レディ・バード 80点
2018年6月3日 東宝シネマズ梅田にて観賞
主演:シアーシャ・ローナン ローリー・メトカーフ
監督:グレタ・ガーウィグ
青春の一時期を鮮やかに切り取った作品だ。というか、切り取るという表現がこれほどハマる作品も珍しい。なぜなら、次から次へとシーンが流れて行き、「えっ、さっきの話はどうなった?」のような、ある意味でも唐突とも言える展開が怒涛のように押し寄せる。とある演劇の先生の突然のフェードアウトや、ボーイフレンドとのあるべき修羅場シーンなどを予想しても、それらが全く描写されないのだ。なるほど、厳格なカトリック・スクールに抑圧される少女を描く話でも、少女から大人の女への成長物語というわけでもない。これは母親と娘の物語なのだ。
冒頭の車中のシーン、二人して『 怒りの葡萄 』の朗読テープを聞き、感涙するのだが、その直後に激しい言い争いへと発展、シアーシャ・ローナン演じるレディ・バード(本名クリスティン)は、走っている車から飛び降りて骨折してしまう。若気の無分別というか、生まれ育ったサクラメントを飛び出して、大学は文化のあるニューヨークに行きたい、というのは日本の地方在住の高校生にも共通する心情(東京の私立大学は定員抑制や、定員以上の入学者を取ると補助金減額などの処置で苦しんでいるようだが)。車から飛び出してしまうのも、狭い家族という人間関係から解放されたいことのアナロジーになっている。自分のことを執拗に「レディ・バード」と呼んで欲しがることなどは、その最たるものだろう。子どもなのにレディ扱いを求め、人間なのに鳥のように飛べると信じたがっている。可愛いと思うべきか、厄介な年頃だと思うべきか。まあ実際のLady Birdというのはテントウムシを指すわけだが。親の心、子知らずという言葉が思い浮かぶ。だからといって全く理解し合えない母娘というわけでもない。料理で揉めたかと思えば、一緒に買い物にも行くし、性体験の時期についてアドバイスを求めたりもする。「ディテールをしっかりと見ていけば、この世に普通の人間はいない」と喝破したのはイッセー尾形だったが、レディ・バードの在り方、振る舞いは、全ての子ども以上大人未満、思春期前後の人間に見られる普遍的な要素を凝縮したものなのだ。
厳格なスクール・コードへの挑戦、生命倫理、道徳への反抗、異性への興味と接近、友情と対立、嘘と真実、地元や家族との別離、新しい環境への順応、価値観の破壊と新たな価値観・世界観への目覚めなど、あらゆる人間が、おそらくは青春時代に経験する、言わば通過儀礼、イニシエーションの物語なのだ。その軸にあるのは友情や異性や家族ですらなく、母親なのだ。この映画では、一瞬一瞬に対して驚くべきほどのバックストーリーがあるのにも関わらず、それらが描写されることは全くと言っていいほど無い。一例として、兄のミゲルの存在がある。マイケルではなくミゲル。そして顔つきも明らかにヒスパニック系。そしてガールフレンドと同居。そこそこ良い大学を卒業したにもかかわらず、スーパーでレジ打ちのバイト。一体この兄は家族の中でどういう立場なのか。しかし、これらのバックグラウンドは一切スクリーンには映し出されない。こうした構成になっていることを物語の早い段階で飲み込んでおかないと、ストーリーテリングの面で置いてけぼりを喰らうこと必定である。しかし、それさえ覚悟しておけば、豊饒な物語の流れに身を任せるだけで、青春の追体験から親としての苦悩の再認識まで可能な、観る者の心に必ず何かを残す名作に出会うことができる。個人的には車の運転シーンが特に印象深かった。Jovianとレディ・バードが全く同じ物の見方をしていたからだ。このように、物語のどこかで必ず何かを呼び起こしてくれる力を持った作品で、中学生以上にお勧めをしたい。特に、母と娘のペアで観れば面白いのではないか。
主演のシアーシャ・ローナンはウェス・アンダーソンの『グランド・ブダペスト・ホテル』で初めて観たが、『ブルックリン』、本作と、着実に演技者としてのキャリアを積み重ねていっており、今後が本当に楽しみだ。『 君の名前で僕を呼んで 』のティモシー・シャラメは、本作ではガラリと役風を変えてきた。『ちはやふる』シリーズの新田真剣佑も『 OVER DRIVE 』で穏やかキャラから凶暴キャラに変身して見せたが、渡辺謙、真田広之に続いてハリウッドに行って、シャラメと共演してくれないかな。その時は監督はグレタ・ガーウィグで、『犬ケ島』のテイストで男と男の奇妙な友情みたいなテーマで。