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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: C Rank

『 生理ちゃん 』 -男性、観るべし-

Posted on 2019年12月6日2020年9月26日 by cool-jupiter

生理ちゃん 60点
2019年12月5日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:二階堂ふみ 伊藤沙莉 松風理咲 豊嶋花
監督:品田俊介

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性に関する情報や議論はずいぶんとオープンになってきた。「性癖」という言葉の意味も曲解されるようになって久しいし、LGBTを公言する人々や、そうした人々にフォーカスする作品も近年とみに増えてきた。だが、そのテーマはマイノリティとしての苦悩や葛藤という精神的なものだった。全人類の半分である女性の「生理」という身体的な現象を描いた作品というのは、本邦では史上初ではないだろうか。

 

あらすじ

編集者の米田青子(二階堂ふみ)は、仕事に追われながらも、恋人との交際も順調だった。しかし彼は二年前に妻と死別し、11歳の娘、かりんを抱えていた。かりんとの距離感をなかなか把握できない青子。そんな日々の中でも月に一度の「生理ちゃん」は律義にやってきて青子にボディブローを見舞う・・・

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ポジティブ・サイド

『 存在のない子供たち 』のゼインは、初潮を迎えた妹に対して、実にテキパキと行動した。このように即座にアクションを起こせる男性は日本にどれくらい存在するだろうか。医療従事者や研修を受けた学校教諭以外で、どれだけの男性が生理のメカニズムを理解しているのだろうか。本作は無神経な男性の代表として青子の上司を描くが、これは製作陣からの日本の中高年向けの痛烈なメッセージであるように思えてならない。男というのは生来アホな生き物であるが、可愛げのあるアホか、ただの嫌味なアホかで、男の価値は上下する。前者でありたいと切に願う。

 

本作は20代半ばと思しき青子、同年代と思しき山本さん、青子の妹での17~18歳のひかる、青子の交際相手、久保の娘で11歳のかりんらが、「生理ちゃん」と向き合っていくストーリーである。

 

青子にとっての「生理」とは、仕事の邪魔をしてくる厄介な存在であり、同時に自分は母親にまだなれていないことを示すサインであり、多くの人に望まれているわけでもないのにきっちり自分の役割を果たすバリキャリの象徴でもある。

 

山本にとっての「生理」は、性交をしなかったこと、すなわち身を寄せ合い一つになれる異性の不在を告げる忌々しい存在である。彼女は真正のヲタクであり、その事実が彼女自身の殻になってしまっている。演じた伊藤沙莉は『 ブルーアワーにぶっ飛ばす 』では場末のクラブではじけていたが、このような陰キャも見事に演じられるのかと感心させられた。

 

ひかるにとっての「生理」は、肉体的に性行為が可能であるということの証明であり、同時にそれが来たら性交は不可であるとのサインでもある。

 

かりんにとっての「生理」=初潮は、子どもという存在からの脱却の始まりである。母親の死からわずか2年のかりんは、「私はお母さんの子どもだ!」という事実に固執する。

 

四者四様に自身の生理現象と向き合う女性たちの物語は、性=セックスもしくは好きになるタイプの人間の嗜好性・志向性と規定されがちな現代において、非常に根源的である。Jovian含めアホな男たちは、彼女らへの思いやりを決して忘れてはならない。

 

『 ジョーズ 』や『 オペラ座の怪人 』をパロったBGMが使われたり、ファミコン・ソフトの【 アトランチスの謎 】や【 いっき 】に、アラフォーのJovian夫婦は映画館の片隅で盛り上がってしまった。自分と同世代の人間たちがクリエイティブな世界でも主導権を握るようになってきたのかと、エンパワーされたように感じた。

 

ネガティブ・サイド

『 空の青さを知る人よ 』でも、姉妹の物語が描かれたが、年齢の離れた姉はしばしば妹にとっては母親代わりとなる。青子を25歳と見積もれば、高3の受験生であるひかるとの年齢差は7~8歳。妹の様々なライフステージで青子が母親代わりに positive female figure の役割を果たしてきたはずではないか。かりんとの適切な距離を探るのに難儀するのは当然としても、そのことをまったくの初めての事柄のように捉えている姿には少々違和感を覚えた。

 

本作には生理ちゃんだけではなく、その他のゆるキャラも登場する。性欲くんはまだしも、童貞くんとは何なのだ?処女ちゃんがいないにも関わらず童貞くんが存在する世界というのは、バランスに欠けるのではないか。また、ひかるのボーイフレンドについて回る「性欲くん」があまりにもおとなし過ぎる。10代の男子の性欲など、ほとんど動物のそれと同じである。製作陣はほとんど全員男性のはずだが、なぜこのような大人しい描写に落ち着いてしまったのか、あるいは妥協してしまったのか。また、このボーイフレンドの「性欲くん」が呟く一つひとつのエロ単語が、あまりにも笑えない。いや、それらを単体で聞く分には充分に面白いのだが、この物語の中では不協和音である。ガールフレンドの部屋にいるなら「ブラチラ」、「パンチラ」、「うなじ」といったようなワードを呟きそうだが、実際の「性欲くん」のつぶやきはエロ動画につけられていそうなタグばかり。女性の女性性(=妊娠と出産が可能な生命体であること)をテーマにした作品なのに、女性の性的な部分だけを取り出して呟くような「性欲くん」のノイズであるように感じられた。製作した男性陣が、自身の男性性に向き合えていない証拠である。

 

また青子と父との会話のシーンにも不満が残る。高校生の愛娘が、部屋に男を招き入れているというのに、この父親はそのことを従容として受け入れているかのようだ。不器用な男であることは分かるが、無関心または鈍感である必要はない。ひかるのボーイフレンドに対して、複雑な感情を抱いているシーン、または青子の交際相手に関心を持つシーンが描けていないことで、男女のコントラストがぼやけてしまっている。本作には「夫」という属性が出てこない。それは「妻」が不在だからである。生理とは、母親への予感である。だからこそ、「父」という属性をもう一段上の鮮烈さで描く必要があったと思えてならない。そこが残念である。

 

総評 

『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』は、インド社会の慣習や因習の打破を願った傑作であったが、女性の身体的な苦痛やストレス、また生理によって否応なく思い知らされる生殖機能までは描いていなかった。本作はそこを描いた。本作は中国や台湾でも配給されるとのこと。日本人の男性が原作を描き、日本人男性がそれを脚本化し、日本人男性がその映画化を監督し、その作品が海外でも公開されることの意義は大きい。東京オリンピック開催を前にコンビニからグラビア表紙の雑誌を撤去するらしいが、多くの国の人間が日本人のそうした「性癖」をすでに知っている。だからこそ、日本人男性像が変わりつつあることをアピールできる本作のような作品を、当の日本人、特に男性諸氏に強くサポートしてもらいたいと思うのである。生理バッジも試験的に導入され始めている。時代の変化に敏感になるとともに、最も身近なパートナーたちに敏感になろうではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’m late.

文脈が無ければ「遅刻している」の意味だが、貴君のガールフレンドが突然このように言ってきたら、それは「(生理が)遅れてるの」の意である。生理とは、受精卵を受けとめるためのふわふわのじゅうたんを体外に排出する現象である。つまり生理が遅れているということは、胎内に受精卵が存在しているかもしれないということである。世の男性諸君、特に10代、20代に告ぐ。近所の病院の性教育セミナーやパパママ教室に、一度は足を運ぶべし。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, コメディ, 二階堂ふみ, 伊藤沙莉, 日本, 松風理咲, 監督:品田俊介, 豊嶋花, 配給会社:よしもとクリエイティブ・エージェンシーLeave a Comment on 『 生理ちゃん 』 -男性、観るべし-

『 マーターズ 』 -監禁拷問の果てにあるものは-

Posted on 2019年12月5日2019年12月5日 by cool-jupiter

マーターズ 65点
2019年12月3日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:モルジャーナ・アラウィ ミレーヌ・ジャンパノワ
監督:パスカル・ロジェ 

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『 ゴーストランドの惨劇 』のパスカル・ロジェ監督の作品で、『 マーターズ 』の方が先発作品である。前々から「やばい映画だ」、「すごい映画だ」とは聞いていた。ホラーは嫌いではないが、拷問ジャンルは好きではない。まして『 ソウ 』の twist を一発で見破ったJovianなのだから、たいした捻りでもないだろうと高を括っていた。それは間違いだった。

 

あらすじ

 

傷だらけの少女リュシーは路上で保護された。彼女は廃墟に監禁され、拷問と虐待を受けていた。施設に預けられたリュシーはPTSDに悩まされながらも、アンナ・アサウェイの介護によって回復していく。しかし15年後、リュシーは自分を監禁していた者たちを見つけてしまう。復讐心に駆られた彼女は、銃を手に取り、アンナと共に彼らの家に踏み込んでいく。しかし、それは更なる悲劇と惨劇の始まりで・・・

 

ポジティブ・サイド

 

血が ドバッ とか ピュー と出るのは別に構わない。そういうのは小さい頃に『 13日の金曜日 』で充分に堪能した。本作は、いたいけな女子がこれでもかと痛めつけられる描写に目を背けたくなる。それだけなら、凡百のホラー映画だろう。本作が際立っているのは、リュシーを痛めつける者が、ビジュアル的かつ精神的に、とてもおぞましい存在であると言うこと。恐怖を感じさせる極意は『 はじまりのうた 』でキーラ・ナイトレイがヘイリー・スタインフェルドに諭したこと、すなわち「肌を見せてはいけない。衣服の下がどうなっているのかを男たちに想像させなければならない」という点に尽きる。その意味では、リュシーにとっての恐怖を、観る側にとっての恐怖と同一視させることに成功している本作は、それだけでも稀有な作品と評すことができる。

 

ところがストーリーはここから思わぬ展開を見せる。まさかの主役交代である。リュシーのパートナーのアンナが、かつてリュシーが経験したおぞましい苦痛の数々を味わうことになる。それは『 デッドプール 』でウェイド・ウィルソンがミュータント変身のために受けた拷問よりも、遥かにフィジカル的に残忍である。特に最終盤は『 羊たちの沈黙 』の行き過ぎたバージョンである。あまりにもおぞましい。デッドプールなら笑えるが、相手は女性である。ここまで彼女に拷問と虐待と苦痛とストレスを与える意味は何か。それがタイトルの『 マーターズ 』の意である。以下、ネタばれになる部分は白字で。

 

本作は映画『 ソウ 』、『 羊たちの沈黙 』にダンテの『 神曲 』と野崎まどの小説『 know 』を組み合わせたものである。アンナがクライマックスに観るビジョンをその目で確かめたら、ぜひこの画像を見てみてほしい。パスカル・ロジェ監督が上に挙げた古典作品をモチーフにしていることは間違いなさそうである。その上で、ラストの一連のシークエンスの意味をよくよく考えてみて欲しい。なぜ念入りに化粧をするのか。なぜ側頭部を撃つのではなく銃口を加えて後頭部を破壊するのか。なぜ「疑い続けなさい」と言い残すのか。いかようにも解釈可能だが、黒沢清の『 CURE 』の和尚の言葉「ありと見ればあり、なしと見ればなし」なのだろう。

 

ネガティブ・サイド

吐き気を催すほどの拷問が繰り広げられるが、後半にアンナをとことん痛ぶる場面は編集の粗が出たか。大柄な男がアンナに拳を振り下ろすシーンとアンナがフロアに叩きつけられるシーンが繋がっていないように感じられたし、アンナ自身も痛みの声と表情は見せても、痛みを体で伝えてはいなかった。WWEのジョバーの仕事を見て、痛いふりをすることと、痛みを観客に分かるように大げさに伝えることは、似て非なるものであると学ぶべし。

 

マドモアゼルが少し喋り過ぎである。いや喋るのは構わないが、明らかに観客に語りかけている。『 ミスター・ガラス 』でもサラ・ポールソン演じる精神分析医がイライジャ・プリンスの説明をご丁寧に観客に説明して白けさせてくれたが、このあたりの語りにも改善の余地がある。

 

後は重箱の隅をつつくようなものである。尿の色が薄い、食べさせられているものや置かれている状況からして量が多いなどの医学的なケチもつけられるし、あのような身体的ダメージを受けて生きていられるはずがない。感染症にかかって、即死亡であろう。もっと言えば、アンナは監禁されていた女性を見つけた時点で警察にすぐに通報すべきだった。だが、かの家の電話は何番にダイヤルしようと全てマドモアゼルの息のかかったところに繋がる・・・などの設定にしておけば、より絶望感が生まれたのではないだろうか。

 

総評

暴力的な描写に耐性が無いのであれば観てはならない。ただのホラーではない。スーパーナチュラルなホラーは大好物だぜ、という向きにもお勧めはできない。『 悪魔のいけにえ 』やそのリメイク『 テキサス・チェーンソー 』を堪能したような向きにこそお勧めしたい。リメイク版の『 フラットライナーズ 』や『 ラザロ・エフェクト 』的なテーマに興味のある向きは、片目をつぶりながら観るべし。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語会話レッスン

Mademoiselle

カタカナでは「マドモアゼル」、または「マドモワゼル」だろうか。「嬢」、「さん」に当たる表現である。未婚ではこちら、既婚ではマダムとなる。テニスファンならば、全仏オープンのアンパイアの声に耳を傾けてみよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, C Rank, カナダ, フランス, ホラー, ミレーヌ・ジャンパノワ, モルジャーナ・アラウィ, 監督:パスカル・ロジェ, 配給会社:iae, 配給会社:キングレコードLeave a Comment on 『 マーターズ 』 -監禁拷問の果てにあるものは-

『 アイリッシュマン 』 -M・スコセッシの心の原風景-

Posted on 2019年12月4日2020年4月20日 by cool-jupiter

アイリッシュマン 65点
2019年12月1日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:ロバート・デ・ニーロ アル・パチーノ ジョー・ペシ
監督:マーティン・スコセッシ

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『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』がQ・タランティーノの心の原風景を映画化したものだとすれば、本作はM・スコセッシの心の原風景を映画化したものなのではないか。これが観終わって一番に感じたことである。

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あらすじ

時は第二次大戦後の1950年代。マフィアの台頭と抗争の華やかなりし時代。フランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)はマフィアのラッセル・“ルース”・バッファリーの下でヒットマンとして働いていた。彼は頭角を現し、全米トラック組合「チームスター」のトップであるジミー・ホッファ(アル・パチーノ)の知音となるが、それは更なる暴力稼業の始まりで・・・

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ポジティブ・サイド

この映画を私的に表現するなら、(『 ウルフ・オブ・ウォールストリート 』+『 ゴッドファーザー 』+『 ゴッドファーザー PART II 』+『 ゴッドファーザー PART III 』+『 グッドフェローズ 』+『 アウトレイジ 』)÷(『 JFK 』+『 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 』)だろうか。つまり、懐かしさの中に悪辣さ、悪辣さの中にある懐かしさ、そこに真実を追い求めようとするストーリーであるように感じられたのである。

 

『 ジョーカー 』でも健在をアピールしたロバート・デ・ニーロが、意気軒高、老いて益々盛んな様を銀幕に刻み付けた。タクシー・ドライバー・・・じゃなかった、トラック・ドライバーが何の因果かマフィアの暴力のお先棒を担ぐようになるまでの経緯を、煤けた空の元で重厚に描かれる。一昔前には日本でもデコトラがちらほらと生き残っていたが、確かに『 トラック野郎 』には荒くれ者が多いようである。ただし、“アイリッシュマン”のフランク・シーランには戦争のバックグラウンドがある。戦争であれ抗争であれ、先に撃った奴が有利であることを、この男はよくよく知っている。いったい何人を殺すのかというぐらいに劇中でも殺しまくるが、フランクの狙撃は全てが近距離、それもほとんどゼロ距離で行われる。これは相手の懐に完全に入り込み、確実に命中させ、なおかつ反撃を食らわないという確信がなければできないことである。フランクが殺しの方法論や哲学を語るシーンはないが、それでもヒットマンとしての確立された自己があるということが如実に伝わってくる。稼業が何であれ、仕事人ならばこのようなプロフェッショナルでありたい、そう思わせるだけの迫力がある。ロバート・デ・ニーロ、健在である。

 

アル・パチーノ演じるジミー・ホッファも素晴らしい。チラッと名前を聞いたことがあるぐらいの人物だったが、そのカリスマ的な演説力と行動力、クレイジーなまでの権力欲、律儀にもほどがある連帯意識、破滅に向かっていたとしか思えない自意識は、『 スカーフェイス 』や『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』での演技に並ぶものと評したい。本人は怒り狂っているのだが、その様が意図せざるユーモアになっているシーンもいくつかある。「どのトニーだ?」の問いかけには、笑ってしまうこと請け合いである。

 

ルースを演じたジョー・ペシには、日本でいえば國村隼的な迫力がある。好々爺に見えて恐い。こんな爺さんがボソッと何かを呟いたら、忖度の一つや二つ、誰でもしてしまいそうだ。小柄な俳優が暗黒街の大物を演じることで、無言の圧力や不気味なオーラといった名状しがたい雰囲気が醸し出されている。彼の味方にせよ敵にせよ、関わりのある人間のほとんどがまともな死に方をしていない。そんな彼自身がまともな死を迎えられたのかどうか。観る者の想像に委ねられている部分もあるが、“Ill weeds grow fast.”とは、このような事柄を指すのだろうか。

 

本作は家族のストーリーでもある。より正確に言えば、親子のストーリーである。父が娘に寄せる愛情、そして娘が父に向ける軽蔑の眼差しの物語である。ヒットマンとして数々の殺しを請け負い、様々な犯罪をほう助してきた男も、その内側には人並みの愛情を持っている。アメリカ犯罪史の生き証人でもあるフランクは関係者の全てが鬼籍に入っても沈黙を保ち続けた。しかし、自らの愛情を隠すことはできなかった。何と悲しい男であることか。誰かが自分を訪ねてくるという希望にすがるフランクの姿を、人間らしさの表れと見るか、それとも哀れで孤独な末路と見るか。それはNetflixで確かめるか、もしくはレンタルできるまで待ってから確かめて欲しい。

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ネガティブ・サイド

アメリカ史についてある程度の知識がないと、何のことやら理解が難しい場面が多い。そういう意味でも冒頭に挙げたマフィア、ギャング系の映画のいくつかは鑑賞しておくことが望ましいのかもしれない。マフィア間の抗争や他グループとの抗争、国家権力との闘争など、彼らが現代に残した影響は計り知れない。ボクシングでは、ギブアップの意思表示のためには本来ならタオルは投入しない。それは大昔のことである。正しくは、セコンドがリングサイドに立ってタオルを振るのである。これは、まさにこの映画の描く時代に、自分の側のボクサー(それはギャンブルの対象でもある)がピンチに陥った時に、観客席からタオルを投げ込んで一次的に試合をストップさせてしまう不届き者が後を絶たなかったからである。こうしたチンピラ行為は、今では連邦法で取り締まられる。つまり、FBIに逮捕されてしまう。マフィアやギャング連中の何たるかを、劇中でもう少し詳しく描いて欲しかった。この映画を鑑賞するのはデ・ニーロやパチーノのファンがマジョリティかもしれないが、全員が全員、こうした歴史的背景に詳しいわけではない筈である。実際にJovianも前半はところどころがちんぷんかんぷんであった。

 

その前半のパチーノやデ・ニーロにはデジタル・ディエイジングが施されているが、これが気持ち悪いことこの上ない。『 キャプテン・マーベル 』のサミュエル・L・ジャクソンは普通に受け入れられたが、本作は無理である。特にアル・パチーノが不気味で仕方がなかった。『 アリータ バトル・エンジェル 』のアリータはだんだんと可愛らしく見えてきたが、今作の前半のパチーノは人間が機械的な仮面をかぶって演技をしているように見えて、とにかく気持ちが悪かった。これは何なのだろうか。

 

あとはとにかく長い。漫画『 クロス 』でもハリウッドのプロデューサーであるジャック・ザインバーグが「間にほどよく休憩をはさんだ3時間超の映画を作りたい」と言っていたが、インド映画のようなIntermissionをはさむことはできないのだろうか。それともNetflix映画にはそのような配慮は無用なのだろうか。長さは措くとしても、ペーシングに難がある。ジミー・ホッファが退場してからが異様に長く感じられる。ここからはアクションらしいアクションやサスペンスがなくなり、どちらかというとフランクの内省が焦点になるからだが、このパートだけでも10分は削れたのではないか。もしくは、もう少しメリハリのある作りにできたのではないか。自宅で適度に自分のペースで観ることができるように計算して作られたのかもしれないが、映画の基本は照明にしろ音響にしろ長さにしろ、劇場鑑賞を旨とすべしだと思いたい。

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総評

Netflix映画で、期間限定でミニシアターで公開されている。『 アナイアレイション 全滅領域 』もそうだった。Jovianはこちらはレンタルで観た。今秋、どこの映画館も一律に値上げを行ったが、年間50本を映画館で観るとするなら5000円、100本観れば10000円である。ボディブローのように財布には効いてくるかもしれない。本作を劇場鑑賞して、Netflixなどの配信サービス加入を真剣に考え始めている。アナログ人間のJovianにそう思わせてくれるだけの力のある作品であることは疑いようもない。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

That does it.

「 ひどすぎるぞ! 」、「 我慢ならん 」のような意味である。『 デッドプール 』でも、コロッサスに気を取られていたデッドプールがフランシスを逃がしてしまった時に、この台詞を叫んでいた。さあ、仕事や学校で気に食わないこと、理不尽なことがあった時には、心の中で“That does it!”と叫ぼうではないか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, アル・パチーノ, サスペンス, ジョー・ペシ, ロバート・デ・ニーロ, 伝記, 歴史, 監督:マーティン・スコセッシ, 配給会社:NetflixLeave a Comment on 『 アイリッシュマン 』 -M・スコセッシの心の原風景-

『 ファースト・マン 』 -宇宙飛行士を生還させた家族の絆-

Posted on 2019年11月28日 by cool-jupiter

ファースト・マン 60点
2019年11月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ライアン・ゴスリング クレア・フォイ ジェイソン・クラーク カイル・チャンドラー
監督:デイミアン・チャゼル

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かんとk 

劇場鑑賞しようと思い、できなかった作品は毎年いくつもある。本作もその一つ。『 アド・アストラ 』は面白さとつまらなさを同居させた作品だったが、静謐な雰囲気のSFを観たいという欲求を蘇らせてくれた。めでたくTSUTAYAで準新作になったので借りてきた。

 

あらすじ

宇宙飛行士のニール・アームストロング(ライアン・ゴスリング)は、飛行訓練に励んでいた。ソ連との宇宙開発競争に後れを取っていたアメリカは、J・F・ケネディ大統領の掛け声の下、人類初の月面着陸を目指していた。しかし、そこには家族との別離の苦悩、経済格差、そして飛行士の命を奪う事故など、問題が数多く存在しており・・・

 

ポジティブ・サイド

ライアン・ゴズリングはやはり当代随一の役者の一人であると感じる。内に秘めた感情を表には出さない。しかし、それを表出する時には、静かに、しかし激しく表出する。『 ドライブ 』で愛しのアイリーンが人妻と分かって意気消沈している時に、以前のクライアントが話しかけてきたのを静かに、しかし力強い脅し文句ではねつけるシーンがあったが、今作でもよく似たシーンがある。そこではさらに孤独感のにじみ出る強い拒絶を見せる。我々は宇宙飛行士と聞くと、肉体は壮健で頭脳は聡明、危機において心を乱さず、統率力も抜群であると思い込みがちである。いや、実際はその通りなのだろうが、そうした超人的な属性を以ってしても、アストロノートも一人の人間であるという事実は変わらない。一人の組織人であり、家庭人であり、社会の一成員であるということである。上司に報告し、同僚と競い合う。そうした意味ではサラリーマンでも共感できるところ大である。また、子どもを失うという例えようもない悲しみを胸に秘めていたり、妻と言い争いになってしまったり、子どもいる前で仕事の苛立ちを爆発させてしまったりと、これまた既婚サラリーマンあるあるを見せてくれる。そうなのだ。これはスーパーヒーローの物語ではなく、宇宙飛行士という国家的英雄の本当の姿を映し出す物語なのだ。

 

『 ブレス しあわせの呼吸 』でもダイアナを好演したクレア・フォイは、普通ではない男と結婚した女性という役がハマるタイプか。漫画『 ファントム無頼 』でも太田指令や西川など、現役パイロットとして常に死の危険と隣り合わせであることから妻に不安を与えていることが描かれていた。戦闘機パイロットでもそうなのだ。まして宇宙飛行士。そして、文字通りに前人未到の月面着陸ミッション。鬼気迫る表情で子どもたちに話すように促すクレアを見て、「母は強し」という格言の意味を再確認した。

 

ラストシーンも趣が深い。言葉はなくともニールの頭の中が、文字通り見て分かるのである。他にもアームストロングのひげの長さでさりげなく時間経過を知らせる演出なども芸が細かい。映像芸術として随所に秀逸な画が挿入されているところが光っている。

 

ネガティブ・サイド

本作はSFと見せかけた伝記映画でありヒューマンドラマである。その点だけを見れば合格点だが、月への飛行および着陸ミッションのスペクタクルが少々弱い。それが本作の眼目ではないにしろ、余りにもその部分を芸術的に描き過ぎている。冒頭の訓練飛行シーンの方がスリリングだった。もっともこれは最初からネタがばれている歴史物の宿命でもあるのだが。

 

荒涼とした月面に初めての足跡を残した時、「人類」という単語をアームストロングは使った。その人類とは、誰なのか。『 アルキメデスの大戦 』や『 風立ちぬ 』と同じく、巨額の税金が国家的なプロジェクトに注ぎ込まれる一方で、その割りを食うのは常に庶民である。黒人が貧しい暮らしを余儀なくされる一方で、白人が月に行く。そのような社会的な矛盾をも背負って月へ飛んだアームストロングが月面から地球を見た時に胸に去来した思いは何であったのか。それは観る者の想像力に委ねられている。しかし『 ドリーム 』でケヴィン・コスナーが、『 インターステラー 』ではマイケル・ケインが、それぞれにフロンティア進出の必要性を語っていたように、アメリカ人(ゴズリングはカナダ人だが)というのはフロンティア開拓を無条件に是とする傾向がある。当時の社会情勢について、アームストロング自身の口から何かが語られていたのは間違いないはずで、それを使うか、あるいは現代風にアレンジして、現代向けのメッセージとして再発信はできなかったのだろうか。このあたりがアメリカ人の楽観的過ぎる気質なのだろうか。何でもかんでもファミリー万歳はもうそろそろ卒業すべきだろう。

 

総評

SF映画ではなく歴史映画、伝記映画、そしてヒューマンドラマである。ZOZOを絶妙のタイミングでほっぽり出した無責任男の宇宙旅行計画あり、民間のスペースポートの開港が間近に迫っているとのニュースもあり、我々は再び月を目指そうとしている。その意味で、人類で初めて月に降り立ったニール・アームストロングの人生を追体験することは、我々一人ひとりが来るべき未来をシミュレートすることになるのかもしれない。『 アド・アストラ 』や『 メッセンジャー 』など、思弁的なSFが作られる土壌がハリウッドにあるのであれば、誰か水見稜の小説『 マインド・イーター 』をハリウッドに売り込んでくれないだろうか。もしくは日本でアニメーション映画化してほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Out of this world

 

直訳すれば、「この世界の外側へ」であるが、実際の意味は「この世のものとは思えないほど素晴らしい」である。記者たちに夫の宇宙飛行について尋ねられたジャネットが当意即妙に“Out of this world!”と答えたシーンから。ジェームズ・P・ホーガンの小説『 内なる宇宙 』でも似たような会話があった。以下、手持ちの本から引用。

“What on earth are you doing here?” Hunt had to force himself to hold a straight face until he had gone through the motions of looking up and about.

“I could say the same about you — except that ‘earth’ is hardly appropriate.”

 

これは宇宙船の中でのジーナとハントの会話である。on earthの使い方が適切ではないのではないか?とEnglishmanのハントがアメリカ人のジーナをからかっている。ホーガンの≪巨人≫三部作も、誰か映像化してくれないものだろうか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, カイル・チャンドラー, クレア・フォイ, ジェイソン・クラーク, ヒューマンドラマ, ライアン・ゴズリング, 伝記, 歴史, 監督:デイミアン・チャゼル, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 ファースト・マン 』 -宇宙飛行士を生還させた家族の絆-

『 決算!忠臣蔵 』 -忠臣蔵をよく知らない人向けのコメディ-

Posted on 2019年11月24日2020年4月20日 by cool-jupiter
『 決算!忠臣蔵 』 -忠臣蔵をよく知らない人向けのコメディ-

決算!忠臣蔵 65点
2019年11月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:堤真一 岡村隆史
監督:中村義洋

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Jovianの出身地、兵庫県は一体感に欠ける地域である。元々、但馬・丹波・播磨・摂津・淡路の五カ国がくっついて生まれた県なので、当然と言えば当然である。神戸は別格としても、全国的に知られているものとして姫路市の姫路城、西宮市の甲子園、宝塚市の宝塚歌劇団、明石市のタコと鯛と子午線、淡路島の玉ねぎ、丹波の黒豆、城崎の温泉などが挙げられる。これらに負けず劣らずの知名度を誇るのが赤穂の塩、そして赤穂浪士たちである。大河ドラマや二時間ドラマとして数限りなく生産されてきた赤穂浪士たちを、ゼニカネの面から描き直す。これは非常にユニークな試みである。

 

あらすじ

赤穂藩主の浅野内匠頭は江戸城にて吉良上野介に刀傷を負わせた咎で、幕府に切腹を申しつけられ、お家断絶、知行召し上げとなった。喧嘩両成敗の原則を無視した幕府に、大石内蔵助(堤真一)ら赤穂浪人たちはお家再興か、仇討ちかで揺れる。しかし、勘定方の矢頭長介(岡村隆史)らの計算では、経済的な余力はとてもなく・・・

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ポジティブ・サイド

今という時代に出るべくして出た作品である。経済格差の拡大がいかんともしがたく、社会の大部分に閉塞感が蔓延している時世に、一服の清涼剤になっている作品である。赤穂の志士たちは、いわゆる「無敵の人」との共通点が多い。しかし、彼らを討ち入りに駆り立てたものは本質的には武士のプライドである。「君に忠」という精神である。自身の尊厳が傷つけられた代償を、自分よりも弱い人間や無関係な人間に求める傾向の強い「無敵の人」とはそこが異なる。

 

またサラリーマンの悲哀とも重なる描写が多い。前線の営業部隊は「もっとこっちにカネ回せよ、こっちは体を張って仕事をしてるんだ」と言い、後方の管理運営部門は「後先考えず湯水のようにカネ使ってんじゃねー、てめーらの足りねー脳みそをこっちが補ってるんだ」と言っている。現実にそこまでギスギスした会社は少ないだろう。だが、程度の差こそあれ、似たような対立の構図はどこの会社や組織にも見られるだろう。番方と役方、どちらの側に肩入れして観ても楽しめる。

 

限られた予算がどんどんと吹っ飛び、徐々に人=コストに見えてくるのは滑稽であり、虚しくもあり、悲しくもある。大石内蔵助に共感することで、経営者の視点をシミュレートできると言ってもいい。雇用者にとっても被用者にとってもリストラは苦しいものである。しかし、赤穂浪士たちはすでに幕府によってリストラされた存在。そうした者たちがさらにリストラをされるということの悲哀を、本作はユーモアたっぷりに描き出す。不謹慎にも笑ってしまった。

 

終盤の評定(ひょうじょう)は、集団心理の危うさを端的に示している。当初7000億円とされていた某国のオリンピック開催費用は、いつの間にやら3兆円とも4兆円とも囁かれるまでになっている。何故このような馬鹿げた事態が起きてしまうのか、その舞台裏では赤穂の浪人たちのような盛り上がり優先の空気があったからではないか。随所で現代をユーモラスに批評する時代劇コメディの佳作に仕上がっている。

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ネガティブ・サイド

残念ながら忠臣蔵のストーリーをある程度知っている人ならば、オチというか経費削減のための逆転ネタに驚きが感じられない。例えば、大坂夏の陣の真田幸村およびその部隊が赤備えであったことはよく知られている。同じように赤穂浪士たちの討ち入りの装束についても知識があれば、大逆転のアイデアのインパクトが弱まってしまう。

 

部屋住みの子どもたちが堀部安兵衛に駆け寄るシーンがあるが、この時の子どもたちが露骨にカメラを避けるように動いていた。目の前に何も障害物が無い場所で、いきなりひょいっと脇に動いていく動きは不自然極まりない。編集で何とかならなかったのだろうか。

 

冒頭で阿部サダヲが登場しているせいか、後半の大石内蔵助の遊廓通いが『 舞妓Haaaan!!! 』に見えてしまった。実際、和装の舞妓をバックハグするシーンは、同作にそっくりの構図が見られた。オマージュのつもりかもしれないが、オリジナリティの欠如に見えた。

 

討ち入りに直接は関わらない赤穂浪士の数が多く、キャラクター間の人間関係や上下関係を把握するのに少し苦労する。また、序盤以降はコメディのほとんどを大石内蔵助の関西弁と顔芸に頼っており、その他キャストが輝きを放てていない。

 

エンドクレジットのシーンで絵巻などでもよいので、見事に吉良を討ち取ったことを伝える画が欲しかった。本作が最もエンターテインできる観客は、赤穂事件を名前ぐらいしか知らないというライトな層なのだから、その結末までしっかりと伝える義務があると思う。

 

 

総評

財務面から赤穂事件を再構築するのは文句なしに面白い試みである。そして実際に本作は面白い。サラリーマンであれ、経営者であれ、それぞれの視点で楽しめることだろう。ただし、時代劇や歴史そのものに詳しい映画ファンを唸らせる作りにはなっていない。本格的な赤穂事件の前日譚を期待しているような人はその点をよくよく注意されたし。案外と高校生や大学生カップルのデートムービーに適しているかもしれない。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Why should I let them kick sand in our faces?

 

大石内蔵助の言う「何でここまでコケされなアカンねん」という台詞の私訳である。UsingEnglish.comに秀逸な説明があったので引用する。

 

sand kicked in your face means to be insulted by someone or something you are powerless to fight back against.

 

顔面に砂を蹴り込まれる=誰か、もしくは何かに、反撃する力を持っていないとして侮辱されること、の意である。この表現は『 ボヘミアン・ラプソディ 』でも歌われた“We are the champions”の歌詞にも出てくる。英語学習の上級者ならば知っておいても損はない慣用表現である。

おまけ

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矢頭長介の墓

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大阪市内の淨祐寺

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, コメディ, 堤真一, 岡村隆史, 日本, 時代劇, 監督:中村義洋, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 決算!忠臣蔵 』 -忠臣蔵をよく知らない人向けのコメディ-

『 わたしは光をにぎっている 』 -東京の一隅に居場所を見出す少女の物語-

Posted on 2019年11月24日2020年4月20日 by cool-jupiter

わたしは光をにぎっている 65点
2019年11月23日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:松本穂香 渡辺大知 光石研
監督:中川龍太郎

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高校生ぐらいの頃は、本屋に行っては背表紙のタイトルだけ見てミステリやサスペンス小説を買っては読んでいた。本作は久々に、タイトルだけで鑑賞を決めた作品である。あらすじやキャストなど、事前の情報は極力仕入れずに鑑賞した。その甲斐もあってか、思いのほか楽しむことができた。

 

あらすじ

両親を早くに亡くした宮川澪(松本穂香)は、民宿を営む祖母に育てられた。だが祖母の入院により、その民宿も閉業。父の古い友人である三沢京介(光石研)の元に身を寄せる。スーパーでバイトを始めた澪だったが、長続きしなかった。澪はやがて京介の営む銭湯・伸光湯を手伝うようになる。その界隈では映像作家の緒方銀次(渡辺大知)らとの出会いもあり、澪は少しずつ世界との関わりを学んでいく・・・

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ポジティブ・サイド

現代日本の閉塞感、それにより生じる息苦しさ、もっと言えば生き辛さを克服していく過程の切り取った作品である。舞台が東京の下町の銭湯に設定されている点がよい。Jovianの出身地の兵庫県尼崎市は、昔に比べて数は相当に減ったものの、それでも昔ながらの銭湯が結構残っている。そこには独自の人間関係や生活のリズムといった、ユニークな生態系が存在している。Jovianは月に1~2回ぐらい銭湯に行くので、本作の世界にスッと入って行くことができた。

 

無口な少女である澪が東京の洗礼を浴びるシーンは少し痛々しい。東京では、人間関係が役割によって規定されている。店員は客の声を聞くものである。ただ、無防備に近い状態の人間がサンドバッグにされてよい道理はないし、正社員だからといってアルバイトと話す時に目を合わせなくてよいということもない。とにかく上京してすぐの澪は居場所のない無力な存在なのである。これによって観客は澪を応援したくなってしまう。これで澪を「どんくさい奴だな」と思ってしまう人は『 翔んで埼玉 』を観て、東京の富や権力が何によってもたらされ、維持されているのかを、再確認した方がよい。

 

伸光湯に居場所を見出していく澪と、その澪に仕事の在り方を見せる京介の疑似的な親子関係は清々しい。自身も口数の少ない京介である。浴場の掃除の仕方をあれこれと口で教えたりはしない。まず自分がやってみる。それを澪にやらせていく。頭を下げるべきところでは頭を下げ、しかし、それによって澪を叱責したりはしない。炉にもくもくと木を放り込んでいく姿は一つのプロフェッショナリズムの極まった形だろう。『 羊と鋼の森 』でもやや偏屈な調律師を演じた光石研は、いぶし銀の代名詞である。

 

渡辺大知のキャラも良い味を出している。伸光湯は平成どころか昭和の風情を残した貴重な銭湯である。その界隈も古き良き時代の名残を我々に伝えてくれるものである。そうしたものを映像という形で残そうという試みは、中川龍太郎監督自身の意識の表れなのだろう。

 

監督のこだわりはカメラワークにも表れている。普通の映画と比べて、ロング・ショットが多用されている。一つには、澪の孤独を視覚的に分かりやすく示すためであり、一つには、澪のパーソナル・スペースに徐々に他人が入ってこれるようになってきたことを示すためである。番台をしている澪を窓の外から映すシーンでは、東京の片隅で確かにこのような形で存在し、生活している人間がいるのだということを印象付けた。カメラワークも冴える作品である。

 

ネガティブ・サイド

澪の入浴シーンまでロング・ショットで撮影するとは、中川監督に喝!・・・というのは、もちろん冗談である。

 

冗談はさておき、スーパー銭湯でも昔ながらの銭湯でも、「脱衣所でスマホ・携帯を使用しないでください」という注意書きが貼られる時代である。同性の裸を見たいという男性も存在するし、女性が盗撮した動画を男性側に提供することもありうるのである。嫌な時代である。だからこそ、脱衣所や浴場そのものも映し出すことにトライすべきではなかったか。伸光湯は澪の居場所となるだけではなく、地域の人々の憩いの場であったり、認知症が進んだ老人の行き先であったりするわけである。そうした下町人情を映し出す必要もあったと思う。『 テルマエ・ロマエ 』という優れた先行作品もある。『 サウナのあるところ 』というモザイクすらかけなかった作品もあるのである。

 

エンディングは味わい深い。ただ、『 スリー・ビルボード 』のように、その一瞬先を見たいというこちらの欲求を満たしてくれるものではなかった。セルフ・ネグレクト気味の京介の目に映る成長した澪の姿。例えばそれは笑顔であったり、快活な声であったり、あるいはテキパキとした仕事ぶりであったり、何でもよいのだ。「そこは観る人の想像力に委ねます」という中川監督の意図も分かる。だが、「過去の名言を語る男に未来はない」ように、我々はその先を見たいのである。

 

総評

格差が定着した感のある日本である。しかし、日々を精いっぱい生きることが無意味なわけでは決してない。澪や京介の不器用な生き方は、むしろ好ましくすら映る。銭湯要素がやや少なめなのが残念だが、社会的なメッセージと人間ドラマを両立させた邦画の佳作である。スルーしてきた『 湯を沸かすほどの熱い愛 』を観てみたいという気分になった。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Use your imagination.

 

京介の「想像力を働かせろよ」という台詞の私訳である。~を働かせる=let ~ workなどと公式にあてはめてはいけない。英語を使うコツは、簡単な動詞を駆使することである。「常識で考えろ」というのも、”Use common sense.”と言うのだと覚えておこう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 光石研, 日本, 松本穂香, 渡辺大知, 監督:中川龍太郎, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 わたしは光をにぎっている 』 -東京の一隅に居場所を見出す少女の物語-

『 ゴースト・ストーリーズ 英国幽霊奇談 』 -結末が要改善の恐怖映画-

Posted on 2019年11月15日 by cool-jupiter

ゴースト・ストーリーズ 英国幽霊奇談 60点
2019年11月12日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マーティン・フリーマン アンディ・ナイマン
監督:ジェレミー・ダイソン アンディ・ナイマン

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シネ・リーブル梅田でタイミングが合わず見逃してしまった作品。海外のレビューでは結構評判がよかったので、TSUTAYAで借りてきた。ジャンプスケアばかりのアメリカのホラー映画とは異なり、人間の心の分け入っていくところが英国流か。

 

あらすじ

心理学者のグッドマン(アンデイ・ナイマン)はインチキ霊能者の嘘やイカサマを暴いてきた。だがある時、彼の憧れの存在であり、疾走していたキャメロン博士よりコンタクトを受ける。曰く、「この3つのケースは説明が付けられない」と。グッドマンは3人それぞれのインタビューに向かうが、彼はそこで不可思議な体験をすることになり・・・

 

ポジティブ・サイド

久しぶりにまともな副題が付されている。“英国幽霊奇談”とはなかなかに洒落ている。もっともこうでもしないと『 A GHOST STORY ゴースト・ストーリー 』と区別がつけにくくなるという事情もあるのだろうが。

 

大きな音や視覚的に不穏な表現を使うことで怖がらせよう、いや、驚かせようとするシーンが少ない。これは良いことである。恐怖とは受動的に感じさせられるものと、能動的に感じてしまうものとがある。本作が追求しようとしているのは後者である。これは一体なんなのか。何が起きたのか。どのように起きたのか。何物がそれを引き起こしたのか。何故それが引き起こされたのか。こうした次々に湧いてくる問いに、答えを示唆するものもあれば、完全に受け手の想像力に委ねてくるものもある。その塩梅がちょうどよい。そして、その塩梅の良さがそのまま結末への伏線になっている。ジェレミー・ダイソンとアンディ・ナイマンの二人はかなりの手練れである。

 

「脳は見たいものを見る」というのは、定期的に話題になる。Jovianがよく覚えているのはこの画像である。コロッと騙された覚えのある男性諸氏も多かろう。本作の投げかけるテーマは、この画像のようだと思ってよい。見えないものは見えないし、見えたとしてもそんなものは子供騙しだと退ける。人間の心理とは斯くのごとしである。これを言ってのけるのが心理学者であるというところが味わい深い。また、心理学に造詣の深い向きならば「行為者-観察者バイアス」を念頭に本作を鑑賞するとよいだろう。

 

ネガティブ・サイド

この結末は賛否両論を呼んだことだろう。Jovianは否である。それは恐怖の余韻をぬぐい去ってしまうからではなく、恐怖の根源が説明できてしまうからである。ネタばれになるので何も書くことができないが、この結末は「脳は見たいものを見る」ということの恐ろしさを伝えるものではない。いや、伝えてくれてはいるものの、この手の結末は小説などで散々使いまわされてきた。ここをもう一捻りするか、あるいは結末部分の3分間をデリーとすることも考慮するべきだったように思う。

 

3つのケースの怪異の描き方にも改善の余地がある。特に2人目のケースでは、「木」はパートは無用である。というよりも、これで恐怖感を煽るとするならば島田荘司の小説『 暗闇坂の人喰いの木 』以上のおどろおどろしさを演出する必要がある。このあたりに英国の幽霊譚の限界があるように感じた。もちろん、比較文化論的な意味であって、絶対的にそうであるというわけではない。Jovian一個人の感想である。

 

総評

もっと面白く作れたのではないかと思えてしまうのは文化の違いだろうか。ただし、ジェームズ・ワンの手掛ける虚仮脅し満載のギャグと紙一重のホラー映画とは異なり、人間の心理の単純さと複雑さ、そこを探索しようとしたことには一定の意義が認められるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Certainly not.

 

「生き物を殺したことはあるか?」と問われたグッドマン教授の返答である。“No.”の一言ではぶっきらぼうである(口調や表情にもよるが)。“Certainly not.”というのは、かなり丁重な表現である。類似の表現をフォーマルからカジュアルに並べると

 

Certainly not. > Definitely not. > Absolutely not.

 

となる。これは肯定形にしても、つまりnotを取り除いても同じである。ビジネス・シチュエーションで顧客や上席に返事をするときは“Certainly.”や“Certainly not.”を使うようにすべし。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アンディ・ナイマン, イギリス, ホラー, マーティン・フリーマン, 監督:アンディ・ナイマン, 監督:ジェレミー・ダイソン, 配給会社:トランスフォーマーLeave a Comment on 『 ゴースト・ストーリーズ 英国幽霊奇談 』 -結末が要改善の恐怖映画-

『 マイレージ、マイライフ 』 -大人、そして男というややこしい生き物-

Posted on 2019年11月11日 by cool-jupiter

マイレージ、マイライフ 65点
2019年11月7日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジョージ・クルーニー ベラ・ファーミガ アナ・ケンドリック J・K・シモンズ
監督:ジェイソン・ライトマン

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何度も劇場に足を運んでいると、それだけたくさんの予告編を自動的に観ることになる。その中でも、最近は特に『 マチネの終わりに 』が気になるようになってきた。言ってみればオッサンとオバサンの恋愛模様なのだが、なにやら重そうだ。それならそれを中和するためにも、事前にあっさり軽く、しかもそれなりにシリアスさもある作品を鑑賞しておくかと本作をピックアウトした。

 

あらすじ

ライアン・ビンガム(ジョージ・クルーニー)は解雇通告の代理人。クライアント企業に依頼され、全米を飛行機で飛び回りながら、従業員にクビを言い渡していく。彼の夢は1000万マイルを貯めること。ある時、ライアンは空港でアレックス(ベラ・ファーミガ)と知り合い、割り切った体だけの関係を始める。一方、彼の勤め先ではナタリー(アナ・ケンドリック)が非対面式の解雇通告の方法を立案していて・・・

 

ポジティブ・サイド

日本では退職代行の会社が人気を博し、その一方でその業務には法律的にあやふやな面もあることが指摘されている。従業員が会社を辞めるというのは、一大イベントであることは間違いない。逆を言えば、会社が従業員を辞めさせるのも、一大イベントであるわけである。そして、退職代行業が成立するのなら、解雇通告代行業があってもおかしくない。2009年製作の本作であるが、日本の退職代行サービスの創業者は本作にインスピレーションを得た可能性が微粒子レベルで存在している?

 

主演のジョージ・クルーニーが、粛々と人々の首切りをしていくのはプロの仕事ぶりであると同時に、非人間的にも映る。お気楽な独身男で、世俗の歓楽を健全に享受し、身を滅ぼすような真似はせず、自らの仕事に誇りを持って、空を自分のホームであると思っている。まるでジョージ・クルーニーがジョージ・クルーニーを演じているようだ。彼の代表作はテレビドラマの『 ER緊急救命室 』と映画『 オーシャンズ11 』だが、本作でもその存在感は健在である。冷酷非情な仕事ではあるが、対面で解雇を伝えることには「尊厳(dignity)がある」と主張するプロフェッショナリズム、男女の関係の機微を論じずに切って捨てるクールさ、そして切って捨ててきたものを振り返って、自分がこれまでに手に入れたもの、そして手に入れ損なったものに気がつく人間味の全てを、クルーニーは体現している。

 

その相手役であるベラ・ファーミガも実に魅力的である。milfyという形容詞が相応しい(気になる人だけ意味を調べてみよう)。「私は後くされのない女よ(I’m the woman you don’t have to worry about.)」とは、非常に強烈なメッセージだ。未知のセックスへの好奇心だけで始まった関係に狂わされることもなく、かといって生理的な欲求を淡々と処理しているだけという無味乾燥さもない。駆け引きはしないが、その代わりに拘束もしない。一言で言えば大人のオンナである。女ではなくオンナと書いたが、その意味は作品をご覧いただければ分かるだろう。

 

アナ・ケンドリックも小娘役を好演した。20代で仕事と結婚したとのたまう輩は、男女の別を問わず、恋愛で手痛い失敗をしたと言っているようなものである。そして、恋愛関係および職務に甘美な幻想を抱く傾向があるものなのである。ジョージ・クルーニーの生き様に自らの来し方行く末を見出し、「あなたってサイテーね!(You’re an asshole!)」と言ってのけるのは痛快である。大人になろうと足掻く子どもが、子どものままでいる大人に説教するシーンには、独特の爽快感がある。いい年こいて、こういうシーンを有り難がるのは、Jovian自身が子どものままでいる大人だからだろうか。

 

ネガティブ・サイド

ジョージ・クルーニーによる空の旅の手ほどき場面は興味深かったが、仕事の多くを機上の人として過ごす人ならではの考察や分析、ルーティンなどをもっともっと見てみたかった。特にアジア人に対する考察は面白かった。アメリカ人も「足元を見るのだな」と感じたが、こういうユニークな視点をライアン・ビンガムという男からもう少し引き出すことは不可能ではなかったはずだ。

 

ライアンの家族についても、もう少し掘り下げた描写が欲しかった。あるいは、編集でカットされたのか。姉に「あなたは存在していなかった」と言われるのは、その頃から機上の人ならぬ孤高の人だったからか。それにしては、高校ではバスケをしていて、ポイントガードだったと言う。わがままなシューティングガードだったというのなら、もう少し納得がいくのだが。

 

あとはJ・K・シモンズの出番が少ない。この男との面談が、クライマックスのpep talkの内容が鮮やかなコントラストを形成するのだが、ここはシモンズにもっと語らせるべきだった。いや、シモンズからライアン・ビンガムに問いかけるような形が望ましかった。そうすることで、一方的に人を切るだけの、さらに恋愛においても感情よりもテクニックを優先させる人でなしが、人間味に、そして人生の意味に目覚める契機をよりドラマティックに演出できたのではないかと思う。

 

総評

ジェイソン・ライトマン監督には基本的に外れが無い。特に『 サンキュー・スモーキング 』や『 JUNO ジュノ 』、『 タリーと私の秘密の時間』など、男の賢しらな一面、つまりアホな面を切り取ることに長けている。世の男性諸賢はライトマン作品を鑑賞して、人のふり見て我がふり直せを実感することができるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Up in the air.

 

原題はup in the airであるが、これは「飛行機に乗って空にいる」という意味と「(予定や計画が)宙ぶらりん状態である」のダブル・ミーニングである。ライアン・ビンガムというキャラクターを名状するのに、これ以上にふさわしい表現はなかなか見つからない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, C Rank, J・K・シモンズ, アナ・ケンドリック, アメリカ, ジョージ・クルーニー, ヒューマンドラマ, ベラ・ファーミガ, 監督:ジェイソン・ライトマン, 配給会社:パラマウントLeave a Comment on 『 マイレージ、マイライフ 』 -大人、そして男というややこしい生き物-

『 閉鎖病棟 それぞれの朝 』 -細部のリアリティの欠如が誠に惜しい-

Posted on 2019年11月7日2020年4月20日 by cool-jupiter

閉鎖病棟 それぞれの朝 65点
2019年11月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:笑福亭鶴瓶 綾野剛 小松菜奈
監督:平山秀幸

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平山監督と言えば『 学校の怪談 』が最も印象的である。だが、近年は『 エヴェレスト 神々の山嶺 』が、岡田准一ファンのJovianでさえ観るのがしんどい出来だったこともあり、精彩を欠いていると言わざるを得ない。本作はどうか。人間の描写は文句なしである。だが、それ以外の部分の描写に不満が残った。

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あらすじ

梶木秀丸(笑福亭鶴瓶)は妻と間男、実母の殺害により死刑に処された。しかし、脊髄損傷を負ったものの死ねなかった。以来、放免となり六王寺病院に収容されていた。塚本(綾野剛)は幻聴のせいで精神の安定が保てず発作的に暴れてしまう。そのため、六王寺病院に任意入院していた。そこに、ひきこもりの女子高生の島崎由紀(小松菜奈)が入所してきた。入院患者たちはいつしか語らい、触れあい、堅い関係を形作っていくが・・・

 

ポジティブ・サイド

主演の三人の演技力が本作を牽引した。特に鶴瓶の陽気さは、その胸の奥底に秘めた後悔、悲しみ、懺悔の気持ちが綯い交ぜになった、非常に複雑な覚悟のようなものを醸し出していた。「わしは世間に出たらアカン人間や」と自分を戒めながら、それでも人との交流に安らぎを見出したいという、とても人間味のあるキャラクターを好演した。『 アルキメデスの大戦 』でも浪速の商売人を見事に体現したが、この芸人は役者としての修行も疎かにしていないようである。

 

綾野剛も渋い働きをした。ちょっと遅れ気味のカメラ小僧をはじめ、アクの強い六王寺病院の入所者たちと平等に交流できるのは、同病相哀れむからか。まともに見えるこの男も、おそらく統合失調症だとは思うが、幻聴に苛まされているのである。これは経験した人にしか分からないだろう。Jovianも31歳の時に鬱状態に陥ったことがあった。あれは辛いものである。人によって異なるようだが、Jovianは自分自身の声が頭の中に反響する感じがした。いくら耳をふさいでも効果はゼロだった。その声が自分の欠点や弱点を延々と責め立ててくるのだから敵わない。綾野剛はそうした幻聴が聞こえる者を、多少大げさではあったが、よく特徴を捉えて演じていた。しかし、本当に光るのはそうした「動」の演技よりも、「静」の演技であろう。メイクさんグッジョブや監督の演出意図もあったはずだが、綾野剛が演じる塚本という男の頭髪および衣服の乱れ具合と彼の精神状態をよくよく比較してみて頂きたい。精神状態の悪さがセルフ・ネグレクトにつながるということが、ここでは言葉や台詞を使うことなく巧みに表現されている。

 

だが、最も印象的なのは小松菜奈だった。『 ディストラクション・ベイビーズ 』では、クルマのドアで菅田将暉を死ぬほど痛めつける時に狂気の表情を見せたが、本作で見せる絶望の表情そして声も、観る者の心を揺さぶってくる。ファンにとってはショッキングなシーンも複数回あるので、注意をされたし。小松菜奈も綾野剛同様に、慟哭だけではなく、切々と淡々と語り、楚々とした佇まいに秘めた凛とした強さを垣間見せる「静」の演技で物語を大いに引っ張ってくれる。彼女がお辞儀をした時に見えるあるものに、Jovianはよい意味で胸が締め付けられるような気持ちになった。『 恋は雨上がりのように 』に並ぶ、小松菜奈のベストなパフォーマンスがここにある。打ちひしがれていた小松のキャラが陶芸によって少しずつ回復していく様は、非常に象徴的である。粘土というなにものにも成り切れていない一つのかたまりに投影されていたであろう心象に想いを馳せずにはいられなかった。

 

BGMも感動を誘うが、むしろ音のない場面が印象に残った。とある公園のシーンが特徴的だったが、街中には生活音が溢れているということが、その場面では特に際立つ。これにより六王寺病院という空間が、いかに隔離された場所に存在するのかが逆説的に伝わってくる。音楽ではない音を通じて、背景の奥行きを想像する。これも優れた映画の技法である。

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ネガティブ・サイド

主演を張った役者たちの熱演と裏腹に、舞台や小道具などの細部のリアリティは滅茶苦茶である。これは原作小説の発行が1997年、最初の映画化が1999年、今回の映画化において時代設定を2005~2010年ぐらいに設定しているためと思われる。

 

まず看護師のカーディガンがあり得ない。いや、たまに着用する人はいるが、それでも袖はまくっている。看護師は学生時代にそれを叩きこまれるからだ。試しに「看護師」でグーグル画像検索をしてみて頂きたい。カーディガン着用の看護師がほとんどいないことが分かるだろうし、時間や機会があれば実際に病院の病棟や外来に行ってみて頂きたい。カーディガンを羽織っている人がいても、袖はまくられているはずである。いくら閉鎖秒という、ある意味では看護師にとってはぬるい職場であっても、この描写は頂けない。それとも原作にそのような記述があり、それを忠実に映画化したのだろうか。いや、そんなはずはあるまい。

 

また、病棟の設備にも設定上の粗が目立つ。冒頭で鶴瓶がエレベーターから車イスで降りるシーンで、エレベーターの扉が閉まり始めたのを鶴瓶が手で制したが、これは撮り直しをすべきだった。病院のエレベーターというのは、それこそ昭和の昔から、閉ボタンを押さない限りは、あんなに素早く閉まり始めたりはしない。また、これも冒頭近くに看護師が外から鍵を開けて、中からまた鍵で扉を施錠するシーンがあった。閉鎖病棟の「閉鎖」を物語る重要なカットだったが、扉が軽すぎるだろうと思う。精神疾患系の患者の病棟や収容所は、今も昔もかなり重く作られている。よほど古い施設で撮影をしたのだろうか。それでも、役者の演技で扉の重さを伝えることはできるはずだ。邦画はもっともっと細部=ディテールへのこだわりを持たねばならない。

 

また、Jovianのような鵜の目鷹の目の映画ファンならずとも、六王寺病院の男性・女性看護師や精神保健福祉士(?)や介護士(?)の仕事ぶりに、プロフェッショナルなサムシングを感じることはほとんどなかったのではないか。最も特徴的だったのは、渋川清彦演じる暴力傾向の収容者だ。劇中でりそな銀行が出ていたこと、そしてそれなりの性能のデジタルカメラが使われていたことから2005年~2010年という時代設定がされているものと推測する。劇中でも「最近は、頭がアレな人でも人権がね~」と駄菓子屋さんに語らせていたが、これなどは2010年代の感覚だろう。10年前か、それ以上過去なら、今以上に身体拘束が頻繁になされていたはずだ。もしくは隔離。このような凶暴かつ有害な人間を、ほぼ野放しにしておくのは六王寺病院の重大な管理ミスであろう。また、小松菜奈を迎えに家族、なかんずく血のつながらない父親の暴力傾向を見て、退院を阻止しないのは何故か。また警察に通報すらしないのは何故なのか。いくら虐待が今よりも目に触れにくい時代設定であるとはいえ、六王寺病院のスタッフ一同はそろいもそろって無能の極みである。

 

トレイラーにもあるので言及するが、最終盤の裁判の描写もお粗末の一言である。死刑を執行されたものの生き延びた人間の裁判である。異例中の異例の裁判である。本来であれば、マスコミから傍聴人まで、多数の人間が裁判所に殺到しているはずである。そもそも新聞記事の小ささからしておかしい。一面とは言わないまでも、袴田事件並みのインパクトで報じられてしかるべきではないか。実際にそのような事例がこれまで発生していないのでリアリティもクソもないとの理屈も成立するが、それはマスコミの感度をあまりにも過小評価しすぎであろう。

 

総評

ディテールの設定や描写がしっかりとしていれば、75~80点を与えられたかもしれない。それほどに主演3名の演技は光っており、それほどに細部の描写が甘い、または弱い。ドラマ展開は非常に読みやすい、王道的なもので、人によっては凡庸と評するかもしれない。しかし、人間模様に着目するならば、2019年の邦画の中でも上位に入る。細かい部分に目をつぶって、劇場鑑賞されたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Come back here.

 

トレイラーにもあった看護師さんスタッフの台詞、「戻ってらっしゃい」の英訳である。日本語としても定着しているカムバックであるが、物理的な移動で戻ってくることもあれば、病気や怪我から回復する、戦線離脱から復帰するという意味もある。単純ではあるが、深い表現である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 小松菜奈, 日本, 監督:平山秀幸, 笑福亭鶴瓶, 綾野剛, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 閉鎖病棟 それぞれの朝 』 -細部のリアリティの欠如が誠に惜しい-

『 ホームステイ ボクと僕の100日間 』 -生まれ変わりものの佳作-

Posted on 2019年11月6日2020年4月20日 by cool-jupiter

ホームステイ ボクと僕の100日間 65点
2019年11月4日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:ティーラドン・スパパンピンヨー チャープラン・アーリークン
監督:パークプム・ウォンクム

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森絵都の原作小説『 カラフル 』は未読。原恵一監督によるアニメ化作品も未鑑賞。それでも『 バッド・ジーニアス 危険な天才たち 』のスタッフが製作しているからには、一定水準以上のクオリティが担保されているはずと確信してチケットを予約。確かに一定の面白さはあった。

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あらすじ

ボクは死んだ。しかし、「あなたは当選しました」という謎の声が聞こえた。気がつくと、そこは霊安室。ボクは“ミン”(ティーラドン・スパパンピンヨー)という17歳の男子の身体に生まれ変わったのだ。しかし、謎の存在である管理人は告げる、「 100日以内にミンの死の真相を突き止めなければ、お前の魂は永遠に消滅する 」と。ボクはミンが何故死んだのかを突き止められるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

まずタイという国が輪廻転生をテーマにした原作を見逃さなかったことが素晴らしい。たとえば『 怪しい彼女 』のような若返りをテーマにした作品には普遍性がある。それは古今東西を問わず、人類が共通して抱く夢だからだ。一方で輪廻転生はそうではない。死生観は文化圏や宗教によって大きく異なるからである。タイという国民のほとんど全員が仏教徒である国、さらに日本のような大乗仏教ではなく、上座部仏教の国が輪廻転生的な生まれ変わりをテーマにした作品を独自に翻案することは必然なのかもしれない。

 

新生ミンの学校生活は青春の甘酸っぱさが感じられた。「ああ、俺にもこんな青春があったな」という気分になれた。特にチャープラン・アーリークン演じるパイとの交流は、橋の上での健全な意味での若気の無分別の発露あり、嬉し恥ずかしのファーストキスありと、青春映画のお手本のような作りになっていた。特にキスの後のパイの達成感と余裕の両方を思わせる微笑は、ミンの先輩にしてチューターという立場もあるだろうが、いわゆるお姉さんキャラ然としたオーラを放っていた。日本のアイドル的な女優連中も、この表情や仕草、所作はよくよく研究した方がよい。

 

同じマスゲーム部員のサルダー・ギアットワラウット演じるリーも味のあるキャラである。典型的な異性の友達的なキャラであり、ミンに心奪われた瞬間に色気ではなく食い気を放つところもポイントが高い。そしてミンが全くリーの恋心に気付かず、それでも無意識のうちにリーの心を掴んで離さない言動をしてしまうところも何とも罪作りである。「ああ、俺にもこんな青春があったな」という気分になれた。

 

マスゲームが終盤のシネマティックかつドラマティックな演出に一役買っており、ボクがミンの謎を探り当てる際の大きなヒントの役割を果たしている。これにはハッとさせられた。日本の原作も子の通りなのだろうか。だとすれば、原作者の森絵都は映像化を意識して執筆していたと見て間違いないだろう。

 

家族や友人が皆、キャラクターが立っていて個性的である。映像的にも息を呑むような演出が随所にあるので、観ていて単純に飽きない。冒頭数分のスーパーナチュラルなテイストの部分を抜ければ、高校生~大学生のデートムービーに好適かもしれない。

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ネガティブ・サイド

ストーリーの進め方に難がある。各サイトのあらすじやトレーラーでも言及されている“パソコン”に行き着くまでが長い。また、すぐ上でも言及したが、映画のトーンが一定していない点も気になる。冒頭だけを取り出せば、まるでホラーかスーパーナチュラルスリラー映画である。それが青春恋愛ものになり、そして中盤以降は家族を巡るサスペンスものになるのだから。全体を貫くトーンとして、例えばミステリ色をもっと基調にするなどの工夫はできたはずだ。“管理人”もそこかしこで登場するが、奇妙な空間演出は最初の一回だけでお腹いっぱいである。あとは、普通の人間の中に不意に紛れ込んで、ミンに謎解きを急げと呟くだけのキャラで良かったように思う。タイは世界最大の仏教国で、輪廻転生の考え方が浸透しているのだから、ミンが当選した「経緯」は謎であっても、ミンが当選した「事実そのもの」に殊更に超自然的な要素を加味しなくてもよいだろう。

 

また、ミンの自殺の真相も正直なところ、拍子抜けである。いや、パイの裏事情には同情しないこともないが、特に家族を巡る謎解きに関しては、西洋東洋の伝統的な家族観の違いが出ている。例えば『 アバウト・レイ 16歳の決断 』のレイと本作のミンはほぼ同世代である。しかし、現実を粛々と受け入れたレイと現実から逃避したミンのコントラストは、個人というよりも文化圏の違いだろう。(そうした意味では『 凛 りん 』というのは設定だけはそれなりに異色でユニークな作品だったなと思い出された。)「こんな人生なら誰でも自殺したくなる!」というミンの台詞は、死=消滅という文化圏ではなく、死んでも生まれ変わるという宗教的観念が浸透した社会、つまり非常にローカルな心の叫びに聞こえてしまった。

 

また展開が全体的にスローである。100日というのが長すぎるのかもしれない。真相究明までのカウントダウンを30日にして、ストーリー全体をもっと圧縮できなかっただろうか。ミンが、彼を取り巻く人間関係の闇を知っていくシーンの一つひとつが結構くどいように感じられた。若者の心に一挙にダメージを与えるなら、ジワジワと一発一発パンチを当てていくよりも、問答無用なコンビネーションパンチを顔面に叩き込んだ方がより効果的だったはずだ。

 

総評

タイ映画は確実に進化しているようである。他国の作品を上手く換骨奪胎して、まるで自国オリジナルのような作品に仕上げてしまうのだから、大したものである。またチャープラン・アーリークンは、日本語や韓国語を頑張って習得すれば、絶対に日韓の映画界からお呼びがかかるはず。国際的なスターを目指してほしい。やや拍子抜けなミステリ要素にさえ期待しなければ、それなりに楽しめる佳作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Do you want to go eat some shaved ice?

 

劇中のリーの台詞、「かき氷を食べに行こう」の英訳である。Do you want to V?は「Vしたいですか?」以外に、「一緒にVしない?」のような勧誘の意味を持つこともある。詳しくは『 アナと雪の女王 』(今も未鑑賞である!)のこの楽曲

www.youtube.com

を参照されたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, タイ, チャープラン・アーリークン, ティーラドン・スパパンピンヨー, ファンタジー, 監督:パークプム・ウォンクム, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『 ホームステイ ボクと僕の100日間 』 -生まれ変わりものの佳作-

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