな犬を番犬に飼ってみたい。また窪田正孝演じるスキンも再現度は高かった。極めてまともに見えるところから、殺人鬼の本性が解き放たれる刹那の演技はさすが。『 東京喰種 トーキョーグール 』でも大学生をまったくの自然体で演じていたが、その演技力の高さを本作でも見せつけた。漫画では悪魔的、サイボーグ的な活躍を見せたキッドも、本郷奏多が好演。菊千代をボコらなかったのは動物愛護法に引っかかるからなのか。続編があるとすれば、キッドの狂気が爆発するのだろう。

 

しかし最大のハイライトは真矢ミキと土屋アンナであろう。『 ヘルタースケルター 』でも顕著だったが、訳あり女、一癖も二癖もある女、凶暴な女を狂気の極彩色で描き出すのが蜷川実花監督の手腕にして真骨頂なのだろう。クライマックスのバトルアクションは彼女の美意識が暴発したものである。ここは必見である。宝塚ファンは劇場へGo! である。

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ネガティブ・サイド

Jovianは原作小説未読で、週刊Young Jumpに連載していた漫画(良いところでWeb送りになったが・・・)を読んでいた。そのイメージで語らせてもらえるなら、藤原竜也はボンベロには似ていない。顔およびイメージの近さで言うなら、高良健吾、山田裕貴、要潤、松田翔太あたりではないだろうか。もしかすると原作小説内のボンベロの外見描写に藤原竜也にマッチするものがあるのかもしれないが、あくまで漫画ビジュアルに基づいた感想で言えば、ミスキャストに思えた。演技ではなく、あくまで外見についてである。

 

そして漫画のオオバカナコのビジュアルと玉城ティナも、何か違う。弱々しくも肝っ玉が据わっており、おぼこいながらも巨乳であるというアンバランスさが特徴だったはずだ。このイメージに当てはまる女優というと、仲里依紗、新川優愛あたり、さらに門脇麦もいけそう。いや、やはり違うか・・・。とにかくメインを張る二人のイメージがしっくりこないのである。

 

また内装や客連中の服装、コスチューム、アクセサリーの派手派手しさ、毒々しさ、色鮮やかさに対して、肝心の料理のビジュアル面での迫力が決定的に不足している。4DXやMX4Dがどれほど進化しても、味は伝えられないだろう。匂いも、火薬や油のそれならまだしも、料理となると相当に難しいのではないか。だが味については料理を堪能する役者の演技で間接的に伝えられる。映画が観客に直接に料理の旨さを伝えるには、映像と音を以ってするしかない。そのことはクライマックスでのボンベロの台詞にも表れていた。ならばこそ、ボンベロの料理シーンにもっとフォーカスした絵が欲しかった。肉の表面に焼き色や焦げ目がついていく様、肉汁の爆ぜる音、包丁が食材の形をどんどんと変えていくところ、野菜や果物、肉の芯に刃が通る音、こうした調理のシーンがあまりにも少なすぎた。ドラマの『 シメシ 』や『 深夜食堂 』、『 孤独のグルメ 』よりちょっと映像を派手目にしてみました、では不合格である。元殺し屋が命がけで作る料理のディテールを伝える絵作り、演出、それこそが求められているものなのだ。

 

最後のアクションは素晴らしい部分は素晴らしいが、クリシェな部分はクリシェである。特に、『 マトリックス 』のようなバレットタイムを今という時代に邦画でこれほどあからさまに取り入れる意味は何なのか。まさかとは思うが、真矢ミキその他のキャストのアクションに注力するあまり、主役のボンベロのアクションは途中からネタが尽きたとでも言うのか。

 

また、一部の販促物に「殺人ゲームが始まる」という惹句があったが、それは漫画もしくは原作小説の展開であって、今作にはそんなものは存在しない。看板に偽りありである。

 

総評

かなり評価が難しい作品である。おそらく絶賛する人と困惑する人に分かれるのではなかろうか。もしくは悪くは無いが、決して傑作ではないという評価に落ち着くのだろう。ただし、結構なビッグネームが出演していながらもあっさりとぶち殺されたり、宝塚女優が脳みそイッてる演技を見せてくれたりするので、芸術作品ではなく、純粋な娯楽作品を観に行く姿勢で臨めばよいだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アクション, スリラー, 日本, 玉城ティナ, 監督:蜷川実花, 藤原竜也, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 Diner ダイナー 』 -映像美は及第、演出は落第-

『 X-MEN:ダーク・フェニックス 』 -X-MENシリーズ、着地失敗-

Posted on 2019年7月8日2020年4月11日 by cool-jupiter

X-MEN:ダーク・フェニックス 45点
2019年7月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ソフィー・ターナー ジェームズ・マカヴォイ マイケル・ファスベンダー ジェシカ・チャステイン
監督:サイモン・キンバーグ

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Marvel Cinematic Universeが一つの区切りに達したところでMonsterVerseが本格的に指導し始めた。まさに映画の時代の区切りの感がある。そこで『 X-MEN 』シリーズの最終作品が届けられる。はっきり言ってX-MENシリーズは玉石混交である。しかし、All is well that ends well. 最終作品の評価を以ってシリーズ全体を総括することも可能であろう。では本作はどうか。残念ながら、やや駄作であった。

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*以下、ネタばれに類する記述あり

 

あらすじ

ミュータントと人類が共存する時代が到来していた。そこで宇宙探査機の事故が発生する。米政府はX-MENにレスキュー・ミッションを依頼し、プロフェッサーX(ジェームズ・マカヴォイ)は受諾。宇宙空間での救出作戦は成功したかに思えた。しかし、ジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)の中には本人も気付かぬ変化が生じており・・・

 

ポジティブ・サイド

トレイラーにもある、列車内のアクションシーンは非常にスリリングである。それは列車という細長い空間内でカメラのアングルが縦横無尽に変化していくからだ。一方通行の戦いを多角的に見る。閉鎖空間内のアクションを堪能するために必要な工夫である。ココはとても楽しめる。

 

マカヴォイやファスベンダーら、英国で最も実力ある俳優たちが共演するのも本シリーズならではである。パトリック・スチュワートとイアン・マッケランも悪くないが、Jovian個人としてはジェームズ・マカヴォイとマイケル・ファスベンダーの方が、プロフェッサーXやマグニートーを表現しているように思うのである。特にチェスのシーンは、『 X-MEN2 』を思い起こさせてくれた。つまり、終わったと言いながらも「俺たちの戦いは終わらない」的なことを感じさせてくれたのである。実際に、続編に色気を出したエンディングを迎えているし、このあたりは『 X-MEN: アポカリプス 』と同じである。History repeats itself. 同時に『 X-MEN: ファースト・ジェネレーション 』の構図でもある。実際にサイクロップスは「自分たちが最後のファースト・ジェネレーション(First Class)だ」と明言する。セカンド・ジェネレーションの存在を力強く示唆する言葉であり、今後はディズニーの元、同じく第二世代のアベンジャーズやファンタスティック・フォーに合流していく伏線であるとも取れる。期待せずに期待したい。

 

ネガティブ・サイド

オリジナリティが無い。これが最初に目につく本作の欠点である。まず、ジーンの変化のきっかけがそのまんま『 ノイズ 』(監督:ランド・ラヴィッチ)である。そして登場する宇宙人がほとんどそのまんま『 サイン 』(監督:M・ナイト・シャマラン)である。また、ジーンの幼少期の悲劇が、これまたほとんどそのまんま『 シャザム! 』のシヴァナの見に起こった事故である。ダーク・フェニックスとなったジーンにクイック・シルバーが立ち向かっていくシーンは、そのまんま『 ジャスティス・リーグ 』におけるスーパーマンに向かっていくフラッシュの構図である。ことほど然様に本作はオリジナリティに欠ける。終盤の列車内バトルの鮮烈さと対照的である。実際に、終盤は監督を変えて最撮影したものらしい。なるほど、と得心する。これまでに製作の面でX-MENに携わってきたキンバーグであるが、監督としての才能は凡庸であった、またはこのような大作のメガホンを取るにはキャリアが浅すぎたと判断せざるを得ない。

 

キャラクターにも一貫性を欠く。これは『 デッドプール 』でも触れられていたが、タイムラインが混乱している。例えば、チャールズ・エグゼビアは『 LOGAN ローガン 』では自らの人生を悔いていた。自らの為した仕事を失敗だったと涙ながらに後悔していた。そのことは、本作の中盤までのチャールズと共通する。しかし、終盤で明らかになる彼の本心とは矛盾するというか、相容れない。また、マグニートーというキャラクターの一貫性にも混乱が見られる。『 X-MEN: ファイナル ディシジョン 』のイアン・マッケランはいとも簡単にミスティークを見捨てたが、本作ではマイケル・ファスベンダーはミスティークの死を知ったことで弔い合戦に参加してくる。ウェイド・ウィルソンの言葉をそのまま借りて言えば、「タイムラインが混乱している」のである。

 

だが最大の弱点はジェシカ・チャステインのキャラであろう。X-MENの世界にX-ファイルが入り込んできた。それがJovianの偽らざる感想である。いや、オリジナリティの欠如だけなら、まだ許せないことはない。問題は、一体全体どのようにしてジェシカ・チャステインという当代随一の女優を、これほど無味乾燥で、物語に何の彩りも添えることのないキャラクターに落としてしまうことができたのか、である。ジェシカ・チャスティンと愉快な仲間たちは、はっきり言って倒されるためだけに存在している。その仲間たちもアクションに華を加えることには役立ったが、物語にスリルやサスペンスを加えることはなかった。というか、このように地球人の皮をかぶる宇宙人と戦うに際してこそ、ミスティークの能力が輝くのではないか。ミスティークの死は、単にミュータントを集める口実にしかならない。紆余曲折を経てミュータントが一堂に会し、宇宙から脅威およびジーン・グレイに立ち向かい、その戦いの最中、ミスティークが非業の死を遂げる。そうした脚本を誰も描くことができなかったのか。それともジェニファー・ローレンスのギャラが高騰してしまうのが不都合だったのか。

 

もっとダイレクトに不満に感じることを言ってしまおう。ミュータントはそもそも共同体や社会、国家におけるマイノリティの象徴だったはずだ。そうした顧みられざる者たちが、異能の存在者として世界に居場所を見つけようとする叙事詩がX-MENだったはずだ。しかし、『 インディペンデンス・デイ 』のウィットモア大統領の演説、“We can’t be consumed by our petty differences anymore.”よろしく、安易に地球外の生命体を登場させることで「我ら皆、地球人にて候」と非常に安易な二項対立の構図に物語を収斂させてしまうことが気に食わない。ダーク・フェニックスは確かにダークな存在ではあるが、彼女が人間社会にもたらした破壊と暴力は、過去のミュータント連中、例えばマグニートーやミスティーク、ナイトクローラーのそれと比べると、一段落ちる。にも関わらず、殊更に彼女を脅威であるかのように煽るので、辛抱強くシリーズに向き合ってきた者としてはどうにも腑に落ちない。まさしく franchise fatigue の悪弊である。

 

総評

言いたいことが色々とあってまとまらないが、これでX-MENが終わりであるというには、余りにもお粗末な締めくくりである。死に際して紅蓮の炎に飛び込み、灰燼の中から復活する不死鳥のように、おそらく本シリーズもいつの日か復活するであろう。その時は練りに練った脚本と斬新な映像演出を期待したい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SFアクション, アメリカ, ジェームズ・マカヴォイ, ジェシカ・チャステイン, ソフィー・ターナー, マイケル・ファスベンダー, 監督:サイモン・キンバーグ, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『 X-MEN:ダーク・フェニックス 』 -X-MENシリーズ、着地失敗-

『 哲人王 李登輝対話篇 』 -様々な点で更なる深堀りが必要な作品-

Posted on 2019年7月7日2020年4月11日 by cool-jupiter

哲人王 李登輝対話篇 40点
2019年7月4日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:桃果 てらそままさき
監督:園田映人

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人に勧められて鑑賞。元々少し興味があったので、劇場上映最終日に出陣。着眼点は悪くないと思うが、映画的演出の面、さらに歴史を見つめる視座・視覚にまだまだ改善の余地ありと言わざるを得ない。

 

あらすじ

女子大生の山口まりあ(桃果)は現代の世界の在り方に疑問を抱いていた。悪くなっていくだけの世界に絶望したまりあは湖への投身自殺を図る。しかし、その時、まりあの心に語りかけてくる声があった。それは台湾の元総統・李登輝の声だった。李登輝は言う。あなたの心を変えてみたい。だから私の話を聞いて欲しい。それまで、あなたの命は私に預けるように、と。かくして、李登輝とまりあの心の対話が始まった・・・

 

ポジティブ・サイド

台湾という、ある意味で誰もが余りはっきりと理解していない国に焦点を当てるというのは、着眼点として優れている。そして、地政学的に複雑な場所に位置する台湾が辿ってきた数奇な歴史は、日本が歩んでいたかもしれないifの歴史とシンクロする、あるいはオーバーラップするところも多いだろう。2014年のロシアのクリミア併合や今も続く北方領土問題、前世紀末から続く周辺諸国による南沙諸島の領有争い及び中国の実効支配化、更に尖閣諸島への進出など、現代においても領土的野心を捨てていない大国がすぐ近くに存在するという現実を念頭に置いた上で李登輝の話に耳を傾ければ、グローバリゼーションが着々と進行する中で、どのように「民族自決」にも重きを置いていくべきなのかが見えてくる。

 

歴史を過去の物語とせず、現代を把握する上での貴重な羅針盤や航海図として見るのならば、それは正しい歴史の見方であると思う。そのことがある程度達成されていることが本作の貢献であろう。

 

ネガティブ・サイド

大きくは二つある。まず、まりあというキャラクターがあらゆる意味で駄目駄目である。世界には飢えた子どもがいる、戦争、紛争が絶えない地域がある。自分たちはそれをニュースとして消費するだけである。こんな世界に誰がした?こんな世界に生きる価値は無い!だから死ぬことにする・・・って、アホかいな。ティック・クアン・ドックみたいに燃えるプラカードとして国会議事堂前で絶命するぐらいしてみろ、とまでは言わない。ただ希死念慮を抱く前に、「こんな世界に誰がした?」という問いかけに、自分で答えようとする意気込みぐらい持ちなさい。大学生だろう。色々勉強してみたが、現代史はあまりにも複雑に絡まり合っていて何が何だか分からない、自分はやっぱり無力だ・・・という流れも何もなしに、「死にます」では誰の共感も得られない。2分でいいから、まりあの勉強、および無力感を味わうシーンを挿入できなかったのか。ストーリーボードの時点でそもそもそんな構想は存在しなかったのか。またはポスプロの編集でカットされたのか。いずれにしても、まりあというキャラクターを立たせるのに失敗している。

 

二つには、歴史を単眼的に捉えている点である。複眼的ではないということである。では複眼的とは何か。これについては色々と分析できるが、Jovianが主に用いる思考法は以下である。すなわち、「事実」と「真実」の両方を考える、ということである。

 

まず李登輝総統が語る日本軍による台湾統治の物語は紛れもない真実であろう。しかし事実は、日本が軍事力によって台湾を支配したということである。台湾がそのことによって発展し、教育を授けられ、日本に恩義を感じたというのは真実である。しかし、日本は台湾及び台湾人のために開発援助を行ったのではない。台湾が日本の一部になったからそうしたのである。日本政府が日本の国土を適切に開発し、自国民に適切な教育を与えるのは理の当然である。事実はこうである。それを台湾の人たちがありがたく受け取ってくれたことが真実である。本作は真実の方にばかり焦点を当て、事実を顧みることに余りにも無頓着であるように映った。日本は教育熱心だったのは事実である。そのことは、例えば岡山県の閑谷学校の歴史を見ればよい。藩から独立した財源を確保することで、藩政に支障が出た時や財政難にあっても、教育活動が絶えることなく行われるような仕組みが江戸時代にはすでに存在していたのだ。閑谷学校の例があまりにもマイナーだと言うなら、寺子屋のことを考えるのも良いだろう。日本は大昔から自国民の教育に熱心だった。これは素晴らしい点である。日本の美徳と言ってよい。これは事実である。台湾の人が日本の教育をありがたく思った。これは真実である。台湾は当時、日本の一部だった。これは事実である。日本は自国民たる台湾の人々に教育を施した。これは事実である。事実は事実で、真実は事実に解釈を加えたもののことである。そして、解釈は自分で行うものである。まりあは余りにも無邪気に李登輝の語る真実を受け止め過ぎている。それがJovianの印象である。事実と真実を峻別できていない、すなわち批判的思考=Critical Thinkingができていない。それが、まりあというキャラクターの最大の欠点である。まるで小林よしのりの『 ゴーマニズム宣言 』に次々に洗脳されていった2000年前後の憐れな大学生たちを思い出した。『 主戦場 』には、日本の未来への眼差しがあった。本作は現実の肯定および受容で立ち止まってしまった。そこにある質的な差は大きい。

 

映像芸術としても粗が目立つ。実写とアニメーションの混合という点では『 真田十勇士 』という駄作が思い出される。本作のアニメーションは欠点とまでは言えない。しかし。余りにも数多く繰り出されてくるクリシェなショットには頭痛がしてきた。具体的には、まりあの振り返りである。廊下を歩くまりあがふと立ち止まり、振り返る。まりあの向こうにはまばゆい光が輝き、それがまりの輪郭をより強く際立たせ・・・って、これは美少女にフォーカスしたアホなラブコメなのか?まりあが自殺を図って、気を失って、目を覚ますところでも、なぜか服がピンクのワンピースに変化していたが、その時のまりあの寝姿がグラビアアイドルのそれだった。だから、そういう構図のショットはラブコメまたは純粋なロマンスもの、またはアイドルにのイメージビデオでやってくれ。園田監督のセンスを大いに疑う。

 

総評

本作を見て、「嗚呼、日本はやはり素晴らしかった」と思える人はあまりにも純粋無垢である。勘違いしないで頂きたいが、Jovianは別に日本の歴史の全てをネガティブに捉えているわけではない。ただし、歴史の一部だけを切り取って、それを現状の肯定の材料にするという思考方法に大いなる疑問を抱いているだけである。子曰く、「過ちて改めざる 是を過ちと謂う」。Jovianは第二次大戦について絶対に譲ることのできない日本の過ちとして、学徒動員を挙げる。兵隊が尽きたら降伏せよ。軍人ではない市民を戦争に駆り出すな。日本政府そして日本国民の大部分はそのことに無自覚である。外国人からの評価を以って、自身の評価につなげるべからず。自身の歴史を引き受けよ。その上で現状だけではなく未来に目を向けよ。しがないサラリーマン英会話講師の精いっぱいの叫びである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, てらそままさき, 日本, 桃果, 歴史, 監督:園田映人, 配給会社:レイシェルスタジオLeave a Comment on 『 哲人王 李登輝対話篇 』 -様々な点で更なる深堀りが必要な作品-

『 華氏451(2018) 』 -リメイクの意義を再確認すべし-

Posted on 2019年7月4日2019年7月4日 by cool-jupiter

華氏451 50点
2019年6月30日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マイケル・B・ジョーダン マイケル・シャノン ソフィア・ブテラ
監督:ラミン・バーラニ

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書物が焼かれる。いわゆる焚書を古代中国の悪習と思うことなかれ。知識は個の強さの基盤であると同時に、権力者にとっての脅威でもある。そのことは『 図書館戦争 』にしっかりと描かれている。日本でも新しい歴史教科書を作ろうと目論む連中がいるが、こうして考えてみると彼ら彼女らの思考は権力者のそれであって大部分の国民を形成する一般市民のそれではないことが良く分かるというものである。

 

あらすじ

書物の存在が許されない世界。モンターグ(マイケル・B・ジョーダン)は育ての親同然のベイティ隊長(マイケル・シャノン)のもとでFireman =昇火士として働いていた。ある時、老婆の家で膨大な量の書物が見つかった。本を焼却処分せんとする昇火士たちの前で、老婆は焼身自殺を遂げる、「オムニス」という謎の言葉を残して・・・

 

ポジティブ・サイド

数十年前は知識=富と考えられていた。特に日本のように土地が狭く、家屋自体もこじんまりしている国では。知識を伝える媒体が書物であり、その書物を所蔵できるだけのエキストラのスペースを家に持てる者が知識人とされた。知識=収入だったわけである。デジタル技術の進歩がそれを変えた。電子書籍リーダー一つで何万何十万冊の本と同等の情報が保持できる。逆に言えば、遍く知識を広めようと思えば、デジタル化をとことん推進すれば良いということになる。インターネット、本作で呼称されるナインは、その一つの結実である。そして現代では中国がGoogleを遮断し、バイドゥを検索エンジンとして推奨しているのは誰もが知るところである。デジタルの情報は容易に操作や加工ができるという点で、素晴らしくもあり、恐ろしくもある。この点を鋭く、かつユーモアに指摘している書物に新城カズマの『 われら銀河をググるべきや: テキスト化される世界の読み方 』がある。興味ある方は一読を。本書の終盤で新城が説くTwitterの在り様は、この映画のプロットと共通するところが多い。さらに興味が湧いたという向きには林譲治の小説『 記憶汚染 』をお勧めしておきたい。

 

デジタル技術ならびにAIに囲まれた生活によって、人間は何を得て、そして何を失うのか。そのことが映画の随所で端的に示される。だが、あまりにも遠い未来の技術ではなく、ほんの数十年先の未来、充分に予見できる範囲の未来であるがゆえの怖さもある。そこに“歴史修正主義”の思想と実践を読み取ることが余りにも容易だからである。SFは文明批判の最も効果的な表現媒体であるが、そのことを充分に力強く本作を描き出している。またclassical musicの”グノシエンヌ”が流れるタイミングに注目をされたし。『 その男、凶暴につき 』のBGMでおなじみだが、本来はこうした意味のある曲なのである。

 

ネガティブ・サイド

冒頭のボクシングシーンは、殴り合いながらも信頼関係、親子の情のようなものがしっかと存在することを見せようという演出なのだろうが、マイケル・B・ジョーダンはアドニス・クリードでもあるのだ。もっと違う形での殴り合いでも良いだろうに。

 

また、途中までのプロットがそのまんま『 メトロポリス 』である。現代にリメイクするからには、現代的な味付けが必要である。男女のロマンティックな関係を悪いとは思わないが、100年近く前の映画と同じプロットを用いるというのは、脚本家の敗北ではないだろうか。またエンディングも思いっきり『 猿の惑星 創世記 』のそれとそっくりである。これも考えものである。独創的なアイデアというのは、たいてい既に誰かが思いついているものだが、それでもこれらのようなメジャーな作品の亜種、亜流と看做されるようではリメイクの意義を大きく損なっていると判断されても仕方がないだろう。

 

最後に映画そのものの質とは関係のないことを。字幕には字数制限があるため仕方ないのかもしれないが、サラマンダーを火トカゲと訳してしまうと、どうにも間が抜けて聞こえる。Eelもイールで良い。ウナギと訳してしまうと、ぬるぬる捕まえづらく、すぐに地面の下に潜る感じは出るが、やはり間が抜けて聞こえてしまう。

 

総評

全体的に薄暗いシネマとグラフィーも、ダークな世界観と調和している。やや弱いながらもタイムリーなメッセージ性も持っている。マイケル・シャノンやマイケル・B・ジョーダンのファンならば、鑑賞しても損は無いのではなかろうか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, マイケル・B・ジョーダン, マイケル・シャノン, 監督:ラミン・バーラニ, 配給会社:HBOLeave a Comment on 『 華氏451(2018) 』 -リメイクの意義を再確認すべし-

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