Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: ルーカス・ヘッジズ

『 スリー・ビルボード 』 -再鑑賞-

Posted on 2021年9月28日 by cool-jupiter

スリー・ビルボード 85点
2021年9月24日 dTVにて鑑賞
出演:フランシス・マクドーマンド ウッディ・ハレルソン サム・ロックウェル ルーカス・ヘッジズ
監督:マーティン・マクドナー

 

3年前ぶりの再鑑賞。前回のレビューはこちら。『 空白 』のテーマが”赦し”であると予告編でバラされてしまい、また妻がdTVの無料お試し登録をしたところ本作が available だったので、再鑑賞とあいなった。

 

あらすじ

娘を陰惨な事件でなくしたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は地元の警察署長ウィロビー(ウッディ・ハレルソン)を責める内容の巨大ビルボードを街はずれに掲出した。やがてビルボードを巡り、ミルドレッドや街の人々、警察との対立が深まっていき・・・

 

ポジティブ・サイド

物語の始まりから終わりまで、一貫して unpredictable である。劇場鑑賞中に「こう来たら、次はこう・・・じゃないんかーい」と一人でノリ突っ込みをしていたことを思い出した。定石をとことん外してくるのが本作なのだが、そこに説得力がある。それは、一にも二にもフランシス・マクドーマンドの鬼気迫る演技。娘をなくした母親というだけでなく、苦悩する親、後悔する親というものを、恐ろしいほどのリアリティで体現している。

 

ウッディ・ハレルソン演じるウィロビー署長、横暴差別警察官を演じるサム・ロックウェル、ミルドレッドの窮地を救うピーター・ディンクレイジなど、とにかく悪人面だが、その内には人間性が宿っている。そして男が持つとされている包容力ではなく、弱い心や傷つく心を持っている。このあたりの、いわゆる人間の二面性を、ミルドレッドと彼女を取り巻く男たちとで比較対照してみると、人間の素のようなものが現われてくる。言葉の正しい意味でヒューマンドラマである。

 

ネガティブ・サイド

エンディングの余韻が少し弱い。もう少しだけミルドレッドとディクソンの間の会話というか空気を感じさせてほしかった。人は変われるし、人は人を赦すことができる。そうした本作のテーマをもう少しだけ映像とキャラクターのたたずまいで語って欲しかった。

 

総評

大傑作である。観ながら、ストーリーの非常に細かいところまで自分が覚えていることにびっくりしたが、それ以上に数々の伏線やセリフの妙、また役者たちの繊細かつ豪快な演技、それを捉える匠のカメラワークに唸らされた。日本の片田舎を舞台にリメイクできそうだが、これだけの人間ドラマを手がけられそうな監督がどれだけいるか。『 デイアンドナイト 』のテイストでドラマを再構築できるなら、藤井道人監督にお願いしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

put up 

直訳すれば「置いてup状態にする」ということである。劇中では put up the billboards という形で何度か使われていた。put up のコロケーションとしては、put up an umbrella = 「傘をさす」や put up a tent = 「テントを建てる」などがある。英検準1級、TOEIC730点以上なら知っておきたい(TOEICにはまず出ないが)。 

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, サム・ロックウェル, ヒューマンドラマ, フランシス・マクドーマンド, ルーカス・ヘッジズ, 監督:マーティン・マクドナー, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『 スリー・ビルボード 』 -再鑑賞-

『 mid90s ミッドナインティーズ 』 -私小説ならぬ私映画-

Posted on 2020年10月2日2022年9月16日 by cool-jupiter

mid90s ミッドナインティーズ 70点
2020年9月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:サニー・スリッチ キャサリン・ウォーターストン ルーカス・ヘッジズ
監督:ジョナ・ヒル

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201002022349j:plain
 

アメリカのテレビドラマ界では80年代が花盛りである。それは80年代に幼少期~思春期を過ごした世代が、テレビ業界でイニシアチブを取れるようになってきたからだと言われている。しかし、そうこうしているうちに90年代にノスタルジーを抱く、次の世代が台頭してきた。監督・脚本・制作のジョナ・ヒルは1983年生まれ。90年代は彼にとって7歳から16歳。これは私小説ならぬ私映画なのだ。

 

あらすじ 

スティーヴィー(サニー・スリッチ)は暴力的な兄イアン(ルーカス・ヘッジズ)とシングル・マザーのダブニー(キャサリン・ウォーターストン)と暮らしていた。ふとしたことからスケボーを通じて、ルーベンやフォース・グレード、ファック・シット、そしてレイと知り合ったことで、スティーヴィーは新しい世界を知るようになり・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201002022406j:plain
 

ポジティブ・サイド

オープニングからナイキのバッシュなど、90年代を彩った様々なガジェットが画面に映し出される。不思議なことに、ただそれだけのことで空気が変わる。それは予告編でもたびたび映し出された“Stay out of my fucking room, Stevie.”という兄の台詞にも触発されるからなのだろう。年の離れた兄の部屋。それは異世界のようなものだ。最も身近な大人の世界とも言える。そして、兄が使わなくなったスケボーに一人のめり込むところから、ストリートのスケボー連中に合流し、変わっていくという、思春期のビルドゥングスロマンである。

 

主演を務めたサニー・スリッチは、まるでジェイソン・クラークがそのまま子どもになったような雰囲気である。つまり、ヒールともベビーフェイスとも判別がつかない顔とでも言おうか。何色にも染まりうる危うさを秘めた面持ちをしている。そんなスティーヴィーがルーベンと知り合い、その伝でレイやファック・シットらと出会い、“サンバーン”というニックネームを奉られ、ともにストリートに繰り出してスケボーに酒、その他の乱痴気騒ぎに興じる。『 ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー 』と正反対のstreet smartな成長過程を見せていく。その何とも言えない、危うさに痛々しさよ。

 

縁あっていくつかの大学で英語の授業を担当させて頂いているが、それこそ2000年前後生まれの学生たちは、程度の差こそあれ、とても真面目で勉強熱心だし、ボランティアに精を出すし、インターンシップにも意欲的だ。Jovianの幼少~思春期は80年代から90年代にかけてだが、その頃の中学高校生の喫煙率やヤンキー率など、今日の若者からすれば眉を顰めざるを得ないだろう。日本でも米国でも、90年代は明るく荒んでいたのだ。そうした青春の光と影、そこにある緩やかで、しかし確実に存在する家族との紐帯。そう、これはある意味でアメリカ版『 はちどり 』とも見なしうる物語なのだ。親友だと思っていた相手との関係性のねじれ、自分よりも恵まれない人々の存在への気付き、兄からの暴力、家族を亡くした者の魂の慟哭・・・ スティーヴィーもまた、いつか新天地を目指して飛び立つ『 はちどり 』なのだ。だが、彼は確かに90年代半ばという地平にその存在を刻み込んだ。かけがえのない仲間と共に。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201002022425j:plain
 

ネガティブ・サイド

仲間内でルーベンとスティーヴィーの立ち位置、力関係が逆転する出来事がかなりのご都合主義であるように感じた。プロのボーダーを目指すレイが、ルーベンやスティーヴィーに「飛べ!」と促すだろうか。腑に落ちない。

 

またファック・シットが酒とパーティーに溺れていく過程の描写が不十分にも思えた。破滅的な性向の男であることは見た瞬間から分かる。問題は、ファック・シットの陰口を叩くのがパーティー・ガールたちだけというところだ。スケボー連中たちからも「あいつはちょっと頭ヤベー奴だぞ」のような忠告がスティーヴィーの耳に入るシーンがあれば良かったと思う。裁判所前でホームレスの男性とレイがひとしきり言葉を交わすシーンはよく練られたものだったが、その裏ではスティーヴィーが仲間の悪口を聞いて激怒する、または動揺するといったミニドラマがあっても良かったはず。

 

総評

決してハッピーな気分になれる映画ではない。懐古趣味的であるが、それを無条件に良しとするような風潮にはっきりと異議申し立てをしている作品である。だが、90年代を嫌悪しているわけでもない。青春の1ページ、それは時に痛く、時にまばゆい。そんな一瞬を見事に切り取った一作である。30代から40代なら、何かを感じ取れるのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You feel me?

「(俺の言っていることが)分かるか?」の意。スラングである。下品ではないが、フォーマルでは決してない。友人や同僚相手に使うにとどめよう。Jovianの友人かつ元同僚もこの表現をしばしば使っていた。彼のYouTubeチャンネルには、外国人には日本文化や日本人がどう映るのかを知るための、なかなか興味深い動画がそろっている。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, キャサリン・ウォーターストン, サニー・スリッチ, ヒューマンドラマ, ルーカス・ヘッジズ, 監督:ジョナ・ヒル, 配給会社:トランスフォーマーLeave a Comment on 『 mid90s ミッドナインティーズ 』 -私小説ならぬ私映画-

『 ベン・イズ・バック 』 -タフな母親を描く上質サスペンス-

Posted on 2019年6月9日2020年4月11日 by cool-jupiter

ベン・イズ・バック 75点
2019年6月6日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ジュリア・ロバーツ ルーカス・ヘッジス
監督:ピーター・ヘッジス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190609004750j:plain

本作ではジュリア・ロバーツ会心の演技が堪能できる。こうしたタフな母親像というのは『 スリー・ビルボード 』でミルドレッドを演じたフランシス・マクドーマンド、『 ハナレイ・ベイ 』におけるサチを演じた吉田羊で一つの完成形を見たと思ったが、ジュリア・ロバーツが新しい解を提供してくれたようである。

 

あらすじ

クリスマスイブの朝、薬物依存症者のリハビリ施設にいるはずのベン(ルーカス・ヘッジズ)が前触れもなく帰ってきた。まっすぐにベンを受け入れる母ホリー(ジュリア・ロバーツ)だが、父や妹は懐疑的な態度を崩せない。一日だけ共に過ごすことを認められたベンだが、家族が教会から帰ると自宅が荒らされ、愛犬が消えていた。昔のドラッグ仲間の仕業と確信するベンは家を出る。それを追いかけるホリーだが・・・

 

ポジティブ・サイド

近年、特にこの3年ほどは女性を主題に持つ映画が量産されてきた。その中でも本作は異色である。『 エリン・ブロコビッチ 』や『 ワンダー 君は太陽 』で力強い母親を演じてきたジュリア・ロバーツが、さらに複雑な母親像を描き出すことに成功したからだ。『 スリー・ビルボード 』のミルドレッドは警察署長のがんの告白にも一切動じない鉄面皮だったが、今作のホリーは菩薩の慈悲深さと鬼夜叉の激情を併せ持つ、まさしく「母親」という獣を描出した。息子の帰還に心から喜びを表現しながら、その数分後には鬼の形相で「これから24時間、あなたを監視下に置く」と宣言する。いや、息子に強く厳しく接するだけならよい。この母は、息子の薬物依存のきっかけを作った、今や認知症の症状を呈する医師にも牙をむく。このシーンは多くの観客を震え上がらせたことであろう。街を当て所もなく彷徨うホリーは『 ハナレイ・ベイ 』のサチを思い起こさせる。しかし、なによりも強烈なのは、息子の居場所を知るためなら、薬物依存から抜け出したがっている、しかし禁断症状に苛まされているかつての息子の友人に、情報と引き換えにあっさりと薬物を渡してしまう場面である。息子の居場所を探るためなら、誰がジャンキーになっても良い。ホリーの息子ベンへの態度、歪んでいるようにすら映ってしまう愛情の濃さ、深さ、強さは、彼女自身が息子依存症を罹患しているのではないかと疑わせるほどだ。母親という人種は洋の東西を問わず、非常に強かな生き物なのだ。Women are weak, but mothers are strong. 『 ある少年の告白 』のニコール・キッドマンも脱帽するであろう渾身の演技をジュリア・ロバーツは見せてくれた。

 

『 ある少年の告白 』で主人公のジャレッドを演じたルーカス・ヘッジズは、今作では薬物依存症者を演じる。『 ビューティフル・ボーイ 』でティモシー・シャラメは薬物依存の暗黒面に堕ちていってしまうが、そこで描かれたのは彼の心理的なダークサイドが主であった。今作では、ベンの心の中の闇の深さは、ミーティングに出席するワンシーンを除いては、ほとんど描写されない。だが、彼が社会的に与えた負のインパクトの大きさ、彼がドラッグを通じて培ってしまった闇の人間関係の深さと薄汚さに、観る者の多くは怖気を振るうだろうし、そこに躊躇なく突っ込んでいける母親像にも、感銘を受けるだろう。

 

ネガティブ・サイド

ジュリア・ロバーツが車のドアを開けて嘔吐するシーンは必要だっただろうか。耳をふさぎたくなるような悪態をつくぐらいでよかった。彼女の神経の太さと意外な繊細さを表すには、もっと適切な手法・演出があったのではないかと思う。

 

ベンが踏み込んでいった先のアングラな連中が、それほど恐ろしさを感じさせないのもマイナス点。『 運び屋 』でも顕著だったが、麻薬取引に関わる人間というのは、一見して堅気ではないと分かる、独特のオーラを纏っている(ことが多そう)。本作に出てくるクレイトンは、そういう意味ではちょっと迫力不足である。

 

最後の最後のシーンでは、ベンの胸が全く上下しないにもかかわらず、息を吹き返していた。肺に空気が届いているようには見えず、ちょっと冷めてしまった。

 

総評

ジュリア・ロバーツの近年の出演作、というか彼女自身のキャリアを通じても一、二を争うほどの会心の出来栄えではないだろうか。我々(特に男性陣)は、しばしば母親を慈母のイメージで眺めてしまう。特に本作のようなクリスマスイブが舞台であれば、なおさらそのようなイメージを喚起させられる。しかし、鬼夜叉の如き母親というのも、母の確かな一面であるし、その新境地を開拓してくれたロバーツには脱帽するしかない。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190609004928j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, サスペンス, ジュリア・ロバーツ, ルーカス・ヘッジズ, 監督:ピーター・ヘッジズ, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『 ベン・イズ・バック 』 -タフな母親を描く上質サスペンス-

『 ある少年の告白 』 -自らの頭と心に問いかけるべし-

Posted on 2019年5月5日 by cool-jupiter

ある少年の告白 70点
2019年5月4日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ルーカス・ヘッジズ ニコール・キッドマン ジョエル・エドガートン ラッセル・クロウ
監督:ジョエル・エドガートン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190505013439j:plain

ルーカス・ヘッジズとティモシー・シャラメが、Jovianの考える20代のアメリカ人俳優のトップランナーの二人である。『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』では嫌なガキンチョでありながら傷心を隠せない少年、『 レディ・バード 』では可愛い男子からのゲイ、『 スリー・ビルボード 』では、姉の喪失と母親の支配に何とか抗おうともがく少年と、非常にゲイ達者・・・ではなく、芸達者であることが分かる。Jovian一押しのH・スタインフェルドとの共演を早く実現して欲しいものである。

 

あらすじ

ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)はカーディーラーにして牧師の父マーシャル(ラッセル・クロウ)と母ナンシー(ニコール・キッドマン)によって、同性愛矯正プログラムを実施している施設に送られる。そこで彼が体験したのは、プライバシーの侵害やマッチョイズムへの盲信、体罰に近い行為や言葉の暴力だった・・・

 

ポジティブ・サイド

こうした事実は小説よりも奇なりを地で行く物語には、ドラマチックさは必要であっても、シネマティックさは不要かもしれない。そう感じさせるほどに、全編に乾いた空気が流れている。光や音の鮮やかさによって魅せるのではなく、それらの欠如によって逆に浮かび上がってくる人間の心の仄い領域を本作は映し出す。単なるダークサイドではなく、それを正義であると思い込む人間の恐ろしさが、静かに、しかし確実に伝わってくる。監督も務めたジョエル・エドガートンは、ジャレッドの送り込まれる施設の長をしているのだが、この男の言動に漂う危うさは何なのか。それは、言葉に論理性も一貫性もないところである。同性愛を忌避の対象と最初から決め付け、なおかつその性的志向の源を家族のアルコール歴、ドラッグ歴、その他諸々に求める姿勢は滑稽千万である。しかし、観る側からすれば吐き気すら催すような男が、劇中ではそれなりにリスペクトされ、権威と権力を有し、数多くの子女に教育的指導を行っている。ジョエル・エドガートンはそうした“矛盾”を内包したキャラクターを卓越した演技力で体現してみせた。

 

彼の課すプログラムの一つにこのようなものがある。アルコール中毒や薬物中毒、刑務所での服役などを経た男による講話である。エドガートン演じるサイクス施設長によれば、地獄から生還した男は、男の中の男である。その男の話は、同性愛者にとって有意義である、ということだ。普通に考えれば、まともな男なら、酒にも薬物にも溺れないし、塀の向こうで過ごすようなことはしない。『 セッション 』におけるJ・K・シモンズとサイクスの共通点は、両者ともに信念に基づいて行動していること。相違点は、前者の虐待的行為にはプロの信念があるが、後者の虐待的行為には何の裏付けもないということである。ホームワークとしてジャレッドが過去を回想することと、現在進行形の矯正プログラムを交互に映し出していくことで、サイクス施設長の存在感が徐々に薄れ、その化けの皮が剥がれていく。いかに不条理なプログラムなのかがどんどんと浮き彫りになっていき、最後には魔女狩り、異端審問的なところにまでたどり着く。

 

ジャレッドがこうしたプログラムに対して突き付ける拒絶の反応は痛快ですらある。それは彼が自身の考えや感情に基づいて行動するからである。彼は宗教的に厳格な父親との間に葛藤を抱えている。父親の言葉は全くの正論ではあるが、それは聖書の権威の押し売り以外の何物でもない。劇中で旧約聖書のヨブ記が言及されるが、これは誠に象徴的である。義人ヨブはある時、突然に神からすべての祝福を奪われ、財残を無くし、家族も無くし、自身の身体にもダメージを負う。それでもヨブは神を呪わなかったのだが、友人達との対話の末に、理不尽な仕打ちを止めるようにと遂に神に異議申し立てを行う。我々は神をしばしば「彼」と男性化して呼び表すが、ジャレッドが異議申し立てを行った相手は誰だったのか。これが本作の真のテーマなのではないだろうか。自分の心に問いかけよ。権威に盲目的に従うなかれ。同性愛者に向ける眼差しは、自分のものなのか、それとも他人のものなのか。

 

ニコール・キッドマンは母親役ばかりをオファーされ、受けているようだが、その演技は実に堂に入ったもの。キャリアの円熟期を迎えつつあるようだ。ラッセル・クロウもルーカス・ヘッジズもジョエル・エドガートンも素晴らしい仕事をしていたのに、最後にニコール・キッドマンがすべて持っていた感じがした。彼女のファンなら最後の最後まで席を立ってはならない。

 

ネガティブ・サイド

原作の書籍もこのように起伏に乏しいのだろうか。施設で行われていた矯正プログラムはどれも衝撃的というか、少年院もしくは刑務所と見紛うような代物なのだが、観る側が受けるショックと、作り手側が与えたいショックの種類が異なっていたようである。いや、Jovianのこの見方もずれている可能性がある。というのも、隣の隣の席にはえらい年配の男性同士が来ており、上映後に「あんなん日本では考えられんで。やっぱりアメリカやからやろうなあ」という感想を漏らしていた。Jovianからすれば、アメリカのような合理主義の国が、何の根拠もなく単純にマッチョイズムを信仰しているだけの人間に、かくも多くの人間が同性愛者の子女の矯正を依頼するところに驚きがある。逆にこの舞台が現代日本なら、そもそも施設など存在しないだろう。対象の子は座敷わらしになるだろうからだ。元々、織田信長や武田信玄の頃から同性愛は盛んだったはずだが、ハンセン病と同じく、そうしたものは忌避の対象になってしまったからだ。

 

神様と犬のネタでサイクスを攻撃する場面も見てみたかった。施設の恐ろしさは、何の学問的な裏付けも存在しないにもかかわらず、堂々と「治療する」「矯正する」というポリシーが罷り通ってしまっているところだった。それを可能にするのが、神への過剰ともいえる帰依、信仰である。そうした連中へのレジスタンスとして、神と犬ネタを使わなかったのはなぜだったのだろうか。尋常ではないダメージを与えられたと思うのだが。

 

総評

ルーカス・ヘッジズの静的な演技よりも、ジョエル・エドガートンの怪演が勝ってしまった。そんな印象である。しかし、だからこそ本作のメッセージ性はよりクリアになったも言える。異質な者を見る時、なぜ自分はその対象を異質だと感じるのか。異質だとして、それが矯正や、究極的には排除の対象になるのか。同性愛者に向ける眼差しを、乳幼児や高齢者、外国人に向けていないか。自分がそうだったらという想像力を持てるかどうか。特定の事象だけではなく、もっと普遍性のあるテーマが本作には隠れている。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190505013537j:plain

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ルーカス・ヘッジズ, 監督:ジョエル・エドガートン, 配給会社:パルコ, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『 ある少年の告白 』 -自らの頭と心に問いかけるべし-

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 -心の傷を抱えて生きていく、弱さと強さの物語-

Posted on 2018年9月17日2020年2月14日 by cool-jupiter

マンチェスター・バイ・ザ・シー 70点
2018年9月14日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ケイシー・アフレック ミシェル・ウィリアムズ カイル・チャンドラー ルーカス・ヘッジズ マシュー・ブロデリック
監督:ケネス・ロナーガン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180917194423j:plain

どうか最初の20分だけで、本作を見切らないでほしい。主人公が、仕事には真面目でも陰気でいけ好かない男で、酒場で酔っているわけでもないのに見ず知らずの男たちに喧嘩を吹っ掛けるような奴でも、物語の進行がやたらとスローでも、鑑賞を続けて欲しい。

ボストンで何でも屋として働くリー(ケイシー・アフレック)は兄ジョー(カイル・チャンドラー)の死によって、望まぬ形で甥のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人となる。故郷のマンチェスターに帰ってきたリーは、過去と現在の狭間に囚われた自分と、孤独になった甥との関係に何を見出すのか・・・

本作のテーマは、罪と罰である。といっても、ラスコーリニコフのそれではない。例え法的には罪に問われなくても、罪は罪である。社会が罰してくれないというのであれば、自分で自分を罰し続ける。そうした覚悟を持ち続けることが、貴方にはできるか?本作はそうした強烈な問いを観る者に投げかけてくる。

甥のパトリックはホッケーでラフプレーをし、同級生の女子に二股をかけ、彼女の家でセックスに及ぼうとし、免許も金もないのにボートを自分のものにしようとし、葬儀屋の丁寧なお悔やみの言葉を「毎日言っている定型文だ」と切って捨てる。はっきり言って嫌なガキンチョとして描かれているのだが、そのパトリックが思わぬ形で心の傷の深さを露呈するシーンがある。普通は自室のベッドではらりと涙をこぼすであったり、シャワーを浴びながら嗚咽を漏らすなどの、ありきたりな手=クリシェ=clichéを使うことが考えられるが、本作は全く異なるアプローチを取る。このアナロジーは見事と思わず唸った。

本作は過去と現在を頻繁に行き来する。凡百の作品にみられるような、キャラクターがゆっくりと目を閉じたところで暗転、そこから過去の回想が始まる、などという手法は一切使われない。その代わりに、何の前触れもなく、いきなり過去の回想シーンが挿入される。本作が映画の技法の面で最も優れているのは、実はこういうところである。画面に、「5年前/Five years ago」とスーパーインポーズすれば確実なところを、本作は観客/視聴者を信頼している。我々の見る目に全幅の信頼を置いている。説明が全く無かったとしても、映し出されるシーンが過去なのか、現在なのかをすぐに分かるように配慮してくれているもの(例えば兄のジョーがいる、など)もあるが、そうではないシーンでも即座にこれは過去の回想なのだと分かってしまう。編集の勝利だと言えばそれまでだが、これほどBGMやナレーションの力を使うことなく、映像と役者の存在感をもってして語らしめる作品にはなかなか出会えない。なぜ自分は公開当時、劇場に行かなかったのだろう?思い出せない。

物語の終盤、リーが元妻のランディ(ミシェル・ウィリアムズ)と再会するシーンは、涙腺決壊必定である。それはリーが救われるからではない。リーは赦しを求めておらず、救いも求めておらず、癒しも求めていない。にもかかわらず、不意に相手からそれらを与えられた時、受け入れられなかった。それほど彼の悲しみは深いのだ。凍てつくような風を吹かせるマンチェスターの海に、抗うように飛ぶカモメの群れと、水面にただ一羽佇むように留まるカモメ。その残酷なコントラストが、しかし、美しさを感じさせる。心に傷を持つ人に観て欲しいなどとは思わない。しかし、心に傷を抱える人の死のうとする弱さと、それでも生きていこうとする強さに、観る者の心が揺さぶられるのだけは間違いない。

 

 にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, カイル・チャンドラー, ケイシー・アフレック, ヒューマンドラマ, ミシェル・ウィリアムズ, ルーカス・ヘッジズ, 監督:ケネス・ロナーガン, 配給会社:パルコ, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 -心の傷を抱えて生きていく、弱さと強さの物語-

最近の投稿

  • 『 28日後… 』 -復習再鑑賞-
  • 『 異端者の家 』 -異色の宗教問答スリラー-
  • 『 うぉっしゅ 』 -認知症との向き合い方-
  • 『 RRR 』 -劇場再鑑賞-
  • 『 RRR:ビハインド&ビヨンド 』 -すべてはビジョンを持てるかどうか-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme