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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 監督:月川翔

『 君は月夜に光り輝く 』 -ファンタジー映画に徹すべきだった-

Posted on 2019年4月7日2020年2月2日 by cool-jupiter

君は月夜に光り輝く 45点
2019年4月1日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:永野芽郁 北村匠海
監督:月川翔

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『 君の膵臓をたべたい 』の月川翔監督と北村匠海が、ヒロインに永野芽郁を迎えて、小説を映画化したのが本作である。「きみすい」の二番煎じの匂いがプンプンと漂ってくるが、その予感は間違いではなかった。

あらすじ

渡良瀬まみず(永野芽郁)は発光病という不治の病で入院中。そこにクラスの代表として嫌々ながらお見舞いに訪れた岡田卓也(北村匠海)は、まみずの願望を一つ一つ代行して叶えていくことを引き受けて・・・

ポジティブ・サイド

北村匠海の静かで、一見すると感情の乏しい演技は、こうした役どころによく当てはまる。月川監督はそれを上手く使っている。エナジェティックな女子に振り回される、受け身な男子という役が合うが、もうそろそろ違う路線を模索し始めてみてもいいのではないだろうか。それでも、北村のしなやかな強さを内に秘めた存在感や優しさ、時に一徹なまでの頑固さ、表情には決して現れることのない直情径行さ、そうしたものを全て内包したような立ち居振る舞いを魅せられるところが、単なる期待の若手俳優たちと彼を分かつ一線であろう。

永野芽郁も発光の美少女・・・、ではなく薄倖の美少女が似合う。単に病魔に冒されたか弱い女の子というだけではなく、そのうちにある願望、悲しみ、怒り、邪(よこしま)とも言えそうな欲望などの感情をないまぜにしつつも、笑顔でそれを吹き飛ばしてしまうような天真爛漫さは、『 君の膵臓をたべたい 』の浜辺美波とはまた一味違った良さがある。浜辺がミステリアス女子だとすれば、永野はパワフル女子だろう。

二人のキャラクター造形はとても魅力的で、卓也がまみずとの距離を縮めていく願望代行過程には、余命ゼロというシリアスさとは裏腹のユーモアがある。そのユーモラスな展開が、冒頭ではっきりと描かれるまみずとの永遠の別離をいっそう切ないものにしている。脇を固める長谷川京子や及川光博も、これらの若い才能のサポート役に徹しつつも、見せ場を作った。凡百のラブストーリーではあるが、多くの見せ場があり、これらキャストのファンであれば鑑賞をためらう理由はないだろう。

ネガティブ・サイド

ちょいと映画ファンさんよ。聞いてくれよ。

ブログとあんま関係ないけどさ。

このあいだ、近所の映画館行ったんです。映画館。

そしたらなんか『 君は月夜に光り輝く 』で

ヒロインが発光病に冒されてるんです。

で、よく見たらなんか窓とか超大きくて、

病室が光に溢れてるんです。

もうね、アホかと。馬鹿かと。

(略)

病院ってのはな、もっと患者の容態に対して注意深くあるべきなんだよ。

さっきまで元気そうだった患者さんが、

次の瞬間に急変して緊急手術になってもおかしくない、

そんな殺伐とした雰囲気がいいんじゃねーか。健康な奴は、すっこんでろ。

などと古すぎるコピペを使いたくなるほど、本作の欠点は大きすぎる。死期が近付くほどに強く光を放つということは、ほんの少しの弱い光を放ち始めた瞬間を捉えることこそが、治療や看護、本人や家族への告知や説明の面から、決定的に重要なことなのだ。この陽光が溢れる病室は、監督、撮影監督、照明のこだわりが結実したものなのだろうが、リアリズムの観点からは完全に誤った選択である。まみずの母親も、怒りの矛先を卓也ではなく病院に向けてはどうか。

『 タイヨウのうた 』や『 青夏 君に恋した30日 』のように、本作もいくつかの場面で、季節と時刻にマッチしない光の使い方をしている。“光”が重要なモチーフになっている作品にしてこのあり様とは・・・ 月川監督は個人的には高く評価しているのだ。事実、Jovianは2018年の国内最優秀監督の次点に推している。氏の奮励と捲土重来を期したい。

主演二人の演技は及第点もしくはそれ以上を与えられるものの、甲斐翔真と今田美桜の二人の棒読みは何とかならなかったのか。さんざん練習してあのレベルなのか、それともあまり練習をせずに撮影に臨んだのかは知らないが、根本的な発声練習にもっと励むべきだ。『 ブレードランナー 2049 』のライアン・ゴズリングが見せた、彼が普段からやっていたような発声練習をもっとやるべきだ。彼ほどのトップスターでもこうした地道なトレーニングを積んでいるのだ。もっと真剣に役者業をやれと言いたい。

これは原作者にその責があるのだろうが、なぜに日本の漫画、小説、映画は劇中劇を行うとなると「 ロミオとジュリエット 」なのだ。馬鹿の一つ覚えとはこのことであろう。『 あのコの、トリコ 』という駄作だけで、これはもうお腹いっぱいである。北村匠海に女装をさせたい、あるいは芸域を広げるために女形をやってほしいということであれば、別にジュリエットである必要はない。『 ピース オブ ケイク 』の松坂桃李や『 彼らが本気で編むときは、 』の生田斗真のような役を演じる別の機会がきっと訪れるはずだ。

総評

実写の『 君の膵臓をたべたい 』の水準を期待すると、がっかりさせられる。しかし、最初からファンタジー映画であると割り切って、バイオフォトンなどという怪しげな言葉に惑わされないようにして鑑賞すれば、つまりリアリズムなど一切考えることなく観れば、純粋で芳醇で、やや苦いロマンスを味わうことができる。チケットを買う前に、よくよくそのことを心に留めておくべし。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 北村匠海, 日本, 永野芽郁, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 君は月夜に光り輝く 』 -ファンタジー映画に徹すべきだった-

『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

Posted on 2018年9月18日2020年2月14日 by cool-jupiter

響 -HIBIKI-  50点
2018年9月17日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:平手友梨奈 北川景子 小栗旬 アヤカ・ウィルソン 高嶋政伸 柳楽優弥 野間口徹 吉田栄作
監督:月川翔

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編集者の花井ふみ(北川景子)は、新人賞への応募作品に衝撃を受ける。著者は鮎喰響(平手友梨奈)、15歳の女子高生。その文才は、天才という言葉以外では名状しがたいものだった。しかし、響を響きたらしめるのは、その文才よりもむしろ、あまりにも直截すぎる対人関係スキルであった。すなわち、社会性の欠如である。響にとっての人間関係とは、常に個と個のつながり、もしくはせめぎ合いであるようだ。我々はついつい響のエキセントリックな行動の数々、なかんずくその暴力性に目を奪われてしまう。それは時に親友の凛夏(アヤカ・ウィルソン)や編集者のふみにも及び、女と女の仁義なき戦い、平手打ち合戦からピローファイトにまで発展する。その一方で、響は面白い作品を世に送り出す作家には、呼び捨てをしてしまうという社会性の欠如は見られるものの、自ら駆け寄り、無邪気な笑顔で握手を求めるという、年齢相応の行動を見せたりもする。それとは逆に、大御所であっても、名作を生み出す力を無くして久しい作家には敬意を表することはない。むしろ、ハイキックをお見舞いする始末である。

我々は彼女の行動に社会性の欠如をこれでもかと見出すが、その一方で社会性という言葉の持つ空虚さを響に見せつけられもする。その最たるものが、記者会見での謝罪要求を突っぱねるところだろう。暴行を加えた相手に個人的に謝り、相手もその謝罪を容れたのだから、これ以上誰に謝る必要があるのか?という理屈だ。蓋し正論であろう。現実の世界でも、芸能人や著名人、社会的に一定以上の地位にある人間が不祥事を起こした時には、謝罪のための記者会見がセッティングされる。日本人は根本的に謝罪が好きなのだ。そうした謝罪をフルに楽しむための映画には阿部サダヲ主演の『謝罪の王様』が挙げられる。もしくは謝罪会見のお手本中のお手本としては某大学のアメリカンフットボール部部員の例が挙げられよう。

Back to the topic. 社会性と我々が言う時、我々は結局、自分自身の意見を大多数の顔も名前も知らない他者たちに仮託しているに過ぎないことを、響は明らかにしてしまう。「○○○と感じる人もいると思いますが」、「中には□□□という意見もあるようですが」。これらは記者会見だけではなく、ネットの論説記事などでよく見られるセンテンスの類型である。≪editorial we≫と呼ばれる手法である。野間口徹演じる週刊誌記者に対して、響は相手の息子をある意味で人質に取るかのような発言をし、相手から譲歩を引き出す。人間は、社会的な肩書をひっぺがして、徹底的に個の部分を突いてしまえば、実は非常に弱く脆い生き物である。このことは小林よしのりがその著『ゴーマニズム宣言』において、川田龍平氏と厚労省の官僚の面談の場で、あまりにも非人間的な対応に業を煮やした小林は「あなたの子どもに、『お父さんは人殺しなんだよ』と伝えようか」と迫る。その時に初めて、官僚が人間の顔を見せたという一幕が描かれていた。響も記者から記者の皮を剥ぎ取り、人の親たる個の姿を引きずりだした。そうすることで初めて、自分も誰かの子であると相手に思い起こさせたわけだ。我々は人間関係において、相手という人間部分を見ず、相手の社会的な地位や属性にばかり目を向けたがる。大御所作家の祖父江秋人(吉田栄作)の娘の凛夏をデビューさせるところなど、まさにそうだ。大作家の娘にして現役女子高生という属性が話題を呼びやすいだろうという打算がそこにまず働いている。

異形、異能、異端。我々は天才あるいは社会の規範に収まりきらない才能をしばしば異類もしくは異種として扱う。天才だから突き抜けた存在になれるわけではない。逆で、我々は突き抜けた存在にしか天才性を見出せない。なぜなら、我々が金科玉条のごとく敬い奉る社会的属性を、天才はそもそも纏わないから。将棋の世界は天才だらけだが、名棋士列伝というのは、そのまま変人・変態列伝であったりもする。そのことは加藤一二三先生を見ればお分かり頂けよう。これは日本だけに当てはまる話ではなく、チェスのグランドマスターを列伝体で語るならば、それもそのまま西洋文明世界の奇人変人列伝となる。特に、ボビー・フィッシャーは『完全なるチェックメイト』で映画化されたが、彼の奇人変人狂人っぷりは伝記『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』に詳しい。

Back on track. 本作では本棚が重要なモチーフになっている。あるキャラクターが本棚の本を、ある法則でもって分類整理しているのだ。そのことを貴方はどう見るだろうか。本の面白さとその著者の人格は統合して考えるべきだろうか。それとも分けて考えるべきだろうか。気に入らないことがあればすぐに暴力に訴える女子高生の部屋に、年齢・性別相応のかわいいぬいぐるみがあることを、貴方はどう受け止めるべきなのだろうか。我々の思考は危険な二分法の陥穽にはまりがちだ。AはAであって、非Aではない。そう感じる我々に絶妙のタイミングで「動物園でキリンをバックに写真撮影するシーン」が訪れる。ここで我々は響は、その異能性にも関わらず、普通の女の子と何ら変わることのない属性を有していることを知り、愕然とする。天才とは突き抜けた存在ではなく、我々が勝手に敬して遠ざける対象であることを知るからである。思い出してほしい。響は、たとえそれがキックであれ握手であれ、舌鋒鋭い批評であれ友情の言葉であれ、常に自分から他者との関係の構築もしくは調節に動き出していた。社会性の欠如は、天才の側ではなく、天才に接してしまった凡人の中に生じるのだ。非常に回りくどいやり方ではあるものの、確かに我々は現実世界でもそのように振る舞っている。

本作の欠点をいくつか挙げさせてもらえれば、まず第一にキャラクターの弱さである。特に幼馴染っぽい男と文芸部に再入部してくれる不良は、マネキンのごとく、ただ突っ立っているだけのことが多かった。また、小栗旬のキャラクターが初めて登場するシーンで、PCで小説を執筆するシーンだが、あれは本当に文字を打っていたのか?それとも適当にキーボードをがちゃがちゃやっていただけなのだろうか?というのも、右手の小指がEnterや句点、読点の位置に全く来なかったように見えたからだ。もちろん、そういう可能性もある。小説家の奥泉光は、小説修業時代に、始めから終わりまでただの一文で書き切る小説や、地の分だけ、逆に会話文だけで完結する小説など、種々の制約を自らに課して物書きに励んだと言う。小栗も、そうした手法を用いていたのかもしれないが・・・ 最後に、直木賞や芥川賞に、現代それほどの価値が認められているだろうか?という疑問がある。又吉直樹の『火花』はそれなりに面白い小説および映画であったが、どう見ても私小説の域を超えていない。いや、ジャンル分けはどうでもよい。現代という、食べログや映画.comといった既存の権威(一部の評論家など)を破壊して、一般大衆の個々の意見を丁寧に拾い上げるシステムが構築され、一定の力を得ているようになった時代に、賞でもって作品の格付けをしようとすることそのものが天才と凡人を分ける思考そのものではないのだろうか。そして、今やネット上の民主的なシステムですら脱構築されようとしているのではないだろうか。そうした時代にあって、天才と向き合うことをテーマにした本作が発するメッセージは決して強いとは言えないだろう。本作を観ようかどうか迷っている向きは、こんなブログ記事の言うことなどあてにせず、「文句を言うなら観てからに」するように(台詞うろ覚え)。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, サスペンス, 北川景子, 小栗旬, 平手友梨奈, 日本, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

Posted on 2018年8月21日2019年4月30日 by cool-jupiter

君の膵臓をたべたい 70点

2018年8月16日 レンタルDVD観賞
出演:浜辺美波 北村匠海 小栗旬 北川景子 上地雄輔 矢本悠馬
監督:月川翔

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タイミングが合わなかったと言ってしまえばそれまでなのだが、本作を昨年のうちに劇場で観ることを選択しなかった我が目の不明を恥じる。いくつかの欠点に目をつぶれば、非常に優れた作品である。

“僕”(小栗旬)は高校の国語教師。ある仕事をきっかけに高校時代の友人の山内桜良(浜辺美波)を思い出す。彼女は膵臓の病を患っていた。そんな彼女と過ごしたかけがえの無い高校時代の自分(北村匠海)の回想を通じて、桜良が未来に宛てたメッセージを受け取ることになる。

浜辺は、南沙良と並んで、現在売り出し中の若手女優のトップランナーの地位を本作で築き上げ、『センセイ君主』で確たるものにしたと評してもよいだろう。病気と笑顔で向き合う。しかし、一瞬だけ垣間見せるその表情に我々は桜良が心の奥底にひた隠す死への恐怖と生への渇望を見逃すことは無い。さりげなく、それでいてハッと気づいてしまう。卓越した演技力の持ち主であることを随所で見せつけてくれる。 

桜良が“僕”に好意を抱くきっかけの一つに、“僕”が桜良の病気のことを知っても動じなかった(ように見えた)ことが挙げられる。看護師さんらによると、病院という場所では患者はしばしば「病気」で呼ばれるということだ。医者はしばしば「あの305号室の肺がんの人だけど云々」などと言うらしい。これは実は医療従事者だけに特有の考え方だったというわけではない。一昔前は障がい者を、disabled peopleと英語で言っていたが、その後はpeople with disabilitiesに、今ではspecial needs peopleまたはpeople with special needsと言っている。病気や障害を、その人と最も特徴づける属性として捉えていた時代があったのだ。今では医療や介護の世界にもセルフケアという概念が浸透し、「何ができないのか」ではなく、「何ができるのか」で人間を評価するようになっている。“僕”は意識的にも無意識的にも、桜良が何ができないのかを考えることは無く、桜良ができることに寄り添う姿勢や態度を見せていた。これは惚れるしかない。北村匠海の過去の出演作品を今回チェックしてみて驚いた。ほとんど全部観ているし、確かに印象的な演技を見せてくれていたことは思い出せた。しかし、俳優としての北村匠海の印象が極めて希薄なのだ。例えばニコラス・ケイジやトム・クルーズは、どんな作品に出ても、どんな役を演じても、結局は本人にしか見えないことがほとんどである。日本で言えば福士蒼汰や東出昌大がこれに該当する。北村匠海は違う。窪田正孝の系列の役者であると評しても間違いではないだろう。この若い二つの才能のぶつかり合いが作品に深みと奥行きを与えている。

残念ながらいくつかのマイナス点も指摘しなければならない。ホテルに泊まるところで、「僕」が髪をタオルで拭きながら出てくるシーンがあるのだが、いかにも不自然だ。髪も本当に濡らして、それをドライヤーで生乾きぐらいまで乾かした感じで出てくるぐらいでいい。また、小栗旬と北村匠海は、表情や目の動き、歩き方などでかなりお互いがお互いを同一人物として意識した役作りおよび演技ができていたが、他のキャストがあまりにも似ていない。というか、似せる努力をしていない。世界的に『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』が批判されているのは、オールデン・エアエンライクの演技力の低さではない。ハリソン・フォード演じるハン・ソロを意識した演技ができていなかったからだ。これは監督の罪でもあるが、本人の罪でもある。まあ、ハリソン・フォード自体がトム様やニコケイのような、ほとんどの役で「これはハリソン・フォードである」と認識されてしまう役者であるのだが。矢本と上地が同一人物設定というのはどうなのだ?また、大友花恋が北川景子に変身するのも、説得力がなさすぎる。だからこそ、このタイミングでアニメーション作品の制作および公開に至ったのだろうが。

Back on track. 本作は「生きることの意味」を追求する作品でもある。「君がいなくなったら、みんな、僕のことなんか忘れるよ」という“僕”の台詞に「そんなの死ぬに死ねないよ」と返す桜良。二人は死を心停止などという生物学的な意味では捉えていない。死ぬ=誰にも思い出されなくなる、と捉えている。これは『ウインド・リバー』でランバートが語っていたことと全くの同義である。生とは、ある一面では、思い出の中に宿るものなのだ。桜良が死ぬまでにやりたいこと=誰かの中の思い出として生き続けたいという欲求なのだ。

桜良はもう一つ、本や文字にも自分の生を託す。学校の図書館に眠る本の数々が、ある意味での永続性を象徴している。文字は一種のタイムマシーンだ。その場所が取り壊されることが決まってしまった時、桜良からのメッセージが見つかる。図書館の窓の外に覗くは、散り行く桜。我々はここで否応なく桜良の「桜は散ったふりして咲き続けている。散ってなんかいない。みんなを驚かせるために隠れているだけ」という台詞に思いを馳せずにはいられなくなる。健気に生きる姿だけが美しいわけではない。生きることは時に残酷なまでの悲劇を生む。死んでも、それでも生きていたいという想いの強さに打ちのめされるラストシーンに、観る者は大いに涙するだろう。

 

Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ロマンス, 北村匠海, 日本, 浜辺美波, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

『センセイ君主』 -少女漫画の映画化文法を破壊する会心のコメディ-

Posted on 2018年8月7日2019年4月25日 by cool-jupiter

センセイ君主 70点

2018年8月5日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:竹内涼真 浜辺美波 佐藤大樹 川栄李奈 矢本悠馬 新川優愛
監督:月川翔

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率直に言う。近年の製作過多気味の少女漫画原作映画の中では突出した面白さである。そして、その面白さのおそらく50%は主演の浜辺美波のコメディックな演技力の高さから来ているのは間違いない。『となりの怪物くん』や『君の膵臓を食べたい』では抑えつけられていた(のかもしれない)ポテンシャルが一気に花開いた感がある。松屋で牛丼定食を数千円分も頬張り、パッドを入れまくって巨乳をアピールするヒロインというのは、寡聞にして知らなかった。メジャーな漫画があらかた映画化されてきたこともあるが、今後はこうしたメインストリームではない物語も脚光を浴び始めるだろう。一頃は広瀬すずや土屋太凰で埋め尽くされていた少女漫画原作の映画に新しい息吹を感じられたことを素直に喜ぼうではないか。

佐丸あゆは(浜辺美波)は女子高生。恋に恋する女子高生。漫画『スラムダンク』の桜木花道ばりの告白失敗連続記録を作ろうとしていた。松屋(食券制ではなかったか?)で牛丼をやけ食いするも、代金を払えなかったところを見知らぬ男に助けられる。翌日、めげずに次の恋へと走ろうとする健気なあゆはを神は見捨てていなかった。ロッカーにラブレターが入っていたからだ。告白を受け、さっそくデートに行くも相手の粗ばかりが目につき、結局は破局。そんな時に松屋で助け舟を出してくれた男が新任の担任教師(数学)、弘光由貴(竹内涼真)であることを知ったあゆはは、由貴のひねくれ過ぎた性格をものともせず告白するも撃沈。挙句に「俺を落としてみなよ」とまで挑発されてしまう。かくして佐丸あゆはの奮闘が始まった・・・

原作のテイストなのか、映画的演出なのか、過剰とも思えるほどの間テクスト性に溢れている(関テクスト性の具体例を知りたいという人は、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の作者コラムを読んでみよう)。もちろん『レディ・プレーヤー1』のようなクレイジーな量ではないが、『ロッキー』から『3年B組金八先生』、『ドラゴンボール』に『進撃の巨人』ネタまで放り込んでくるそのノリは嫌いではない。むしろ大いに笑わされたし、他の作品でもこうした手法は取り入れられるべきであろう。実際に劇中でジュディマリを歌うシーンがあるが、スクリーンの中の世界がこちら側の世界と地続きであると実感することで生まれる感覚というのは確かに存在する。「ああ、このキャラ達もあの作品を観たり読んだりしたんだな」という感覚が自分の中に生まれた時、確かに“さまるん”を応援したくなった自分がいた。もちろん、こうした試みを嫌がる向きもいるだろう。二時間の間は、フィクションの世界に没頭したいという人には少々酷な演出かもしれない。このあたりは観賞者の好み次第なので、自分と波長が合わないからといって、無下に否定してはならないように、自分でも注意をしたいものだ。

教師とは思えないほど薄情でシラケた態度の由貴に、一部の女子が授業のボイコットを計画するが、話してみればむしろ天然の面白キャラとして認知される。大人と子どものギャップを描き出すシーンだが、実はどちらも子どもであるということを伝える重要なシーンでもある。詳しくは作品を実際に観賞してもらうべきだが、敢えて近い対象を探すならば、『L・DK』の久我山柊聖がそのまま年齢を重ねて教師になってしまったような感じか。空手家の角田信朗は曙戦前だったか、「おっさんのかっこいいところは、かっこ悪いことを全力でやること」と喝破していた。つまりはそういうことなのだろう。ここでのおっさんを「大人」に置き換えれば、この物語での大人は誰なのか、子どもは誰なのかが逆転する。このことはさまるんの親友やその彼氏、さらにさまるんに恋心を抱く幼馴染らにも当てはまる。何がどう当てはまるのかを知りたい人は、ぜひ本作を観よう。そして本作を観たら『恋は雨上がりのように』と比較をしてみよう。大人になりきれていない大人の男が、若い女の子に迫られた時、どうするべきなのか。両作品とも非常に示唆に富む回答を提示している。本作のもう一つの特徴というかユニークさは、ヒロインとその親友のトークのえげつなさだ。トレーラーにあった「バーロー、ガチ恋したら胸ボンババボンだっつーの!」みたいな会話が当たり前のように交わされるのは、実はかなり健全な関係を築けている証拠だったりする。アメリカ映画でハイスクールが舞台だと、邦画では考えられないような容赦の無い女子トークが往々にして展開される。『スウィート17モンスター』や『JUNO ジュノ』、『ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界』などが好例だ。あまりに優等生的な関係だけではなく、多少の毒の混じった関係ぐらいがちょうど良いのである。お盆休みの予定が決まらない人は、劇場で本作を観るべし。

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ロマンティック・コメディ, 日本, 浜辺美波, 監督:月川翔, 竹内涼真, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『センセイ君主』 -少女漫画の映画化文法を破壊する会心のコメディ-

『 となりの怪物くん 』 -孤独な怪物のビルドゥングスロマン-

Posted on 2018年5月16日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:『となりの怪物くん』 55点
場所:2018年5月4日 MOVIXあまがさきにて観賞
主演:菅田将暉 土屋太鳳 池田エライザ 浜辺美波
監督:月川翔

原作の漫画の方では怪物である春はもっとぶっ飛んでいて、雫の方はもっと冷淡だったように思うが、そこは映画という枠組みに上手く嵌め込むためか、キャラ設定がややトーンダウンしていたようだ。

菅田将暉はさすがの安定感で、奇声を上げてニカッと笑うキャラが良く似合う。またはシリアスさの中に無邪気さを織り交ぜることにも長けている。けれど、なにか影が薄いのだ。存在感が無いというわけではなく、精神に陰影を持つキャラをなかなか演じる機会がないせいか、その高い演技力のポテンシャルはこれまで十全に引き出されてこなかった。そして本作でも従来通りの菅田将暉だ。

相対する土屋太鳳もややマンネリ気味か。同世代のフロントランナーの一人、広瀬すずがやや迷走を見せているが、土屋はいつになったら新境地に挑戦していくのか。こんなことを言うと完全にオッサンの世迷言か妄想になるのかもしれないが、いつの間にやら一定の年齢に達していて、ある時突然「脱いでもOK」になった蒼井優みたいになってしまうのでは?それはそれで歓迎する向きも多かろうが。それでも保健室で夕陽を浴びながら春に迫っていくシーンは、これまでにない色気があった。撮影監督や照明、メイクさんの手腕もあるだろうが、土屋本人の役者としての成長を垣間見れたような気がした一瞬でもあった。

少し残念だったのは委員長の浜辺美波の出番がかなり少なかったこと。「え、これでお役御免?」みたいな感じでフェードアウトしてしまう。『君の膵臓をたべたい』から着実なステップアップを見せてくれるかと期待したが・・・ それでもこの子の眼鏡姿は西野七瀬の眼鏡っ子ver並みに似合っている(と個人的に確信している)。池田イライザは反対にほとんど印象に残らなかった。

ストーリーは分かりやすく一本調子とも言えるが、春が家族に対して抱える苦悩を、なぜ雫は素直に共感できなかったのか。母親の不在とその距離、その穴埋めが、春の境遇への理解を妨げたというのなら、もう少しそれを感じさせるシーンが欲しかった。周囲の人間がさせてくれること、してほしいと思うことは、往々にして自分のやりたいこととは一致しない。必ずしも一致したから良い結果になるわけではないのだが、春という怪物の居場所が家庭にあるのだと雫が確信できるようなショットが一瞬でもあれば、物語全体の印象も大きく変わっていたはずだ。編集で泣く泣く監督もカットしたのかもしれないが。

月川監督は小説や漫画の映画化を通じて着実にキャリアを積み重ねている。オリジナルの脚本に出会って、それをどのように料理してくれるのか、今後にも期待できそうだ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ロマンティック・コメディ, 土屋太鳳, 日本, 監督:月川翔, 菅田将暉, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 となりの怪物くん 』 -孤独な怪物のビルドゥングスロマン-

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