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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 伝記

『 ボヘミアン・ラプソディ(“胸アツ”応援上映) 』 ーThe joy of movie-going is backー

Posted on 2019年1月5日2019年12月20日 by cool-jupiter

ボヘミアン・ラプソディ 85点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ラミ・マレック ルーシー・ボーイントン グウィリム・リー ベン・ハーディ ジョセフ・マッゼロ トム・ホランダー マイク・マイヤーズ
監督:ブライアン・シンガー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190105003315j:plain

2018年11月17日に大阪ステーションシネマで鑑賞した『 ボヘミアン・ラプソディ 』の“胸アツ”応援上映を体験。『 シン・ゴジラ 』の時にも大都市圏で実施された発声可能上映とだいたい同じと思えばよろしい。映画自体の感想は変わらない。むしろ、repeat viewingによって各シーンの構図やカメラアングルの意味がよりはっきりと伝わってくる。複数回劇場に足を運ぶ人が多くいるというのもむべなるかな。

 

Jovianは嫁さんと観に行ったが、劇場の入りは1割程度だっただろうか。箱の大きさに対して観客数も少なく、また実際にスクリーンに字幕が表示されるパートは大音量なので、かなり叫んだつもりでも、囁き程度にしか聞こえなかった。これは自分も嫁さんも確認している。それにしても客の入りとは関係なく、こうした試みはどんどん広がるべきであると思う。映画館に行くというのは能動的な営為であっても、映画を鑑賞するというのは極めて受動的な営為だ。しかし、そこに発声や手拍子、足踏みなどが加われば、受動でありながら能動のエンターテインメントが出来上がる。

 

問題があるとすれば、劇中の楽曲はすべてのパートが歌唱され、演奏されるわけでもない。またきれいにフェードアウトしてくわけでもないため、大声で歌っていると、いきなり画面が切り替わって、劇場内に自分の声が響き渡る、ということもありうる。「でもそんなの関係ねぇ」な小島よしおな人は、“胸アツ”応援上映を体験すべきだ。目立つのはちょっと・・・という控え目な人は、途中の “We Will Rock You” のシーン、最後のライブ・エイドのシーンで思いっきり絶叫すればよい。Jovianはそうさせてもらった。特に “We Are The Champions” では涙腺決壊必定である。嫁さんと二人で涙を流し、声に詰まりながら、何とか歌い切った。英語(に限らず、たいていの言語)には Editorial We と呼ばれる語法が存在する。新聞記事などで「~~~であると思われる」という、あの表現である。また書き言葉以外でも、特にメディアの質問やインタビューでも盛んに用いられるということは『 響 -HIBIKI- 』のレビューでも示した通りである。知らず知らずのうちに読者や視聴者を著者や話者の視点に包含するわけだ。フレディの抱える劣等感、葛藤、苦悩・・・ 我々はいつの間にか彼と同化する。心に闇を抱えない者がいようか。そうした懊悩の全てが We are the champions という歌詞と歌唱と共に吹き飛ばされていったように感じられた。なんというカタルシス!

 

観終わった後、隣の座席の母娘の会話が漏れ聞こえてきた。「お母さん、ゲイって何?」娘の方はおそらく小6~中1ぐらいだっただろうか。おそらく本作をきっかけに、このような会話が日本の津々浦々で交わされたに違いない。これは、クイーンというバンドの生み出した音楽の力を称揚するだけの映画では為し得ないことだ。受け手にしっかりと考えるきっかけを与える映画である。さあ、あなたも時間と懐に余裕があれば“胸アツ”応援上映に Go! である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ラミ・マレック, ルーシー・ボーイントン, 伝記, 監督:ブライアン・シンガー, 配給会社:20世紀フォックス映画, 音楽Leave a Comment on 『 ボヘミアン・ラプソディ(“胸アツ”応援上映) 』 ーThe joy of movie-going is backー

『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

Posted on 2019年1月4日2019年12月20日 by cool-jupiter

こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 70点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:大泉洋 高畑充希 三浦春馬 萩原聖人
監督:前田哲

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日本にも障がい者を正面から捉える映画が増えてきた。それが正しいか、もしくは多くの人々に受け入れられるかどうかは別にして、障がいもまた個性であるという考え方が提唱されて久しい。『 ブレス しあわせの呼吸 』の、ある意味では正統的な続編と言えるのかもしれない。

 

あらすじ

時は1994年、鹿野靖明(大泉洋)は34歳。筋ジストロフィーのため、動かせるのは首より上の筋肉と手首より先ぐらい。そんな鹿野は、我がままの言いたい放題でありながらも、ボランティア達とは不思議な縁で結ばれていた。医大生の田中(三浦春馬)とそのガールフレンドの美咲(高畑充希)もひょんなことからボランティアのメンバーになってしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

実在の人間をモデルにしているのだから、当たり前と言えば当たり前だが、鹿野という人物が非常に生き生きと活写されている。『 聖の青春 』の村山聖もそうだったが、自分に残された命がそう長くはないと悟っている人間というのは、後悔をしたくないのだ。だからこそ、食べ物や雑誌のあれやこれやに非常に細かい注文をつけてくる。なぜなら、それが人生最後の食事や娯楽になるかもしれないから。劇中でも言及されるが、彼ら彼女らのわがままはは単なる駄々っ子のそれではない。生きるということを誰よりも真剣に捉えた上でのことなのだ。鹿野の言い放つ「医者の言う命って何なんだ?」という台詞は、劇中の時代から20年以上を経た今でも、非常に重い問いとして我々に圧し掛かってくる。その問いに対する答えはエンドクレジット中に示されるので、結末部分だけを見てさっさと劇場を後にするなどということは努々することなかれ。ここでは某韓国映画が持っていて、日本版リメイクが削ぎ落としてしまった、命に関する重要なメッセージが語られるのである。

 

それにしても『 パーフェクト・レボリューション 』や『 パーフェクト・ワールド 君といる奇跡 』など、日本もかつての無意識の差別意識がかなり薄まり、あらゆる人を社会的に包摂するにはどうすればよいのかを問うようになってきたようだ。作り出される映画の質は措くとしても、そのラインナップに可能性を感じる。『 博士と彼女のセオリー 』にあったような、ある意味での孤閨をかこつ女の寂しさと、ストレートに愛情をぶつけてくる男というのは、いとも容易くドラマを生む。高畑充希は『 アズミ・ハルコは行方不明 』で結構な尻軽を演じていた記憶があるが、今作でも体当たりの演技を披露してくれる。といっても脱いだりはしないからスケベ視聴者は期待すべからずだ。その代わりに、高畑の大ファンが聞いたら卒倒するような台詞も言ってくれるから、そこは期待していいだろう。しかし、赤ん坊の世話、高齢者介護においても、絶対に避けては通れないような問題をしっかりときっちりと描く本作の姿勢には非常に好感が持てる。

 

ブラックボランティアなる言葉がある。2020年の東京オリンピックでは、高度なスキルや経験を持つ人材数万人を手弁当で動員しようというプランがあるようだ。そのことの是非はここで判断すべきではないが、本作ではボランティア=無償の労働力とは捉えない。Volunteerという英語は、元はラテン語のvolo = I am wishingから来ている。鹿野は大げさでも何でもなく世界変革の夢を見ている。その夢に参画したいという者をボランティアとして募っているのだ。こうした個人が日本という国で確かに息をしていたということに驚かされるし、そうした人物を見事に銀幕に蘇らせた大泉洋に拍手。

 

ネガティブ・サイド

終盤のとあるシーンで、ドン引きさせられるシーンがある。人によってはぶん殴ってくるだろう。それも鹿野の人徳かもしれないし、もしかしたら映画化に際してのドラマチックな脚色かもしれない。しかし、個人的にはあの展開はないだろうと感じた。

 

田中の医学部生としての描写も弱い。体位交換のことを体交とボランティアが略して言うのに、気管切開のことを医大生の田中が気切(きせつ)ではなく、あくまで気管切開というのには違和感を覚えた。その他、様々な場面で田中に医者の卵らしさが見られてしかるべき場面があったのに、そのいずれでも田中は輝けなかった。それが事実だったと言ってしまえばそれまでだが、こういったところこそ脚色してナンボだろうと思う。映画とは一にかかってリアリティの追求なのだ。

 

最後に、音楽が重要なモチーフになる本作であるが、なぜジャズがフォーカスされなかったのか。鹿野が美咲につられて、あっさりとジャズからロックに宗旨替えしてしまうのは納得がいかなかった。ロックを魂の叫び、体制への反逆と定義するのならば、鹿野の生き方に合致しないこともない。しかし、ジャズは?『 ラ・ラ・ランド 』のセブが力説したように、ジャズはバンドのミュージシャンたちがその瞬間ごとに文脈を考慮しながら、新たに曲を書き、編曲し、そして演奏するのではなかったか。鹿野自身の来たし方はロックかもしれないが、ボランティアとの交流は間違いなくジャズだろう。ジャズの要素をもっともっと交えたシーン、ジャズ音楽そのものと協働するようなシーンが欲しかったと思うのは、決してない物ねだりではあるまい。

 

総評

これは素晴らしい作品である。高校生あたりの道徳の副教材に採用しても良さそうだ。障がい者を見る時、人はその相手に自分が障がいを負った時の姿を見ると言う。鹿野という人間が確かに生き、確かに死に、しかし今も人々の心に残っているのは何故か。それこそが生きるということであると本作は高らかに宣言する。ほんの少し性的な要素も描写されるが、聡明な中学生ぐらいなら逆にそれも勉強の糧にできるような良作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 三浦春馬, 伝記, 大泉洋, 日本, 監督:前田哲, 萩原聖人, 配給会社:松竹, 高畑充希Leave a Comment on 『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』 -インド発のグローバル映画の名作-

Posted on 2018年12月31日2019年12月7日 by cool-jupiter

パッドマン 5億人の女性を救った男 80点
2018年12月24日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:アクシャイ・クマール ラーディカー・アープテー ソーナム・カプール 
監督:R・バールキ

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踊りと歌で特徴づけられるインド映画に、シリアスでありながらコメディック、ロマンチックでありながらもどこかに危うさと儚さが漂う傑作が誕生した。まさに時代に合致したテーマであり、インド社会の問題のみならず普遍的な人間社会のテーマに訴えかけるところに、インドの映画人が単なるエンターテインメント性だけを追求するのではなく、作家性や社会性を意識に刻んでいることが見て取れる。

 

あらすじ

インドの片田舎の小さな村で、ラクシュミ(アクシャイ・クマール)は最愛の新妻ガヤトリ(ラーディカー・アープテー)が生理時に不衛生な布を使っていることに気がついた。腕の良い工事職人であるラクシュミは、清潔なナプキンを自分で作れるのではないかと思い立つのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

本作が2001年を舞台にしたものであることに、まず驚かされる。女性の生理現象に対する無知と無理解、そして忌避の制度が根強く残ることに、前世紀の話なのではないかとすら思わされる。しかし、性についての無知や無理解、もしくはまっとうな教育の提供については日本も他国を笑ってはいられない。Jovianの妹夫婦は小学校の教師だが、二人が小学校での性教育について憤っているのを聞いたことがある。性教育の講師を雇って高学年向けに話をしてもらったら、「君たちは赤ちゃんがどこから生まれるか知っているかな?赤ちゃんはおしっこの穴とうんちの穴の間の穴から生まれてきます」と説明したという。信じられないかもしれないが、これが関西のとある小学校の性教育の現場の実態なのである(その後、校長が激怒してその講師は某自治体からは事実上の追放になったようだ)。

 

Back on topic. インドの地方で孤軍奮闘するラクシュミの姿は、多くのアントレプレナーの姿が重なって見える。そんなものが作れるわけがない。上手くいくわけがない。売れるはずがない。あらゆるネガティブな評価や、妻や家族自身からの否定的な言葉や態度にラクシュミの心も折れるかと思わされる展開が続く。まるで韓国ドラマの25分もしくは45分で一話の韓国ドラマのように、上がっては下がり、上がっては下がりの展開が観る者の心を掴んで離さない。何故こんな単純な構成にここまで引き込まれるのか。それは主演を努めたアクシャイ・クマールの熱演が第一の理由だ。女性にとってのデリケートな問題に無邪気に取り組んでいく様は、観客に無神経さと思いやりの両方を想起させる。それは男の普遍的な姿と重なる。たいていの男は女性に対して優しい。しかし、優しいが故に残酷でもある。それは、男の優しさは女性の美しい部分だけに向けられがちだからだ。女性が抱える痛苦、労苦に関しては無理解を貫くからだ。女性が周期的に出血することを知っていても、その時に感じる内臓の痛みにまでは理解は及ばない。いや、及びはするものの、それに対しての共感を持たない。ラクシュミは痛みは追体験できないものの、自作ナプキンを着用してみるのだ。男性としても、職業人としても、何かを感じ取ることができる非常に印象的なシーンである。

 

ストーリーの途中でラクシュミのナプキン作りに加わってくるパリ―(ソーナム・カプール)も良い。ラクシュミとは何から何まで正反対で、男と女、地方育ちと都会育ち、菜食主義者と鶏肉大好き、学歴無しと高学歴、ヒンディー語スピーカーとヒンディー語と英語のバイリンガルと、何から何までが対照的な2人が協働していく様には胸を打たれる。何故なら、ラクシュミが何をどうやっても超えられなかった壁をパリ―はいとも容易く超えてしまうからだ。そしてそのことにラクシュミは怒りも慨嘆もしない。このことを描くシーンではJovianは自分が如何に器の小さい人間であるかを思い知らされた。Steve Jobsの ”Stay hungry, stay foolish.” と ”The only way to do great work is to love what you do.” という言葉の意味をラクシュミは体現しているのだと直感した。

 

映像と音楽も素晴らしい。冒頭のラクシュミとガヤトリの出会いから新婚生活までのすべてが色彩溢れる映像と歌と踊りによって圧倒的な迫力で描き出される。また、ラクシュミの妹が初潮を迎えたのを村の女性が総出で祝福するシーンの映像美も圧巻である。『 クレイジー・リッチ! 』でもシンガポールの建築や食べ物が活写されたが、インドにもこのような映像美を手掛ける監督やカメラマンがいるのかと、世界の広さに思いを馳せずにいられなくなる。

 

その世界の広さ、いやインドの広さについて物語終盤に実に inspirational なスピーチが為される。女性に対する差別や偏見、因習が支配する地方の村落共同体などのバリアを打ち破るためには、人間の数を数としてではなく、多様性として認めなければならない。何かを成し遂げるときには、他者への想いを絶やしてはならない。R・バールキ監督のメッセージがそこにはある。それはインドだけに向けたものでは決してない。先進国でありながら、驚くほど性差別に寛容な日本社会に生きる者として、本作は必見であると言えよう。

 

ネガティブ・サイド

パリ―の父親の台詞が、まるで不協和音のように今も耳に残っている。パリ―は才媛として父親によって育てられたのだが、その父親の子育ての哲学が作品全体を貫く通奏低音と衝突している。

 

また、ラクシュミの妻ガヤトリを始めとしたラクシュミの家族、共同体の構成員とラクシュミ本人の温度差が気になる。本作は映画化に際して、様々な改変を加えられたものであることが冒頭に明言されるが、ラクシュミの奮闘と家族の温度差がなかなか埋まらないのには胸が苦しくなってきた。ハリウッド映画やお仕着せの日本映画の見過ぎなのだろうか?

 

総評

ラクシュミの英語は素晴らしい。日本語話者が英語でスピーチをするときには、彼のような英語でよいのだ。英語学習者の目指すべき姿、ありうべき姿として本田圭佑や孫正義が挙げられるが、本作のパッドマンも日本のビジネスパーソンが目指すべきヒーロー像を、アントレプレナーとしても、英語のスピーカーとしても見事に体現してくれている。全ての映画ファンにお勧めしたいが、特にカップルや夫婦で観て欲しい逸品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクシャイ・クマール, インド, ソーナム・カプール, ヒューマンドラマ, ラーディカー・アープテー, 伝記, 監督:R・バールキ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』 -インド発のグローバル映画の名作-

『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -フレディ死すともクイーンは死せず-

Posted on 2018年11月19日2019年11月23日 by cool-jupiter

ボヘミアン・ラプソディ 85点
2018年11月17日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ラミ・マレック ルーシー・ボーイントン グウィリム・リー ベン・ハーディ ジョセフ・マッゼロ トム・ホランダー マイク・マイヤーズ
監督:ブライアン・シンガー

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原題もBohemian Rhapsody である。葛城ユキあるいはCHAGE and ASKAの楽曲‘ボヘミアン’を思い起こす人は多いのだろうか、それとも最早マイノリティなのだろうか。意味は放浪の人、流離う人、旅人、定住しない人などである。ラプソディとは、一曲の中で転調が見られる壮大な音楽を指す言葉である。そう考えれば、ボヘミアン・ラプソディというフレーズ、そして楽曲はQueenというバンドの定義にして本質であると言えるのかもしれない。

 

あらすじ

インド系の青年ファルーク(ラミ・マレック)はヒースロー空港で荷物の仕分けで日銭を稼ぎながら、夜な夜なパブに足を運び、バンドのライブを楽しんでいた。ある日、お気に入りのバンドのメンバーに声をかけたところ、リード・ヴォーカルが抜けたという。ファルークは歌声を披露し、その高音域を買われ、メンバーに加わる。そして伝説の幕が開く・・・

 

ポジティブ・サイド

20世紀FOXの定番ミュージックがエレキサウンド!『 ピッチ・パーフェクト ラストステージ 』でも採用されていた手法で、今後はこのような形で観客を映画世界に招き入れるのが主流になっていくのかもしれない。歓迎したいトレンドである。

 

本作を称えるに際しては、何をおいてもラミ・マレックに最大限の敬意を表さねばならない。はっきり言って、長髪の頃のフレディにはあまり風貌は似ていないのだが、短髪にして髭をたくわえ出したあたりからは、シンクロ率が400%に達していた。架空のキャラクターを演じるのは、ある意味で簡単だ。監督、脚本家、演出家などが思い描くビジョンを忠実に再現する、もしくは役者が自身のテイストをそれにぶつけて醸成させていけば良いからだ。しかし、世界中にファンを持つ伝説的なパフォーマーを演じるというのは、並大抵の技術と精神力で達成できることではない。彼の持つ複雑な生い立ちとその時代や地域におけるセンシティブなパーソナリティ、その苦悩、葛藤、対立、軋轢、堕落、和解、そして真実へと至る道を描き出すその労苦を思えば、マレックにはどれだけの賛辞を送ってもよいだろう。何か一つでもヘマをすれば、数十万から数百万というオーダーの映画ファン、音楽ファンから批判を浴びることになるからだ。史実(と考えられているもの)とは異なるシーンも散見されるようだが、そこは事実と真実の違いと受け入れよう。前者は常に一つだが、後者は見る角度によってその姿を変える。たとえば Wham! の名曲、“Last Christmas”は失恋を歌ったものであるが、ジョージ・マイケルのセクシュアリティを知れば、歌詞の解釈がガラリと変わる。フレディ・マーキュリーについても同様のことが言えるのだ。

 

本作はクイーンがいかに楽曲の製作や録音、編曲にイノベーションをもたらしたのかを描きながら、同時にバンドにありがちな衝突も隠さずに描く。Jovianの知り合いにプロの作曲家・音楽家・サウンドエンジニアの方がいるが、「バンドの解散理由っていうのは音楽性の違いが一番ですよ。ギャラの配分とかで揉めることの方が少ないです」とのことだった。クイーンの面々のこうした側面も描かれるのは、クイーンファンには微妙なところかもしれないが、人間ドラマを大いに盛り上げる要素であり、なおかつクライマックス前の一山のためにも不可欠なことだった。そうした描写に加えて、『 ダラス・バイヤーズクラブ 』のマシュー・マコノヒーよりも乱れた生活を送るフレディが家族のもとに回帰していく様は、夜遊びに興じるファルークが父と母のもとに回帰していく様を思い起こさせた。

 

ラストの21分間は圧倒的である。本作鑑賞後に、是非ともYouTubeで同ステージの映像を検索して観て欲しい。その場にいられなかったことを悔い、しかしその場にいたことを確かに実感させてくれるような作品を産み出した役者やスタッフの全てに感謝したくなることは確実である。本作を送り出してくれた全ての人に感謝を申し上げる。

 

ネガティブ・サイド

 

ほとんどケチをつけるところが無い作品であるが、フレディの過剰歯は本当にちょっと過剰すぎやしないか。

 

またバンドの結成からメジャーデビュー、さらにはアメリカツアーまでのトントン拍子の成功が、ややテンポが速すぎるというか、トントン拍子に進み過ぎたように思う。その時期のバンドのメンバーの関係やマネジメントとの距離感にもう数分だけでも時間を割いていれば、中盤以降の人間関係のドラスティックな変化にもっとドラマが生じたかもしれない。

 

あと、これは作品に対する complaint ではないが、本作のような映画こそ発声可能上映をするべきではないだろうか。‘We Will Rock You’や‘We Are The Champions’を、好事家と言われようとも、スノッブと言われようとも、映画館で熱唱してみたいと思うのはJovianだけであろうか。

 

総評 

レイトショーにも関わらず、かなりの入りであった。上映終了後、客が退いていく中、4~5組みの年配カップルの、特に男性の方が放心状態という態で席から立てずにいたのが印象的だった。『 万引き家族 』のリリー・フランキーではないが、「もう少しこの余韻に浸らせろ」と言わんばかりであった。似たような現象は『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』でも観察された。奇しくもそちらも同劇場でのことであった。近年でも『 ベイビー・ドライバー 』で‘Brighton Rock’が、『 アトミック・ブロンド 』のトレーラーでも‘Killer Queen’が使用されるなど、その音楽の魅力は全く色褪せない。フレディ・マーキュリー、そしてクイーン。彼は死に、彼らは最早かつてのバンドではない。しかし、その功績と遺産、輝きは巨大にして不滅、音楽ファンからのリスペクトは無限である。小難しいことは良く分からないという人でも、‘We Will Rock You’や‘We Are The Champions’を聞いたことがないということは、ほとんど無いだろう。トレーラーでもポスターでもパンフレットでも、何かを感じることがあれば、チケットを買うべし。

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『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

Posted on 2018年10月24日2019年11月3日 by cool-jupiter

泣き虫しょったんの奇跡 60点
2018年10月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:松田龍平 渋川清彦 イッセー尾形
監督:豊田利晃 

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将棋界が熱い。昨年2017年の羽生善治の前人未到、空前絶後の永世七冠達成と藤井聡太フィーバー、さらに加藤一二三の完全タレント化、それ以前にも映画化された『 聖の青春 』やアニメおよび映画化された『 三月のライオン 』など、将棋ブームが到来し、定着しつつあるようだ。もちろん、コンピュータ将棋の恐るべき進化、特に将棋電王戦でのプロ棋士の通算成績での負け越しや叡王戦での名人・佐藤天彦の完敗を忘れるべきではないだろう。もちろん将棋は偉大なるボードゲームで、その目的の第一は楽しむことである。当然、そこから派生するエンターテインメントも豊かに生まれてきた。近年だけでも小説『 盤上のアルファ 』がNHKでテレビドラマ化される見込みであるし、元奨作家による『 サラの柔らかな香車 』、『 サラは銀の涙を探しに 』も上梓された。そんな中、満を持して瀬川晶司の『 泣き虫しょったんの奇跡 』が映画化と相成った。

 

あらすじ

しょったんこと瀬川晶司は、勉強でも運動でも特に取り柄のない小学生。しかし将棋が大好きな子だった。兄やクラスメイト、隣の家の子らと切磋琢磨するうちに、プロ棋士の存在を知り、それに憧れ、奨励会に入会する。しかし、そこは天才少年、神童たちが鎬を削る過酷な世界だった。しょったんは青春を将棋に懸けるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

松田龍平の演技が光る。顔は瀬川棋士に似ているとも似ていないとも言えるのだが、それはオールデン・エアエンライクがハリソン・フォードに似ている程度には似ていると言えよう。つまり、それほど似ていない。が、雰囲気が実によく似ている。

 

だが、松田よりも特筆すべきは豊川孝弘役(と敢えて書く)を演じた渋川清彦だ。豊川はNHK杯での二歩による反則負けで一躍その名を全国に轟かせ、その後も地味にB1に昇給したり、バラエティやネット配信などで得意の親父ギャグを連発するなど、加藤一二三には及ばないものの、棋界の変人の末席に連なる人物と言える。風貌も相当に似ているし、話し方や表情などもかなり似せる努力をしていたのが見て取れる。その豊川本人が久保役で出演していることにも笑ってしまった。

 

しかし、本作で最も強烈なインパクトを残してくれたのはイッセー尾形である。しょったんの通う将棋道場の席主であり、将棋の技術ではなく、心構えの師匠役を完璧に演じてくれた。はっきり言って序盤の主役はイッセー尾形である。人によっては松たか子であると言うかもしれないが、Jovianの目にはイッセー尾形がより強力な輝きを放っているように映った。

 

将棋というのは躍動感にはどうしても欠けてしまう。それは『 聖の青春 』や『 三月のライオン 』でも、しっかりと描くことはできなかった部分だが、本作は飛車が盤の端から端まで動くのを接写することで、躍動感を生み出した。ありきたりなようでいて、実は新しいこの撮影手法には大いに喝采を送りたい。漫画『 月下の棋士 』の氷室将介のように大きく振りかぶって駒を打ちつけてしまうような演出は一二三だけで十分だ。

 

瀬川の少年時代に少し時間を割きすぎとの印象も受けたが、松たか子演じる小学校の担任の言葉が瀬川にとっての心の拠り所でもあり、またある意味での呪いになってしまっていることを描き出すためには致し方なかったのだろう。実際に将棋指し=芸術家+研究家+勝負師なわけで、この勝負師という部分の弱さ=優しさが対局の相手を利することになってしまう場面がある。情けを知るトップのプロ棋士ならいざ知らず、奨励会の、しかも3段リーグという鬼の棲家では、この甘さは致命傷だ。実際に妻夫木聡演じる奨励会員が「ここでは友達を無くすような手を指さないと勝てない」とこぼすが、これは紛れもない事実だ。激辛流で名人位まで獲った男もいるのだ。そうした弱さを、非常に分かりやすい形で観客に伝えることは、将棋指しの世界の厳しさをそれだけ浮き彫りにしてくれる。元奨の監督ならではであろう。

 

なお、もしもまだ本作を未見で劇場鑑賞を考えている方がいれば、ぜひこちらのニコニコ動画を参照されたい。原作書籍『 泣き虫しょったんの奇跡 』以外に予習しておくべきものがあるとすれば、この動画である。1から5まであるが、ぜひ参照されたい。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、いくつかの弱点も存在する。現実世界に符合しないものが多々描写もしくは説明されるのだ。いくつか気になった点を挙げると、しょったんと親友が将棋道場に足繁く通う描写と説明だ。土日になると開店時間の11:00にすぐに入店したと言うが、瀬川が小学校高学年から中学生にかけての時代はまだ学校週休二日制は導入されていなかった。小学校でも5-6年生は3~4時間目までは授業があったはずで、土曜の11:00に入店は難しいのではないか。また1980年代初頭(‘80~’82)に、電車の駅にはアイスクリームの自販機は無かった。

 

他にも明らかに事実とは異なる描写が見られた。プロ編入試験がプロ相手に3勝と説明されたが、実際は奨励会員に女流棋士も試験官を務めたのだから、この説明はおかしい。一般人の監督であればリサーチ不足と切って捨てるだけだが、元奨の監督なのだから、ここは厳しく減点せざるを得ない。他にも、棋士や奨励会員が一手を指す時に、持ち駒を使う描写がやけに多い。素人のへぼ将棋ならまだしも、プロ一歩手前の実力たちの対局を描くにあたって、この辺は少し気になった。

 

また、瀬川のプロ編入試験の5局目で席主や元奨連中が一様に瀬川のニュースを知って驚くのだが、これも不自然極まりない演出だ。将棋の駒の動かし方すら知らない人間であればいざ知らず、瀬川のプロ編入試験は大々的に報じられていたし、一局ごとにテレビやネットで中継され、藤井聡太の連勝中ほどではないが社会現象化していたのだ。

 

最後に、日本将棋連盟執行部にプロ編入を嘆願する際のプロ側の態度。あれはどれほど事実に即しているのだろうか。当時の連盟会長の米長は、常に“行乞の精神”を説いていた。名人戦の移管問題でとんでもない騒動を引き起こしたが、逆に言えば話題作りに長けた男でもあった。名人位には特権的な意識を抱いていただろうが、プロ棋士という地位や肩書に胡坐をかいて、あれほどの特権意識をひけらかす男だっただろうか。このあたりに豊田監督の限界を見るように思う。元奨の残念さという点では、電王戦FINALで21手で投了した巨瀬亮一を思い出す。FINALはハチャメチャな手が飛び出しまくる闘いの連続で、特に第一局のコンピュータの水平線効果による王手ラッシュ、第二局のコンピュータによる角不成の読み抜け(というか、そもそも読めない)など、ファンの予想の斜め上を行く展開が続いた。特に第二局は、▲7六歩 △3四歩 ▲3三角不成 という手が指されていれば一体どうなっていたのか。

 

閑話休題。元奨の中には将棋界に憎悪を抱く者も少なくない。豊田監督は駒の持ち方、指し方に強いこだわりを示していたそうだが、心のどこかに将棋および将棋界へのネガティブな感情がなかっただろうか。監督が強くこだわるべきリアリティにこだわれなかったせいで、傑作になれたであろうポテンシャルを発揮できないままに本作は完成させられてしまった。そんな印象を受けた。

 

総評

ライトな将棋ファンには良いだろう。特に観る将ならより一層楽しめるだろう。将棋は何も指すだけが魅力ではなく、それを指す人間の面白さも大事なのだ。でなければ、誰が棋士の食事にまで関心を持つというのか。一方でディープでコアな将棋ファンの鑑賞に耐えられる作品かと言うと、そこは難しい。シネマチックにすることとドラマチックにすることは似て非なるもので、リアリティをそぎ落とすことでしか追求できない面白さもあるが、本作には当てはまらない。良い作品ではあるが、将棋ファンを唸らせる逸品ではない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, イッセー尾形, ヒューマンドラマ, 伝記, 日本, 松田龍平, 渋川清彦, 監督:豊田利晃, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

『 裸足のイサドラ 』 -ダンスが切り開いた近代の地平を描く逸品-

Posted on 2018年10月12日2019年10月31日 by cool-jupiter

裸足のイサドラ 65点
2018年10月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:バネッサ・レッドグレーブ
監督:カレル・ライス

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ラテン語には“Si Monumentum Requiris, Circumspice.”という格言がある。英語圏では今でも時折、普通に使われる表現で、意味は“If you seek his monument, look around.”である。日本語に訳すとなれば、「彼の者の功績を見んとすれば、周囲を見渡すべし」ぐらいだろうか。イサドラ・ダンカンと聞いてピンとくる人がいれば、舞踊に携わるか、あるいはアメリカ史、とくに芸術の分野に造詣が深い人であろう。もしくは映画『 ザ・ダンサー 』でリリー・ローズ・デップが演じた天真爛漫、天才肌の少女ダンサーを思い起こしてしまうような相当なCinephile=シネフィルであろう。または、塾や英会話スクールでTOEFL講座を担当させられる、職務に忠実なパートタイム/フルタイムの講師ぐらいか。本作はさかのぼること1969年(本邦では1970年)に公開された、イサドラ・ダンカンの伝記的映画である。彼女が残した影響は、実は現代にも及んでおり、あたりを見渡せば、確かに彼女の遺産が豊かに花開いていることを知るだろう。

 

あらすじ

伝統的なバレエという束縛から解き放たれるために、トゥシューズを脱ぎ捨てたイサドラ・ダンカン。彼女はアメリカからヨーロッパに移り、伝統的な概念を次々に打ち壊していく。それは時に不倫であったり、ソビエト連邦行きであったり、ロシア人との結婚であったり、学校を建てて貧しい子どもを養うことでもあった。そんな彼女の自由な生き方を数々のダンスと共に活写する。

 

ポジティブ・サイド

イサドラ・ダンカンについて語るならば、その自由奔放な生き方そのものがしばしば話題になるが、彼女が何よりもまずダンサーであったことを考えれば、その踊りを観る者に見せつけなくてはならない。ベリーダンスに始まり、モダンダンスに昇華されていく過程にはしかし、踊り以外の要素がどんどんと投入される。それは、踊りは彼女が追究しようとした対象ではなく、彼女の生き方が踊りという形で外在化したものである、ということを宣言しているかのようだ。事実、その通りなのであろう。

 

冒頭でイサドラが古代ギリシャの彫刻の数々に心をときめかせるシーンがある。それらの彫刻は、どれもミロのヴィーナスよろしく、どこかしら破損であったり欠損があったりする。しかし、ここで我々は人類史上屈指の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉、”Art is never finished, only abandoned.”を思い出すべきなのかもしれない。よく言われることではあるが、ミロのヴィーナスを作った彫刻家が誰であれ、もしも彼/彼女が現代に蘇り、「大変だ、両腕を修復しなくては!」と言えば、我々は大慌てでそれを止めることだろう。不完全だから美しいのである。壊れているからこそ美しいのである。

 

イサドラは同じく、自然に美を見出す。それは寄せては返す波の動きであったり、風にそよぐ木々の葉の動きであったり、そうした何気ない自然物の動きを、自分の踊りに取り入れるのである。これも文献によく書かれていることだが、ライバルであり師であったロイ・フラーが踊りを自然、科学、技術、音楽などと統合しようとしたことに対しての、ある意味でのアンチテーゼであったと思われる。劇中のソビエト連邦帰りのイサドラが故国アメリカの地で言う「胸に手をあてて内なる声に耳を傾けると、正しい生き方が分かる。それこそが真の革命だ」という言葉にそのことがよく表れている。自然の衝動、動物的な本能の体現こそが彼女のダンスの真骨頂なのだ。そのことを端的に示すエピソードとして、彼女が始めたダンス・スクールに通う子弟は皆、貧しい子どもであった。イサドラ曰く、「お金持ちの子どもは要らない。あの子たちは飢えていない」

 

無論、あまりにも先進的というか革命的な彼女の考え方および行き方には反発がつきまとう。芸術や美の観念を常に壊し、覆し、更新していくからだ。しかし、旧体制、旧意識の人間側から為される反発に対する反論は痛快であり、衝撃的でもある。アメリカという国の自己認識と、外国のアメリカ認識には常に乖離があるのだということを思い知らされる。このあたりのアメリカの自己イメージがどのようなものであり、それがいかに変遷していないのかはドラマのニュースルームのシーズン1冒頭を観れば良く分かる。人のふり見て我がふり直せと思わなくてはなるまい。

 

イサドラを演じるのはバネッサ・レッドグレーブ、なんと『ディープ・インパクト』の主役レポーターの母親役だった。レジェンドだ。もっと古い映画も観ないといけないなと反省。発掘良品として本作をリコメンドしてくれたTSUTAYAに感謝。

 

ネガティブ・サイド

おそらく欧米では常識に属することなので、あまり丁寧に描写はされていないが、バレエがモダンダンスに進化した歴史的経緯を知らないままに見るのは、少し苦しいかもしれない。東京オリンピックと言えば2020ということになりそうだが、1964年の東京オリンピックがどのようなものであったのかは、徐々にメディアなどでも再特集がされるようになってきた。例えば、バレーの回転レシーブは今でこそ中学生、小学生でも高学年なら易々とこなす子もいるだろう。しかし、1960年代においては画期的な技だったのである。当時の回転レシーブを現代の目で見て評価をしてはならないのと同じで、イサドラのダンスを現代視点で見つめてはならないのだ。

 

おそらく日本の中高生あたりからすれば、『 累 かさね 』で土屋太凰が披露したダンスの方がより強く印象に残るだろう。しかし、ひらひらとした衣装を身に纏い、裸足で舞台を駆け回り、煽情的ともいえる舞を想像し、また創造した祖は、紛れもなくイサドラ・ダンカンその人なのである。ジャズがラグタイムにその創発を負っているように、モダンダンスはイサドラのインスピレーションに余りにも多くを負っている。そのことを、劇中でほんの少しでも触れる、あるいは予感させる描写があれば、東洋で鑑賞される際にも、観る者が違和感をそれほど抱くことなく、物語を追えたのではなかろうか。しかし、これは本来なら無いものねだりなのだろう。イサドラ没後40年ほどで本作が製作されていることを考えれば、間違いなく製作者たちは生前のイサドラと交渉のあった人たち、イサドラをライブで観た人たちに取材をしているはずで、また同時代の観客の多くはイサドラの踊りについて、かなりの程度の知識を持っていたと推測されるからだ。これは今時の野球少年でも、王貞治と聞けば「あ、知ってる!」となるのと同じである。それでも、映画という媒体が後世にまで残り、外国にまで広まるものという自覚が製作者にもあったはずで、だからこそ敢えてそこを減点の対象としたい。

 

総評

題材は一見古いものの、それは現代にまで影響を及ぼしうる巨大なものであることはすでに述べた。カメラワークやBGM、カットと編集の技術についても全く気にならない。古くても古くない映画である。古典というにはまだ少し新しいが、それでも扱われている人間は実在の人物であり、彼女の息吹、生き様には時代を超えて訴えかけてくるメッセージがある。ダンスに興味がある人だけでなく、広くアメリカ史や現代史に興味があるのであれば、借りてきて損をすることはないだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1970年代, C Rank, イギリス, バネッサ・レッドグレーブ, 伝記, 監督:カレル・ライス, 配給会社:ユニバーサルLeave a Comment on 『 裸足のイサドラ 』 -ダンスが切り開いた近代の地平を描く逸品-

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