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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 萩原みのり

『 N号棟 』 -国内クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補-

Posted on 2022年4月30日 by cool-jupiter

N号棟 10点
2022年4月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:萩原みのり 筒井真理子
監督:後藤庸介

超絶駄作である。ジャパネスク・ホラーは夜明け前どころか丑三つ時にすらなっていないのではないか。『 成れの果て 』の萩原みのりを目当てにしていたが、チケット購入ではなくポイント鑑賞。その判断は正しかった。

 

あらすじ

死恐怖症を抱える女子大生の史織(萩原みのり)は、元カレが卒業制作のロケハンのために廃団地に行くというので、強引について行く。団地の敷地に入るも、そこには住人が住んでいた。史織が「入居希望者です」と言うと、管理人らは親切に団地を案内してくれるが・・・

以下、ネタバレあり

 

ポジティブ・サイド

安楽死あるいは尊厳死の是非に対する一つの回答を呈示した点だけは評価できる。もう一つだけ評価するのは、萩原みのりの cleavage ぐらいか(Silly me! = アホな俺)。

ネガティブ・サイド

冒頭から『 ポルターガイスト 』へのオマージュと思しき真夜中のテレビの砂嵐画面だが、ちょっと待て。アナログ放送は2011年に終了している。だったら本作はGoogle Earthリリース(2005年)よりも後で、2011年よりも前?いや、スマホでGoogle Earthを使って、地方の一地点にピンを貼って、しかも人間の顔が見えるほどの高解像度の画像が得られるようになったのは震災後、2015年だとか、そのへんだったはず。冒頭の時点から「いつの時代だ、これは?」と思い、物語に入っていけなかった。

 

肝心の団地も全然怖くない。二番煎じと言われようと『 呪怨 』のようなコテコテのホラーっぽさが必要だった。親切そうな団地の面々が態度を豹変させるのも中途半端。地方の人間が突然に不機嫌になる、あるいはよそよそしくなる様については、後藤庸介監督は横溝正史を読むなどして勉強した方がいい。

 

団地の幽霊(?)も、これまた怖くない。ジャンプ・スケアにありがちなびっくりさせる効果音を多用しなかったが、それがあっても怖くなかっただろうし、あってもやはり怖くなかっただろう。というのも、すべてがテンプレ通りというか、ここでこうなりそうだ、という予感が全部的中するから。別に自画自賛しているわけではない。ちょっと映画を観慣れた人なら、次の展開、次の演出を容易に想像できるだろう。これで怖がれというのは無理がある。

 

無理があるのは団地の仕組み(?)も同様だ。謎の投身自殺はそれはそれで不気味だが、なぜ肝心の死体にクローズアップしない?なぜ肝心の死体を映さない?この人は死んだ、間違いなく死んだという印象を観る側に焼き付けるショットや演出がないために、その後の展開に驚きや戸惑いが生まれない。また、ことあるごとにカメラを回させる史織だが、役立たずの元カレが死体を撮影しないために、史織がタナトフォビアであるがネクロフォビアではない、むしろネクロフィリア的な気質が備わっているという重要な事実を描写する機会を逸している。脚本上の致命的なミスだろう。この描写が欠けているせいで、その後の史織の活劇がすべてギャグに見えてしまう。

 

白日の下でのランチや謎の踊りは明らかに『 ミッドサマー 』へのオマージュだろうが、完全に空回りしている。やるなら徹底的に白い太陽に映える白い装束、そして一糸乱れぬ踊りが名状しがたい不安感を呼び起こす。そんなシーンを模索すべきだった。それに『 ミッドサマー 』へのオマージュなら

1)死体の損壊

2)セックスシーン

この2つの方が本作には合っていたはずだ。1)については、せっかくそれらしいシーンがあったのに何もかもが中途半端(「俺だって、こんなことやりたくねー」の男はその後どうなったのだ?)。2)は、それこそ団地に泊まる羽目になった史織と元カレが、怪奇現象からの現実逃避のために肉欲に溺れるという絶好のサブプロットが追求できたはずなのに、あっさりとそれもパス。がっかりである。

 

一番意味不明なのは、死者が蘇ってくる前に、団地の住民全体でヒステリーを起こすところ。なんか意味あるの?シュールすぎて怖くないし、かといって笑えるでもない。まったくもって意味不明。この絵が恐怖を喚起すると思っていたのなら、後藤監督は金輪際ホラーには手を出さない方がいい。だいたい幽霊も、物を落としたり窓を開けたりはしても、直接危害を加えてくることがゼロなのだから、怖がりたくても怖がれない。というか、筒井真理子の恋人役の霊(?)と肉体、あれはどういう関係?死体の処理は?意味わからん・・・

 

幽霊と暮らしているから死は怖くないという理論は理解できなくもないが、それは史織の抱えるタナトフォビアの解決にはならないだろう。それこそ『 シックス・センス 』のような、「実はもう死んでました」路線で行くべきではなかったか。または『 カメラを止めるな! 』のように、ある時点までの展開はすべて映像作品でした、この映像を使って、観た人を団地におびき寄せます・・・のようなプロットは模索できなかったか。「自分ならここはああする、あそこはこうする」と必死に考えることでしか眠気と格闘できなかった。それぐらい酷い作品である。

 

総評

こんなクソ作品に時間もカネも費やすべきではない。言葉は悪いが、ダメな監督がダメな脚本を映画にしたとしか言えない。2022年に関しては『 大怪獣のあとしまつ 』という couldn’t be any worse な作品が存在するのが救いだが、そうでなければクソ映画オブ・ザ・イヤーの最右翼である。予告で流れてきた『 “それ”がいる森 』は、果たして本作を上回るか、下回るか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. This was such an awful movie that I need to forget it as soon as possible.

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, ホラー, 日本, 監督:後藤庸介, 筒井真理子, 萩原みのり, 配給会社:SDPLeave a Comment on 『 N号棟 』 -国内クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補-

『 成れの果て 』 -私的年間ベスト級映画-

Posted on 2022年1月3日 by cool-jupiter

成れの果て 80点
2021年1月1日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:萩原みのり 柊瑠美 木口健太
監督:宮岡太郎

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新年の劇場鑑賞第一号。TOHOシネマズ梅田や大阪ステーションシティシネマあたりは、野放図な若者がちらほらいたりして、小康状態のコロナの再燃が懸念される。梅田茶屋町も若者だらけで妻がなかなか首を縦に振ってくれないが、元日なら店も開いていない=若者が少ないということで、テアトル梅田へ。

 

あらすじ

小夜(萩原みのり)は姉あすみ(柊瑠美)から「結婚を考えている」という電話を受ける。しかし、その相手は小夜にとってどうしても許せない相手、布施野(木口健太)だった。帰郷した小夜は、周囲の人間関係に波紋を呼び起こしていき・・・

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ポジティブ・サイド

観終わってすぐの感想は「迎春の気分が一気に吹っ飛んだなあ」というものだった。とにかく、観る側の心に重い澱を残す作品であることは間違いない。予定調和なハッピーエンドを望む向きには絶対にお勧めできない作品である。しかし、この作品がミニシアターではなく大手シネコンなどを含め全国200館以上で公開されるようになれば、それは日本の映画ファンが韓国化したと言っていいだろう。それが良い変化なのか悪い変化なのかは分からない。

 

だだっ広い部屋の真ん中でプリンを食べるあすみをロングで撮り続けるファーストショットからして不穏な空気が充満していることを感じさせる。「誰か死んだ?」と問いかけてくる小夜にも心臓がドキリとする。「お姉ちゃん、そういうことでしか電話してこないし」というセリフから、この姉妹の一筋縄ではいかない関係性が垣間見える。

 

小夜と布施野の因縁が何であるかはすぐに見当がつく。問題は、その事件が狭いコミュニティ内であまねく知れ渡っていること。これは本当にそうで、田舎の情報伝播速度と情報保存の正確さは都市のそれとは比較にならない。本作はそうした村社会の怖さを間接的にではあるが存分に描き出してもいる。

 

それにしても主演の萩原みのりの鬼気迫る演技は大したものだ。なかなか解釈が難しい役だが、それを上手く消化し、自分のものにして描出できていたように思う。特に過去の自分を知る人間たちと再会した時に見せる相手を射抜くような視線の強さには感じ入った。ネガティブな意味での眼光炯々とでも言おうか、相手を刺すような目の力があった。『 佐々木、イン、マイマイン 』でもそうだったが、萩原みのりは陰のある女性、毒を秘めた女性という役が上手い。

 

本作は極めて少人数の登場人物かつ短い上映時間ながら、その人間関係はとてつもなく濃密である。それは役者一人一人の役柄の解釈が的確で、演技力も高いからだ。原作が小説や漫画ではなく舞台であることも影響しているのだろう。臨場感を第一義にする舞台演劇の緊張感が、スクリーン上でそのまま再現されているように感じた。人物のいずれもがダークサイドを抱えていて、それがまた人間ドラマをさらに濃くしていく。狭いコミュニティ内の閉塞感から脱出しようとする者、そこに敢えて安住しようという者が入り混じる中、東京からやってきた小夜とその友人の野本が絶妙な触媒になっていく。

 

この野本という男、ガタイも良く、顔面もいかつい。一種の暴力装置として小夜に随伴してきているのだが、本業はメイクアップアーティストで、しかもゲイという、political correctness を意識したキャラなのかと思ったが、これは大いなる勘違い。小夜が布施野に仕掛けた罠のシーンでJovianは『 デッドプール 』の ”Calendar Girl” のワンシーンを思い浮かべた。これはすこぶる効果的なリベンジで、『 息もできない 』の主人公サンフンが「殴られないと痛みは分からない」というようなことを言いながら、相手をボコボコに殴るシーンがあったが、結局はそういうことなのかもしれない。

 

邦画が韓国映画に決定的に負けていると感じさせられるものに演技力がある。特に、女性が半狂乱を通り越して全狂乱になる演技の迫真性で、日本は韓国にまったく敵わない。しかし、本作の女性の発狂シーンの迫力は韓国女優に優るものがある。「士は己を知る者のために死し、女は己を説ぶ者の為に容づくる」と言われるが、化粧の下にある女性の本性をこれほどまでに恐ろしい形で提示した作品は近年では思いつかない。最終盤のこのシーンだけでもチケットの代価としては充分以上である。

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ネガティブ・サイド

マー君というキャラが学校に居場所を作った方法というのに、少々説得力が足りない。あれこれ事件のことを吹聴したとしても、そんなものは一過性のブームのようなもの。そこからスクールカーストの最下層から脱出したとしても、ブームが終わればすぐに最下層民に転落しそうに思える。

またあすみの同居人である婚活アプリ女子も、金欲しさに家屋の権利書を持ち出そうとするが、それで家や土地を金に換えられるわけがない。なぜ通帳やキャッシュカードではなかったのだろうか。

 

総評

大傑作であると断言する。『 カメラを止めるな! 』がそうだったように、まっとうなクリエイターが、自身のビジョンを忠実に再現すべく、信頼できるスタッフや役者と共に作り上げた作品であることが伝わってくる。予定調和を許さない展開に、容赦のない人間の業への眼差し。日本アカデミー賞がノミネートすべきはこのような作品であるべきだ。良いヒューマンドラマは人間の温かみだけではなく、人間の醜さも明らかにする。その意味で、本作は紛れもなく上質なヒューマンドラマである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

pick out

劇中でとあるキャラクターが「それを私がピックアップして~」などと語って、観る側をとことんイラつかせるシーンがある。ピックアップはある意味で和製英語で、「抜き取る」、「選び出す」などの意味で使われているが、英語の pick up にそのような意味はない。そうした意味を持つのは pick out である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, A Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 木口健太, 柊瑠美, 監督:宮岡太郎, 萩原みのり, 配給会社:SDPLeave a Comment on 『 成れの果て 』 -私的年間ベスト級映画-

『 アンダードッグ 後編 』 -画竜点睛を欠く完結-

Posted on 2020年12月7日 by cool-jupiter

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アンダードッグ 後編 70点
2020年12月5日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:森山未來 北村匠海 萩原みのり
監督:武正晴

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『 アンダードッグ 前編 』はかなりの出来栄えだった。森山未來と北村匠海の激突に否が応にも期待が高まった。そこに至るドラマは文句なしだったが、肝心のトレーニングのモンタージュと試合シーンが・・・ これぞまさに「画竜点睛を欠く」である。武正晴監督にはもう一度、ボクシングを勉強していただきたいものである。

 

あらすじ

芸人ボクサーの宮木とのエキシビションマッチを終えた末永(森山未來)は、ついにボクシングから足を洗い、家族との時間を取り戻す決断をするが、妻には離婚届を突きつけられる始末。勤め先のデリヘルも開店休業状態に。そんな中、デビュー以来破竹の快進撃を続けていた大村龍太(北村匠海)があるアクシデントに襲われ・・・

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ポジティブ・サイド

物語冒頭から暗い。ひたすらに暗い。まるで末永のキャリアや人生そのものに暗雲が立ち込めていることを映像全体が示唆しているようである。事実、彼にはボクシングを続ける理由も、家族を幸せにする甲斐性も見当たらない。まるで八方ふさがりである。あたかも『 哀しき獣 』のハ・ジョンウのごとく、もはや野垂れ死ぬしかない。そのような予感だけしかない。ドン詰まりに思えた物語が、一挙に動き出すきっかけとなる事件も、たしかに伏線はあった。北村演じる大村龍太に闇を感じると前編レビューで書いたが、その勘は正しかった。自分で自分を褒めてやりたい。

 

本作はボクシングドラマでありながら、上質な人間ドラマの面も備えている。デリヘルという社会の一隅のそのまた一隅で、決して日の光を浴びない仕事に従事する人間たちの関係は、実に細く、それでいて時に強く太い。どこまでも孤独に見える人間たちの、実はしたたかで豊かな連帯が胸を打つ。序盤に見られる凍てついた人間の心の闇の深さゆえに、その温もりは一層強く、また感動的だ。特に少々遅滞気味のデリヘル店長は、そのまっすぐさ、ひたむきさ、裏表のなさゆえに、社会的には許容できない行動に打って出るが、しかし人道的にはそれもありではないかと思わせてくれる。「けじめをつける」とはそういうことで、世間様が決めたルールに唯々諾々と従う一方で、己が己に課したルールを粛々と守るのがけじめのつけ方だろう。元ライバルで元世界王者に「お前、もうボクシングするんじゃねえ」と言われようと、ジムの会長に匙を投げられようと、己の生き様を全うしようとする。末永の生き方は社会的にも常識的にも受け入れがたいものであるが、一人の男として向き合った時に、まるで矢吹ジョーのごとく「まっ白な灰」になることを望んでいるかのように映る。そのことに魂を揺さぶられない者などいようか。

 

末永と大村の因縁も、まるで昭和の日本ボクシングの世界そのままで説得力がある。というか、漫画『 はじめの一歩 』の木村と青木が鷹村のボコられてボクシングを始めたのとそっくりではないか。実際に尼崎のボクシングジムでは1970~80年代は、街で暴れている不良の中から見どころのある者をジムに連れてきて、練習生にボコボコにさせていたという話もあったようだ。ケンカ自慢のアホな不良ほど、ボクシングでやられたらボクシングでやり返そうとして、練習に励みケンカをしなくなるというのだから、かつての日本には面白い時代があったのである。実際に本作にも登場する竹原などは、そうした時代を体が覚えているだろう。また、そうした社会のルールを守らないアホほど、ボクシング(別にスポーツでも何でもいい)によってルールを守るようになる。萩原みのりが語る大村の過去と、『 あしたのジョー 』で描かれる、力石とジョーの試合に熱くなった少年刑務所受刑者たちが、順番を守らずにリングに上がろうとする者を集団でボコボコにするエピソードには共通点がある。ルールを守らなかった奴らが、ルールを守らない奴らを叩きのめすところに更生が見て取れる。実際にリングに復帰すると決め、大村と対峙した瞬間から、末永は煙草も女も断っている。ヒューマンドラマとボクシングドラマが一転に交わる瞬間である。

 

トレーニングのモンタージュは『 ロッキー 』シリーズから続くボクシング映画の中心的文法で、末永が仕事の合間にサウナでシャドーボクシングをする姿は、砂時計という小道具の演出もあって、リアリスティックかつドラマチック。朝の街をロードワークに出かける様もロッキーそのままだ。ジムのミット打ちで左フックの軌道を念入りに確かめるところが玄人はだし。背骨を軸に腰を全く上下動させることなく、ナックルがしっかり返っていた。

 

大村との因縁の対決。決着。勝ち負けではなく、自分の生きる道を見定めるための戦い。最後にまっすぐと駆けていく末永の姿にパンチドランカーの症状は見られない。陽光を全身に浴びて一心不乱にまっすぐと走る男の姿は、「俺も頑張ろう」と背中を押されたような気持ちにしてくれる。

 

ネガティブ・サイド

『 百円の恋 』ではあまり気にならなかった、ボクシング界のあれやこれやの厳密なルールや不文律的なものが本作では忠実に描かれていなかった。これは減点せざるを得ない。まず、いくらデビューから連続1ラウンドKOを続けても、フェザー級で日本ランクにすら入らないだろう。というか、新人王戦へのエントリー資格を得た程度ぐらいだろう。そんな戦績で、怪我からの復帰後、2階級上のライト級で6回戦を飛び越して8回戦???ボクシング関係者やボクシングファン全員が漏れなく首をかしげることだろう。また末永の所属ジムの会長がインターバル時にタオルで末永をパタパタと扇いでいたが、これはアメリカやメキシコのリングならいざ知らず、日本では禁止事項。制作協力にJBCがあったが、審判やリングアナを紹介しただけなのか?ちゃんと仕事しろ。というよりは脚本家の足立紳の取材不足だろうか。『 百円の恋 』や『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』のような傑作をものすことができたのはフロックなのか。ボクシング界OBやプロボクシングのライセンス持ちの芸人なども出演していながら、この荒唐無稽な設定の数々は一体何なのか。

 

前編に引き続き北村のボクシングシーンがファンタジーだ。特に試合では猫パンチの連発で、まさか前編でデリヘル店長が発していた「ミッキー・ローク」という言葉がここで意味を持ってくるとは思わなかった。またセコンドの「足を使え」という指示に従ってサークリングを見せるが、これがまた下手すぎる。前編で北村のシャッフルの下手さを指摘していたのは多分、映画レビュワーの中でもJovianくらいだったが、後編でもそれは改善されていなかった。サークリングする時はリズミカルに飛び跳ねて一方向に回ってはダメ。すり足気味に、時に前足(オーソドックスなら左足、サウスポーなら右足)を軸にピボットを交えないと、高レベルのボクサー相手には間違いなく一発を入れられる。なぜかこのシーン、末永視点のPOVになっているが、大村陣営がサークリングを指示したのは末永の片目がふさがっているから。にもかかわらずカメラ・アイは北村の全身を映し続ける。視界の片側を消すなどの演出はできなかったのか。編集中に誰もこのことに気が付かなったのか・・・ そして、このシーン最大の問題はレフェリーの福地がさっぱり動かないこと。元々Jovianは福地のレフェリング能力は高くないと思っているが、そこは監督がもっと演出しないと。サークリングする大村を追って末永視点でリングを360度見渡すと同じところに福地が立ち続けている。これがどれだけ異常なことであるかはボクシングファンならばすぐにわかる。

 

試合の最終盤のスーパースローモーション映像も、あそこまで行くと滑稽だ。アマチュアボクシングならジャブであごがポーンと跳ね上がるとそれだけで負けを宣告されることもある。ボクサーはあごを引くことが本能になっていて、あんな光景はKO負け直前か、もしくはヘビー級ぐらいでしかお目にかかれない。

 

その他、銭湯で働く末永は絵になっていたが、仕事の合間に体重計に乗るシーンが欲しかったし、末永と大村の両者が計量に臨むシーンも欲しかった。撮影したが編集でカットしたのか。だとすれば、その選択は間違いであると言わせてもらう。また前編の殊勲者の勝地涼の出番が激減とは、これいかに・・・

 

人間ドラマ部分は満足できる仕上がりだが、総じてリアルなボクシングの部分がパッとしない。本当は65点だが、ボクシング映画ということで5点はオマケしておく。

 

総評

かなり辛口に批評させてもらったが、これは熱心なボクシングファン視点でのレビューだからである。普通のスポーツファンや映画ファンなら、そんな鵜の目鷹の目でボクシングを観る必要はない。『 ロッキー 』の物語文法そのままに、うだつの上がらない男でも何者かになることができる、ボクシングでそれを証明してみせる、という点を評価すれば本作は十分に良作である。前編を観たら後編を観よう。後編から観始めるなどということは絶対にしないように。2時間半の長丁場、体内の水分はできるだけ排出してから臨まれたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

retire

一般的には「引退する」「退職する」で知られているが、実際には他動詞「引退させる」という意味でもよく使われる。特にボクシングの世界では。劇中で大村が末永に「俺ら、引導を渡し合うしかないっしょ?」と言うが、その私訳は“We must retire each other, mustn’t we?”だろうか。引導を渡すなどという慣用表現は、逆にスパッとその意味だけを抽出して訳すべきだろう。

 

雑感

もしも末永が何かの間違いで世界タイトルマッチを戦ったら、こういう試合もしくはこんな試合になるだろう。興味がある向きは鑑賞されたい。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ボクシング, 北村匠海, 日本, 森山未來, 監督:武正晴, 萩原みのり, 配給会社:東映ビデオLeave a Comment on 『 アンダードッグ 後編 』 -画竜点睛を欠く完結-

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