ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 40点
2019年8月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:佐藤健 有村架純 波瑠
監督:山崎貴
少し前までは中高生でも『 ゴジラ 』を知らない子たちがいた。しかし、さすがに『 ドラゴンクエスト 』や『 ファイナルファンタジー 』を知らないということはないようだ。大学生の頃に、ドラクエはⅦまで一応クリアしたんだったか。それ以降はクリアしていない(プレーはした)。しかし、ⅢのSFC版やⅣのプレステ版はかなりやりこんだ記憶がある。Ⅴの初回プレーでは、もちろん名前はトンヌラ・・・ではなくユーリルと入力。久美沙織の小説の影響である。あの頃は周辺小説(『 アイテム物語 』、『 モンスター物語 』)だけではなく『 4コママンガ劇場 』にもハマっていた。早い話が、当時の自分は少年だったわけである。
あらすじ
リュカ(佐藤健)は父パパスと共に世界を旅していた。しかし、謎の妖魔ゲマによりパパスは絶命。リュカはラインハットの王子ヘンリーともども奴隷にされてしまう。十年後、辛くも脱出したリュカとヘンリーは、それぞれの生活に帰っていく。リュカはかつて暮らしていたサンタローズを目指すが・・・
- 以下、本作品、ドラゴンクエストⅤおよび関連作品のネタばれに類する記述あり
ポジティブ・サイド
グラフィックの美しさとゲームっぽさのバランスが素晴らしい。実際のゲームでも『 ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち 』はFC、『 ドラゴンクエストV 天空の花嫁 』はSFCである。ファミコンからスーパーファミコンへのレベルアップ時の衝撃は、それをリアルタイムに体験した者にしか分からないだろう。その後、PSやPS2、X-BOXも出てくるわけだが、FCからSFCへの移行ほどのインパクトはなかった。ちょうど良い具合に当時の少年少女、大人たちの想像力を刺激してくれたのだ。デフォルメされた2Dグラフィックが、我々の脳内でほどよくリアルな姿に変換されたのだ。リュカやパパス、サンチョの姿に、少年の日のあの頃を思い返した。
原作改変には賛否両論あろうが、少年時代をダイジェスト的にゲーム画面で済ましてしまうのもありだろう。安易にナレーションに逃げるよりはるかにましである。基本的に映画というのものは1時間30分から2時間に収めてナンボである。
ベビーパンサーの名前がゲレゲレなのもポイント高し。おそらくリアルタイムの初回プレーでこの名前を選んだのは、漫画家の衛藤ヒロユキ氏とJovian、その他数百名ぐらいではないかと勝手に勘定している。確か父親が何か別のソフトと抱き合わせで買ってきてくれたんだったか。ビアンカの命名センスに喝采を送ったあの日を思い出した。
すぎやまこういちの楽曲の力も大きい。小学生の頃にレンタルVHSで『 ドラゴンクエスト ファンタジア・ビデオ 』で、あらためてドラゴンクエストの音楽の魅力を確認したんだった。特に、フィールドの音楽。個人的にはⅢのフィールドの音楽がfavoriteだが、Ⅴのそれも素晴らしい。やはり少年の日のあの頃を思い起こさせてくれた。
ネガティブ・サイド
なぜ息子一人だけなのか。娘はどこに行った?その息子の名前がアルスというのは漫画『 ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章 』由来なのか。だから最後に異魔神が登場するのか?スラリンがワクチンだというのも、漫画『 DRAGON QUEST -ダイの大冒険- 』のゴメちゃん=神の涙、というネタの焼き直しなのか。占いババは『 ドラゴンボール 』のそれか、またはドラクエⅥのグランマーズか。だからゲマの最期はデスタムーアの最終形態なのか。BGMもⅤ以外が混ざっていたが、そこはなんとかならなかったのか。唐突に登場するロトの剣も、天空シリーズと全く調和しない。それはさすがに言い過ぎか。
本作への不満の99%はラストのシークエンスにある。とにかくミルドラースが異魔神なのである。と思ったらウィルスなのである。この世界はすべて遊園地のVRアトラクションだったのである。それを匂わせる描写は確かにいくつかあった。妖精ベラの台詞(「今回はそういう設定なの」)。リュカの口調や口癖(「マジっすか!?」など)。唐突に「クエスト」などという、Vには存在しなかったシステムにリュカが言及する。倒されたモンスターが消える。ゴールドに変化する。ゲーム世界の文法で考えれば当たり前であるが、映画世界の文法ではそうでは無い事柄が散見された。そこはフェアと言えばフェアである。
問題は、映画を鑑賞する者の少年時代あるいは少女時代、あるいはその精神を否定する権利がいったい誰にあるのかということである。夢を見て何が悪い?現実から一時的にでも目を背けて何が悪い?何も悪くないだろう、それが社会的に著しい不利益を引き起こさなければ。何よりも、当時も今もゲームはコミュニケーション・ツールなのだ。どのモンスターを仲間にした、仲間にしていない。どのモンスターがどのレベルでどんな強さになるのか。PCは少しは普及していたものの、インターネットなどが影も形もない時代に、小中高校生がお互いの家に遊びに行って、ドラクエやらFFやらストⅡやらに興じて、友情を確かめ合い、深め合ったのだ。それだけではない。関連する小説や漫画で、ゲーム以外でもキャラクター達と出会い、交流していたのだ。そういった体験を虚構であると断じるのは容易い。しかし、虚構に価値が無いとは決して認めたくない。それをしてしまえば、DQだけではなく、あらゆるフィクション(映画、テレビドラマ、舞台演劇、講談、etc)を否定してしまうことになる。大人になれ、というメッセージを発するのは構わない。だが、誰もが持っている楽しかった少年時代を棄損することは許されない。いい大人がいつまでもpuer aeternus=永遠の少年では困る。大人には責任や職務、義務があるからだ。けれど、その大人の心の中に住まう「永遠の少年」を攻撃することは、人格攻撃に等しい。この手法は認められないし、許されない。なによりもこれは『 劇場版エヴァンゲリオン 』の焼き直しではないか。なぜ今になって、このような周回遅れのメッセージを発するのか。岡田斗司夫が『 オタクはすでに死んでいる 』で喝破したように、オタクという人種が隔離され、忌避される時代は終わった。誰もがマイルドにオタクであり、社会もそれを容認しているのが今という時代なのだ。そこに、このようなメッセージを携えて『 ドラゴンクエストV 天空の花嫁 』を映画化する意義はゼロであると断じる。
総評
ドラゴンクエストのファンは観てはならない。観なくてもよい、ではない。観てはならない。特に貴方がJovianと同じくアラフォーであれば、本作は忌避の対象である。しかし、ラストのシークエンスを除けば、しっかりしたストーリーのある映像作品として成立してしまっている。そうした意味で、若い世代、またはリアルタイムでファミコンやSFCはけしからんと感じていた、60代後半以上の高齢世代が、本作を適度な距離感で鑑賞できるのかもしれない。