ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界 55点
2018年6月28日 WOWOWシネマの録画を視聴
出演:ローズマリー・デウィット ジェニファー・ガーナー ディーン・ノリス アダム・サンドラー J・K・シモンズ アンセル・エルゴート ティモシー・シャラメ オリヴィア・クロシッチア
監督:ジェイソン・ライトマン
原題は”Men, Women & Children”。これをどう訳すのかは翻訳家や配給会社のセールス・プロモーション次第だが、ステイ・コネクテッドはアウト、つながりたい僕らの世界も・・・ぎりぎりアウトのように感じる。つながりたいという視点は、「自分たちはつながっていない。または、悪い意味でつながってしまっている」という、狭隘な、もしくは一段下からの視点になってしまいかねない。実際にそうした見方で凝り固まってしまった、醜悪とも言える人物も登場する。一方で、人間関係、コミュニケーションの本質において、時代の変化やテクノロジーの進化に関係なく、人間は他者とのつながりを求めてしまう生き物であるということも再確認させてくれる。だから、「つながりたい僕らの世界」という日本版の副題は“ぎりぎり”でアウトなのである。その理由は冒頭、唐突に登場するボイジャーにある。この超高速で今も太陽系の彼方のさらに向こう側へ飛び出しつつある探査機は、地球外生命へのメッセージが込められている。そう、人間は、どれだけ技術の進歩を見ても、やはり他者とのつながりをもとめずにはおれない存在なのだ、ということを非常に大袈裟な形でのっけから呈示してくる。原題も、大人の男、大人の女という、つながりを求めあうものの本質的な理解にはなかなか至れない存在同士を対比させ(その事実をコミカルにシリアスに描いたのが『 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 』)、さらにその対比存在として、子どもを挙げているではないか。互いが互いを必要としながら、ステイ・コネクテッドとあることができないのは、現代になって生じた問題ではなく、テクノロジーの進歩によって可視化された事柄であるに過ぎない。そのことを本作はしっかりと描いている。
登場するのは、女房に逃げられた中年ケント(ディーン・ノリス)とその反動でフットボールを辞め、MMORPGにハマってしまう男子ティム(アンセル・エルゴート)、さらにひょんなことからティムと良い仲になるブランディ(ケイトリン・ディーヴァー)、その母親にして娘のPC、携帯にキーロガーなどを仕込んで、メールやテキストのやりとりを監視、さらに削除、時になり済ましまで行うパトリシア(ジェニファー・ガーナー)、そのパトリシアの開くセッションでケントが知り合うことになる、娘の写真撮影を行いながらハリウッド進出のサポートを目論むジョアン(ジュディ・グリア)、その娘で高校ではチアリーダーを努めるハンナ(オリヴィア・クロシッチア)、そのハンナとひょんなことからセックスできそうになるが、ポルノサイトの見過ぎで生身の女子相手に不能になってしまっていたクリス(トラビス・トープ)、その父親で妻とはセックスレス、息子のPCでポルノサイトを閲覧し、果てはエスコートにまで手を出すドン(アダム・サンドラー)、その妻で「求められたい」という感覚を取り戻したいがために出会い系サイトに登録して不倫を楽しむヘレン(ローズマリー・デウィット)。その他にもハンナのチアメイトで上級生とひょんなことからセックスしてしまい妊娠させられてしまう拒食症気味のアリソン(エレナ・カンポーリス)、その父親のJ・K・シモンズ(役の名前は出てこなかった・・・?)、フットボールを辞めたティムを罵るばかりかブランディに物を投げてぶつけるという暴挙に出て、しこたま殴られるダニー(ティモシー・シャラメ)など、かなり豪華なキャスティングである。
このように人間関係は割と複雑だが、ストーリーそのものは凡庸である。どこかで観た話のパッチワークである。ただし、そこにコミュニケーションとディスコミュニケーションの対立を見出すかどうかが、この作品の評価の分かれ目になる。かつて小説家の栗本薫は『 コミュニケーション不全症候群 』でオタクを「人間を仲間と思わず、機械を仲間と思う人種」と定義した。スマホやPCを対話の相手と見なすのか、それともスマホやPCの向こう側に対話の相手を見出すのか。何やら梅田望夫が「ビル・ゲイツはコンピュータをパーソナルものにすることに大いなる可能性を見出した。セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジはパソコンの向こう側に広がる世界に大いなる可能性を見出した」と言う具合に、新旧のITの巨人を対比してみせた。なにやら本作のテーマにも通じる比喩である。時代と人間の変質と本質の関わりに興味を抱く向きは、観賞必須であると言えよう。