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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 配給会社:東宝

『 スマホを落としただけなのに 』 -スマホという楔は人間関係を割るのか繋ぎ止めるのか-

Posted on 2018年11月5日2019年11月21日 by cool-jupiter

スマホを落としただけなのに 40点
2018年11月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:北川景子 田中圭
監督:中田秀夫

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181105012648j:plain

原作とほんの少しだけ異なるところもあれば、大胆な改変を加えたところもある。それらの変化を好意的に受け止めるか、それとも否定的に評価するかは、意見が分かれるところだろう。しかし、一つはっきりと言えることがあるとすれば、今作のトレーラーを作った人間は万死に値する・・・とまでは言わないが、はっきり言って猛省をしなければならない。これから本作を観ようと思っている人は、できるだけ予告編やトレーラーの類からは距離を取られたし。

 

あらすじ

富田誠(田中圭)は営業先に向かうタクシーにスマホを置き忘れてしまう。恋人の稲葉麻美(北川景子)が電話したところ、たまたまそのスマホを拾ったという男に通じ、横浜の喫茶店に預けるというので、ピックアップすることになった。しかし、その時から富田のクレジットカードの不正利用やSNSのアカウント乗っ取りなど、誠と麻美の周辺に不穏な動きが見られるようになる。時を同じくして、山中から黒髪の一部を切り取られた女性の遺体が次々と見つかり・・・

 

ポジティブ・サイド

犯人の怪演。まずはこれを挙げねば始まらない。少年漫画と少女漫画を原作に持つ映画が溢れ、役者というよりもアイドルの学芸会という趣すら漂う邦画の世界で、それでもこのような役者が出て来てくれることは喜ばしい。頑張れば香川照之の後継者になれるだろう。

 

童顔と年齢のギャップでかわいいと評判の千葉雄大もやっと少し殻を破ってくれたか。刑事として奮闘するだけではなく、序盤に見せた容疑者を鼻で笑う表情に、何かが仕込まれた、もしくは何かを背負ったキャラなのかと思わされたが、その予感は正しかった。役者などというものはギャップを追求してナンボの商売なのだから、もっともっとこのような演出やキャスティングを見てみたいものだ。

 

本作は観る者に、現代の人間関係がいかに濃密で、それでいていかに空虚で希薄なのかを思い知らせてくれる。ちょっとした録音メッセージ、メール、テキスト、スタンプなど、生身の触れあいなどなくとも、スマホを介在して何らかのコンタクトをするだけで、人は人を生きているものと考えてしまうことに警鐘を鳴らしている。この点について実にコンパクトにまとめているのが、THIS IS EXACTLY WHAT’S WRONG WITH THIS GENERATIONというYouTube動画である。英語のリスニングに自信がある、または自動生成の英語字幕があれば意味は理解できるという方はぜひ一度ご視聴いただきたい。

 

ネガティブ・サイド

原作小説と映画版では色々と違いが見られるが、その最大のものは麻美の設定であろう。はっきり言ってネタばれに類する情報なのだが、なぜかトレーラーで思いっきり触れられている。なぜこのようなアホなトレーラーを作ってしまうのか。そのトレーラーの北川景子も髪の長さが全く違って、なおかつ踏切の中に佇立するという、いかにもこれから死にますよ的な雰囲気を漂わせている。もうこれだけで、原作を既読であろうと未読であろうと、仕込まれた設定がほぼ読めてしまう。実際にJovianは観る前からこの展開の予想はできていたし、そのような人は日本中に1,000人以上はいたのではなかろうか。原作のその設定が映画的に活かしきれない、難しい、微妙だ、というのなら、その痕跡自体も消し去ってほしかった。なぜ冒頭のシーンで北川景子のキャット・ウォークをヒップを強調するカメラアングルで捉える必要があったのか。それは麻美がアダルトビデオに出演していた過去を持っていたからに他ならない。このあたりは中高生も注意喚起の意味で見るべき作品としての性格からか、全く別の設定に変えられているが、それなら痕跡すら残さず一切合財を変えてしまうべきだった。この辺りはエンディングのシークエンスでも強調されていることなので、なおのことそう思ってしまった。

 

また犯人像があまりにも分かりやす過ぎる。これも原作の既読未読にかかわらず、分かる人にはすぐ分かってしまう。もちろん、トリックらしいトリックを使う、いわゆるミステリとは異なるジャンルの作品なのだから、そこは物語の主眼ではない。しかし、驚きは最も強烈なエンターテインメントの構成要素なのだ。だからこそ我々は「ドンデン返し」というものに魅せられるのである。本作はこの部分が圧倒的に弱い。これはしかし、同日に『 search サーチ 』という近いジャンルに属する圧倒的に優れた作品を鑑賞したせいであるかもしれない。いや、それでも映画化もされた小説『 アヒルと鴨のコインロッカー 』というお手本であり、乗り越えるべき先行作品もあるのだから、そのハードルは超えて欲しかったが、本作はそのレベルにも残念ながら達していない。

 

総評

もっともっと面白い作品に仕上げられたはずだが、残念ながら原作小説以上の出来にはならなかった。時間とお金に余裕があるという人は、是非『 search サーチ 』と本作の両方を観て、比較をしてみよう。前者の持つ突き抜けた面白さが本作にはなく、極めて無難な映画になっていることに否応なく気付かされてしまうだろう。北川景子ファンならば観ておいても損は無い。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, サスペンス, ミステリ, 北川景子, 日本, 田中圭, 監督:中田秀夫, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 スマホを落としただけなのに 』 -スマホという楔は人間関係を割るのか繋ぎ止めるのか-

『 散り椿 』 -傑作に成り切れなかった作品-

Posted on 2018年10月16日2019年11月1日 by cool-jupiter

散り椿 50点
2018年10月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:岡田准一 西島秀俊 麻生久美子
監督:木村大作

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181016103251j:plain

散り椿

すっかりアイドル路線から俳優路線にシフトした岡田准一である。しかし、出身地である大阪府枚方市ではご当地ひらパー園長を務め、大真面目に面白おかしいひょうきん兄さんを演じる好漢でもある。ヒット作品もイマイチな作品も、岡田准一なのだからと妙に納得できる力をつけてきている。そして、出番こそ少ないものの麻生久美子である。『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』では男子高校生の欲情を微妙に、絶妙にそそる駐在妻を演じ、『 シーサイドモーテル 』では娼婦を、『 モテキ 』、『ニシノユキヒコの恋と冒険』、『 ラブ&ピース 』あたりでは幸薄い大人の女を演じるなど、常にそこはかとない色気を振りまいてきた麻生久美子である。これだけで映画の成功は半分は約束されていたはず、だったが・・・

 

あらすじ

剣の達人にして清廉の武士、瓜生新兵衛(岡田准一)は、藩の上層部の不正を届け出た。しかし調査の最中、ある藩士が殺害された。その下手人としての疑いが新兵衛にかけられたことで、新兵衛は、妻の篠(麻生久美子)と共に出奔。それから八年、篠の死を看取った新兵衛は、藩政の正道化を目指すかつての仲間にして出奔の原因ともなった榊原采女(西島秀俊)のいる国もとを訪れる。藩政の行方が懸かった権力闘争に、新兵衛も巻き込まれていく・・・

 

ポジティブ・サイド

殺陣の迫力と、その長回しでの収録には恐れ入った。西部劇にドンパチ対決がなくてはならないように、時代劇には必ず殺陣がなくてはならない。その殺陣を、編集の力を極力借りることなく一気に描き切り、撮り切ったことに、役者、照明、音声収録、カメラオペレーターらの苦労を思い知る。武士を描く、もしくはチャンバラを描く映画は定期的に生み出されるが、これほどしっかりとした時代劇は『 一命 』以来である。

 

岡田准一の存在感は相変わらず高いレベルで安定している。本来ならば馬を称えるべきなのだろうが、暴れ馬を一瞬で御してしまうシーンを冒頭に持ってくることで、新兵衛は単なる剣術馬鹿なのではなく、一廉の武士であることを明示した。これがあることで悪代官の権化のような石田玄蕃(奥田瑛二)と対峙しても、その格を保っていられる。また悪役側の雄たるべき新井浩文の役に対しても格上であることを観客に一瞬で知らしめた。これこそが映画の技法である。

 

篠の妹の里美(黒木華)や、新兵衛や采女の盟友の娘、美鈴(芳根京子)らの女優陣も作品に落ち着きと生活感をもたらしている。『 クレイジー・リッチ! 』でも顕著であったが、ある特定の地域や時代、もしくは家庭や生活の背景を物語る際に、家政のシーンを描写するというのは非常に効果的である。もしくは『 万引き家族 』を思い出しても良いだろう。あのごちゃごちゃした空間は、生活レベルの低さ、貧しさを言葉ではなく映像で如実に説明した。本作も里美が忙しなく動き回るシーンをいくつか挿入することで、新兵衛が帰ってきた藩、そして家に生活感があることが感じられる。最愛の妻を亡くした新兵衛が、落ち着いて逗留できる場所を見つけられたことの新兵衛の安堵の気持ちを、縁側のシーンで鮮やかに描き切った。これもまた映画の技法である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、指摘しておかねばならない弱点もある。物語が余りにも特定の人物の周辺だけで展開されている。農民のために新田を開墾するというのなら、武家の坂下家だけではなく、ほんの数ショット、時間にして20秒で良いので藩の農民の生活ぶりを映し出す必要があったと思う。それがあれば、後半の殿の江戸からの帰還の重みと采女の心情と信条の強さがより際立ったであろうと思う。

 

もう一つ残念なのは、後半に颯爽と登場する殿がデウス・エクス・マキナになるのかと期待させながら、狂言回しにすらならないことだ。また石田玄蕃の終盤での行動の必然性が分からない。何故あそこで、このキャラクターを狙ったのか。それは玄蕃の思惑というよりも作者の思惑だ。物語を進め、ドラマを盛り上げたい以上の意図が読み取れない事件が発生するのである。ここから本作は一挙に陳腐化する。水戸黄門であれば印籠を出して最後にシャンシャンで済むわけであるが、本作はテレビドラマではなく、小説を基にした映画である。殺陣の迫力のみでクライマックスを押し切ってしまうのは大したものと言えなくもないが、悪役の玄蕃の言動や行動原理が首尾一貫せず、また死に様にも美しさが無い。もっと陳腐な死に方でよいのだ。結局は小物だったのだから。もしくは福本清三や、あるいは斬られ侍の藤本長史が決して出来ない(してはならない)顔芸で死んでいっても良かった。クライマックスに至る過程とその決着の必然性と美しさの欠如が、本作から大きく減点しなくてはならない要素になってしまっている。

 

最後にもう一つ細かい点を追加するなら、雪のシーンは何とかならなかったのだろうか。黒と白のコントラストは映画館では特に映えるものだが、そこに映像美以外のものが込められていなければ、それは製作者の自慰に過ぎない。手を血で染め、愛する人もなくし、友を支えることもできずに悶々とした日々を過ごして新兵衛と、前途に洋々たる希望を抱く若武者の坂下藤吾(池松壮亮)が対比されるシーンがあったが、これで良いのだ。逆にオープニング早々の雪がしんしんと降るシーンは画としては美しくとも、映画としては失敗であると断じさせていただく。

 

総評

時代劇というのは年々難しくなっているジャンルである。水戸黄門すら打ち切られて久しい。今後も戦国時代をパロディ化した原作を基に映画を作るというトレンドは続くと思われるが、本格的な時代劇映画の再興は遠いと思われる。が、岡田准一、西島英俊というキャスティングからも、製作者たちは本作をカジュアルな女性ファンにも届けたいと願っているのは明白である。そうした層に向けてのヘビーな絵作り、ライトな物語というのであれば、納得できないことはない出来である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, 岡田准一, 日本, 時代劇, 監督:木村大作, 西島秀俊, 配給会社:東宝, 麻生久美子Leave a Comment on 『 散り椿 』 -傑作に成り切れなかった作品-

『コーヒーが冷めないうちに』 -無数の矛盾とパクリに満ちたお涙ちょうだい物語-

Posted on 2018年10月7日2019年8月24日 by cool-jupiter

コーヒーが冷めないうちに 25点

2018年10月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:有村架純 石田ゆり子 伊藤健太郎 波瑠 林遣都 深水元基 薬師丸ひろ子 吉田羊 松重豊房 
監督:塚原あゆ子

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 *以下、ネタばれに類する箇所は白字表記

 まず広報担当者に文句を言いたい。「4回泣けます」とは一体何のことなのか。これで泣けるのは、元から相当に涙腺が弱いか、もしくは「涙を流してさっぱりしたい!」という強い欲求を持っている人ぐらいだろう。つまり、純粋に物語の力で観客を泣かせる力を有した作品ではなかった。いや、勘違いしないでいただきたい。泣ける映画というのは確かに存在する。しかし、泣くという行為は「受動的な泣き」と「衝動的な泣き」の二つに大別される。つまり、前者はもらい泣きで、後者は主に悔し泣きや嬉し泣きである。本作の宣伝文句の「4回泣けます」が「4回もらい泣きできます」なら、それはそれで良い。Jovianの心の琴線には触れなかったが、そういう意味で泣ける人は確かに存在するだろう。しかし、そうした映画は、作品としてのクオリティは決して高くない。

 喫茶店フニクリ・フニクラで働く時田数(有村架純)が、特定の席に座ったお客さんに特定のタイミングでコーヒーを淹れると、そのお客さんは強く思い描いた時に行くことができる。しかし、それはコーヒーが冷めるまでの間だけ。他にも様々な条件があり、実際にそれを試すお客は少ないのだが・・・

 まず、タイムトラベルものというのは、何をどうやっても矛盾が生まれるものだ。そういうジャンルなのである。であるからして、SF的な要素は一切排除し、これはファンタジーなのですよ、という姿勢を冒頭から鮮明にする点は評価できる。何と言ってもフニクリ・フニクラである。鬼のパンツなのである。我々がよく知っているはずのものが、本当はこういうものでした、と思わせるインパクトを十分持っている。またヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』やミヒャエル・エンデの『モモ』といった小道具も、物語のforeshadowingとして機能している。こういう、分かる人には分かるものを挿入するのは、サービス精神の表れとして評価したい。が、もう少しダイレクトさに欠けるものは見つからなかったのだろうか。まあ、プルーストの『失われた時を求めて』でなかったから、これはこれで良いのだろう。

 Back to the topic. 時間移動には常にパラドクスがつきまとう。本作も例外ではなく、最も???となったのは、認知症の妻の手紙を持ち帰れてしまったことだ。次に???となるのは、蚊取り線香のシーン。灰になってしまった部分が過去、今じりじりと燃えているところが現在、これから燃えるところが未来、という過去の不可逆性を強く印象付けるシーンだったはずが、その後のちゃぶ台返しで・・・???ちょっと待て。未来の数の娘の力を使って、数を過去に送り込むというのは、未来視点、いや未来支点と言うべきか?からすると、過去の改変にならないのか。新谷の言う「明日の開店前の8時にお店に来てほしい」は予言ではないのか。何故その時間に幽霊が席を空けると知っていたのか。というよりも、未来の未来が数を送り込む過去が、現在の時間線と一致することが何故分かるのか。その線で考えると、何をどうやっても変えられないのは過去ではなく未来になってしまわないか。また。時田の娘の定義は何なのか。伯父の娘でもOKになるのなら、家系図を引っ張り出してきて、五代前のご先祖様ゆかりの血筋に全て当たるべきだろう。というか、5代前だと、ざっくり見ても100~120年前になるが、その時からフニクリ・フニクラの指定テーブルは存在したのか。日本におけるコーヒーの歴史とは合致するが、では初代はどの過去にどのようにして人を送り込んでいたと言うのか。とにかく、タイムトラベルものの矛盾がこれでもかと噴出してくる作りで、そういったところを気にしてしまう人は絶対に本作を観るべきではない。ゲーム『ファイナルファンタジーⅧ』のエルオーネの能力、森博嗣の小説『全てがFになる』の密室トリック、法条遥の小説『リライト』、漫画『どらえもん』の「やろう、ぶっころしてやる」エピソードから丁重にアイデアを拝借し、その全てごちゃ混ぜにした挙句、ちんぷんかんぷん物語に仕立て上げてしまったようにしか思えない。松重と薬丸の芝居だけしか見られるものがない。珍品に興味がある、という向きにしかお勧めできない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 有村架純, 監督:塚原あゆ子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『コーヒーが冷めないうちに』 -無数の矛盾とパクリに満ちたお涙ちょうだい物語-

『 ゲド戦記 』 -父殺しを果たせず、端的に言って失敗作-

Posted on 2018年9月22日2020年2月14日 by cool-jupiter

ゲド戦記 15点

2018年9月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:岡田准一 手嶌葵 菅原文太 田中裕子 香川照之 風吹ジュン
監督:宮崎吾朗

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冒頭から、息子による父殺しが行われる。文学の世界においては、父親殺しはオイディプス王の頃から追究される一大テーマである。吾朗は、駿を殺す=乗り越えると、高らかに宣言している。そしてそれは失敗に終わった。それもただの失敗ではない。悲惨な大失敗である。

凶作や英奇病に苦しむ王国の王子アレン(岡田准一)は、父王を殺し出奔する。その途上、大賢人ハイタカ(菅原文太)に巡り合い、世界の均衡を崩す要因を追究する旅に同行する。そして、テルー(手嶌葵)とテナー(風吹ジュン)と邂逅しながらも、人狩りのウサギ(香川照之)やその主のクモ(田中裕子)との争いにその身を投じていく・・・

まず宮崎吾朗には、商業作品で自慰をするなと強く言いたい。『 パンク侍、斬られて候 』は石井岳龍の実験なのか自慰なのか、判別できないところがあったが、今作は完全に吾朗の自慰である。それもかなり低レベルな。それは原作小説の『ゲド戦記』の色々なエピソードを都合よく切り貼りしてしまっているところから明らかである。まずゲド戦記のすべてを2時間という枠に収めることは不可能である。であるならば畢竟、どのエピソードをどのように料理していくかを考えねばならないが、吾朗はここでハイタカとアレンの物語を選ぶ。少年と壮年もしくは老年の旅を描くならば、そのたびの過程そのものに父親殺しのテーマを仮託すればよいのであって、冒頭のシーンは必要ない。『太陽の王子 ホルスの大冒険』のように、いきなり狼の群れにアレンが囲まれるシーンに視聴者を放り込めばよいのだ。本作は父殺しをテーマにしているにも関わらず、アレンがハイタカを乗り越えようとする描写が皆無なのだ。影が自分をつけ狙うというのもおかしな話だ。影がハイタカをつけ狙い、隙あらば刺し殺そうとするのを、アレンが止めようとするのならばまだ理解可能なのだが。これはつまり、偉大なる父親を乗り越えたいのだが、結局は父の助力や威光なしには、自らの独立不羈を勝ち得ることはできないという無意識の絶望の投影が全編に亘って繰り広げられているのだろうか。

本作のアニメーションの稚拙さは論ずるに値しない。一例として木漏れ日が挙げられよう。『 耳をすませば 』でも『借りぐらしのアリエッティ』でも『 コクリコ坂から 』でも何でもよい。光と影のコントラスト、その自然さにおいて雲泥の差がある。別の例を挙げれば、それは遠景から知覚できる動きの乏しさである。ポートタウンのシーンで顕著だが、街の全景を映し出すに際しては、光と影から、時刻や方角、季節までも感じさせなければならない。随所に挿入される如何にも平面的なのっぺりとした画を、『もののけ姫』でも『風立ちぬ』でも何でもよい、駿の作品と並べて、比べてみればよい。その完成度の高さ、妥協を許さぬ姿勢において、残念ながら息子は父に全くもって及ばない。

はっきり言って、15点の内訳は香川照之の演技で15点、菅原文太の演技で15点、手嶌葵の演技でマイナス15点の合計点である。哲学的に考察すればいくらでも深堀りできる要素がそこかしこに埋まっている作品であることは間違いないが、吾朗はそれをおそらく自分の中だけで消化してしまっており、観る側がイマジネーションを働かせるような余地というか、材料を適切な形で調理することなく皿に載せて「さあ、召し上がれ」と言ってきたに等しい。こんなものは食べられないし、食べるにも値しない。ゆめ借りてくることなかれ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, F Rank, アニメ, ファンタジー, 岡田准一, 日本, 監督:宮崎吾朗, 配給会社:東宝, 香川照之Leave a Comment on 『 ゲド戦記 』 -父殺しを果たせず、端的に言って失敗作-

『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

Posted on 2018年9月18日2020年2月14日 by cool-jupiter

響 -HIBIKI-  50点
2018年9月17日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:平手友梨奈 北川景子 小栗旬 アヤカ・ウィルソン 高嶋政伸 柳楽優弥 野間口徹 吉田栄作
監督:月川翔

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180918020051j:plain

編集者の花井ふみ(北川景子)は、新人賞への応募作品に衝撃を受ける。著者は鮎喰響(平手友梨奈)、15歳の女子高生。その文才は、天才という言葉以外では名状しがたいものだった。しかし、響を響きたらしめるのは、その文才よりもむしろ、あまりにも直截すぎる対人関係スキルであった。すなわち、社会性の欠如である。響にとっての人間関係とは、常に個と個のつながり、もしくはせめぎ合いであるようだ。我々はついつい響のエキセントリックな行動の数々、なかんずくその暴力性に目を奪われてしまう。それは時に親友の凛夏(アヤカ・ウィルソン)や編集者のふみにも及び、女と女の仁義なき戦い、平手打ち合戦からピローファイトにまで発展する。その一方で、響は面白い作品を世に送り出す作家には、呼び捨てをしてしまうという社会性の欠如は見られるものの、自ら駆け寄り、無邪気な笑顔で握手を求めるという、年齢相応の行動を見せたりもする。それとは逆に、大御所であっても、名作を生み出す力を無くして久しい作家には敬意を表することはない。むしろ、ハイキックをお見舞いする始末である。

我々は彼女の行動に社会性の欠如をこれでもかと見出すが、その一方で社会性という言葉の持つ空虚さを響に見せつけられもする。その最たるものが、記者会見での謝罪要求を突っぱねるところだろう。暴行を加えた相手に個人的に謝り、相手もその謝罪を容れたのだから、これ以上誰に謝る必要があるのか?という理屈だ。蓋し正論であろう。現実の世界でも、芸能人や著名人、社会的に一定以上の地位にある人間が不祥事を起こした時には、謝罪のための記者会見がセッティングされる。日本人は根本的に謝罪が好きなのだ。そうした謝罪をフルに楽しむための映画には阿部サダヲ主演の『謝罪の王様』が挙げられる。もしくは謝罪会見のお手本中のお手本としては某大学のアメリカンフットボール部部員の例が挙げられよう。

Back to the topic. 社会性と我々が言う時、我々は結局、自分自身の意見を大多数の顔も名前も知らない他者たちに仮託しているに過ぎないことを、響は明らかにしてしまう。「○○○と感じる人もいると思いますが」、「中には□□□という意見もあるようですが」。これらは記者会見だけではなく、ネットの論説記事などでよく見られるセンテンスの類型である。≪editorial we≫と呼ばれる手法である。野間口徹演じる週刊誌記者に対して、響は相手の息子をある意味で人質に取るかのような発言をし、相手から譲歩を引き出す。人間は、社会的な肩書をひっぺがして、徹底的に個の部分を突いてしまえば、実は非常に弱く脆い生き物である。このことは小林よしのりがその著『ゴーマニズム宣言』において、川田龍平氏と厚労省の官僚の面談の場で、あまりにも非人間的な対応に業を煮やした小林は「あなたの子どもに、『お父さんは人殺しなんだよ』と伝えようか」と迫る。その時に初めて、官僚が人間の顔を見せたという一幕が描かれていた。響も記者から記者の皮を剥ぎ取り、人の親たる個の姿を引きずりだした。そうすることで初めて、自分も誰かの子であると相手に思い起こさせたわけだ。我々は人間関係において、相手という人間部分を見ず、相手の社会的な地位や属性にばかり目を向けたがる。大御所作家の祖父江秋人(吉田栄作)の娘の凛夏をデビューさせるところなど、まさにそうだ。大作家の娘にして現役女子高生という属性が話題を呼びやすいだろうという打算がそこにまず働いている。

異形、異能、異端。我々は天才あるいは社会の規範に収まりきらない才能をしばしば異類もしくは異種として扱う。天才だから突き抜けた存在になれるわけではない。逆で、我々は突き抜けた存在にしか天才性を見出せない。なぜなら、我々が金科玉条のごとく敬い奉る社会的属性を、天才はそもそも纏わないから。将棋の世界は天才だらけだが、名棋士列伝というのは、そのまま変人・変態列伝であったりもする。そのことは加藤一二三先生を見ればお分かり頂けよう。これは日本だけに当てはまる話ではなく、チェスのグランドマスターを列伝体で語るならば、それもそのまま西洋文明世界の奇人変人列伝となる。特に、ボビー・フィッシャーは『完全なるチェックメイト』で映画化されたが、彼の奇人変人狂人っぷりは伝記『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』に詳しい。

Back on track. 本作では本棚が重要なモチーフになっている。あるキャラクターが本棚の本を、ある法則でもって分類整理しているのだ。そのことを貴方はどう見るだろうか。本の面白さとその著者の人格は統合して考えるべきだろうか。それとも分けて考えるべきだろうか。気に入らないことがあればすぐに暴力に訴える女子高生の部屋に、年齢・性別相応のかわいいぬいぐるみがあることを、貴方はどう受け止めるべきなのだろうか。我々の思考は危険な二分法の陥穽にはまりがちだ。AはAであって、非Aではない。そう感じる我々に絶妙のタイミングで「動物園でキリンをバックに写真撮影するシーン」が訪れる。ここで我々は響は、その異能性にも関わらず、普通の女の子と何ら変わることのない属性を有していることを知り、愕然とする。天才とは突き抜けた存在ではなく、我々が勝手に敬して遠ざける対象であることを知るからである。思い出してほしい。響は、たとえそれがキックであれ握手であれ、舌鋒鋭い批評であれ友情の言葉であれ、常に自分から他者との関係の構築もしくは調節に動き出していた。社会性の欠如は、天才の側ではなく、天才に接してしまった凡人の中に生じるのだ。非常に回りくどいやり方ではあるものの、確かに我々は現実世界でもそのように振る舞っている。

本作の欠点をいくつか挙げさせてもらえれば、まず第一にキャラクターの弱さである。特に幼馴染っぽい男と文芸部に再入部してくれる不良は、マネキンのごとく、ただ突っ立っているだけのことが多かった。また、小栗旬のキャラクターが初めて登場するシーンで、PCで小説を執筆するシーンだが、あれは本当に文字を打っていたのか?それとも適当にキーボードをがちゃがちゃやっていただけなのだろうか?というのも、右手の小指がEnterや句点、読点の位置に全く来なかったように見えたからだ。もちろん、そういう可能性もある。小説家の奥泉光は、小説修業時代に、始めから終わりまでただの一文で書き切る小説や、地の分だけ、逆に会話文だけで完結する小説など、種々の制約を自らに課して物書きに励んだと言う。小栗も、そうした手法を用いていたのかもしれないが・・・ 最後に、直木賞や芥川賞に、現代それほどの価値が認められているだろうか?という疑問がある。又吉直樹の『火花』はそれなりに面白い小説および映画であったが、どう見ても私小説の域を超えていない。いや、ジャンル分けはどうでもよい。現代という、食べログや映画.comといった既存の権威(一部の評論家など)を破壊して、一般大衆の個々の意見を丁寧に拾い上げるシステムが構築され、一定の力を得ているようになった時代に、賞でもって作品の格付けをしようとすることそのものが天才と凡人を分ける思考そのものではないのだろうか。そして、今やネット上の民主的なシステムですら脱構築されようとしているのではないだろうか。そうした時代にあって、天才と向き合うことをテーマにした本作が発するメッセージは決して強いとは言えないだろう。本作を観ようかどうか迷っている向きは、こんなブログ記事の言うことなどあてにせず、「文句を言うなら観てからに」するように(台詞うろ覚え)。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, サスペンス, 北川景子, 小栗旬, 平手友梨奈, 日本, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

Posted on 2018年9月12日2020年2月14日 by cool-jupiter

累 かさね 70点
2018年9月9日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:土屋太鳳 芳根京子 浅野忠信 筒井真理子 生田智子 檀れい
監督:佐藤祐市

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180912022429j:plain

主人公もしくは主役級のキャラクターの容姿の醜さを主題に持つ作品は、古今東西で無数に生み出されてきた。戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を始め、小説およびミュージカルにもなったガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(ミュージカルは複数のバージョンがあるが、アンドリュー・ロイド・ウェバーのもの一択)、芥川龍之介の小説『鼻』の禅智内供、漫画の神様・手塚治虫の分身ともいえる猿田博士および系列のキャラ、百田尚樹作品の中でJovianが唯一評価している小説および映画『モンスター』、沢尻エリカの『ヘルタースケルター』、作者に目を向けるならば岡田斗司夫や本田透の自己認識も挙げられるだろう。今年の映画で言えば『ワンダー 君は太陽』を忘れてはならない。また『サニー 永遠の仲間たち』、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』にも、重要なモチーフとして現れるテーマであり、『デッドプール』のウェイド・ウィルソン、『美女と野獣』の野獣、『エレファント・マン』、『フランケンシュタイン』(ボリス・カーロフver)の怪物、漫画およびテレビドラマ『イグアナの娘』など、顔・容姿の美醜を扱う作品は数限りなく存在する。そこに、なんと“顔を入れ替える”というアイデアをぶち込んだ時点で、原作漫画のある程度の成功は約束されていた。『フェイス/オフ』のように、ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタの顔を入れ替えても、話は面白いかもしれないが、それが目の保養になるかと言えば、ならない。しかし、土屋と芳根の顔を入れ替えるのである。発想の勝利である。監督がこの原作を選んできたのは、この二人がキスをする画を撮りたかったからではないかとすら邪推する。

大女優の淵透世(檀れい)は死の前に、我が子の累(芳根京子)に顔を入れ替える不思議な力を持つ口紅を遺していった。顔に醜い傷を持つ累は、母譲りの天才的な演技力を有しながら、自分に対する劣等感を拭えないままに生きてきた。そこに羽生田釿互(浅野忠信)が現れ、丹沢ニナ(土屋太鳳)という美女ではあるものの演技力には欠ける女優の替え玉となる話が持ちかけられる。戸惑いながらも、ニナの顔を一時的に得ることで、周囲の人間の見る目が変わることを実感した累は、気鋭の舞台演出家の烏合零太(横山裕)の劇のオーディションにも見事に合格。ニナと累の二人は、奇妙な共犯関係を築いていく・・・

まず何と言っても、土屋太鳳が殻を破ったことを何よりも称えたい。山崎賢人が『羊と鋼の森』で殻を破ったのと同じ、あるいはそれ以上の飛躍が見られた。なぜなら、キャピキャピの、もしくは過度に大人しい女子高生役から遂に脱皮を果たしたからだ。後は有村架純が『ナラタージュ』で見せたような濡れ場シーン解禁を待つばかり・・・というのは冗談だが、それにしても「演じること」を演じるというのは、非常に難しいことだ。それを、プロット上でいくつか気になるというか無理な点はあるにしても、最後までやり遂げたことに拍手を送りたい。相対する芳根京子も、最初から顔が整い過ぎているのがチト気になるが、根暗な雰囲気だけではなく、対人スキルに問題を抱える、ある種の人間特有の挙動不審さ、表情や目線の不自然さまでを上手く表現できていた。この目立たないが、確かに累の者であると言える仕草や姿勢を体現したことが、一人二役、二人一役を実質は土屋太鳳が1.5人分を担っていたにもかかわらず、ダブル主演として売り出すことができ、なおかつ観る者もそれに納得できる最大の理由であろう。

容姿・容色に劣るものは内面まで劣るのか。それとも、心の内の美しさや清らかさは、外見とは無関係なのか。我々は往々にして、両者は反比例の関係にあるのだという風に、人の属性を画一的に断じてしまいたくなる。しかし、冒頭で述べたように、顔の美醜と内面の美醜は実に複雑な関係にあり、分類するとなると累はオペラ座の怪人の系譜に連なるキャラクターである。怪人はクリスティーヌへの思慕故に、シャニュイ子爵を殺そうとする。累も、烏合への想いを契機に、ニナの人生までも乗っ取ろうとする。これなどは、本田透が著作でたびたび言及するように、オタク的な生活と奇妙な相似形を為している。オタクは対人関係に障害を抱えるが故にキャラクターおよびキャラクター世界に没入する。累は、対人への劣等感故に、丹沢ニナという美少女キャラに没入する。自分ではないキャラクターを通じて何らかの世界と関わりを持つという点で、累は重度の「コミュニケーション不全症候群」に罹患していると見てよい。

そんな累を変えるのは、美しい顔を得ること以上に、顔ではなく内面に興味を抱いてくれる烏合の存在。どうせ誰も自分には話しかけてくれない、笑いかけてくれない、触ってもくれない、愛してもくれないし、抱いてもくれない。グリザベラだ。そんな思いに凝り固まった累を見る時に、我々は劣等感とは自分で自分を自分ではない者に貶める時に生じる感情であることを知る。劣等感とは幻想なのだ。現に、累の顔になっている時のニナは、周囲の目線など一切気にすることなく街を歩いていくし、芝居の稽古の現場にだって踏み込んでいく。こうした行動に、我々は清らかさを感じない。予告編にもあるのでネタバレに当たらないはずだが、ニナは累に「私はアンタみたいに中身まで醜くないから」と言い放つ。しかし、物語前半のニナはどこからどう見ても醜い内面の持ち主で、それがほんの些細な言動や表情に表れる嫌な女の典型だった。優越感も、実際に他者よりも優れているから得られるわけではなく、これまた幻想なのだ。

顔を入れ替えることで、浸食されていくニナの人生。同時に、累の思考や行動にも変化が生じるが、それらは決して気持ちの良いものではないことだけは言っておかねばならない。これは決して醜いアヒルの子のようなおとぎ話ではないのだ。それでも、『不能犯』とはまた異なる方向で、このようなダークストーリーが産生されることには大きな意味があるし、あまりにも典型的かつ定型的な漫画ばかりが映画化されるこのご時世に、大きな楔を打ち込む作品がもっと生み出されるべきなのだ。昨年、カナダ旅行に行った時に、現地の子供向けアニメの主人公が補聴器を使う女の子だったことにビックリしたことを覚えている。それだけではなく、その壊れた補聴器を修理してくれる人は義足を嵌めていた。障がいも個性。そうした考えに日本が追いつくのには今しばらくの時間がかかりそうだ。本作は単なるエンターテイメントとしてだけではなく、傷のある人間を初めて大々的にフィーチャーした作品として記憶されるのかもしれない。

本作にも残念ながら、いくつかの減点要素が存在する。その最大のものは、累とニナが相互に仕掛けるトリックだ。舞台に携わったことのある人なら、タイムキーピングの難しさは「骨の髄まで」分かっているはずだ。ふとしたことで全てが崩れ去ってしまうような、そんな危うい賭けに、ニナはともかく累が乗るだろうか。ここだけがどうしても納得できなかった。またニナにはとある秘密があるのだが、その秘密がよくもそこまで都合よくコントロールできたものだ、と呆れてしまうような類のものとして利用される。もし、累がニナの演技に気付かなかったら・・・、いや、そこは気がつくのだろうが、もしニナが復讐を企図しなかったら、窮地に陥っていたのは累だったはずだ。何がそこまで、累を確信させていたのだろうか。この点も最後の最後は気になって仕方がなかった。

という具合に最後に文句を垂れてしまったが、本作は普通に面白い。時間とカネを使って、劇場まで観に行く価値ありと声を大にして言える秀作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, スリラー, 土屋太鳳, 日本, 浅野忠信, 監督:佐藤祐市, 芳根京子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

『SUNNY 強い気持ち・強い愛』 -オリジナルには及ばないリメイク-

Posted on 2018年9月2日2020年2月14日 by cool-jupiter

SUNNY 強い気持ち・強い愛 50点

2018年9月1日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:篠原涼子 広瀬すず 板谷由夏 山本舞香 池田エライザ 小池栄子 野田美桜 ともさかりえ 田辺桃子 渡辺直美 富田望生 リリー・フランキー
監督:大根仁

 

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オリジナルは韓流映画の『サニー 永遠の仲間たち』である。それを日本流にリメイクしたのが本作である。すでにオリジナルのレビューで懸念を表してはいたが、ミュージカル映画ではないのだから、エンターテインメント要素を極力排したとしても面白さを維持できるような作品を目指すべきだったのだ。というよりも、特定のデモグラフィックだけをターゲットにすることで、他の観客層を排除しかねない描写や台詞を持ってくる意図がよく分からない。もちろん、過度のバイオレンスやホラー要素、エロティックな描写は、一定の年齢層以下には見せるべきではないだろう。しかし、それとこれとは話は別で、ストーリーを見せたいのか、小室サウンドの宣伝および90年代の懐古主義をやりたいのか、その峻別ができないような作品に仕上がってしまっている。本作を純粋に楽しめる中高大学生が果たしてどれだけいるのだろうか。冒頭近く、久保田利伸の『LA・LA・LA LOVE SONG』が流れ、現在が過去に切り替わるシーンにそのことが凝縮されている。おそらく映画ファン100人に尋ねれば、80人以上が『ラ・ラ・ランド』を思い浮かべた、と答えるであろう。個人的には同作冒頭の高速道路のシーンはあまり好きになれなかったが、今作の歌とダンスシーンはもっと酷い。クオリティが低いわけではない。高い。しかし映画のテーマにそぐわない。ミュージカルでも無いのに、なぜミュージカル風味に仕立てるのか。

尺の関係だろうか、オリジナル版から一人減らしてしまったのも残念至極。これのせいで、芹香(板谷由夏/山本舞香)のかつてのリーダーとしての威厳と面影が蘇ってくるような温かみのある厳しさというものが全カットされてしまった。いくつかの歌と踊りのシーンを削れば、2時間に収まる脚本にできただろう。こうしたところから、本作が小室サウンドのプロモーションなのか、それとも映画という芸術的・文学的表現なのかが判断できないのだ。本作が本当に発するべきだったのは、オリジナルが力強く発していた「あなたは確かに生きていたし、これからも私たちの心の中で生き続ける」というメッセージを日本風に練り直して伝えることであるべきだったのだ。同時に、90年代をまるで輝かしさばかりが目立つ時代に映し、社会問題でもあったブルセラショップや援助交際の描写は抑えめにしていたことも気になった。オリジナルにあった人生や社会の暗部に、同じだけ斬り込めなかったのは何故か。世界は、ロッキー・バルボアの言葉を借りるまでもなく「陽の光や虹だけで出来ているわけでなく、意地汚い場所」(The world ain’t all sunshine and rainbows. It’s a very mean and nasty place.)なのだ。そのことを原作に最も近い形で表現してくれたともさかりえには拍手を贈りたい。

演技の面で言えば、広瀬すずはかなり忠実にオリジナルのシム・ウンギョンをコピーしていた。この点は非常に好意的に評価したい。一方で、淡路島弁が少し、いや、かなりおかしい。淡路島は不思議な地域で、兵庫と徳島の両属のようなもので、だが方言は播州弁と東部岡山弁のちゃんぽんのようなものだ。それが忠実に再現出来ていたかと言うと疑問であったし、さらに奈美(篠原涼子/広瀬すず)を淡路島出身に設定してしまったことが、あるキャラクターのバックグラウンドとそのキャラと奈美の関係に、いささかの矛盾を生んでしまっているような気がしてならない。こればかりは兵庫、大阪、徳島の人間でないと分からないかもしれない。しかし、感じる者にはそう感じられてしまうのだ。

全体として見れば、優れたオリジナル作品を可能な限り忠実に時にはコピーし、時にはトレースし、ところによっては大胆な改変を加えるか、もしくはバッサリと切り落としてしまった作品だ。細かい部分だが、担任の先生の妊娠ネタが全て削られていたり、逆に奈美の兄がエヴァンゲリオンにハマって働きもしないぷータローになっていたり(原作では、過激な労働運動にのめり込むあまり、反政府活動にまで踏み込んでしまっていた)と、ちょっと何かが違うのではないかと思わされる場面が多々あった。現実の社会が不安定であっても、女子高生の友情は不滅だというコントラスト際立つ構図であったはずが、リメイク版では、女子は輝き、少年~青年はオタクになり、オッサンは援助交際に走るという、非常に内向きな論理の世界を見せられてしまった。それが大根仁の解釈なら、それはそれとして尊重する。だが評価はしない。

良く練られたコピーである。しかし、オリジナルの暗さと明るさのコントラスト、世界の美しさと残酷さの対比が再現できておらず、中途半端な歌と踊りでお茶を濁してしまった作品、という印象に留まってしまったのは非常に残念である。観るのならばオリジナルをお勧めしたい。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, リリー・フランキー, 広瀬すず, 日本, 池田エライザ, 監督:大根仁, 篠原涼子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『SUNNY 強い気持ち・強い愛』 -オリジナルには及ばないリメイク-

『検察側の罪人』 -正義と真実、全ては相対的なのか-

Posted on 2018年8月26日2020年10月25日 by cool-jupiter

検察側の罪人 60点

2018年8月25日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:木村拓哉 二宮和也 吉高由里子 平岳大 大倉孝二 芦名星 山崎紘菜 松重豊
監督:原田眞人

SMAP解散により、図らずも実現してしまったキムタクと二宮の共演、または競演。相乗効果を生んだとまでは思わないが、新鮮に映ったことは間違いない。

タイトルが物語る通り、検察の側に罪人が存在する。法という武器を手に、容疑者を起訴する。しかし、その検察(だけではなく警察、司法などのシステム全体)が数多くの冤罪を生んできたことは誰もが知るところである。それこそ昭和の中期頃までの日本の警察および検察は、ヤクザよりも遥かに酷かったとすら聞く。何がどうヤクザよりも酷いのか。それは二宮の演技の見せ場に絡めて後述したい。

エリート検事の最上毅(木村拓哉)は、民間高利貸しおよび不動産業を営む老夫婦の殺人事件に携わるうち、捜査線上に、自らの同級生だったとある女子の殺人事件の容疑者と目される男が浮上したことを知る。不起訴となり、過去の亡霊となっていた殺人事件の被疑者、松倉重生(酒向芳)が思いがけず現れたのである。現在の事件と過去の事件、両方を結ぶ線を探るべく、最上は信頼できる弟子とも言うべき沖野啓一郎(二宮和也)に取り調べを委任する。

本作の主題は、検察官同士の対決であるが、その奥に潜むテーマは深く、暗い。最上は自らの信じる正義を執行するために法の定める手続きを無視し、犯し、隠蔽する。客観的な正義が存在すると信じる沖野は、その力を振るいながらも最上に師事し、最上を支持するが、そこに不正を嗅ぎつけた時、袂を分かち、対決する道を選ぶ。二つの異なる正義のぶつかり合い・・・がテーマであれば、実は話が早い。本作が追究しようとするのは、正義の相対性である。絶対の正義と絶対の正義のぶつかり合いは相対的である、と主張したいわけではない。人は、絶対の正義である信じていたものですら、あっさりと捻じ曲げてしまうような非常に強靭な、ある意味で都合の良い精神構造をしている。人は法が定める正義に粛々と従いながら、自らの信じる正義をいとも簡単に上位に置いてしまう。最上は裏社会の人間である諏訪部利成(松重豊)と持ちつ持たれつの関係なのだ。警察や検察がヤクザとズブズブというのは公然の秘密だが、そこに越えてはならない一線があるのも事実だ。それを踏み越えてしまうのは最上だけではなく、沖野もそうなのだ。検察官という職務の上で知り得た情報を、弁護側に渡すなどという無節操なことができるのならば、公安なり内調なりに転職すれば良いのである。成り行きでベッドインする事務官の橘沙穂(吉高由里子)ともども、それがお似合いだ。

本作のもう一つのテーマは、暴力の構造を暴き出すことだ。作中でやたらと強調されるインパール作戦。無謀、無責任、無駄死に、犬死になど、兵士の命を軽んじることこの上ない作戦であった。なぜこのような命を粗末にする作戦が罷り通ってしまったのか。それは、軍の上層部は、自分たちが下士官、下級兵から反抗や反逆を喰らうことは無いと確信していたからという部分も大きい。インパール作戦の立案者は、無謀な作戦と累々の死者の責任を全うすることも無く悠々と生き、悠々と死んだ。一方で、インパールから独自の判断で撤退した師団長は、真実を証言できる法廷に立つ機会すら与えられなかった。一方が他方を一方的に殴ることができるのは、反撃が来ないことを知っているからだ。沖野は松倉に対し、過剰なまでの人格攻撃や脅迫的言辞を弄し、最上の意図する有罪のストーリー作りに途中までは加担しようとする。そこで見せる攻撃的、威圧的、高圧低、脅迫的な言動は圧倒的である。これは個人の正義感や職務上の義務感以上に、やり返されないという確信あってこその態度に思えて仕方がなかった。なぜなら、「真実を解明したいという強い動機」がそこには一切無かったからだ。そこにあったのは、最上へのリスペクトであり、自らの正義と権力を執行するというエゴイスティックな考え方だけだったからだ。

本作の最後のテーマは、人間と、その人間の行使する力は、どこまで不可分なのかということであろう。我々は往々にして「罪を憎んで人を憎まず」と言ったりするが、実際は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の方が多いではないか。冤罪が証明され、裁判の勝利を祝う。それ自体は喜ばしいことである。だが、その人間が過去に罪を犯し、まんまと時効まで逃げ切っていたとしたら、我々はそれを素直に受け入れられるのか。そこまで極端な例ではなくとも、我々はしっかりお務めを果たした前科者の社会復帰を喜ぶよりも忌避する傾向の方が強いのではないか。トレイラーにもある「正義の剣」なるものが存在するとしよう。だが、その剣自体は、振るう者が正義であることを何ら証明しはしない。むしろ、我々は最上の持つ力を法律という国家権力よりも、裏社会、闇社会の人間である諏訪部とのつながりの方に見出す。最上は家族との関係も必ずしも上手く行っているわけではない。妻とセンテンスで会話もできないのだ。こうした人間が「正義の剣」を振るう様は、異様とすら映る。それこそが原田監督の意図であろう。本来、犯罪者と犯罪は別個に分けて考えるべきで、それは検察や警察にしてもそうである。検事=正しい行いをする人などというのは先入観であり偏見である。

物語のそこかしこに某ホテルチェーンとしか思えない一族の偏った思想や、どこかの島国の一党独裁政権を揶揄しているとしか思えない言葉が数多く聞かれる。そうした風刺の最も強烈なものは前述したインパール作戦であろう。これがプロット全体の通奏低音になっており、正しいと信じ抜いた道の先には死屍累々の結果しかなかった。残念ながら、これは歴史的な事実である。我々は客観的な正義や客観的な悪が存在するという思考に慣らされているが、それらは実は極めて恣意的なものであるということを本作は提示する。

登場人物たちのいくつかの行動は理解に苦しむというか、あまりにご都合主義的な面が見られるところもあり、そのあたりは減点せざるを得ない。特にいくつかのアイテムを調達しようとするキャラが、あんな大声で電話するか?とリアルタイムで訝しむ人は多いだろうし、一般人にも逮捕の権利はあるのだから、某女性キャラはその場で取り押さえられていたら、そこで何もかもが水泡に帰していただろう。そうした目立つ欠点を持ちながらも、非常にパワーのある作品であるとの評価は変わらない。一国の総理大臣が推定無罪の原則を無視して民間人を「詐欺師」と断罪してお咎めなしという亡国、もとい某国の国民は『三度目の殺人』とともに本作を鑑賞すべきだ。個人の信じる正義の拠って立つ基盤の強固さ故の脆さと、客観的な正義なるものがどこかに佇立するのだという幻想を見せつけられる。人を選ぶ映画であるが、単なるエンターテインメント以上の作品に仕上がっている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, 二宮和也, 吉高由里子, 日本, 木村拓哉, 監督:原田眞人, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『検察側の罪人』 -正義と真実、全ては相対的なのか-

『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

Posted on 2018年8月21日2019年4月30日 by cool-jupiter

君の膵臓をたべたい 70点

2018年8月16日 レンタルDVD観賞
出演:浜辺美波 北村匠海 小栗旬 北川景子 上地雄輔 矢本悠馬
監督:月川翔

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タイミングが合わなかったと言ってしまえばそれまでなのだが、本作を昨年のうちに劇場で観ることを選択しなかった我が目の不明を恥じる。いくつかの欠点に目をつぶれば、非常に優れた作品である。

“僕”(小栗旬)は高校の国語教師。ある仕事をきっかけに高校時代の友人の山内桜良(浜辺美波)を思い出す。彼女は膵臓の病を患っていた。そんな彼女と過ごしたかけがえの無い高校時代の自分(北村匠海)の回想を通じて、桜良が未来に宛てたメッセージを受け取ることになる。

浜辺は、南沙良と並んで、現在売り出し中の若手女優のトップランナーの地位を本作で築き上げ、『センセイ君主』で確たるものにしたと評してもよいだろう。病気と笑顔で向き合う。しかし、一瞬だけ垣間見せるその表情に我々は桜良が心の奥底にひた隠す死への恐怖と生への渇望を見逃すことは無い。さりげなく、それでいてハッと気づいてしまう。卓越した演技力の持ち主であることを随所で見せつけてくれる。 

桜良が“僕”に好意を抱くきっかけの一つに、“僕”が桜良の病気のことを知っても動じなかった(ように見えた)ことが挙げられる。看護師さんらによると、病院という場所では患者はしばしば「病気」で呼ばれるということだ。医者はしばしば「あの305号室の肺がんの人だけど云々」などと言うらしい。これは実は医療従事者だけに特有の考え方だったというわけではない。一昔前は障がい者を、disabled peopleと英語で言っていたが、その後はpeople with disabilitiesに、今ではspecial needs peopleまたはpeople with special needsと言っている。病気や障害を、その人と最も特徴づける属性として捉えていた時代があったのだ。今では医療や介護の世界にもセルフケアという概念が浸透し、「何ができないのか」ではなく、「何ができるのか」で人間を評価するようになっている。“僕”は意識的にも無意識的にも、桜良が何ができないのかを考えることは無く、桜良ができることに寄り添う姿勢や態度を見せていた。これは惚れるしかない。北村匠海の過去の出演作品を今回チェックしてみて驚いた。ほとんど全部観ているし、確かに印象的な演技を見せてくれていたことは思い出せた。しかし、俳優としての北村匠海の印象が極めて希薄なのだ。例えばニコラス・ケイジやトム・クルーズは、どんな作品に出ても、どんな役を演じても、結局は本人にしか見えないことがほとんどである。日本で言えば福士蒼汰や東出昌大がこれに該当する。北村匠海は違う。窪田正孝の系列の役者であると評しても間違いではないだろう。この若い二つの才能のぶつかり合いが作品に深みと奥行きを与えている。

残念ながらいくつかのマイナス点も指摘しなければならない。ホテルに泊まるところで、「僕」が髪をタオルで拭きながら出てくるシーンがあるのだが、いかにも不自然だ。髪も本当に濡らして、それをドライヤーで生乾きぐらいまで乾かした感じで出てくるぐらいでいい。また、小栗旬と北村匠海は、表情や目の動き、歩き方などでかなりお互いがお互いを同一人物として意識した役作りおよび演技ができていたが、他のキャストがあまりにも似ていない。というか、似せる努力をしていない。世界的に『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』が批判されているのは、オールデン・エアエンライクの演技力の低さではない。ハリソン・フォード演じるハン・ソロを意識した演技ができていなかったからだ。これは監督の罪でもあるが、本人の罪でもある。まあ、ハリソン・フォード自体がトム様やニコケイのような、ほとんどの役で「これはハリソン・フォードである」と認識されてしまう役者であるのだが。矢本と上地が同一人物設定というのはどうなのだ?また、大友花恋が北川景子に変身するのも、説得力がなさすぎる。だからこそ、このタイミングでアニメーション作品の制作および公開に至ったのだろうが。

Back on track. 本作は「生きることの意味」を追求する作品でもある。「君がいなくなったら、みんな、僕のことなんか忘れるよ」という“僕”の台詞に「そんなの死ぬに死ねないよ」と返す桜良。二人は死を心停止などという生物学的な意味では捉えていない。死ぬ=誰にも思い出されなくなる、と捉えている。これは『ウインド・リバー』でランバートが語っていたことと全くの同義である。生とは、ある一面では、思い出の中に宿るものなのだ。桜良が死ぬまでにやりたいこと=誰かの中の思い出として生き続けたいという欲求なのだ。

桜良はもう一つ、本や文字にも自分の生を託す。学校の図書館に眠る本の数々が、ある意味での永続性を象徴している。文字は一種のタイムマシーンだ。その場所が取り壊されることが決まってしまった時、桜良からのメッセージが見つかる。図書館の窓の外に覗くは、散り行く桜。我々はここで否応なく桜良の「桜は散ったふりして咲き続けている。散ってなんかいない。みんなを驚かせるために隠れているだけ」という台詞に思いを馳せずにはいられなくなる。健気に生きる姿だけが美しいわけではない。生きることは時に残酷なまでの悲劇を生む。死んでも、それでも生きていたいという想いの強さに打ちのめされるラストシーンに、観る者は大いに涙するだろう。

 

Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ロマンス, 北村匠海, 日本, 浜辺美波, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

『センセイ君主』 -少女漫画の映画化文法を破壊する会心のコメディ-

Posted on 2018年8月7日2019年4月25日 by cool-jupiter

センセイ君主 70点

2018年8月5日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:竹内涼真 浜辺美波 佐藤大樹 川栄李奈 矢本悠馬 新川優愛
監督:月川翔

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率直に言う。近年の製作過多気味の少女漫画原作映画の中では突出した面白さである。そして、その面白さのおそらく50%は主演の浜辺美波のコメディックな演技力の高さから来ているのは間違いない。『となりの怪物くん』や『君の膵臓を食べたい』では抑えつけられていた(のかもしれない)ポテンシャルが一気に花開いた感がある。松屋で牛丼定食を数千円分も頬張り、パッドを入れまくって巨乳をアピールするヒロインというのは、寡聞にして知らなかった。メジャーな漫画があらかた映画化されてきたこともあるが、今後はこうしたメインストリームではない物語も脚光を浴び始めるだろう。一頃は広瀬すずや土屋太凰で埋め尽くされていた少女漫画原作の映画に新しい息吹を感じられたことを素直に喜ぼうではないか。

佐丸あゆは(浜辺美波)は女子高生。恋に恋する女子高生。漫画『スラムダンク』の桜木花道ばりの告白失敗連続記録を作ろうとしていた。松屋(食券制ではなかったか?)で牛丼をやけ食いするも、代金を払えなかったところを見知らぬ男に助けられる。翌日、めげずに次の恋へと走ろうとする健気なあゆはを神は見捨てていなかった。ロッカーにラブレターが入っていたからだ。告白を受け、さっそくデートに行くも相手の粗ばかりが目につき、結局は破局。そんな時に松屋で助け舟を出してくれた男が新任の担任教師(数学)、弘光由貴(竹内涼真)であることを知ったあゆはは、由貴のひねくれ過ぎた性格をものともせず告白するも撃沈。挙句に「俺を落としてみなよ」とまで挑発されてしまう。かくして佐丸あゆはの奮闘が始まった・・・

原作のテイストなのか、映画的演出なのか、過剰とも思えるほどの間テクスト性に溢れている(関テクスト性の具体例を知りたいという人は、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の作者コラムを読んでみよう)。もちろん『レディ・プレーヤー1』のようなクレイジーな量ではないが、『ロッキー』から『3年B組金八先生』、『ドラゴンボール』に『進撃の巨人』ネタまで放り込んでくるそのノリは嫌いではない。むしろ大いに笑わされたし、他の作品でもこうした手法は取り入れられるべきであろう。実際に劇中でジュディマリを歌うシーンがあるが、スクリーンの中の世界がこちら側の世界と地続きであると実感することで生まれる感覚というのは確かに存在する。「ああ、このキャラ達もあの作品を観たり読んだりしたんだな」という感覚が自分の中に生まれた時、確かに“さまるん”を応援したくなった自分がいた。もちろん、こうした試みを嫌がる向きもいるだろう。二時間の間は、フィクションの世界に没頭したいという人には少々酷な演出かもしれない。このあたりは観賞者の好み次第なので、自分と波長が合わないからといって、無下に否定してはならないように、自分でも注意をしたいものだ。

教師とは思えないほど薄情でシラケた態度の由貴に、一部の女子が授業のボイコットを計画するが、話してみればむしろ天然の面白キャラとして認知される。大人と子どものギャップを描き出すシーンだが、実はどちらも子どもであるということを伝える重要なシーンでもある。詳しくは作品を実際に観賞してもらうべきだが、敢えて近い対象を探すならば、『L・DK』の久我山柊聖がそのまま年齢を重ねて教師になってしまったような感じか。空手家の角田信朗は曙戦前だったか、「おっさんのかっこいいところは、かっこ悪いことを全力でやること」と喝破していた。つまりはそういうことなのだろう。ここでのおっさんを「大人」に置き換えれば、この物語での大人は誰なのか、子どもは誰なのかが逆転する。このことはさまるんの親友やその彼氏、さらにさまるんに恋心を抱く幼馴染らにも当てはまる。何がどう当てはまるのかを知りたい人は、ぜひ本作を観よう。そして本作を観たら『恋は雨上がりのように』と比較をしてみよう。大人になりきれていない大人の男が、若い女の子に迫られた時、どうするべきなのか。両作品とも非常に示唆に富む回答を提示している。本作のもう一つの特徴というかユニークさは、ヒロインとその親友のトークのえげつなさだ。トレーラーにあった「バーロー、ガチ恋したら胸ボンババボンだっつーの!」みたいな会話が当たり前のように交わされるのは、実はかなり健全な関係を築けている証拠だったりする。アメリカ映画でハイスクールが舞台だと、邦画では考えられないような容赦の無い女子トークが往々にして展開される。『スウィート17モンスター』や『JUNO ジュノ』、『ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界』などが好例だ。あまりに優等生的な関係だけではなく、多少の毒の混じった関係ぐらいがちょうど良いのである。お盆休みの予定が決まらない人は、劇場で本作を観るべし。

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ロマンティック・コメディ, 日本, 浜辺美波, 監督:月川翔, 竹内涼真, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『センセイ君主』 -少女漫画の映画化文法を破壊する会心のコメディ-

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  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

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