ワイルドローズ 70点
2020年6月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ジェシー・バックリー ジュリー・ウォルターズ ソフィー・オコネドー
監督:トム:ハーパー
『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』のトム・ハーパー監督と『 ジュディ 虹の彼方に 』でジュディ・ガーランドのマネージャー役を演じたジェシー・バックリーが送る本作。英国は世界的なミュージシャンを生み出す土壌があり、それゆえに実在および架空の音楽家や歌手にフォーカスした映画も多く生み出されてきた。本作もそんな一作である。
あらすじ
ローズリン・ハーラン(ジェシー・バックリー)は刑務所あがり。カントリー歌手になる夢を追い続けるため、かつて働いていたクラブに出向くも、そこにはもう自分の居場所はなかった。ローズリンはシングルマザーとして生計を立てるために、母(ジュリー・ウォルターズ)の紹介で資産家のスザンナ(ソフィー・オコネドー)の家で掃除人としての職を得るが・・・
ポジティブ・サイド
刑務所を颯爽と去っていくローズリンがバスの中で聞いているのは『 Country Girl 』。初めて聞く曲だったが、“What can a poor boy do?”の一節に、頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。これはローリング・ストーンズの名曲『 Street Fighting Man 』のサビの出だしの歌詞と全く同じではないか。ロンドンには俺っちみてえな悪ガキの居場所はねえんだ!と叫ぶ。最高にロックではないか。それのカントリー・ミュージック版ということか。また『 Country Girl 』のサビの締めが“Country Girl gotta keep on keeping on”というのも、『 ハリエット 』の『 Stand up 』の歌詞とそっくり。冒頭のこのシーンだけで一気にストーリーに引き込まれた。
昭和や平成初期のヤクザ映画だと、主人公が刑務所から出所してくると、まずは酒か、それともセックスかというのがお定まりだったが、この主人公のローズリンは日本の任侠映画文法を外さない。いきなりの野外セックスから子どもに会いに自宅へ、そのままかつての職場のクラブへ出向きビールで乾杯と来る。こうした女性像を気風がいいと受け取るか、未熟な大人と受け取るかで本作の印象はガラリと変わる。カントリー・ミュージックに傾倒する人間は、だいたいが現状に満足していない。自分はあるべき自分になっておらず、いるべき場所にいない。往々にしてそのように感じている。学校でいじめられていたという歌姫テイラー・スウィフトもカントリー・ミュージックに傾倒していたし、『 耳をすませば 』でも天沢聖司は自らの居場所をコンクリート・ロードの西東京ではなくイタリアに見出した。こうした姿勢はポジティブにもネガティブにも捉えられる。現状からの逃避と見るか、それとも向上心の表れと見るか。それは主人公ローズリンと見る側との距離感次第だろう。
『 ベイビー・ドライバー 』のベイビーさながらにヘッドホンをつけて音楽にのめりこみながら掃除機をかけるローズリンの姿は滑稽である。『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』でギターをかき鳴らして自分の世界に没入してしまうマーティーと同じようなユーモアがある。一方で、現状を打破するための行動が取れない。自分には才能がある。歌っていればチャンスがやって来る。それは古い考えである。作曲家の裏谷玲央氏は「今は作曲家は音楽だけ作っていればいい時代じゃないですよ、プロデューサーも兼ねないと」と言っておられた。至言であろう(作曲家を「英語講師」に、音楽を作るを「英語を教える」に置き換えても通じそうだ)。セルフ・プロデュースが必要な時代なのである。そこで重要な示唆を与えてくれるスザンナが良い味を出している。『 ドリーム 』(原題: Hidden Figures)でも、NASAおよびその前身組織で活躍した女性の影には有力な男性サポーターがいたという筋立てになっていたが、本作でローズリンを支えるのは女性ばかりである。男はバックバンドのメンバーやセックスフレンドである。これは非常にユニークな作りであると感じた。『 ジュディ 虹の彼方に 』ではシングルマザーで仕事もろくに無いジュディを支えたのは市井の名もなき男性ファンたちだったが、紆余曲折あってナッシュビルにたどり着いたローズリンは、コネになりそうな出会いを紹介してくれるという男性の誘いをあっさりとふいにする。「え?」と思ったが、彼女の行動や思想はある意味で首尾一貫しているのである。
『 ジュディ 虹の彼方に 』と言えばジュディ・ガーランド、ジュディ・ガーランドと言えば『 オズの魔法使 』、そのテーマはThere’s no place like home.ということである。黄色いレンガの道を辿っていけばエメラルド・シティーにたどり着けるかもしれない。けれども、本当にカンザスに帰るためには自分が真に求めるものを強く心に思い描かなければならない。ともすれば子どものまま大人になったように見える自己中心的で粗野で卑近なローズリンであるが、彼女が最後にたどり着いた場所、そして歌にはそれまでの彼女の姿を一気に反転させるようなサムシングがある。これは究極的には母と娘の物語であり、positive female figureによって少女から女性へと成長するビルドゥングスロマンでもある。ジェシー・バックリーの歌唱力は素晴らしいとしか言いようがない。音楽とストーリーがハイレベルで融合した良作である。
そうそう、劇中でJovianが物心ついた時から聴き続けて、今も現役のRod Stewart御大の名前も出てくる。スコットランド出身の大物と言えば、Jovianの中ではロッド・スチュワートとジェームズ・マカヴォイなのである。
ネガティブ
ローズリンのキャラクターが過剰に就職されているように感じた。間抜けなところはいい。許すことができる。ロンドン行きの高速列車内で上着とカバンを置きっぱなしにして結果的に紛失または盗難被害に遭うわけだが、それは彼女のドジである。そしてドジとは時に愛嬌とも捉えられる。一方で掃除人として雇ってもらっている家の酒を勝手に飲むのは頂けない。これはドジや間抜けで説明がつく行動ではない。囚人仲間や看守、守衛たちから“Don’t come back.”と言われ、意気揚々とシャバに舞い戻ってきたというのに、白昼堂々と窃盗を働くとはこれ如何に。この辺で結構な人数のオーディエンスが彼女に真剣に嫌悪感を抱き始めることだろう。高いワインの瓶を落として割ってしまったぐらいで良かったのだが。
母と娘の距離というテーマでは『 レディ・バード 』の方が優っていると感じた。車を運転することで初めて見えてくる世界がある。自分が大人になった、社会の一員になったと感じられる一種の儀式である。レディ・バードはここで母親の視点を初めて追体験する。それが強烈なインパクトで彼女に迫ってくる。本作におけるローズリンの改心というか、人間的な成長にもとある契機があるのだが、その描き方にパンチがなかった。ベタな描き方(かつ微妙なネタバレかもしれないが)かもしれないが、ナッシュビルでたまたま立ち寄ったベーカリーのおばちゃんの仕事っぷりがあまりにもプロフェッショナルだったとか、もしくは親子で楽しくピザを頬張る光景をピザ屋で見ただとか、なにかローズリンのパーソナルな背景にガツンと来るような描写が欲しかった。
総評
音楽映画のラインナップにまた一つ、良作が加わった。これまでの女性像をぶち壊す、力強い個人の誕生である。『 母なる証明 』の母や『 ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語 』の四姉妹ように、ステレオタイプを打破する力を与えてくれる作品である。ただし、自力でキャリアを切り拓いてきたという独立不羈の女性は本作のローズリンを敵視するかもしれない。なぜならJovianの嫁さんは全く物語にもキャラクターにも好感を抱いていなかったから。デートムービーに本作を考えている男性諸氏は、パートナーの背景や気質についてよくよく熟慮されたし。それにしても英国俳優の歌唱力よ。『 ロケットマン 』のタロン・エジャートンも素晴らしかったが、ジェシー・バックリーはそれを上回る圧巻のパフォーマーである。
Jovian先生のワンポイント英会話レッスン
out of place
場違い、状況にふさわしくない、という意味。エンドロールで流れる“That’s the view from here”の冒頭で
Wear this, don’t wear that, don’t step out of place
Just smile, don’t say too much, put that makeup on your face
Just keep pretendin’ you’re having a good time
‘Cause that’s the price of fame when you’re standing in the line
という歌詞がある。文脈からしてstep out of place = 場違いな行動に出る、だろう。残念なことに字幕では「外に出るな」と訳されていたが、これは明確に間違い。訳す時はまず全体像を見て、意味を類推し、それから辞書を引くべきである。ここでは最後の部分のstand in the lineとstep out of placeが意味上の対比になっていることが分かる。列に並ぶ=秩序に従う、列から出る=秩序を乱す。普通はstep out of lineと言うことも多いが、step out of placeという用法も少数ながら見つかった。また同僚のカナダ人にも確かめている。