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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 ボヘミアン・ラプソディ(“胸アツ”応援上映) 』 ーThe joy of movie-going is backー

Posted on 2019年1月5日2019年12月20日 by cool-jupiter

ボヘミアン・ラプソディ 85点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ラミ・マレック ルーシー・ボーイントン グウィリム・リー ベン・ハーディ ジョセフ・マッゼロ トム・ホランダー マイク・マイヤーズ
監督:ブライアン・シンガー

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2018年11月17日に大阪ステーションシネマで鑑賞した『 ボヘミアン・ラプソディ 』の“胸アツ”応援上映を体験。『 シン・ゴジラ 』の時にも大都市圏で実施された発声可能上映とだいたい同じと思えばよろしい。映画自体の感想は変わらない。むしろ、repeat viewingによって各シーンの構図やカメラアングルの意味がよりはっきりと伝わってくる。複数回劇場に足を運ぶ人が多くいるというのもむべなるかな。

 

Jovianは嫁さんと観に行ったが、劇場の入りは1割程度だっただろうか。箱の大きさに対して観客数も少なく、また実際にスクリーンに字幕が表示されるパートは大音量なので、かなり叫んだつもりでも、囁き程度にしか聞こえなかった。これは自分も嫁さんも確認している。それにしても客の入りとは関係なく、こうした試みはどんどん広がるべきであると思う。映画館に行くというのは能動的な営為であっても、映画を鑑賞するというのは極めて受動的な営為だ。しかし、そこに発声や手拍子、足踏みなどが加われば、受動でありながら能動のエンターテインメントが出来上がる。

 

問題があるとすれば、劇中の楽曲はすべてのパートが歌唱され、演奏されるわけでもない。またきれいにフェードアウトしてくわけでもないため、大声で歌っていると、いきなり画面が切り替わって、劇場内に自分の声が響き渡る、ということもありうる。「でもそんなの関係ねぇ」な小島よしおな人は、“胸アツ”応援上映を体験すべきだ。目立つのはちょっと・・・という控え目な人は、途中の “We Will Rock You” のシーン、最後のライブ・エイドのシーンで思いっきり絶叫すればよい。Jovianはそうさせてもらった。特に “We Are The Champions” では涙腺決壊必定である。嫁さんと二人で涙を流し、声に詰まりながら、何とか歌い切った。英語(に限らず、たいていの言語)には Editorial We と呼ばれる語法が存在する。新聞記事などで「~~~であると思われる」という、あの表現である。また書き言葉以外でも、特にメディアの質問やインタビューでも盛んに用いられるということは『 響 -HIBIKI- 』のレビューでも示した通りである。知らず知らずのうちに読者や視聴者を著者や話者の視点に包含するわけだ。フレディの抱える劣等感、葛藤、苦悩・・・ 我々はいつの間にか彼と同化する。心に闇を抱えない者がいようか。そうした懊悩の全てが We are the champions という歌詞と歌唱と共に吹き飛ばされていったように感じられた。なんというカタルシス!

 

観終わった後、隣の座席の母娘の会話が漏れ聞こえてきた。「お母さん、ゲイって何?」娘の方はおそらく小6~中1ぐらいだっただろうか。おそらく本作をきっかけに、このような会話が日本の津々浦々で交わされたに違いない。これは、クイーンというバンドの生み出した音楽の力を称揚するだけの映画では為し得ないことだ。受け手にしっかりと考えるきっかけを与える映画である。さあ、あなたも時間と懐に余裕があれば“胸アツ”応援上映に Go! である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ラミ・マレック, ルーシー・ボーイントン, 伝記, 監督:ブライアン・シンガー, 配給会社:20世紀フォックス映画, 音楽Leave a Comment on 『 ボヘミアン・ラプソディ(“胸アツ”応援上映) 』 ーThe joy of movie-going is backー

『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』 -インド発のグローバル映画の名作-

Posted on 2018年12月31日2019年12月7日 by cool-jupiter

パッドマン 5億人の女性を救った男 80点
2018年12月24日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:アクシャイ・クマール ラーディカー・アープテー ソーナム・カプール 
監督:R・バールキ

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踊りと歌で特徴づけられるインド映画に、シリアスでありながらコメディック、ロマンチックでありながらもどこかに危うさと儚さが漂う傑作が誕生した。まさに時代に合致したテーマであり、インド社会の問題のみならず普遍的な人間社会のテーマに訴えかけるところに、インドの映画人が単なるエンターテインメント性だけを追求するのではなく、作家性や社会性を意識に刻んでいることが見て取れる。

 

あらすじ

インドの片田舎の小さな村で、ラクシュミ(アクシャイ・クマール)は最愛の新妻ガヤトリ(ラーディカー・アープテー)が生理時に不衛生な布を使っていることに気がついた。腕の良い工事職人であるラクシュミは、清潔なナプキンを自分で作れるのではないかと思い立つのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

本作が2001年を舞台にしたものであることに、まず驚かされる。女性の生理現象に対する無知と無理解、そして忌避の制度が根強く残ることに、前世紀の話なのではないかとすら思わされる。しかし、性についての無知や無理解、もしくはまっとうな教育の提供については日本も他国を笑ってはいられない。Jovianの妹夫婦は小学校の教師だが、二人が小学校での性教育について憤っているのを聞いたことがある。性教育の講師を雇って高学年向けに話をしてもらったら、「君たちは赤ちゃんがどこから生まれるか知っているかな?赤ちゃんはおしっこの穴とうんちの穴の間の穴から生まれてきます」と説明したという。信じられないかもしれないが、これが関西のとある小学校の性教育の現場の実態なのである(その後、校長が激怒してその講師は某自治体からは事実上の追放になったようだ)。

 

Back on topic. インドの地方で孤軍奮闘するラクシュミの姿は、多くのアントレプレナーの姿が重なって見える。そんなものが作れるわけがない。上手くいくわけがない。売れるはずがない。あらゆるネガティブな評価や、妻や家族自身からの否定的な言葉や態度にラクシュミの心も折れるかと思わされる展開が続く。まるで韓国ドラマの25分もしくは45分で一話の韓国ドラマのように、上がっては下がり、上がっては下がりの展開が観る者の心を掴んで離さない。何故こんな単純な構成にここまで引き込まれるのか。それは主演を努めたアクシャイ・クマールの熱演が第一の理由だ。女性にとってのデリケートな問題に無邪気に取り組んでいく様は、観客に無神経さと思いやりの両方を想起させる。それは男の普遍的な姿と重なる。たいていの男は女性に対して優しい。しかし、優しいが故に残酷でもある。それは、男の優しさは女性の美しい部分だけに向けられがちだからだ。女性が抱える痛苦、労苦に関しては無理解を貫くからだ。女性が周期的に出血することを知っていても、その時に感じる内臓の痛みにまでは理解は及ばない。いや、及びはするものの、それに対しての共感を持たない。ラクシュミは痛みは追体験できないものの、自作ナプキンを着用してみるのだ。男性としても、職業人としても、何かを感じ取ることができる非常に印象的なシーンである。

 

ストーリーの途中でラクシュミのナプキン作りに加わってくるパリ―(ソーナム・カプール)も良い。ラクシュミとは何から何まで正反対で、男と女、地方育ちと都会育ち、菜食主義者と鶏肉大好き、学歴無しと高学歴、ヒンディー語スピーカーとヒンディー語と英語のバイリンガルと、何から何までが対照的な2人が協働していく様には胸を打たれる。何故なら、ラクシュミが何をどうやっても超えられなかった壁をパリ―はいとも容易く超えてしまうからだ。そしてそのことにラクシュミは怒りも慨嘆もしない。このことを描くシーンではJovianは自分が如何に器の小さい人間であるかを思い知らされた。Steve Jobsの ”Stay hungry, stay foolish.” と ”The only way to do great work is to love what you do.” という言葉の意味をラクシュミは体現しているのだと直感した。

 

映像と音楽も素晴らしい。冒頭のラクシュミとガヤトリの出会いから新婚生活までのすべてが色彩溢れる映像と歌と踊りによって圧倒的な迫力で描き出される。また、ラクシュミの妹が初潮を迎えたのを村の女性が総出で祝福するシーンの映像美も圧巻である。『 クレイジー・リッチ! 』でもシンガポールの建築や食べ物が活写されたが、インドにもこのような映像美を手掛ける監督やカメラマンがいるのかと、世界の広さに思いを馳せずにいられなくなる。

 

その世界の広さ、いやインドの広さについて物語終盤に実に inspirational なスピーチが為される。女性に対する差別や偏見、因習が支配する地方の村落共同体などのバリアを打ち破るためには、人間の数を数としてではなく、多様性として認めなければならない。何かを成し遂げるときには、他者への想いを絶やしてはならない。R・バールキ監督のメッセージがそこにはある。それはインドだけに向けたものでは決してない。先進国でありながら、驚くほど性差別に寛容な日本社会に生きる者として、本作は必見であると言えよう。

 

ネガティブ・サイド

パリ―の父親の台詞が、まるで不協和音のように今も耳に残っている。パリ―は才媛として父親によって育てられたのだが、その父親の子育ての哲学が作品全体を貫く通奏低音と衝突している。

 

また、ラクシュミの妻ガヤトリを始めとしたラクシュミの家族、共同体の構成員とラクシュミ本人の温度差が気になる。本作は映画化に際して、様々な改変を加えられたものであることが冒頭に明言されるが、ラクシュミの奮闘と家族の温度差がなかなか埋まらないのには胸が苦しくなってきた。ハリウッド映画やお仕着せの日本映画の見過ぎなのだろうか?

 

総評

ラクシュミの英語は素晴らしい。日本語話者が英語でスピーチをするときには、彼のような英語でよいのだ。英語学習者の目指すべき姿、ありうべき姿として本田圭佑や孫正義が挙げられるが、本作のパッドマンも日本のビジネスパーソンが目指すべきヒーロー像を、アントレプレナーとしても、英語のスピーカーとしても見事に体現してくれている。全ての映画ファンにお勧めしたいが、特にカップルや夫婦で観て欲しい逸品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクシャイ・クマール, インド, ソーナム・カプール, ヒューマンドラマ, ラーディカー・アープテー, 伝記, 監督:R・バールキ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』 -インド発のグローバル映画の名作-

『 search サーチ 』 -新境地を切り拓いた新世代の映画誕生-

Posted on 2018年11月4日2019年12月21日 by cool-jupiter

search サーチ 80点
2018年11月3日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ジョン・チョウ デブラ・メッシング ミシェル・ラー
監督:アニーシュ・チャガンティ

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原題は ”Searching”。離陸と飛行は大成功、きれいに着陸するはずが墜落炎上した感のある『 アンフレンデッド 』と傑作サスペンス『 ゴーン・ガール 』を見事に換骨奪胎した傑作が誕生した。まさに時代の要請する作品というか、テレビドラマの『 リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線 』や『 CSI:科学捜査班 』でPCをカタカタカタッと操作するだけで様々な情報を引き出してくるのを見て、そこまで鮮やかに何でもかんでも分かるのか?と疑問に思った向きはきっと多くいるに違いない。そんな疑問を持ったことがある人は是非とも本作を見よう。コンピュータ・リテラシー、インターネット・リテラシーの何たるかを知ることもできるし、人間の抱える様々な業を垣間見ることもできる。

 

あらすじ

デビッド・キム(ジョン・チョウ)とパメラは娘、マーゴット(ミシェル・ラー)を儲ける。彼女の成長と家族の歩みを都度PCに保存するという几帳面な幸せ家族だった。しかし、パメラが病死。父はそれでも気丈に娘の成長を記録し、父親業に邁進する。しかしある日、マーゴットと連絡が取れなくなる。杳として居場所が知れない娘を探すために、デビッドは警察の捜査・捜索と並行して、各種Socian Mediaなどのネット世界に飛び込んでいく。だが、そこで知ったのは、娘のまったく知らない一面で・・・

 

ポジティブ・サイド 

『 アンフレンデッド 』はチャット画面オンリーで進行したが、本作はそれをさらに押し広げて、ネットの世界全体を映し出していく。といっても、我々が見るのは電子がケーブル内を駆け巡るようなイメージではなく、もっぱらPCのディスプレー上に映し出されるブラウザや各種サイト、マウスやアイコンなどである。これは現代人に刺さる。PCやスマホの利便性が非常に高い世界、梅田望夫の言葉を借りれば「ネットのあちら側」に「もう一つの地球」が存在するような世界を、本作は確かに描き出した。これは新時代のアートというよりも同時代のアート、コンテンポラリー・アート(contemporary art)と見なされるべきだろう。しかし、全編これPC操作画面とはあまりにも大胆だ。それがハマるのだから面白いし、恐ろしい。

 

何と言っても、テキストによるやりとりの臨場感。我々もLINEやMessengerのようなアプリを日々使ってコミュニケーションを取っているが、文字を打っては消し、少し書き直したり、あるいは全て消してメッセージ自体を送らなかったりということが時々あるはずだ。頭を冷やすためだったり、相手を思いやってのことだったりと、我々の心の中は文字で表される部分もあれば、その文字の打ち方や書き方、あるいは文字にしようとして文字にならない部分にも現れる。本作はその部分をこれでもかと追求する。決して安易にキャラクターに独り言を喋らせて、観客にていねいに説明しようとしたりはしない。これが実に心地よい。

 

主人公デビッドを演じたジョン・チョウの卓越した存在感と演技力も称賛に値する。IT企業に勤める(というか在宅ワークか)やり手で、PCやネット上の各種ツールを巧みに使いこなす様は、シリコン・バレーで働く中年オヤジの能力の高さを証明し、我々を驚かし続ける。これが次世代の働き方なのか、と。であると同時に、娘と不器用な方法でしか向き合うことしかできない父親という人種の普遍的な悲哀も内包していた。後者の表現力を持つ役者は日本にも沢山いるが、前者を違和感なく表現しきれる役者は40代以上ではなかなか思いつかない。ましてやその両方を一人でこなせる役者となると・・・ まさにハマり役にしてジョン・チョウのキャリア・ハイのパフォーマンスであろう。

 

展開のスピードとダイナミックさ、伏線とその回収、極めてデジタルなBGM、アメリカ社会の俯瞰と縮図、人間愛と人間の醜さ、それら全てがぶちこまれていながら2時間以内に収めてしまう卓越した脚本と監督と編集の術。M・ナイト・シャマランに続く、インド系アメリカ人の素晴らしい作り手が現れた。

 

 

ネガティブ・サイド

敢えて弱点を上げるならば、あまりにデジタル・ヘビーなところ。PCやネットに世界にどっぷりと浸かっている人間でなければ、そもそも意味が分からないという場面も多い。というか、ほとんど全部だ。たとえばJovianの同世代なら、半分程度は間違いなく本作を楽しめるだろうが、Jovianの両親世代となると、どうだろうか。『 クレイジー・リッチ! 』の冒頭で、モブが各種アプリで一挙に情報を通信、共有していたシーンが何のことやら分からなかった、という声も聞いたことがある。

 

敢えてもう一つ注文をつけるとするなら、それはエンディングのクレジットシーンだろうか。『 ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 』は冒頭の配給会社のロゴのシーンから、アカペラ・モード全開で、一気に物語世界に入って行けた。同じく、最近は上映が終わり、劇場が明るくなると、人々は真っ先にスマホの電源をONにする。そこまで見越して、クレジット・シーンをPC画面上のあれやこれやと関連した構成、たとえば『 バクマン。』が漫画の単行本の背表紙を効果的に用いたような、そんなクレジットが見られれば、映画世界と現実世界がシームレスに結ばれたかのような感覚を我々は味わえただろう。しかし、それは無い物ねだりというものだろうか。

 

総評

一言、傑作である。今年、というか今月中に絶対に劇場で観るべき一本である。今後、こうしたスタイルの映画が陸続と生産されると予想される。『 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 』がPOVに火をつけたように、本作もPC画面上で繰り広げられるドラマというジャンルに火をつけた元祖として、評価されるだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, サスペンス, ジョン・チョウ, ミステリ, 監督:アニーシュ・チャガンティ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 search サーチ 』 -新境地を切り拓いた新世代の映画誕生-

『ジュラシック・パーク』 -科学の功罪を鋭く抉る古典的SFホラーの金字塔-

Posted on 2018年9月28日2019年8月22日 by cool-jupiter

ジュラシック・パーク 80点

2018年9月24日 レンタルDVD鑑賞
出演:サム・ニール ローラ・ダーン ジェフ・ゴールドブラム サミュエル・L・ジャクソン リチャード・アッテンボロー B・D・ウォ
監督:スティーブン・スピルバーグ

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ふと気になって近所のTSUTAYAで借りてきてしまった。確か劇場初公開時に岡山市の映画館で観たんだったか。1990年代半ばの映画館は、誰かが入口ドアを開けるたびに光が思いっきり入り込んでくるように出来ていた。まだまだ劇場というものの設計思想が日本では遅れていた時代だった。それでも座席予約や入れ替え制なども中途半端で、極端な話、入場券一枚で一日中映画三昧が可能なところもあった。良きにつけ悪しきにつけ、おおらかな時代だった。バイオテクノロジーやコンピュータテクノロジーが、ブレイクスルーを果たした時代でもあった。もちろん、2018年という時代に生きる者の目からすると、技術的にも設計思想にも古さが見てとれるが、この『ジュラシック・パーク』が古典とされるのは、それが生まれた背景となる時代と激しく切り結んだからだ。

大富豪のジョン・ハモンド(リチャード・アッテンボロー)は、琥珀に閉じ込められたジュラ紀の蚊の体内に保存された恐竜の血液からDNAを採取、復元。恐竜たちを現代に蘇らせ、一大テーマパークを作る構想を練っていた。そのテーマパークを見てもらい、構想に意見をもらうため、古生物学者のグラント博士(サム・ニール)、植物学者のサトラー博士(ローラ・ダーン)、カオス理論を専門とする数学者のマルコム博士(ジェフ・ゴールドブラム)を招聘する。一方で、ジュラシック・パーク内部には、恐竜の杯を高く売り飛ばそうとするネドリーもいた。様々な思惑が入り乱れる中、島には嵐が迫る・・・

まず過去の作品を評価するに際して、映像の古さには目を瞑らなくてはならない。現代の目で過去作品を断じることはあまりすべきではない。それでも本作に関しては、初めて劇場で観た時に魂消るような気持ちになったことは忘れようもない経験だった。巨大な生物が大画面に現れたからではなく、このような巨大な生物が現実の世界に存在してもおかしくないのだ、と思わされるようなリアリティがあったからだ。単に巨大な生き物が画面に現れて暴れるというのなら、ゴジラでも何でもありだ。ゴジラには怪獣としてのリアリティ=その時代において怪獣性に仮託される別の事象・現象があるのだが。時にそれは原子力に代表されるような科学技術の恐ろしさ、戦争という災厄、公害、宇宙からの侵略者、超大国の軍事力でもあった。

Back to the topic. 恐竜を復元、再生するリアリティに何と言っても生物学の長足の進歩があった。1990年代の生物学の歴史は、素人の立場ながら乱暴にまとめさせてもらうと、分子生物学と脳科学の発達の歴史だった。前者の分子生物学は、そのまま遺伝学と言い換えても良いかもしれない。その分野の最新の知見を、コンピュータ技術などと組み合わせることで、現実感が生まれたわけだ。これは過去数年の間に『エクス・マキナ』などに見られるような人工知能、そしてロボットの主題にした映画が陸続と生まれつつあることの相似形である。歴史は繰り返すのだ。ちなみにこの分野では『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995)が白眉であると思う。スカーレット・ジョハンソン主演で実写映画化されたのも、偶然ではなく満を持してというところだろう。結果は、まずまずの出来に終わってしまったが。

Back on track. 映画の面白さを語る時、どこに着目するかは観る人による。ある人は演出に魅せられるだろうし、ある人は映像美を堪能するだろうし、またある人は役者の演技に注目するだろう。しかし、ある作品が名作、さらに古典たりえるか否かは、その作品が持つテーマが普遍性を有するかどうかにかかっている。『ジュラシック・パーク』のテーマは、イアン・マルコムがランチのシーンですべて語り尽くしている。「あんたらは他人の功績に乗っかかって、その技術を応用するが、その責任はとらない。その科学技術を追求することができるかどうかだけ考えて、追求すべきかどうかを考えもしない」と厳しく批判する。ゲノム編集技術を倫理的に議論し尽くせているとは言い難い状況で研究や実験をどんどん進める無邪気な科学者たちに聞かせてやりたい台詞である。絶滅の危機に瀕するコンドルを例に挙げ、自らを正当化しようとするハモンドにも「森林伐採やダムの建設で恐竜は滅んだのではない。自然が絶滅を選んだんだ」と理路整然と反論する。科学と倫理のバランスはいつの時代においても重要なテーマである。漫画『ブラック・ジャック』の本間先生の名言「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」という声が、本作鑑賞中に聞こえてきた。“Life finds a way.”と”We spared no expense”という二つの象徴的な台詞の意味についても、よくよく考えねばならない時代に生きている我々が、繰り返し鑑賞するに足る映画である。本作を観ることで、『ジュラシック・ワールド』シリーズが『ジュラシック・パーク』に多大な影響を受けていることが分かる。構図があまりにも似すぎているものがそこかしこに散見されるからだ。小説家の道尾秀介は『貘の檻』で横溝正史の『八つ墓村』から無意識レベルでの影響を受け、意図せずにオマージュ作品を書いてしまったということを機会あるごとに語っているJ・J・エイブラムスも『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で直観的な演出を即興で多数盛り込んだことで、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のオマージュを創り出した。名作とは、頭ではなく心に残るものらしい。記憶ではなく、無意識の領域に刻みつけられるものが名作の特徴であるとするならば、『ジュラシック・パーク』は文句なしに名作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, A Rank, SF, アメリカ, サム・ニール, ジェフ・ゴールドブラム, ホラー, ローラ・ダーン, 監督:スティーブン・スピルバーグ, 配給会社:ユニバーサル・ピクチャーズLeave a Comment on 『ジュラシック・パーク』 -科学の功罪を鋭く抉る古典的SFホラーの金字塔-

『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

Posted on 2018年9月16日2020年2月14日 by cool-jupiter

判決、ふたつの希望 90点
2018年9月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:アデル・カラム カメル・エル・バシャ リタ・ハーエク クリスティーン・シュウェイリー カミール・サラーメ ディアマンド・アブ・アブード
監督:ジアド・ドゥエイリ

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元・新聞記者の先輩がSocial Media上で絶賛されておられたことにインスパイアされ、鑑賞。魂を持っていかれるかと思うほどの衝撃を受けた。邦画、外国映画を合わせて、間違いなく年間ベストである。ベスト級ではなくベストと断言させていただく。

レバノン人にしてキリスト教徒、右派政党のレバノン軍団の支持者であるトニー・ハンナ(アデル・カラム)は妊娠中の妻シリーン(リタ・ハーエク)と、どこか幸せそうに、どこか不幸せそうに暮らしていた。ある日、トニーはパレスチナ人技術者のヤーセル(カメル・エル・バシャ)との間でちょっとした諍いがあり、「クズ野郎」と罵られる。謝罪を求めるトニーに、新規の仕事を受注していきたい上司の仲介もあり、ヤーセルはトニーの自動車修理工場を訪れるが、その場でトニーから「シャロンに抹殺されていればな!」という暴言を受け、思わず激昂し、トニーの腹にパンチを一発お見舞い、肋骨を折ってしまった。これによりトニーはヤーセルを告訴。裁判は、しかし、いつの間にかトニーの思惑を超えた次元にまで到達してしまう・・・

まず、本作の真価を味わうためには、レバノンとその周囲の政治と軍事と歴史についてある程度の造詣が求められるが、新聞や報道で知る程度の知識でも十分に意味は理解できるはずだ。というよりも、むしろレバノンという国固有の事情を全く知らない方が様々な意味やメッセージを本作から受け取ることが容易になるかもしれない。Jovianが受け取った、本作が発しているメッセージは以下の4つである。

1つには、言葉は時に刃物よりも簡単に人を抉るということである。古代ギリシャのヒポクラテスは「医者には三つの武器がある。第一に言葉、第二に薬草、第三にメスである」と語ったとされる。言葉には人を癒す力が宿るのだ。だとすれば、言葉は人を傷つける力を持つことがあるというのは理の当然であるとも言える。『検察側の罪人』で沖野が松倉に対して非常に脅迫的で威圧的な言動をとるが、あれは一にかかって相手の≪犯罪者≫という属性を責め立てるものであった。では、犯罪者ではなく個人の職業を罵ったら?出身地を罵ったら?性別を罵ったら?年齢を罵ったら?名前を罵ったら?国籍を罵ったら?宗教を罵ったら?政治的な思想信条を罵ったら?これらが時として、フィジカルな暴力よりも人を傷つけることを我々は知っているはずである。「シャロンに抹殺されていればな!」という台詞にあるシャロンが誰のことなのか分からないという人は多いだろう。しかし、ロヒンギャ難民に対して「ミャンマー軍に殺されていればな!」などと言えば、相手がどれほど怒り、悲しみ、混乱し、悶え苦しむかは想像に難くないだろう。他者の全人的な存在を否定し、ごく一部の属性を切り取り、それを理由にその相手の死を望むような言葉が許される道理はない。漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』で真田信繁が「人には触れてはいけない痛みがある。そこに触れれば、後は命のやり取りをするしかなくなる」と喝破するシーンがあったが、トニーがヤーセルに投げつけた侮蔑の言葉は正にこれに当てはまる。

2つには、人間は必ずしも理性的に振る舞うわけではなく、感情や欲望のままに言葉を発し行動を起こしてしまう生き物であるということである。哲学者ニーチェの考察を援用させてもらえれば、人間の理性の奥底には欲望が潜んでおり、我々の思考もよくよく分析してみれば欲望に基づいたものであることが分かる。トニーもある時点までは周囲の声に耳を傾けない、ただの頑固親父でしかなかったが、ある時を境に自分の心に向き合い、自分が求めているのは、争いではなく平和的な関係であることを悟る。しかし、一度口から出してしまった言葉はもはや飲み込めない。言葉では自分の心を表せない。そこで行動で自分の気持ちを表す場面がある。人間は愚かな=非理性的な存在ではあるが、それを認め、乗り越えていくだけの強さも確かにある。勇気を持って自分の素直な心に従えば、過ちを改める機会も訪れるのだ。どこかの島国では政治家がひょいひょいとコメントを撤回するが、それをするのならば行動変容、態度変容も同時に見せて欲しいものである。

3つには、人間は非常に狭い範囲でしか物事を考えられない、ある意味で生得的な欠陥を抱えているということである。あいつはパレスチナ人だ、不法難民だ、不法就労者だ、ムスリムだ、だから暴言の対象にしても良いのだ、という論理がトニーの頭の中で一瞬で成立したことは明明白白だ。もちろん、そのような思考回路が成立するための長い期間や環境があったことも考慮に入れるべきではある。それでも、人間はいとも簡単に他者にレッテルを貼る。Jovian自身も「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉を東京の某企業で幾度も聞いた。人口当たりのクレーム発生件数は、明らかに東京>大阪、関東>関西であったにも関わらず・・・ 人間は、理性ではなく、自分の信じたいものを信じるように出来ている。我々は欲望に突き動かされる、無力で非力な存在にすぎないのか。人間が無意識のうちに育てがちな、そして意識的に拡散させる傾向をもつ、差別的な思考については、山本弘が自身の小説内で、おもにロボットやアンドロイドとの対比で描いてきた。『アイの物語』はその中でも白眉であろう。同様のことは栗本薫も評論やエッセイで、主にオタク趣味・やおい趣味擁護の論を展開する中で行ってきていた。人間はほんの少しの肌の色の違いや目の色、髪の色の違いに敏感で、それだけで容赦なく差別に走る、極端に狭い思考に囚われているのだ。もう一度、「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉に注目しよう。「やっぱり」に着目されたい。考えての台詞ではない。既に自分の中に固定観念が存在し、それにたまたま符合するような事態が出来しただけのことなのである。それがこの「やっぱり」の本質であろう。もちろん、この言葉を肯定的なコンテキストやニュアンスで使うことも十分に可能である。だが、貴方も私も「やっぱり○○○は・・・」という思いを抱く、あるいは言葉に出す時、そこに差別的な感情が根付いていないとは言い切れないだろう。人間の持って生まれた弱さなのだ。人間は、現実をありのままに受け入れるよりも、自分にとって受け入れやすい、自分の中に受け入れる土壌のある現実の一側面だけを消化吸収する傾向があるのだ。

4つには、ジアド・ドゥエイリ監督からの「これはレバノンの現実ではなく、あなたの身の回りで起きている事柄なのですよ」というメッセージである。レバノンの状況や周囲の情勢、その歴史に詳しいという人は日本では少数だろう。では、これをアメリカに例えるなら?『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』ような思わぬアシストが転がり込んできたとはいえ、トランプ政権爆誕のニュースに世界が震撼したのは記憶に新しい。それは、ヒラリーが女性層を完全に敵に回してしまっていたという重大なエラーのせいでもあるのだが、他に大きな要因を挙げるとすれば、オバマ政権時代の反動だ。バラック・オバマという黒人議員が大統領職に登りつめることで、アメリカでマイノリティ(実際はマジョリティに近いが)とされてきた黒人およびその他の人種は、社会正義の実現を期待した。ここでいう社会正義とは、恐ろしく端的に言い切ってしまえば、黒人の白人への優越である。しかし、オバマが目指したのは、全人種の平等と公正であった。これにより、民衆の願望とオバマの政治理念の間に齟齬が生じ、アメリカ分断の端緒となったわけである。トランプの出現によってアメリカは The Divided States of America と揶揄されるようになったわけではない。その前政権から、分断の萌芽はすでにあったのだ。公平性の実現によって、自らの権利や利得が侵害されると人は感じるのだ。本作の呈示するメッセージは現代日本にも見事に当てはまる。一部の日本人は、外国人労働者によって日本人の職と所得が奪われていると感じるらしい。東京都心や関西都市部でも、確かにコンビニの店員さんや飲食チェーン店の店員さんに東北および東南アジアの人たちが増えてきた。しかし、彼ら彼女らが日本人の仕事を奪っているわけではない。逆だ。Jovianの後輩に東京都心でカレー屋とラーメン屋のチェーンを営む男がいるが、正社員にもパートにもアルバイトにも、応募してくるのは外国人だらけだと言う。これは彼だけの感想ではなく、同世代。同地域の小規模ビジネス経営者の共通の悩みであるということだ。日本人がやりたがらない仕事を外国人が補完してくれていると見るべきなのだろう。本作のトニーも、ヤーセルに対する負の感情が抑えきれないのだが、彼を外国人、難民、不法就労者という面ではなく、仕事に対して忠実なプロフェッショナルであるという自身とオーバーラップする側面に気がつかされた時、ヤーセルの視界は一変する。我々は彼我の違いではなく、共通点に目を向けるべきなのだ。究極的には、人間は皆、同じ人間なのだという境地を目指すべきなのだ。皮肉なことに、それをまさに究極の能天気さで実現してしまった映画に『インデペンデンス・デイ』がある。宇宙人の襲来を受けたことで、”We can’t be consumed by our petty differences anymore.”という不都合な真実にウィットモア大統領は気付いたのだ。他者を自分と同じく、生きた血肉を持つ人間として見、そして接する。そうすることが如何に困難で、そして如何に実は容易であるのかを本作は非常にドラマチックに我々に見せてくれる。

本作の素晴らしさは、プロットだけではなく、カメラワークや演技、演出全般にも当てはまる。『赤かぶ検事奮戦記』のような関係性が盛り込まれていたりするが、そのことがドラマの主軸にはならない。むしろ、人間は世代、性別や思想信条によって親子であっても、同胞であっても、あっさりと対立してしまうことをあっけらかんと見せつける。主演の男性二人だけではなく、弁護士の対決もサスペンス感たっぷりで、手に汗握る論理と言葉の応酬の裏に、自らの信じる社会正義と紛争の調停への使命感がありありと感じられる。裁判長の威厳と迫力も、アメリカ映画のそれとは段違いである。日本の判事や判事補など、実態はともかくとして、少なくともエンターテインメントの世界では存在感は無に等しい。法廷サスペンス映画としても本作は第一級品である。何よりも役者たちの演技力に脱帽する。レバノンという国が、自らの国の抱える問題や矛盾点をさらけ出し、世界に堂々と配信するという姿勢に感銘を受ける。そして、小規模ながら日本でも配給されることに感謝したい。観て後悔は絶対にさせない、まさに現代人のための映画であると言える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アデル・カラム, カメル・エル・バシャ, サスペンス, ヒューマンドラマ, フランス, レバノン, 監督:ジアド・ドゥエイリ, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』 -グラスコートで繰り広げられる極上のヒューマンドラマ-

Posted on 2018年9月9日2020年2月14日 by cool-jupiter

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 80点
2018年9月9日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:スベリル・グドナソン シャイア・ラブーフ ステラン・スケルスガルド
監督:ヤヌス・メッツ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180909223208j:plain

往年のテニスファンならずとも、ビヨン・ボルグやジョン・マッケンローの名前ぐらいは聞いたことがあるはずである。日本プロ野球で言えば、村山実や張本勲・・・、さすがに古すぎるか。これは彼ら二人がウィンブルドンの決勝で相まみえる過程とその結末をドキュメンタリー風に仕上げた作品である。『 バトル・オブ・ザ・セクシーズ 』に並ぶ、いや超える作品である。あちらはフェミニズムを前面に出してきたが、こちらはテニス史上に残る名プレーヤーたちによる名勝負中の名勝負を前面に押し出してきた。扱う主題がテニスという点では同じでも、ジャンルが異なる映画である。こちらは社会性よりも、むしろ個人の内面や人間性に踏み込んだ内容になっているからだ。この作品で描き出されるボルグやマッケンロー像に、多くの人たちが類似のアスリートや他分野の偉人、もしくは身近な人間を思い浮かべることだろう。これはそういう見方ができる映画だし、そうした見方をされたがっているようにも思う。

ボルグのテニスは、乱暴に一言でまとめてしまえば大河ドラマ的だ。一話一話は抑揚に乏しく、1月に始まり、12月にクライマックスが来るようなものだ。対するマッケンローのテニスは韓国ドラマだ。一話一話が、まるでジェットコースターのように上がり下がりする。Jovianはテニス史上で最も強靭なメンタルの持ち主はシュテフィ・グラフだと信じている。彼女の動じない姿勢、ワンプレーが終わるたびにサッと後ろを振り向いて気持ちをリセットしようとしているかのような立ち居振る舞いに、多くのファンが魅せられ、畏敬の念を抱いてきた。その姿勢の源泉はボルグにあったのではなかろうか。ボルグのコーチ役のステラン・スケルスガルドの「一球に集中するんだ」という言葉に、松岡修造がウィンブルドンで叫んだ「この一球は絶対無二の一球なり!」という言葉を思い出すテニスファン兼映画ファンはきっと多いだろう。余談だが、大坂なおみがセリーナ・ウィリアムスを倒して全米オープン制覇を成し遂げた。偉業である。そこでのセリーナの振る舞いに、多くのファンがマッケンローの姿をダブらせたことだろう。動じないメンタル、少なくともそれを目に見える形で表わさないことが、トッププロには求められることが多い。例えばイワン・レンドルは1986年のウィンブルドンで、ボリス・ベッカー相手に、誤審から崩れた。いや、誤審から崩れたというよりは、誤審を許せなかったことで平常心を失い、あっさりとベッカーに退けられてしまった。しかし、メンタルの崩れからそのまま敗れ去ってしまった悲劇の例としてテニスファンの心に最も強烈に焼き付いているのは、ヤナ・ノボトナを措いて他にいないだろう。1993年のウィンブルドン決勝、最終第3セット、女王グラフを徳俵にまで追い込みながら、凡ミス連発で世紀の大逆転負けを喫した、あの試合である。ことほど然様にメンタルの在り方は、テニスにおいて、そして他の分野においても、勝負を分けるポイントになる。トップレベルなら尚更である。

Back on topic. 本作は、『 アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル 』の系統の映画と評するべきであろう。本作はプレーヤーとしてのボルグやマッケンローのフォームや仕草、話し方をよくよく研究しているとはいえ、テニスの試合そのものを直接的に魅せる手法は取っていないからだ。しかし、そのことが本作のスリルやサスペンスを減じることはいささかもない。なぜなら、本作はヒューマンドラマだからだ。内面に溜めこんだ負の感情をルーティンで抑えつけるのか、それとも蒸気機関車のエンジンよろしく、圧縮された蒸気は定期的に吐き出さなければならないのか。正反対に見える両者だが、その内側には非常に人間らしいドロドロとしたものが渦巻いていることに気付くだろう。そんな彼らが最高の舞台で究極の精神状態で闘うのだ。これ以上の対話は無い。そしてドラマの基本は対話、dialogueなのである。エンディング近くで2人が交わす誠に他愛の無い会話に、我々はこの2人の間に言葉はもはや必要ないのだということを悟るのである。何というドラマだろうか!こうしたことは実は往々にして起こることで、Jovianがパッと例として出せるのはアルトゥロ・ガッティとミッキー・ウォードのボクシング・トリロジーだ。特に第一戦の第9ラウンドは今でもボクシングファンの間で語り継がれる、言葉そのままの意味の伝説的ラウンドである。その後の二人の友情は必然であったと言える。なお、ミッキー・ウォードについては映画『 ザ・ファイター 』を参照されたい。

Jovianが観賞後、劇場のトイレから出てくると、60代と思しきシニアの面々6名ほどが、ホールウェイで感想を熱く語り合っていた。これから観る人もいるはずなので場所はもう少し選ぶべきなのだろうが、それでも実にでかい声で印象的な感想を述べてくれていた。以下、拾ってきた感想だが、いくつかを紹介する。

「いやあ、もう観てるうちにあの役者が本物のボルグに見えてきたで」

「マッケンローの人、よかったわあ」

「あの試合、やっぱり今でも覚えてるし、ホンマに凄かったなあ」

「コナーズ、ちょっとだけやったな」

「マッケンローの、あのえっちらおっちらのボレー、よう似てたわ」

分かる人には分かる感想であろう。我々はボクシングや野球、サッカーでも、もっとこうした上質のエンターテインメントたりうるドラマ映画を観たいのだ。

こうしたことは日本の映画界にも出来るはずだ。小説や漫画の映画化はそれ自体、作品やクリエイターの知名度アップや世界観の拡大、キャラクタービジネスの強化に繋がることではあるが、あまりにも画一的になりすぎてはいないか。広島カープの津田恒美をテレビ映画化した『 最後のストライク 』のような作品が、製作されねばならない。村山聖にフォーカスした『 聖の青春 』や『 三月のライオン 』、さらには『 泣き虫しょったんの奇跡 』(近いうちに観に行く)など、将棋や棋士をフィーチャーした作品は作られてきている。喜ばしいことである。ある意味で絶頂で引退したボルグに、大棋士・木村義雄を重ね合わせる人も多いに違いない。個人的には『 ミスター・ベースボール 』を上回るような野球人映画を期待したい。しかも実在の人間に焦点を当てて。間違っても『 ミスター・ルーキー 』のような珍品を作ってはならない。できるはずだ、日本映画界よ!

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, シャイア・ラブーフ, スウェーデン, ステラン・スケルスガルド, スベリル・グドナソン, スポーツ, デンマーク, ヒューマンドラマ, フィンランド, 監督:ヤヌス・メッツ, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』 -グラスコートで繰り広げられる極上のヒューマンドラマ-

『カメラを止めるな!』 -予備知識なしで、とにかく観に行くべき傑作-

Posted on 2018年8月20日2019年5月6日 by cool-jupiter

カメラを止めるな 85点

2018年8月19日 シネ・リーブル梅田にて観賞
出演:濱津隆之 真魚 しゅはまはるみ 竹原芳子 秋山ゆずき
監督:上田慎一郎

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とにかく予備知識無しで観に行ってほしい、というレビューや、口コミで静かに、しかし確実に広まっていく評判の良さに、観に行かねばと思いながらも、なかなかタイミングが合わなかった作品であった。しかし、やっとタイミングが合い、観に行くことができた。まず、びっくりしたのがシネ・リーブル梅田が超満員で立ち見チケットまで販売されていたということ。近年でここまで一つの劇場を埋めた作品というのは、いずれも東宝シネマズなんばにて『シン・ゴジラ』と『君の名は』ぐらいしかなかったように思う。観客が皆、ある種の期待を抱きながら、座席を一つまた一つと埋めていく予告編前のあの空気というのは、それこそ『シン・ゴジラ』前となると神戸国際会館で『もののけ姫』を観た時となるだろうか。とにかく、それほどの異様な熱気が確かに劇場に充満していた。実際に上映中、そこかしこから「わははは!」という笑いが聞こえてきた。これはユーモアやコメディ性から来る笑いというよりも、カタルシスから来る笑いなのである。何言っているのかさっぱり分からねーぞ、という向きはとにかく観るべし。メタメタにやられること請け合いである。

本作に関しては、ネタバレめいたことは一言たりとも発することができない。一部の劇場やポスターには、不要な一言が書いてあったりするが、とにかく前評判が高い作品であるということだけ頭に入れて、期待に胸を膨らませて観に行くだけで良い。Yahoo映画や映画.comのレビューなどは極力見ないように努めるべし。正鵠を射たレビューもあるが、一部とんでもなく的を外したレビューや、映画を観ているにもかかわらず、作品を観ていないとしか言えないようなレビューもある。そんな目が節穴の人間のレビューなどは絶対に目にするべからず。とにかくチケットを予約して劇場へGO!である。

かといって、何がどうなっているか少しぐらいは知りたいのが人情というもの。なので、本作を観賞した上でJovianの頭に浮かんだ作品を以下に白字で記すので、興味のある方だけ観て頂きたい。

                                                                                                                

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』および『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』

『ムカデ人間』および『ムカデ人間2』

『デットプール』および『デットプール2』

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

『The Disaster Artist』(日本では劇場未公開)

『地獄でなぜ悪い』

『雨に唄えば』

『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』

『ファンボーイズ』

『街の灯』

『ヒューゴの不思議な発明』

『ショーン・オブ・ザ・デッド』

『パルプ・フィクション』

『シックス・センス』

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』

『主人公は僕だった』

『ネバー・エンディング・ストーリー』

『クローバー・フィールド/HAKAISHA』

『クロニクル』

『ヴィジット』

 

ざっとこんなところだろうか。小説まで含めてしまうと、さらにこのリストが長くなるので割愛させて頂くが、人によってはこれだけでとんでもないネタバレになっていることに気がつくであろうし、筋金入りの映画オタクなら「いやいや、もっとアレやらコレもあるでしょ」と言えるのは間違いない。ひとつ言えるとすれば、この映画はゾンビ映画ではないということ。ホラーはちょっと・・・、スプラッタ要素はちょっと・・・、という向きにこそ自信を持ってお勧めしたい。

冒頭からのワンカット映像に、あなたはいくつも違和感を覚えるに違いない。その感覚を大切にしてほしい。また、一部のポスターやパンフレットには、エンドロールまで席を立たないでくださいという旨の注意書きがあるが、これはやや不親切な案内かもしれない。なぜなら、Jovianが観ていた夜にも、数名ではあるがエンドロール中に席を立ってしまった客がいたからだ。劇場が明るくなるまで観賞を続けてください、というのがあるべき案内文であろう。最後に、「映画を観てみたけど、いまいち理解できねーぞ」という方向けに、最後のネタバレ白字を。この映画は「映画を作っている人たちを撮影する映画を撮影している人たちが映画を作っている映画」である。Jovianが上で映画.comやYahoo映画の当てにならないレビューだと揶揄したのは、本作を「映画を作っている人たちを撮影した映画」であると見た人たちのことである。かの北野武は映画の面白さを「編集である」と言い切った。本作を観賞する/した人は、この言葉の意味をエンドロールまで全て見た時に噛みしめることができる/できたはずである。

最後に、上田慎一郎監督へ「おめでとう」と「ありがとう」と言いたい。今後、日本の高校や大学、インディ映画界で本作の模倣作品がどっさりと製作されるだろうと予想される。あなたは邦画に勇気とインスピレーションを与えてくれた。本当に本当にありがとう。

さて、このレビューにも白字以外でネタバレをしている箇所があることにお気づき頂けただろうか。作品を観ずに気がつくことは絶対ないだろうけれど・・・一応、ね。

 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, コメディ, しゅはまはるみ, 日本, 濱津隆之, 監督:上田慎一郎, 真魚, 秋山ゆずき, 笹原芳子, 配給会社:ENBUゼミナール, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『カメラを止めるな!』 -予備知識なしで、とにかく観に行くべき傑作-

『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』 -居場所を巡る闘争と逃走の青春物語 -

Posted on 2018年8月17日2019年4月30日 by cool-jupiter

志乃ちゃんは自分の名前が言えない 85点
2018年8月16日 シネ・リーブル神戸にて観賞
出演:南沙良 蒔田彩珠 萩原利久 渡辺哲
監督:湯浅弘章

これは『羊と鋼の森』に並ぶ、年間ベスト級の傑作である。このような映画が作られ、ミニシアターで公開されるということに忸怩たる思いと誇らしさの両方を抱く映画ファンは多いはずだ。一方には、マル秘面白映画を自分だけが知っているという独占感と優越感があり、他方には、なぜこのような良作が広く世に問われないのかという疑問や無念さがあるからだ。

大島志乃(南沙良)は吃音に悩み苦しむ高校一年生。クラス初日の自己紹介に備えて鏡の前でも登校途中の坂道でもぶつぶつと自分の名前を呟く。もうこの時点でただならぬ雰囲気が漂うのだが、第一のクライマックスは早くも教室内での自己紹介の時にやってくる。吃音で「お、おおっ・・・、おおおっ、おおし、しししっししし、」という感じで全くもって自分の名前を言うことができず、空気を読めない男子、菊池強(萩原利久)に馬鹿にされてしまう。もうこの時点でクラス内カーストの最下層に属してしまうことが決定するのだが、本作はそのような陰鬱な景色を直接に映し出すことはしない。他にもひょんなことから知り合うミュージシャンを目指す岡崎加代(蒔田彩珠)も、明らかにクラスに溶け込もうという努力を拒否してみせる。前述の菊池にしても、その無理やりなコミュニケーション方法が普通のそれとは異なるということを自己紹介の一瞬で描き切っている。つまり、この物語は集団に馴染めない、もっと言えば世界に居場所を確保できない者たちの物語なのだ。オープニングからタイトルバックまでのわずか数分で物語の導入を過不足なく描き切る。ナレーションが有効に作用するケースもあるし、ナレーション無しに映像と音声だけで観る側に伝えきることが難しいテーマというのは確かにある。前者である程度の成功を収めているものには『図書館戦争』や『孤狼の血』があるが、映画の本領は映像と音声にあるということを再認識させてくれたという意味で、本作には最初のシークエンスから心を掴まされ、ぐいぐいと引き込まれた。

吃音と言えば誰もが思い浮かべるのが『英国王のスピーチ』だろう。コリン・ファース一世一代の演技が堪能できる傑作である。吃音は、おそらく小学校ぐらいの頃には1~2クラスに一人ぐらいはいたのではないか。実際にJovianの周りにも2人いた。が、問題は吃音を持つ彼ら彼女らが自身をどう受け止めるか、ということなのだ。そして、吃音はリラックスして解決もしくは軽減できるものでは決してない。そういう意味で、冒頭で登場してすぐに消えていく担任の先生は非常に罪深く、それゆえに志乃の世界には二度と出てこなくなるのも当然のことだ。Jovianの身近に2人いた吃音者の一人は進学と共に別れ、もう一人の幼馴染はカラオケで吃音を克服した。このエピソードは鬱病から最近復帰した棋士・先崎学にも共通しており、彼は田中角栄に倣って浪曲で吃音を克服したようだ。

加代と知り合った志乃は、隠し持っていた強引さで加代にギターを弾き、歌うようにせがむのだが、加代の天性とも言える音痴さに失笑してしまう。加代は志乃の吃音を決して笑わなかったのに。このあたりは本当に難しいところで、青春時代だけではな青年壮年中年老年になってもつきまとう問題だ。なぜなら何が人を傷つけ、何が人を傷つけないのかは誰にもわからないからだ。それゆえに孔子は「己の欲せざる所は人に施す勿れ」と説いたのではなかったか。この後、志乃は加代のピンチに思わぬ形で介入するのだが、その時の演技は特筆大書に値する。鼻水をタラーリと垂らす渾身の演技を見せるのだ。加代はしかし、無条件に志乃を赦したりはしない。吃音を「言い訳できる逃げ場所」と指摘し、志乃の抱える問題を鋭く抉りだす。この点については後述する。

なんだかんだでバンドを組むことになった二人は、路上デビューも果たす。その時に二人に接する掃除のおっちゃん(渡辺哲)が良い味を出している。世界は基本的に自分には無関心だと若い頃には往々にして思うものだが、そんな自分を見つめてくれる視線があるということを無言のままに教えてくれるのが、このおっちゃんなのだ。『シン・ゴジラ』における片桐はいりと同等の存在感を放っていた。その小さな世界に、菊池という闖入者が舞い込んでくることでその風景は一変する、少なくとも志乃にとっては。好きな歌手やCDについて言葉を交わす加代と菊池に、自分の居場所を侵害された、もしかするとそれ以上に、自分の存在価値=バンド仲間、音楽について語り合える、高め合える仲間としての意義を傷つけられた、またはそんなものはそもそも無かったのだと思い込まされた志乃の心中は察して余りある。志乃が本当に疎外を感じているものの正体の一端がここで明らかになる。吃音は、そのものの一側面に過ぎない。ここでフリッツ・パッペンハイムの言葉を引用する。「人間が自分が当面している決断を避けようとしている場合には、人間は、ほんとうは、自分自身の自我から逃げようとしているのである。人間は逃げることのできないもの……、自分があるところのもの……から逃げようとしているわけである」(『近代人の疎外』)。

自分自身から逃げる志乃を見る我々には、THE BLUE HEARTSの『青空』が聴こえてくる。志乃はバスにも乗れないのだ。行き先ならどこでも良いわけではなく、行く先々に自分がいるのだ。そんな志乃と加代が最後に至った境地とは・・・ アメリカのテレビドラマでは80年代が花盛りだが、日本では90年代がノスタルジーの対象であるようだ。作り手側の力あるポジションがその世代に移行してきたことの表れであろう。そうした潮流の一つとして本作や『SUNNY 強い気持ち・強い愛』があるのだろう。劇中で最も歌われる歌に『あの素晴しい愛をもう一度』がある。「同じ花を見て美しいと言った二人の心と心が今はもう通わない」のか。それとも「もう一度」があるのか。それはレンタルもしくはネット配信で是非とも確かめてみてほしい。

一つだけ大きな減点要素を挙げるとすれば、それはカメラワーク。自転車のとあるシークエンスに手ぶれは完全に不要だった。その他、細かい点ではあるが、砂浜に文字を書くシーンの陰鬱さと海の開放的な明るさを対照的に映し出したかったのだろうが、光の度合いが少し強すぎると感じるシーンもわずかながらあった。しかし、これら重箱の隅をつつくような粗さがしか。

主演の南沙良は、ついに広瀬すずや土屋太凰を駆逐してしまうかもしれないようなポテンシャルを感じさせる本格派である。音痴であることを見事な歌唱力で表現しきった蒔田彩珠は、その容貌も相俟って第二の門脇麦であると評したい。鼻につくほどのうざさを発揮した萩原利久は、『帝一の國』もしくは『虹色デイズ』に出演しても普通に違和感なく解け込めてしまえそうな存在感だった。今後この3人を使った映画が陸続と生まれてくることが容易に予想される。

同じ『 あの素晴らしい愛をもう一度 』を楽曲に使った邦画としては『 ラブ&ポップ 』がある。共に1996年と1998年あたりの世相を抉りながら、自分というものの最大の存在意義が、女性性と貨幣の交換にあると信じ込んでしまった女子高生(たち)の物語だ。携帯電話がまったく一般的ではなく、映画を観ようと思い立った時には新聞や雑誌の映画・劇場情報欄の細かな文字を追いかけなければならなかった時代。そんな時代を背景に生きる志乃ちゃんの物語は、きっと多くの人の胸に突き刺さるに違いない。

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, ヒューマンドラマ, 南沙良, 日本, 監督:湯浅弘章, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』 -居場所を巡る闘争と逃走の青春物語 -

『プラダを着た悪魔』 -何かを手に入れるだけがサクセス・ストーリーではない-

Posted on 2018年8月8日2019年4月26日 by cool-jupiter

プラダを着た悪魔 80点

2018年8月1日 DVD鑑賞
出演:メリル・ストリープ アン・ハサウェイ エミリー・ブラント スタンリー・トゥッチ
監督:デビッド・フランケル

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恥ずかしながら10年ぐらいDVDを寝かせたままにしておいたのだが、遂に鑑賞した。非常によくできた話で、『ブリジット・ジョーンズの日記』と並んで世界中の女子の支持を得るのもむべなるかなと思う。

ライター志望のアンドレア・サックス(アン・ハサウェイ)は、全世界のお洒落女子垂涎のポジション、すなわちファンション誌『ランウェイ』編集部に就職を果たす。しかし、そこには鬼編集長のミランダ・プリーストリー(メリル・ストリープ)がおり、アンドレアは押し寄せる仕事量と小言と嫌味と無理難題に振り回されていく。同僚のエミリー(エミリー・ブラント)やナイジェル(スタンリー・トゥッチ)らと共に働く中で得るものは大きかった。しかし、私生活では失われるものもあり、アンドレアの人生は大きな岐路を迎えることとなる・・・

 あらすじだけ見ればありふれた話に思えるし、実際にありふれている。しかし、10年以上前の映画ということを考えれば、そうした見方を変えざるを得なくなる。フェミニズム理論というものがある。『センセイ君主』に見られた間テクスト性の提唱者の一人でもあるジュリア・クリステヴァも、そうした理論の構築に大きく寄与している。主に文学の分野での運動だったが、これは何かと言うと、神話やおとぎ話を現代の視点から読み解き、さらにはフェミニズムの観点から読み替えようという試みである。脱構築という言葉は、文系学生である/だったという人であれば聞いたことはあるだろう。すでに完成された、静的とされるものを一度壊して再構築する試みである。おそらく一番分かり易いテキストはエマ・ドナヒューの『Kissing the Witch: Old Tales in New Skins』だろう。英語に自信のある人は読んでみよう。ちなみにドナヒューは、『ワンダー 君は太陽』でも喝采を浴びた天才子役ジェイコブ・トレンブレイの『ルーム』の原作者/脚本家でもある。

Back on track. これまでのエンターテインメント作品(小説や映画)はしばしば、女性を受け身の立場で描いてきた。男の主人公が奮闘し、最後には愛を告白し、ヒロインを抱擁し、キスして終わる。そんな映画を我々は前世紀に数限りなく観てきたし、また観させられもしてきたのである。おそらく映画史においてフェミニズム理論を最初に反映させたメジャーな作品は『エイリアン』シリーズ(リプリー)と『スター・ウォーズ』シリーズ(レイア姫)であろう。そうして蒔かれた種が、ある意味で一気に芽吹いたのが2000年代以降と言えるのかもしれない。分かり易い例を挙げれば『スノーホワイト/氷の王国』や『高慢と偏見とゾンビ』か。最も露骨なのは『ゴーストバスターズ』(2016年版)であろう。『ハンガー・ゲーム』シリーズや『バイオハザード』シリーズも当てはめていいかもしれない。男に助けられる女、麗らかに存在をアピールする女ではなく、自分の居場所を戦って勝ち取る者である。単に主人公が女性であるというだけではダメである。そうした意味では、実は『ブリジット・ジョーンズの日記』は古いタイプの物語だったのである!

本作のアンドレアはファッションセンス、人も羨む仕事、友情や恋人、背徳的な関係など、ある意味では全てを手に入れるキャリアー・ウーマンに成長する。ブルゾンちえみの提唱するキャリアウーマンとはかなり趣の異なる強かな女性である。しかし、最後には手に入れたものをあっさりと捨ててしまうという“自由”を手に入れる。女性の成功の陰にはよき理解者の男がいたという批判を一部で浴びたのが『ドリーム』であるが、それは時代がもっともっと昔のことであるから、批判しても詮無いことである。本作はメリル・ストリープという大御所とアン・ハサウェイという(当時の)Rising Starのケミストリーによって、映画史の一つの大きなマイルストーンになった。今までなんだかんだで本作を観てこなかった我が目の不明を恥じ入るばかりである。

Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, A Rank, アメリカ, アン:ハサウェイ, エミリー・ブラント, ヒューマンドラマ, メリル・ストリープ, 監督:デビッド・フランケル, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『プラダを着た悪魔』 -何かを手に入れるだけがサクセス・ストーリーではない-

『サニー 永遠の仲間たち』 -止まっていた時間が動き出す、韓流青春映画の傑作- 

Posted on 2018年8月2日2019年4月30日 by cool-jupiter

サニー 永遠の仲間たち 80点

2018年8月9日 レンタルDVD観賞
出演:シム・ウンギョン/ユ・ホジョン カン・ソラ/ジン・ヒギョン キム・ミニョン/コ・スヒ パク・チンジュ/ホン・ジニ ミン・ヒョリン ナム・ボラ/イ・ヨンギョン キム・ボミ/キム・ヨンギョン
監督:カン・ヒョンチョル

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イム・ナミは母としても主婦としても忙しい生活を送る42歳。夫は稼ぎもよく生活に不自由は無かった。しかし、義母の入院先で高校時代の親友にしてチーム「SUNNY」のリーダー、ハ・チュナと思わぬ再会を果たす。チュナは余命2カ月、最期にSUNNYのメンバーと出会って死にたいとナミに伝える。そんな時、ナミの夫から急きょ、2か月の出張に出るとの電話が。これを僥倖とナミは探偵を使って、かつてのメンバーを探し始める。止まっていた時が動き始める・・・

1970~1980年代の洋楽ヒットナンバーに乗って云々と喧伝されているが、フランス映画『ラ・ブーム』への言及あり、ソフィー・マルソーへの言及あり、ロッキーⅣの巨大広告あり、独裁政権打倒のデモあり、音楽喫茶での耽溺風景ありと、時代を彩る要素であれば、何でもぶち込まれているのであり、時代と権力による抑圧からの逃避に音楽と踊りがあったとすれば『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ・アディオス』の冒頭で語られたようなキューバ独立と音楽の意外な(ある意味では当然の)関係を見出すこともできるし、『無伴奏』のような時代はお隣にもあって、そこで輝く少年少女もいたんだなと思うこともできる。しかし、この映画の魅力はそうしたところにあるのではなく、むしろそうしたエンターテイメント的に分かりやすい要素を全て除去したとしても、一つの感動的なストーリーとして成立するであろうというところだ。

主題は17歳の青春と友情だが、その奥に潜むテーマはそんなキラキラと輝くものではなく、もっと暗くドロドロとした、人間が生きる上で避けては通れない世の暗部とでも言うべき物にどのように立ち向かうのか、である。この辺の解釈は人によって分かれるだろうし、2度、3度と観賞していくことで物語の異なる面や層が見えてくるかもしれない。都市と地方の格差、容貌の格差、貧富の格差、生徒同士のいじめや教師による体罰まがいの対応、姑の嫁いびりなど、人生やこの生活世界において、全く美しくない部分が生々しく映し出される。しかし、それこそが我々が目を逸らしてはならないもので、その究極の対象は「死」である。かつての仲間の死が目前に迫った時、その仲間に贈ることができるものは何であるのか。それは「あなたは確かに生きていたし、これからも私たちの心の中で生き続ける」というメッセージであるということを本作は力強く宣言する。このあたりはどこか『焼肉ドラゴン』を思わせる。家族=何があっても離れない小さな共同体、のようなイメージを拡大再生産するだけの作品が溢れる中、家族=離散しなければならないもの、と捉え直したところが新しかった。同様に、友情にも排除の論理がある。それを正面から描く作品というのは存外に少ないのではないか。最近だと『虹色デイズ』が近かったか。何を言っているのか分からん、という人は是非本作を観よう。

日本版リメイクが劇場公開間近だが、上述したように本作の魅力は、音楽の要素を全て取り除いたとしても面白さを保っているであろうという点にある。今さら祈っても手遅れなのだが、それでも大根仁監督が小室サウンドを前面に押し出し過ぎない作品に仕上げてくれていることを祈るしかない。

この映画は冒頭から自虐的なシーン連発で笑わせてくれる。韓国ドラマのワンシーンが一瞬ずつ映し出されていくのだが、「僕たちは兄妹なんだ」、「不治の病なのか」などの韓国ドラマの様式美とも言えるシーンの切り貼りで、画面内の全ての人たちが呆れてしまうシーンがある。カン・ヒョンチョル監督は「この映画は普通の韓国映画・ドラマとは一味違いますよ」と作中で堂々とメッセージを発信しているのだ。この時点で「傑作に巡り合えた」との印象を受けたが、その感覚は裏切られなかった。生きるとはどういうことか。息をして心臓が動いているから生きているわけではない。生きるとは、必死になることだ。考えてみれば、必死とは凄い言葉だ。必ず死ぬ、死亡率100%というわけだ。しかし、哲学者ハイデガーの言葉を借りるまでもなく、我々はあまりにも死を意識することなく頽落している。生きる意味を見失いがちな現代人、特に30代40代50代には自信を持ってお勧めできる、韓流傑作青春映画である。

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, シム・ウンギョン, ヒューマンドラマ, 監督:カン・ヒョンチョル, 配給会社:CJ Entertainment Japan, 韓国Leave a Comment on 『サニー 永遠の仲間たち』 -止まっていた時間が動き出す、韓流青春映画の傑作- 

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