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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』 -パラレル・ワールド・ハリウッド・ストーリー-

Posted on 2019年9月6日2020年4月11日 by cool-jupiter

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 65点
2019年9月1日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:レオナルド・ディカプリオ ブラッド・ピット マーゴット・ロビー
監督:クエンティン・タランティーノ

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映画のタイトルとは何か。それは映画のプロットの究極の要約であり、映画のキャッチコピーでもある。つまり、これは昔話なのだ。昔話については『 サッドヒルを掘り返せ 』で少し触れた。端的に言えば、昔話とは心の原風景の物語である。そう、これはタランティーノの心の原風景にあるハリウッドの物語なのだ。

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あらすじ

リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)は俳優。そのスタントマンのクリス・ブース(ブラッド・ピット)はショーファーにしてシャペロン、公私にわたって兄弟以上妻未満のパートナーだった。だが、プロデューサーからはイタリアで映画に出演しろと言われ、リックは自分が落ち目であることを悟る。しかし、自宅の隣に『 ローズマリーの赤ちゃん 』の監督として絶大な人気を誇っていたロマン・ポランスキーとその妻にして女優のシャロン・テート(マーゴット・ロビー)が引っ越してきたことで、リックの役者魂は再び燃え上がり・・・

 

ポジティブ・サイド

レオナルド・ディカプリオは一作ごとに役者としての階段を駆け上がっていくようだ。どの作品を観ても、それがディカプリオの最高傑作のような気がしてくる。というのは、Jovianがディカプリの代表作の『 タイタニック 』を今もって未鑑賞だからなのだろうか。劇場公開時、Jovianは大学一年生だったが、当時のdream girlから「一緒に観に行こう」と言われて、それを言葉通りに受け取ってしまった。いつの間にか劇場公開は終わってしまっていた。少年老い易く、恋実り難し。

 

Back on track. ディカプリオ演じるリック・ダルトンも、文字通り生涯最高の演技を劇中で披露する。『 ジャンゴ 繋がれざる者 』の解剖生理学の講義およびメイドの脅迫シーンに匹敵するように感じた。タランティーノとディカプリオにはgreat chemistryが存在するのは間違いない。彼が呟く“Rick Fucking Dalton”という一言は、『 ボヘミアン・ラプソディ 』でラミ・マレックがリハーサルの最後にクイーンのメンバーにエイズであることを告げた後に、自分はパフォーマーであり、“Freddie Fucking Mercury”だと宣言した一言と全く同じ意味とニュアンスだ。本作はリック・ダルトンではなく、レオナルド・ディカプリオその人の練習やリハーサル・シーンも垣間見え、レオ様ファンにとって貴重な資料的作品にも仕上がっている。

 

ブラッド・ピットはディカプリオの影法師的存在だが、最良の友人でもある。そして中盤に大きな見せ場が待っている。デヴィッド・フィンチャー監督の『 セブン 』と『 ファイト・クラブ 』を彷彿とさせるシークエンスは、サスペンスとテンションの山場である。そして最終盤にはタランティーノをタランティーノたらしめる最大の要素の一つ、すなわち“暴力”が爆発する。言葉そのままの意味で笑ってしまうほどにユーモラスで、しかし、BGM無しで鑑賞すれば、低級スナッフフィルムかと見紛うチープな凄惨さである。おまけの部分は『 ゴーストバスターズ 』的なギャグシーンである。

 

タランティーノが『 続・夕陽のガンマン 』を激賞していることはよく知られているが、本作は彼のマカロニ・ウェスタンへの愛着とオマージュに満ちている。タランティーノにとっての心の原風景は1960年代終盤のハリウッドとマカロニ・ウェスタンなのだろう。『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』はハリウッドのアンダーグラウンドな面に光を当てた。『 ラ・ラ・ランド 』はロサンゼルスという土地へのラブレターだった。タランティーノは、ダークにしてチアフルなパラレル・ワールドのハリウッド世界がここに完成した。これでタランティーノも思い残すことが一つ減ったのだろう。『 マーウェン 』と同じく、芸術は人間よりも長く生きる。人間は変わるが、芸術は変わることなく存在し続ける。

 

ネガティブ・サイド

タランティーノはブルース・リーを一体何だと思っているのか。『 キル・ビル 』で見せたブルース・リーへのリスペクトは見せかけに過ぎなかったのか。それとも、タランティーノが評価するブルース・リーは俳優としてのブルース・リーであり、ブルース・リーその人の哲学や格闘能力ではなかったのか。ブルース・リーがハリウッドに及ぼした、そして現代にも残した影響の大きさを考えれば、本作におけるブルース・リーの扱いには賛否両論が出るだろう。というか、否が圧倒的に多いのではないだろうか。

 

“The Haunting of Sharon Tate”(邦題『 ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊 』)のニュースをたまたま読んでいたからよかったものの、Jovianの嫁さんはプロット全体を通じて何を言わんとしているのか、さっぱり分からなかったようである。確かに親切な作りであるとは言えない。ナタリー・ウッドをネタにするにしても、皆が皆、『 ウエストサイド物語 』などを観ているわけでもないはずだ。もう少し、この仮想のハリウッドについて説明的な要素が欲しかった。

 

総評

『 パルプ・フィクション 』のクオリティを期待してはならない。シャロン・テートやナタリー・ウッドについての知識がほんの少しでもあれば話は別だが、予備知識なしで観てしまうと、「各シーンは笑えたし、泣けたし、震えたけど、全体としては何だったんだ?」となってしまうだろう。劇場に向かうのであれば、これはクエンティン・タランティーノがハリウッドに関する記憶や思い出を自分なりに美化したパラレル・ワールド物語なのだと承知しておこう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’m sorry about that.

 

ディカプリオがこう言って涙を流すシーンがある。ポイントはaboutという前置詞である。be sorry about ~で、~について謝る、ごめん、すまない、などの意味になる。対して、be sorry for ~で、~を気の毒に思う、という感じの意味になる。前置詞に関しては覚えてしまうのが早道だが、文字だけではなく、状況とセットで覚えた方が断然良い。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ブラック・コメディ, ブラッド・ピット, マーゴット・ロビー, レオナルド・ディカプリオ, 監督:クエンティン・タランティーノ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』 -パラレル・ワールド・ハリウッド・ストーリー-

『 火口のふたり 』 -歪な実写版セカイ系物語-

Posted on 2019年9月4日2020年4月11日 by cool-jupiter

火口のふたり 65点
2019年8月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:柄本佑 瀧内公美
監督:荒井晴彦

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『 幼な子われらに生まれ 』の脚本家が監督をしていると知り、平日の昼間から映画館へ。予告編では『 娼年 』や『 殺人鬼を飼う女 』のようにエロシーンを通じて何らかのメッセージを発してやろうという作品かと思っていたが、実際はちょっと趣が異なる作品だった。

 

あらすじ

賢治(柄本佑)は父から電話を受ける。直子(瀧内公美)の結婚式への出席するか?というのだ。故郷の秋田に帰省する賢治は、直子に「一晩だけ、あの頃に帰ろう」と言われ、関係を持ってしまう。だが、それは互いの身体の言い分を呼び覚ましてしまい・・・

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ポジティブ・サイド

『 娼年 』の松坂桃李は、ちょっとその愛撫は優しさが足りないんじゃないのか?と観る側に思わせたが、柄本佑はどちらかというと成田凌タイプ。つまり、本当に彼自身がやっていそうなちょっと無理めの前戯を演じてくれる。男性ホルモンが旺盛に分泌されていそうな雰囲気を漂わせる柄本は適役である。新井晴彦が脚本を担当した『 幼な子われらに生まれ 』でも、浅野忠信という役者がナチュラルに醸し出す迫力や威圧感、いわば暴力の予感が効果的に演出されていたが、柄本もそれに近い使われ方を本作ではしている。

 

瀧内公美は『 娼年 』には勿体なかったのだろう。美女がイケメンとセックスするところを見てもあまり楽しい気分にはならないが、これほどの美女が柄本のようなムンムンの男子中学生がそのままデカくなりました的な男とまぐわうのは、言葉そのままの意味で面白い。映画撮影的にも非常にチャレンジングなショットがいくつも見られる。つまり、ワンカットの多用である。カメラアングル的に斬新なものは皆無だったが、濡れ場に繋がるシーンはほぼすべてロングのワンカットで、それにより臨場感が増している。これは監督の手腕であろう。瀧内の裸体に妙なフォーカスをすることなく、それでいて彼女の裸体の魅力をスクリーンにぶちまけている。このおっさんは流石にエロの大家である。瀧内の他の出演作もぜひ鑑賞してみたくなった。

 

本作は映画というよりもドラマである。といっても、一つひとつのサブプロットがテレビドラマの一話一話に対応しているというわけではない。登場人物は、はっきり言って賢治と直子だけで、これは舞台上で繰り広げられる対話ベースのドラマ技法で作られた映画である。ほんのちょっとした一言が、我々観る側にとっては二人の背景や関係性、過去の出来事についての実に多くの情報の流入となる。これは単に役者が台詞で状況説明をしているのではない。こうした何気ない一言ひとことが、画面上の現実の薄皮を一枚また一枚と剥いでいっているのだ。人間も様々に纏っている社会性や人間性といった薄皮を剥いでいけば、案外残るのは類人猿なのかもしれない。頭でっかちで理屈ばかり先行しがちなくせに、下半身のマグマの抑制はあまり効かないタイプの賢治と、睦み合いと愛情は別と割り切って、結婚前夜に婚約者以外の男と性交する直子は、ある意味では今の時代のアダムとイブなのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

もっと五感に強く訴えるような映像表現が欲しかった。劇中で直子が賢治のにおいに言及するシーンがあるが、その直子の感覚を観る側と共有できるようなカットあるいは、直子のほんのちょっとした表情の変化を捉えたショットが欲しかった。これは追憶の物語で、誰にとっても、カネはあまりないが若さとエネルギーだけは有り余っていた頃があるのだ。つまり、我々は皆、賢治であり直子なのだ。そうした我々の感覚や感情、記憶を刺激する映像上の工夫が不足していた。

 

これは当事者ではない者の感想だが、東日本大震災を少し茶化しているというか、賢治の生き方、それに対する言い訳めいた「言い分」が、現実感を奪い取ったように思う。賢治の人生が上手くいっていないのは、震災のせいもあるが、本人の人間性の問題の方が原因としては遥かに大きいように感じられた。Jovianは10代半ばで阪神大震災を経験したし、Jovianの両親が経営していた焼肉屋は0-157と狂牛病のダブルパンチであえなくcrash and burnした。一個人の力ではどうしようもない不運や災害、事故などは存在する。肝心なのは、そこからどう立ち直るかだ。賢治というキャラクターには愛すべきところもあるが、その生き方や生き様には、同じ男としてとうてい共感できないところも多い。

 

総評

R18指定だが、大学生カップルが観に行くような映画ではない。セックスシーンを鑑賞する作品ではなく、セックスに至るには人間がまとう虚飾を剥いでしまわなければならないということを再確認する作品である。35~45歳ぐらいがメインとなるべきターゲットであろう。賢治と直子と同世代、またはそれより少し上ぐらいのdemographicが青春の追体験と現実からの逃避のために観る映画である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I will set you free by then.

「その頃までには解放してやるよ」と賢治は不敵に言う。つまりは直子の婚約者が帰ってくるまでには、直子の前から消えるということだ。by thenやby nowなどをさらっと口頭英作文に組み込めるようになれば、初級者は脱したと思ってよいだろう。

 

Oh, it’s 10 PM. He should by home by now.

I guess that milk will have gone off by then

 

状況を思い浮かべながら、声に出してみよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ラブロマンス, 日本, 柄本佑, 瀧内公美, 監督:荒井晴彦, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 火口のふたり 』 -歪な実写版セカイ系物語-

『 500ページの夢の束 』 -自閉症少女の旅立ち-

Posted on 2019年9月2日 by cool-jupiter

500ページの夢の束 65点
2019年8月27日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダコタ・ファニング トニ・コレット
監督:ベン・リューイン

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原題は“Please Stand By”、「スタンバイ願います」の意である。テレビおよび映画のスター・トレックでしばしば使われる表現である。Jovianの父およびJovianの同僚のイングランド人はコテコテのトレッキーであるが、JovianはStar Warsおfanboyである。そしてエル・ファニングのファンでもある。ならば、その姉のファンになっても良いではないか。

 

あらすじ

ウェンディ(ダコタ・ファニング)は自閉症の女子。周囲の人間や家族とすらも、時にコミュニケーションが難しくなるが、スター・トレックのハードコアなファンで、その知識の量と正確さは他のナード連中を圧倒する。ある時、パラマウント・ピクチャーズがスター・トレックの脚本コンテストを開催していると知り、自分でも応募を試みるが・・・

 

ポジティブ・サイド

自閉症の方が知り合いや身内におられるだろうか。Jovianのいとこに一人いる。とにかく数学の才能に優れ、楽器をすぐにマスターし、一度のめり込んだら何時間でも絵を描き続ける。しかし、正月やお盆に親戚が一堂に会してご飯を食べたり、結婚式や葬式の食事などでも他人を待つ、皆と同じタイミングで食べ始めるということができない。また話しがかみ合わない。というよりも、言葉の裏の意味が読み取れない。そんな自閉症の症状をダコタ・ファニングは見事に描き切った。

 

トニ・コレットも毎度のことながら良い仕事をしている。『 シックス・センス 』から『 ヘレディタリー/継承 』に至るまで、苦悩する母親といえばトニ・コレットなのである。いや、実際は姉ソーシャルワーカーにしてカウンセラーなのだが、精神的な意味での母親だと呼んで差し支えないだろう。『 セッションズ 』でもそうだったが、ベン・リューイン監督は社会からcast outされがちな人々に光を当てることに長けている。人間がサルからヒトになったと判断できる基準は様々にあるだろうが、セックスが子作りではなく愛情表現、さらに濃密なコミュニケーションになっているかどうかであると思う。『 セッションズ 』からはそれを学んだ。愛情があるからセックスするのではなく、セックスから生まれる愛情もある。陳腐ではあるが、障がい者を通じてこそ見えてくるものもある。

 

Back on track. スター・トレックは『 スター・ウォーズ 』と並んでクレイジーなファンが多いことで知られている。そのクレイジネスを活かした脚本がここに出来上がった。人は愛するものと一体化したいという欲望を持つ。スター・トレックの製作者たちはそのことをよく知っている。実際には彼ら彼女らは脚本の一般公募をしているからだ。だからこそ、本作にはリアリティがある。『 ファンボーイズ 』は死ぬ前にスター・ウォーズの新作を観たいという欲望、いや本能を満たすためのストーリーで、言ってみれば自慰行為だ。しかし、本作は愛情表現。そこが違う。500ページの夢の束は、500ページのラブレターなのである。

 

ウェンディの旅路を是非とも見届けて欲しい。

 

ネガティブ・サイド

ウェンディが「渡ってはいけない」とされていた道路を、割とあっさりと渡ってしまうシーンには少し萎えた。ルーティンに従うことで心の安定を保てる自閉症者が、いくら大好きなスター・トレックのためとはいえ、そこまで簡単に自分のルールを変えられるだろうか。このあたりにもう少し逡巡する描写が欲しかった。

 

ウェンディにクイズで挑んでいた連中は、何だったのか。ただの引き立て役か。こういう奴らこそがウェンディの旅の役に立たなくてどうする?またはウェンディ捜索に人肌脱がなくてどうする?はたから見れば変人のウェンディにも、家族やチワワ以外の誰かがいるのだということを見せて欲しかった。自閉症者はコミュニケーション能力に欠けていても、その他の能力が一般人のそれを凌駕していることが多い。そのことが他人を遠ざける原因になることもあるし、逆に他人を引きつける要因になることもありうる。実際にバイト仲間のトニー・レヴォロリはウェンディにロマンティックな意味での好意を抱いている。そうでなくとも、趣味嗜好を同じくする者同士の連帯感を描いてくれても良かったのではなかろうか。ローン・ガンメンみたいな奴らとして、彼らが登場してくれるのを期待していたのだ。

 

総評

静かな、しかし確実に長く残る余韻をもたらす映画である。トレッキーではなくても楽しめるし、逆にスター・トレックの知識が無いほうが、純粋に物語を鑑賞できるかもしれない。自分ではよく分からないけれど、他人が夢中になっているものに、人は興味を抱くものだから。ウェンディという一人の少女の旅立ちの先に、「未知との遭遇」が待っているかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Do you know who I am?

「私が誰だか知っていますか?」の意である。つまり、端的に言って名前を知っているか?と尋ねているわけである。英語学習の中級者ぐらいでも、“Do you know me?”と言ってしまう人がたくさんいるが、これは「私がどんな人間か分かってくれてるよね?」、「俺ってやつのこと、ちゃんと理解してくれてるだろ?」のような意味である。“Listen to me.”が「私を聞け」ではなく「私の言うことを聞いて」という意味だということの類推で理解しよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ダコタ・ファニング, トニ・コレット, ヒューマンドラマ, 監督:ベン・リューイン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 500ページの夢の束 』 -自閉症少女の旅立ち-

『 アメリカン・ピーチパイ 』 -面白スラップスティック・ラブコメディ-

Posted on 2019年8月31日 by cool-jupiter

アメリカン・ピーチパイ 65点
2019年8月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アマンダ・バインズ チャニング・テイタム
監督:アンディ・フィックマン

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近所のTSUTAYAで、ふと目についた。近年はLGBTを主題に持つ作品が量産されているため、本作のように女子が男子に化けるストーリーというのが逆に新鮮に映る。原題は“She’s the Man”。つまり、「彼女は男だ」という意味と「彼女はサイコーだぜ!」のダブルミーニングである。

 

あらすじ

女子サッカー部が廃部になってしまったため、ヴァイオラ(アマンダ・バインズ)はサッカーを続けるために、ロンドンに行った兄に成りすまし、兄の高校の男子サッカー部に入部する。そこでデューク(チャニング・テイタム)に恋をしてしまう。だが、デュークは学校一の美女のオリヴィアに恋をしており、そのオリヴィアは男子らしからぬ女子力の持ち主のヴァイオラのことを気に入ってしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

アマンダ・バインズがひたすらに可愛らしい。川口春奈が『 桜蘭高校ホスト部 』で男装したのも悪くはなかったが、中性的、またはユニセックスな魅力を放っているとは言い難かった。アマンダはそれなりに豊かなバストをサラシできつく巻くのはもちろんのこと、もみあげ、眉毛に至るまでメイクアップしている。このあたりは予算や監督の意識の違いであって、日米のメイクアップ・アーティストの技術差であるとは思わないが。

 

チャニング・テイタムが若い。『 マジック・マイク 』の圧倒的な肉体は完成されていないが、『 ホワイトハウス・ダウン 』の頃の気弱そうに見える瞬間もありながら、闘志を内に秘めたタイプを好演した。

 

『 ミーン・ガールズ 』は女子高生の生態にリアルかつフィクショナルに迫った。一方で本作は男子高校生の生態にリアルに迫っている。特に、女子が振られて、あるいは分かれて落ち込んでいるところを狙い目だと話す悪童連に姿に、眉をひそめる向きはあっても、それが男性心理の真理の一面であることは否定できまい。

 

本作はDVDメニュー画面が面白い。英語学習中の人で、関係代名詞がちょっと・・・という方は、本作を借りてみよう。または配信サービスで探してみよう。

 

ネガティブ・サイド

いくつか撮影や編集に欠点がある。弱点ではなく欠点である。その最も目立ったものは、ヴァイオラの転校初日のサッカー部の練習シーンである。わずか1秒足らずであるが、カメラマンとカメラ機材の影が映りこんでいるシーンがあるのである。これは、しかし、大きな減点要素だ。映画を映画たらしめるのは、それを撮影している人間の存在が画面内に絶対に映り込まないことである。

 

もう一つ。映画を映画たらしめるのは、一連のシークエンスを本当にその時間の経過通りに起きている出来事なのだと観る側に錯覚させるテクニックである。つまりは編集である。その編集が本作はいくつかのパートで非常に雑になっている。特に最終盤の試合後、昼の光と傾きかけた太陽の光が混在していた。役者の演技に納得いかない監督がリテイクを繰り返したのだろうか。繋がらない画を無理やり繋げても良いことはない。

 

だが本作の最大のマイナスポイントは邦題だ。なんでこんな狂ったタイトルをつけてしまうのか。夏恒例の水着映画だから、とでも言うのか。そんなシーンは冒頭の数分だけだ。

 

総評

友情、恋愛、家族の対立と絆、内面の葛藤などのありふれた要素が散りばめられているが、そのバランスが良い。何かが突出してフォーカスされていたり、あるいはあるテーマが他のテーマの小道具になっていたりはしていない。女子力の高い男はモテる、という普遍の真理は本作でも確認できる。LGBTの物語はちょっと食傷気味という向きにこそお勧めしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Pounce

 

普通は肉食動物が獲物に襲いかかる様子を描写する為に使われる動詞だが、しばしば「異性を落としにかかる」、「異性を(性的な意味で)食べに行く」の意味で使われる。もしも映画の音声と字幕の意味が普通の辞書で一致しない時は、urban dictionaryを試しみて欲しい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, C Rank, アマンダ・バインズ, アメリカ, チャニング・テイタム, ラブ・コメディ, 監督:アンディ・フィックマン, 配給会社:ドリームワークスLeave a Comment on 『 アメリカン・ピーチパイ 』 -面白スラップスティック・ラブコメディ-

『 The Fiction Over the Curtains 』 -Are you here, there, or somewhere else?-

Posted on 2019年8月28日2019年8月31日 by cool-jupiter
『 The Fiction Over the Curtains 』 -Are you here, there, or somewhere else?-

The Fiction Over the Curtains 60点
2019年8月25日 京都国立近代美術館にて鑑賞
株式会社プリコグ

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≪ドレス・コード?――着る人たちのゲーム≫という美術展が現在行われている。その無料招待券をある方から頂けたので、嫁さんと共に京都へ。たまには映画館ではなく美術館に赴くのも良いものである。『 GENJI FANTASY ネコが光源氏に恋をした 』と同じく、この作品を積極的にレビューしようという人は少ないだろう。

 

あらすじ

二枚のスクリーンの片側に、女性の顔らしきものが浮かぶ。彼女は言う、「こちらからそちらは見えません、そちらからこちらには来れません」と。そして、上半身が裸と思しき男の姿も浮かび上がる。彼は言う、「服をくれませんか?今着ているそれでいいです。こっちに投げて、寄越してください」と・・・

 

ポジティブ・サイド

何とも不思議な映像作品である。『 デッドプール 』以上に軽々と“第四の壁”を超えてくる。我々は普段、映画館で映像が我々の座る観客席の後ろから銀幕に投影されるスタイルに慣れてしまっている。本作はそこをひっくり返した。スクリーン -  というよりもタイトルにあるようにカーテンと呼ぶべきか - の裏側から映写されてくる数名の登場人物たちは、何とも言えない輪郭のぼやけを伴っていながら、確かな実在感をも備えている。平面に映し出されていながら、三次元的に感じられるのである。これは普通の映画には絶対に出せない雰囲気であろう。

 

この映像作品が提供されているセクションのテーマが【 与えよ、さらば与えられん? 】というところが非常に示唆的である。我々は上半身裸の男に服を与えようとも思わないし、与えたくても与えられない。そこには時間の壁、空間の壁、さらには実在と非実在の壁も存在する。だが、その壁をぶち壊すシークエンスが終盤近くに起こる。これには素直に驚いた。意図的にせよ無意識にせよ、我々はスマホのカメラを通じで世界を知覚している。現実でもそうだ。我々は誰かのセルフィーに映り込むこともあるし、我々が誰かを映してしまうこともある。しかし、カーテンの向こうから我々に向けられる「ある視線」は強烈なインパクトで我々の想像力を撃ち抜く。我々は否が応にもドイツの哲学者ニーチェの言、すなわち「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」という警句を思い起こさずにはいられなくなる。途中までは『 翔んで埼玉 』よろしく、経済学的に不都合な真実を間接的に突き付けてくるだけの作品だと捉えていたので、いきなり左フックを一発、テンプルにもらった気分である。芸術とは、現実を抉ってナンボなのだと、改めて思い知らされた。

 

ネガティブ・サイド

上映時間が28分というのは、ビミョーに長い。カーテンの向こう側の世界の人間たち同士のinteractionにもう少しメリハリがあれば25分ぐらいに圧縮できるのではないか。美術館が椅子を用意してくれていれば、もっと多くの人が最初から最後まで鑑賞してくれたのではないか。

 

また台詞に合わせて英語字幕が用意されるが、それがカーテン右側で、観る位置によっては実に見にくい。もう少し何らかの工夫が必要だろう。また、唐突に始まり、唐突に終わるのもマイナスである。終了時にはFinの文字、そして開始時にはタイトルシーンぐらいは設けても罰はあたらないだろう。

 

総評

映像美も音楽もない作品であるが、不思議な引力というか、一度見始めると止まらなくなった。もちろん、数秒から数十秒で去っていく人も多かったが、何名かの人は魂を吸い取られたかのように見入っていた。Jovianもその一人であった。あいちトリエンナーレ2019が、アホな脅迫およびその背景にある一種の政治的な圧力に屈してしまったのは残念である。何度でも言うが、芸術は現実を抉ってナンボなのだ。関西在住の方でも遠方在住でも、関心を持たれた方は本美術展に来場されたし。映像作品以外にも、邦画の歴代の青春映画のポスター展示などもあり、時代の移り変わりを映画ファン目線で楽しめるコーナーもあって、存外に楽しめるはず。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Can I have some clothes?

 

Can I have ~ ?については『 シークレット・スーパースター 』で触れた。今回はsomeについて。今でも中学校や一部の塾では「肯定文ではsome、否定文や疑問文ではanyを使いましょう」と教えているらしい。めちゃくちゃだ。疑問文でsomeを使うのは、答えに Yes を予想または期待している時である。Could I have some water? 

May I have something interesting to read?  

Do you happen to have some cough syrup?

色々と練習してみよう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C RankLeave a Comment on 『 The Fiction Over the Curtains 』 -Are you here, there, or somewhere else?-

『 東京喰種 トーキョーグール【S】』 -アクション爽快度アップ、メッセージ性ダウン-

Posted on 2019年8月18日2020年4月11日 by cool-jupiter

東京喰種 トーキョーグール【S】 65点
2019年8月14日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:窪田正孝 山本舞香 松田翔太
監督:川崎拓也  平牧和彦

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前作『 東京喰種 トーキョーグール 』は非常に示唆的なメッセージに富む作品であった。何故、単に喰種ではなく東京喰種なのか。それを背景に考えれば、グールという存在が何を象徴しているのかが見えてきた。それでは、本作はどうか。エンターテインメント性はアップしたものの、そうしたメッセージ性は薄れてしまった。

 

あらすじ

半人間・半喰種になってしまったカネキ(窪田正孝)は、自分の居場所を模索しながら「あんていく」で働いていた。そこに美食家=グルメの異名を持つ月山習(松田翔太)という喰種が現れる。彼は半分人間であるカネキの匂いに異常な執着を示して・・・

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ポジティブ・サイド

CCG捜査官とのバトルよりも、喰種同士のバトルの方が盛り上がる。それは間違いない。月山とカネキ&トーカの激闘は赫子をあまり使わない、まさに肉弾戦。車がひっくり返って終わり、コンクリの橋に穴をあけて終わりだった前作のバトルシークエンスを、今回はさらに過激にレベルアップさせてきた。とにかく月山邸のチャペル内の椅子やら壁が壊れまくる。CGではなくワイヤーアクションでも、迫力ある絵は撮れるのである。かつての東宝怪獣のピアノ線での操演はもはやロストテクノロジーになってしまった。ワイヤーアクションもいつかそうなるかもしれない陳腐で旧態依然とした技術かもしれないが、CGは『 ライオンキング 』並みのレベルに達しないと、どうしても偽物感がつきまとう。それをぎりぎりまでそぎ落としてやろうと言う川崎・平牧両監督の意気は買いたい。

 

本作は、脚本段階からそうだったのか、それとも撮影中に軌道修正が施されたのか、主人公たるカネキではなく、松田翔太演じる月山習がsteal the showだった。近年では『 ボーダーライン 』がそうだった。エミリー・ブラントが主役だったはずが、ある時点からベニシオ・デル・トロがsteal the showをしてしまった。漫画版の貴族的な月山を表現する演技もそれなりに良かった。特に、フィクションの世界に惑溺することがいかに救いたりえるのかを語る場面や、サヴァランの書籍を恭しく差し出してくれるシーンが印象に残った。本のネタをエサにリゼに引っかかってしまったカネキが、同じ手口にまたもや引っかかってしまうのは、それだけ月山の演技が真に迫っていたからだと勝手に受け取らせてもらう。

 

だが、松田の真骨頂は月山の変態性を表す場面だ。手洗いでカネキの血液を含んだハンカチの匂いに恍惚の境地に至るのはハイライトのひとつである。普通、人はトイレで深呼吸はしない。しかし、それをやってしまうところが月山の普通ではないところで、それをしながらエクスタシーを感じているかのごとく、上半身をエビ反りさせてしまうのは、さすがに18禁・・・ではなくR-15指定である。冒頭の登場シーンでも、自己紹介からダンス、目玉をくりぬいて食べるところまで、松田の変態演技はとどまるところを知らない。本作の主役はカネキではなく月山である。異論は認めない。

 

前作は人間社会の中で喰種に居場所があるかどうかを問うていたが、本作では人間と喰種の個と個の関係が描かれる。これは漫画および映画の『 寄生獣 』が描けなかったテーマである。ただ、このあたりのメッセージ性が貧弱だった。これに近いテーマは小野不由美が『 屍鬼 』で既に描いているからだ。それでも、異人との共生は現代日本の主要な課題である。映画人は、エンタメ要素以外にも社会的なメッセージを発さなければならない。時代と切り結ぶような作品を生み出す気概を持たねばならないのである。

 

ネガティブ・サイド

カ  ネ  キ  の  マ  ス  ク  は  ど  こ  に  い  っ  た  ?カネキ自身も、ウタと再会して「あ、時々使ってます」みたいなことを言っていたではないか。ここぞという場面であれを装着しないことには、優男のカネキが野獣になれないではないか。格闘訓練を積んで、ただの人間をぶちのめすだけで満足してはならない。マスクを装用して、グールに内在する凶暴さを引き出さなくてはならない。トーカも同様で、グールの象徴たるマスクをまともにかぶっているのが月山だけでは、月山が主役扱いされてもおかしくはない。

 

トーカも、清水富美加から山本舞香にチェンジしたことそれ自体は受け入れよう。だが、似せる努力をしてほしい。キャラが変わり過ぎだ。たとえば前作で「人しか喰えねえんだ!!!」と憤怒と悲嘆の両方を目に宿しながら叫んだトーカはもういなかった。

 

本作はせっかくのR-15指定なのだから、エロ描写・・・じゃなかったグロ描写にもっと果敢に挑戦して欲しかった。両目を抉り出すシーンは肝心なところを映さなかったし、グールレストランでの人間解体ショーの描写も生ぬるかった。いや、血がピューピュー流れ出るような描写はなくてもいい。だが、せっかく美食家の月山の優雅な食事シーンを丹念に描写するなら、それら肉料理の調理シーンも映し出そうとは思わないのか。月山という一癖も二癖もあるグールを描くには、細部や周辺のリアリティまで追求しなくてならないとは思わなかったのだろうか。

 

リアリティについて付言するなら、いい加減に眼球の解剖を学んだ方が良い。人間のみならず生物の眼球には、様々に異なる筋肉がついている。そうでなければ、我々はこれほど自由に眼球を動かせない。また、冒頭のマギーの死亡シーンで、墜落音が小さすぎる。あれではせいぜい二階から落ちた音だ。それにそこらじゅうに飛び散っていて然るべき窓ガラスの破片が見当たらなかったのは何故だ。絵コンテ段階でも撮影中でも編集中でも、誰一人として気付かなかったのか。そんな馬鹿な・・・

 

総評

これも続編ありきの作り方をしている。三作目も監督が変わるのだろうか。もちろん、シリーズを追うごとに監督が代わっていく映画作品などごまんとある。しかし、前作をしっかりとリスペクトし、踏襲するところが踏襲する。大胆に変えてしまうべきは変えてしまう。そうしたメリハリをしっかりとつけてほしい。また、次作では窪田正孝には『 きっと、うまくいく 』の撮影に臨む前に徹底的に節制したというアーミル・カーン並みに若さを保ってほしい。前作を楽しめたという人なら、まずは鑑賞すべし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

カネキくんが食べながらカネキくんを食べたい!

I want to eat you, Kaneki-kun, while you, Kaneki-kun, are eating!

 

カネキくん!君はもっと自分が美味しそうなことに気づいたほうがいい!

Kaneki-kun! You should at least know by now how delicious you smell!

 

日本語を英語に置き換えるのはなかなか骨が折れる作業である。しかし、英語力を高めたいと思うなら、どこかの時点で日英翻訳のトレーニングが必要である。逐語訳は、してはならない。これまでに自分が接してきた英語のフレーズやセンテンスを総動員して、最も原文に近い意味を自分なりにクリエイトしてみよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アクション, 山本舞香, 日本, 松田翔太, 監督:川崎拓也, 監督:平牧和彦, 窪田正孝, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 東京喰種 トーキョーグール【S】』 -アクション爽快度アップ、メッセージ性ダウン-

『 東京喰種 トーキョーグール 』 -グールが存在する意味を考えるべし-

Posted on 2019年8月14日2019年8月14日 by cool-jupiter

東京喰種 トーキョーグール 65点
2019年8月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:窪田正孝 清水富美加
監督:萩原健太郎

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たしかMOVIXあまがさきで観たと記憶している。続編が出るというのでDVDで復習しておこうと感じた次第である。原作はYoung Jump連載中に読んでいたが、あらためて漫画と映画を少し振り返ることで、見えてきたものもあった。

 

あらすじ

人口の超密集地帯・東京。そこにはいつしか、人の形をして人を喰らう生き物、喰種(グール)が紛れ込んでいた。人間は喰種を駆逐する為にCCGを組織して対抗していた。そんな中、金木研(窪田正孝)はふとしたことから喰種のリゼと関わってしまい、捕食されそうになる。だが、鉄柱落下事故でリゼが死亡、金木も重傷を負うが一名は取りとめた。だが、彼にはリゼ、つまり喰種の内臓が移植されていた。人間でありながら喰種になってしまった金木の苦闘が始まった・・・

 

ポジティブ・サイド

はっきり言って、窪田正孝は原作漫画の金木、いやカネキとはあまりに似ていない。にも関わらず、その表情、話し方、立ち居振る舞い、心の動きを表すちょっとした仕草などで、カネキというキャラクターを見事に体現してくれた。平々凡々、というよりも学校内のスクールカーストでも下位に位置したようなカネキが明るくやれているのも、親友の存在抜きには語れない。その人間の親友から距離を取り、グールの世界に足を踏み入れざるを得なくなってしまう契機、すなわち味覚の変化を、観る側に強烈に示してくれた。

 

また『 暗黒女子 』で圧倒的な存在感を放った清水富美加がここでも魅せる。普通の女子大生的なキャピキャピな人間関係を維持しつつも、グールとなったカネキのトレーニングは折檻一歩手前という、一部の人間にとってはご褒美としか思えない展開。続編には出ないそうで残念至極である。

 

原作者の石田スイがどこから本作の着想を得たのかは分からない。しかし、『 翔んで埼玉 』が明らかにしたように、東京の富の多くは周辺の県に暮らす人間が、東京で労働することで生み出したものだった。端的に言えば労働力の収奪である。東京は、東京人によって成り立っているのではなく、民俗学的な意味での異人やまれびとによって成立する都市空間なのである。そして都市ほど人間関係が希薄な共同体も存在しない。原作の連載が始まったのが2011年。原作者の石田スイがストーリーを構想したのはその1~2年前と推測するなら、これは東京のコンビニのバイトに外国人が増え始めた時期と合致する。グールとは、外国人の象徴であると考えるのは穿ち過ぎた見方であろうか。いつの間にかそこに存在し、人間を密かに喰いながらも人間社会に居場所を持つ。そして、なんとか人間と共存するための道を模索している。そんなグールと人間の、いわば「あいのこ」として立ち現われるカネキは、現代日本に急増しているハーフまたはダブル(これに代わる良い呼称はないものか・・・)の象徴である。ダルビッシュ有や大坂なおみ、八村塁たちの一人である。つまり、日本版の『 アクアマン 』、異能の混血児の物語なのだという解釈も成り立つのである。

 

グールが異人、まれびと、外国人の象徴であるというのがあまりにも突拍子もないと感じられるなら、グールは単に肉食動物のメタファーであるとの見方はどうだろうか。『 ジョーズ 』や『 MEG ザ・モンスター 』のようなサメだと思ってみてはどうだろうか。毎年夏になると、日本のどこかの海水浴場でサメの目撃談が寄せられ、そこが遊泳禁止になるというニュースが報じられる。たとえそれが人間を襲う種類のサメではなくとも。いや、それこそメガロドンが我々と同じ言葉を話すならば、「俺はただ生きているだけだ」と言うことだろう。人間が牛や豚を食べるのは正義で、人間を食べる他の動物は「間違っている」と断じてしまうところに、我々はあまりにも一面的、教条主義的な正義の姿を見て、怖気を奮ってしまう。

 

グールの赫子を剥ぎ取り、自らの武器に転用してしまうCCGの捜査員の姿にこそグロテスクさは我々は感じ取らなければならない。留学生や技能実習生などと日本お得意のネーミングを少し変えるだけの子供騙しの手法を使って、この国はいつの間にか移民大国になりつつある。そのこと自体の是非は現時点では問えない。なぜなら移民と上手く付き合っていけるかどうかを決めるのは、マジョリティである我々の側の責務だからである。決してCCG捜査員がグールの赫子を剥ぎ取るというのは、日本が外国人を労働力としてしか見ていないことの表れなのだろう。グール・・・ではなく外国人との共存共栄のためには、相手の存在や人格を認めなければならない。今という時に本作を見返して、何故かそのように強く感じた次第である。

 

ネガティブ・サイド

CGを使ったVFXに弱点を感じた。特に赫子はあまり動いていない時は何とか見られるが、動かしてしまうと途端に作り物感、もっと言えばCG然とした感じが出てしまう。ビジュアル的な面でもそうであるし、またその質感の無さも欠点である。『 アルキメデスの大戦 』とまでは言わないが、現在劇場公開中の続編のCGはもう少しレベルアップしておいてほしいと願う。

 

もう少し細部の演出にこだわって欲しい。グールという巨大な虚構を成り立たせるためには、それ以外の細部のリアリティを追求しなければならない。つまりは『 シン・ゴジラ 』的な技法である。なぜグールが現れると予想される地点に張り込む捜査官が一人だけなのか。単独行動は刑事(ではなくCCG捜査官だが)にとってはご法度ではないのか。結局その場面で危害を加えられることはないのだが、『 クリーピー 偽りの隣人 』の笹野高史演じる刑事みたいになってもおかしくはなかった。また防犯カメラの映像を店舗に直接出向いて確認するシーンでも、本来ならもっと多くの捜査官を連れていくべきだろう。もし店員たちがグールであれば、多勢に無勢で一気に喰われていたのかもしれないのだから。視覚的におかしいと感じられたのはカネキvs亜門のバトル。ひっくり返った車の上に亜門が落下してくるのだが、落下の衝撃にも関わらず、車はまったく揺れなかった。そんな馬鹿な。グールの超絶身体能力および赫子にリアリティを持たせるためにも、繰り返しになるが、その他の部分に説得力を持たせることこそが重要なのだ。

 

最も気になったのは、CCGという組織の縦横のつながりの薄さ。グールを見つけたら、何を置いても時刻、位置、人数、人相の情報を伝えなければならない。すぐに応援を要請し、絶対に取り逃がしてはならない。そんなことは軍隊であれ警察であれ、S.H.I.E.L.D.やモナークのような秘密組織であれ、基本ではないか。それを全くしないCCGという組織は、社畜リーマンのJovianからすれば、果たして正常に機能しているのかどうか、社畜リーマンのJovianは甚だ気になってしまった。原作に忠実になることも大切であるが、このあたりに映画独自の解釈を施すことも可能だったのではないだろうか。

 

総評

一部映像芸術としてはしょぼいことは否めない。しかし、『 寄生獣 』とは異なった意味での人間に模した人間以上の存在を描くことの意義は確かに本作において認められる。単純でお気楽なバトルアクション・ムービーとして鑑賞しても良いし、原作者や監督が込めたメッセージを探りながら鑑賞しても良いだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アクション, 日本, 清水富美加, 監督:萩原健太郎, 窪田正孝, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 東京喰種 トーキョーグール 』 -グールが存在する意味を考えるべし-

『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

Posted on 2019年8月3日2020年2月2日 by cool-jupiter

マーウェン 65点
2019年7月28日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:スティーブ・カレル
監督:ロバート・ゼメキス

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監督はロバート・ゼメキスである。Jovianは『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』シリーズは大好きだが、『 フォレスト・ガンプ 一期一会 』は楽しめなかった。おそらく自分にとって波長の合うゼメキス作品というのは、現実がフィクションに彩られる作品であって、フィクションが現実を彩る作品ではないのだろう。事実、『 リアル・スティール 』はそこそこ面白かったが、『 ザ・ウォーク 』には少々拍子抜けした。本作はどうか。これはフィクションと現実が溶け合う物語である。

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あらすじ

マークの乗る戦闘機はベルギー上空で高射砲に被弾。川に不時着したマークはナチス兵に包囲されるも、友軍の女性らの援護射撃で窮地を脱する・・・という人形劇を、マーク(スティーブ・カレル)は撮影していた。マーウェンと名付けた架空の村、それが彼と女性たちの楽園、そして終わることのないナチス兵との戦いの舞台なのだ。そしてマークは、過去に受けた暴行事件のダメージに今も苦しんでいて・・・

 

ポジティブ・サイド

Jovianはトイ・ストーリーに興味は持ってこなかったが、人形劇にも一定の面白さがあることが分かった。人形とは、端的に言って依り代である。自分でありながらも、自分ではない自分をそこに投影することができる。マーク自身がいみじくも語るが、なぜ第二次大戦を舞台に、人形劇を展開し、それを写真に収めるのか。それはアメリカが善である戦争だったからと言う。つまり、マークは自分自身を善に捉えたいという願望もしくは欲求があるのである。さもなければ、そうすることでしか癒しを得られない事情がある。一見、平和的に見えるマークの暮らしに、彼の抱える暗黒面が垣間見える。彼は悪人ではない。ただ、心に抱えた闇がちょっと人より濃いだけである。彼が食らった暴行事件の大元の原因は実に他愛ないものである・・・と言い切れないのが、本作の評価を一部の批評家の間で難しくしているところだと推測する。マークは、本命女性(の人形)以外には優しく接するものの、本質的に優しくはしていない。一部のシーンで明らかになることだが、彼は身の回りの女性たち(本命除く)を性的な欲望の対象にしない。はっきり言って、これで好感度をアップしてくれる女性は、よほどのウブか、あるいはプロであろう。普通の一般的な女性というのは『 愛がなんだ 』のテルコのように「わたしって、そんなに魅力ないか?」と拗ねてしまうものなのだ。人形ではあるが、胸を丸出しの女性をオブジェのように扱うマークに恐れ慄いた男女は多いのではないだろうか。Jovianは、マークの在り方をそこまで奇異であるとは思わない。彼は、作家の本田透と非常に近い思考の持ち主なのだろう。つまり、一途な純愛を貫こうとするあまりに自分の気持ち悪さに気がつかないのだ。自分の気持ちだけに忠実になって、対象を見ずに暴走する。それは時に若気の無分別などとも言われたりするが、早い話が「恋は盲目」なのだ。いい年こいたオッサンが中学生ぐらいの精神年齢でロマンティックな夢を見る。いくらマークが心に抱える闇があるとはいえ、これを美しいと感じるのはマイノリティで、マジョリティはこれをキモいと感じるだろう。Jovianはもちろんマイノリティだ。

 

『 アリータ バトル・エンジェル 』が切り拓いた、実写とCGのシームレスなつながりを、スケールは全く違うが本作も多用する。というよりも、アリータはいつの間にか実写(そのほとんどは実際はCGのはず)世界に違和感なく溶け込んだが、本作ではいつの間にか我々はマークの妄想世界である人形劇世界、マーウェンに違和感なく溶け込む。ただし、これもかなり人を選ぶ演出だろう。マーウェンはマークにとっての桃源郷であっても、客観的にはそうではないからだ。好意的に見ればマークは芸術家でマーウェンは芸術作品だ。しかし否定的に見れば、マークはキモオタでマーウェンは同人作品だ。このあたりも波長が合うかどうかで見方が綺麗に割れるであろう。Jovianは波長が合った。マークは象牙の塔に住む芸術家である。

 

マーウェンを荒らすナチス兵との終わりなき闘争がマークの心象風景であるというメタ的構造も良い。中盤から終盤にかけて、マークの心的世界が現実世界を侵食することを明示するカメラワークがある。スクリーンそのものに語らせる、映画の基本的な技法にして究極の技法でもある。その上で、誰もが揺りかごの中で一生を全うできる訳ではない。現実世界は時に疲れるし、ロッキー・バルボアに説教されるまでもなく「世界は陽光と虹だけでできているわけでもない」=“The world ain’t all sunshine and rainbows.”それでも、幸せは世界に存在する。メーテルリンクの『 青い鳥 』と同じく、それに気付けるかどうかなのだ。ほろ苦さを漂わせながら、甘酸っぱさを予感させつつ物語は閉じる。なんとも不思議な余韻である。

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ネガティブ・サイド

再度強調するが、本作を堪能できるかどうかは、ゼメキスの世界観と波長が合うかどうかにかかっている。おそらく普通の映画ファンの7割は波長が合わないと思われる。彼ら彼女らはマークに都合の良い妄想全開のマーウェン、そして健気に甲斐甲斐しくマークを見守る人形たちを「非現実的」、「人格者」、「性格良すぎ」と見るであろう。もっとダイレクトに言えば、マーウェン=ハーレムだと捉える向きもいるはずだ。そこでプラトニックに振る舞うマークを心から格好いいと思える人は少数派で間違いない。マークは万人受けしないキャラなのだ。男からも女からも好かれにくいキャラなのだ。最初からマイナーな層しか狙っていないのかもしれないが、それを万人受けする作品に昇華させてこその巨匠だろう。マーティン・スコセッシやクエンティン・タランティーノのように、アクが強くても、メジャーヒットする作品を生み出せる人は生み出せるのだ。

 

スティレット・ヒールは1960年代になって初めて作られた、つまり第二次大戦中には決して存在しないことを明示するシーンがあるが、「マーウェンでは時々不思議なことが起こるのざ」とマークは嘯く。その時のBGMは“Addicted to love”。これは1980年代の楽曲だろう。マーウェンという独特な空間の神秘性を棄損してしまっている演出であるように感じるのはJovianだけだろうか。

 

『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』のパロディをやるなら、徹底的にやってもらいたい。デロリアンは権利関係か何かで使えないのか?それなら、燃えるタイヤ痕もいらない。非常に中途半端な演出であり、シークエンスだった。

 

裁判所のシーンも、保護司や弁護士はマークがああなってしまうことは予見できなかったのだろうか。日本でもレイプ被害者の女性が裁判員裁判で、フード、サングラス、マスク、マフラー、手袋などの完全装備で出廷したという新聞記事を読んだ記憶がある。何がきっかけでPTSDを発症するかは分からないが、それでも避けられる不安や懸念は避けるべきだ。このあたりが事実に基づくのか、事実と相違するのかは調べてみなければ分からない。しかし、マークがマーウェンから卒業するきっかけ作りのための態の良い演出に使われてしまった感は否めない。

 

総評

観る人を選ぶ映画であることはすでに述べた。誰にお勧めしたいかよりも、どんな人にお勧めしないか、それを語ったほうが有益かもしれない。中高大学生ぐらいのカップルのデートムービーには間違いなく不向きである。君達は素直に『 天気の子 』でも観に行きなさい。オッサンからの心からのアドバイスである。大人のお一人様も避けた方が良いだろう。自分を客観視した時に、「何やってんだ、俺は?」と感じることはある程度以上の年齢の人間には避けられない、一種の賢者タイムであるが、それをチケット代を払って大画面に没頭した後に味わいたいという奇特な人は、きっとマイノリティであろう。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, スティーブ・カレル, ヒューマンドラマ, ファンタジー, ロバート・ゼメキス, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

Posted on 2019年7月21日 by cool-jupiter

君の名は。 65点
2019年7月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:神木隆之介 上白石萌音 長澤まさみ
監督:新海誠

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これはStar-crossed loversの物語である。Starには星や、スター誕生のスターなど色々な意味を持っているが、「運命」という意味もある。そうしたことは『 グレイテスト・ショーマン 』でのゼンデイヤとザック・エフロンのデュエットが『 リライト・ザ・スターズ 』(Rewrite The Stars)『 きっと、星のせいじゃない 』の原題が“The Fault In Our Stars”(英語学習者で意欲のある人は、何故fault in our starsであって、fault with our starsなのか調べてみよう)であったりと、星は運命を司るものの象徴だった。そのことを真正面から描いた作品には希少価値が認められる。確か封切の週の日曜日の夕方に東宝シネマズなんばで鑑賞した記憶がある。あまりの観客の多さに、上映時間が20分ぐらいずれたと記憶している。『 天気の子 』の予習的な意味で再鑑賞してみる。

 

あらすじ

地方の田舎町に暮らす宮水三葉(上白石萌音)と東京に暮らす立花瀧(神木隆之介)は、互いの身体が入れ替わるという不思議な夢を見る。しかし、それは夢ではなく、二人は本当に入れ替わっていた。決して出会うことのない二人は互いへの理解を深めていく。その時、1200年に一度の彗星が迫って来ており・・・

 

ポジティブ・サイド

 

以下、ネタばれに類する記述あり

 

グラフィックは美麗の一語に尽きる。特に森の木々や空の雲、水面が映す光など、オーガニックなものほど、その美しさが際立っている。映画とテレビ番組の最大の違いは、映像美、そのクオリティにある。大画面に生える色彩というのはインド映画で顕著であるが、アニメーションの世界でも、いやアニメーションの世界だからこそfantasticalな色使いを実現することができるのだ。そのポテンシャルを存分に追求してくれたことをまずは讃えたい。

 

ストーリーも悪くない。星を身近に感じない文化はおそらく存在しない。要は、星をどのようなものとして捉えるか。その姿勢が、観る者の心を掴むことにもつながる。劇中でも言及されるシューメーカー・レヴィ第9彗星、それに百武彗星、ヘールボップ彗星などは一定以上の年齢の人間には懐かしく思い出されるだろう。また、こうした彗星を懐かしく思える人というのは、小惑星トータチスや、さらにはノストラダムス絡みの終末論などをリアルタイムで“楽しんだ”世代の人間だろう。新海誠氏はJovianのちょっと年上であるが、For our generation, stars are romanticized symbols. 星とは死と再生、破壊と創造の架け橋なのだ。そうしたモチーフとしてのティアマト彗星が、RADWIMPSの楽曲とよくフィットしている。七夕を現代的に大胆にアレンジすれば、このようなストーリーになってもおかしくない。

 

逢魔が時、黄昏時、誰彼時。確かに夏の日などには、ほんの数分、世界が紫の光に包まれる瞬間がある。生と死、陰と陽(これも分かりやすく町長の部屋にあった)、そうしたものが溶け合い混じり合う瞬間こそが、本作のハイライトである。それは夢現である。夢なのか、それとも現実なのか。『 となりのトトロ 』の「夢だけど夢じゃなかった」という、あの感覚である。そして、夢ほど忘れやすいものはない。たいていの人は、どうしても忘れられない強烈な夢の記憶が二つ三つはあるだろう。しかし、昨日見た夢さえ人は忘れてしまう。いや、悪夢にうなされて目覚めても、わずか数分でどんな夢だったかすら、我々は簡単に忘れてしまう。身体を入れ替える。それは、ある意味では究極の愛の実現である。アンドロギュヌスは男女に分裂してしまった。だからこそ、互いに欠けた状態を求め合う。それがエロスである。性欲や性愛ではなく、失われた半身を無意識のうちに探してしまう。それが瀧と三葉の関係である。そして、瀧は愛する三葉のために三葉になる。アガペーとも概念的に融合したキリスト教的な愛である。我々は愛する人が病気などで苦しんでいる時に、できることならその苦しみを自分が代わりに引き受けてやりたいと願う。しかし、それは神ならぬ身の自分にはできない。キリスト教の神は、人の罪を購うために一人子のイエスを遣わし、自ら死んだ。愛する人の代わりに死ぬ。それが究極の愛なのかもしれない。久しぶりに、ロマンチックな物語を観たと思う。

 

ネガティブ・サイド

普通に考えれば、瀧と三葉が入れ替わっている時に周囲の人間は異常事態に気付くはずである。「昨日はちょっと変だったぞ」では済まない。絶対に。ファイナルファンタジーⅧのジャンクションではなく、本当に中身が入れ替わっているのだから。例えばJovianの中身が、Jovianを非常によく知る人と入れ替わったとしても、Jovianの妻は一発で見破るであろう。夫婦の間でしか通じないパロールやジェスチャーがあるからだ。

 

また日本中の何十万人もの人が突っ込んだに違いないが、一応自分でも突っ込んでおくと、瀧の時間と三葉の時間にずれがあることは絶対にどこかで気付くはずだ。携帯電話でも、テレビでも、カレンダーの日付と曜日でも、新聞でも、なんでもよい。さらに、入れ替わる先の時間が異なっているというのは、ファイナルファンタジーⅧだけではなく、ゲームのPS2ゲーム『 Ever17 -the out of infinity – 』(厳密には入れ替わりではないが・・・)がネタとしては先行している。または同系列のPS2ゲーム『 12RIVEN -the Ψcliminal of integral- 』にも同じトリックが仕込まれていた。さらに遡れば『 市民ケーン 』も、一本道のストーリーと見せて、時間が大胆に飛ぶ構成になっていた。リアルタイムで展開されていると思われた二つの事象が時間線上の異なる点での出来事だったというのは、個人的にはこの上ないクリシェであった。

 

全体を通じて感じられるのは、RADWIMPSのためのミュージック・ビデオのような作りになっているということである。映像は美しく、キャラクター達もそれなりに魅力があり、ストーリーは陳腐ではあるが、美しくもある。しかし、そうした作品の長所や美点を支えているのが、音楽であるかのように感じられるのは何故なのだろうか。前世、運命、未来。そうしたバナールなお題目は、物語全体を以って語らしめるべきで、優れた楽曲に仮託するものではないだろう。本作のテーマは『 ボヘミアン・ラプソディ 』ではないのだから。

 

総評

悪い作品では決してない。むしろ優れている。ただ、新海誠監督の美意識というか様式美というか、『 秒速5センチメートル 』や本作などに見られるように、現実と非現実、此岸と彼岸、現世と幽世の境目、そこにある断絶の広がりを追い求めるのが氏のテーマである。今作はそれが若い世代の嗜好にマッチして爆発的なヒットになったことは記憶に新しい。しかし、もうそろそろ違うテーマを探し始めてもよいのではないだろうか。『 天気の子 』も同工異曲になるのだろうか。そこに一抹の不安を感じている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, ラブロマンス, 上白石萌音, 日本, 監督:新海誠, 神木隆之介, 配給会社:東宝, 長澤まさみLeave a Comment on 『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

『 テルマ 』 -光るところがある文学的な北欧スリラー-

Posted on 2019年7月15日 by cool-jupiter

テルマ 65点
2019年7月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エイリ・ハーボー
監督:ヨアキム・トリアー

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シネ・リーブル梅田での鑑賞機会を逸してしまった作品。近所のTSUTAYAでクーポンを使って借りる。北欧映画はやはり白を基調にすることが多く、極彩色のフルコースを立て続けに食した後に、観てみたくなることが多いと自己分析。実際に『 獣は月夜に夢を見る 』を鑑賞したのも『 SANJU サンジュ 』というインド映画、『 青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 』というアニメ映画の直後だった。目の疲れに敏感な年齢になったのかな・・・

 

あらすじ

厳格なカトリックの家庭で育ったテルマ(エイリ・ハーボー)は、大学生として一人暮らしを始めた。しかし、彼女は謎のけいれん発作に苦しめられる。そんな時に、水泳中にたまたま知り合ったアンニャと恋に落ちるテルマ。自らの宗教観や倫理s観と同性愛の間でテルマは悩み苦しむ。そして、アンニャが消えてしまう。テルマの不可思議な力によって・・・

 

ポジティブ・サイド

 

* 以下、マイナーなネタばれに類する記述あり

 

北欧の映画のビジュアルにはやはり雪が欠かせない。つまり、スクリーンを彩る基調色は白になることが多い。これは何も北欧だけに限ったことではなく、寒い地域を舞台にした場合の必然なのかもしれない。アメリカのワイオミング州を舞台にした『 ウィンド・リバー 』では、白=雪は冷徹性、暴力性、無慈悲さの象徴だった。それでは本作における白とは何の象徴であるのか。それはおそらく、テルマの処女性・無垢・純潔ではないか。テルマが恋に落ちる相手のアンニャが黒人であることにも意味が込められているし、冒頭で窓に激突して死んでしまう鳥がカラスであることにもおそらく意味が込められている。テルマは厳格なカトリックの家庭で抑圧されながら育ったことで、自身の内に芽生えだ同性への恋心を神への祈りによって抑え込もうとした。カラスは創世記で描かれる大洪水後に、ノアに斥候を命じられる優秀な生き物である。「様子を見てこい」と言われる鳥が殺されることには、自分を見ないでほしいというテルマの潜在的な願望が見出せる。アンニャへの募る思いを押さえ込もうと祈りを捧げる姿は、自慰行為に罪悪感を感じながらも止められなかったアウグスティヌス(「神様、お許しください。でも、もう少しだけ・・・」)に共通するものがある。テルマが体内に蛇を取りこむビジョンは、年老いた蛇、サタンを象徴するものと考えて間違いないだろう。事実、アンニャとテルマは「イエスはサタンだ!」とふざけ合いながらも、本心を吐き出している。信仰は彼女らにとって悪徳なのである。鹿についても同様で、『 ウィッチ 』においても重要な役割を演ずる動物であるが、鹿はしばしば悪魔の化身とされる。ジョーダン・ピール監督の『 ゲット・アウト 』のトレイラーでも、鹿の骨の化け物が襲ってくるシーンがある(何故か本編にはこのシーンは無い)が、キリスト教文化圏においては鹿は必ずしも聖なる生き物ではないのである。その鹿に向ける銃口を冒頭でいきなり娘に向ける父親は、当然、神の代理、化身、象徴であり、この男をいかに文学的な意味でも、なおかつ文字通りの意味でも殺すのかが、今作のテーマである。つまりは古代ギリシャのソフォクレスの『 オイディプス王 』から連綿と続く父親殺しがテーマなのである。父を見事に“殺した”テルマの浮かべる笑みのなんと神々しく邪悪なことか。この笑みの持つ両義性をどのように解釈するかによって、鑑賞後の印象はがらりと変わるのだろう。Jovianは悪魔的な笑みと理解した。しかし、それが唯一の解というわけでもないし、製作者の意図するところでもないだろう。『 ゴールド/金塊の行方 』のマシュー・マコノヒーの笑みのように、素晴らしい作品は時にえもいわれぬ余韻を残してくれる。この映画の余韻は、しばらく残りそうである。

 

ネガティブ・サイド

病院の検査のシーンのストロボの激しい明滅。これが過剰であるように感じた。もちろん、意図しての演出だろうが、明るい部屋で見ても目がかなり疲れた。真っ暗な劇場だと、もっと目に負担がかかっただろうと推測される。

 

弟のシーンがやや不可解だ。もちろん、わずか数秒ではあるが、風呂場で乳児から目を離しては絶対に駄目だ。赤ん坊は水深3cmで数秒で溺れることができるからだ。父親も母親も、保護者であれば乳児から目を離してはいけない。テルマの力が発現する重要なシーンであるが、やや無理やり作り上げたような不自然さがあった。またこのシーンのカメラワークは『 シックス・センス 』の冒頭の台所のシーンと構図的に全く同じで、新鮮味に欠けた。ホラー映画で誰かが冷蔵庫の扉を開けて、それを閉めると、背後に誰かが立っているのと同じように、次に何が起こるか分かってしまう。このようなクリシェな作りは歓迎できない。

 

アホな男子学生も不要だった。『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』のパーティーで酔って独演会を開く男のようだった。宗教的な観念の深さと皮相性の両方を丁寧に説明しようとしてくれたのだろうが、この男はノイズだった。

 

総評

ホラーやスリラーというよりも、少女版ビルドゥングスロマンと言うべきだろう。文学的な意味での父親殺しが、そのまま神殺しと通底するものを持つのである。爽やかとは言えないが、恋に苦悩する少女の物語は日本だけでも毎年十本以上は劇場公開されている。本作のようなちょっとした変化球も、もっと紹介されていい。配給会社に期待したい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, エイリ・ハーボー, スウェーデン, スリラー, デンマーク, ノルウェー, ヒューマンドラマ, フランス, 監督:ヨアキム・トリアー, 配給会社:ギャガ・プラスLeave a Comment on 『 テルマ 』 -光るところがある文学的な北欧スリラー-

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