サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 55点
2019年3月3日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ルカ・カイン
監督:デイモン・カーダシス
原題は“Saturday Church”である。どう考えてもこの邦題は『 サタデー・ナイト・フィーバー 』を意識している。そうに違いない。それではあまりにセンスが無さ過ぎる。それとも、そうした中年以上の世代を映画館に呼び込み、無意識の差別意識を炙り出そうという試みなのだろうか。
あらすじ
父が死に、ニューヨークのブロンクスで母と弟と暮らすユリシーズ(ルカ・カイン)。彼は体は男であったが、心は女だった。そんな彼は学校ではいじめに遭い、家では無理解に苦しんでいた。ある時、たまたま出会ったトランスジェンダーの人々と交流を持つようになり・・・
ポジティブ・サイド
街並み、そして人間が息をしている。それはカメラが決してユリシーズの目線から離れないからである。といっても、これは主観ものではない。上空からのショットや、『 マトリックス 』のような360°回転のショットなどがないということである。映像作品としてその部分だけを切り取れば、非常にさびしい。しかし、ユリシーズというキャラクターを描写するのには良い選択であった。
父が死んだことで、母が仕事を増やさざるを得ず、子どものサポートを叔母に依頼する。この叔母さんは怖い。悪意を持っているから怖いのではなく、自らの考えの正統性を盲信しているから怖いのだ。オウム真理教以来、我々はカルトの恐ろしさをよく知っている。この叔母からはカルト的な臭いがプンプンするのである。『 愛と憎しみの伝説 』のマミー、ジョーン・クロフォードとは比べるべくもないが、このような人間というのは確かに存在する。そこにリアリティがある。
主演のルカは、中性的な顔つき、体つきでハマり役である。もちろん、メイクさんらの助力も得てのことである。トランスジェンダーというのは、同性愛よりも理解するのが難しいところがある。異性を好きになる気持ちが同性に向くだけだという意味では、同性愛は分かりやすい。しかし、自分の体と心がフィットしていないという感覚は理解できそうで、なかなか出来ない。服や靴や帽子が合わないのであれば取り換えれば済むが、自分の体となるとそうはいかない。Jovianや何人かの同級生は第二次性徴時にホルモンバランスが崩れたせいか、胸や乳首が痛くなった経験があるが、あのような痛みや違和感が常に付きまとう感じなのだろうか。ユリシーズというキャラクターの不安定さを歩き方や話し方、目線で表現できていたように感じた。特にハイヒールを履く場面は、よほど研究をしたに違いないと思わせる表現力を見せてくれた。
母親も良い。 Positive make figure を欠いたアメリカの一般的家庭は往々にして空中分解するか、それまでに母親が新しいパートナーを見つけるかするのだが、この母ちゃんは強い。女は弱し、されど母は強し。そういえば『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』で誓ったはずの母親孝行をまだ果たしていない・・・
ネガティブ・サイド
ミュージカルの要素は必要だったのだろうか。もっと日常的な部分の演出に力を入れて、この作品世界のリアリティをもっと追求する方向に舵を切っても良かったのではないだろうか。
また、ユリシーズのロマンスがあまりにも唐突過ぎた。確かに良い雰囲気を出してはいたけれど、いきなりお互いに「君なしでは生きていけない」などと、オリビア・ハッセー版の『 ロミオとジュリエット 』の如くあっという間に恋に落ちて、深夜のストリートで踊り合い、歌い合うのは、シネマテッィクではあるが、ドラマティックではない。片方はトランスジェンダー、もう片方はゲイというカップルの誕生を、もっと丁寧に作り込むべきだった。そこにこそドラマがある。また、残念ながらこのシーンではユリシーズ役のルカ・カインの歌唱力の弱さが際立ってしまう。非常に惜しいシーンになってしまっている。
またキャストの多くは黒人であるが、一人だけ出てくる東洋系の男が作品全体のノイズになっているように感じたのは、自分も東洋人の端くれだからだろうか。最後のユリシーズのドラァグクイーンとしてのデビューの描写も弱かった。ある意味、人生で初めて輝く舞台なのだから、それこそ観る者を耽溺させるような映像美で、自分が自分らしくあることの美しさを称揚するようなメッセージを発して欲しかったと願う。
ちなみに邦題の「愛を歌う場所」もノイズに分類してよいだろう。単純に『 サタデー・チャーチ 』で充分だったはずである。
総評
色々な意味で惜しい作品である。ただし、デイモン・カーダシス監督にはメッセージ性と芸術性のある作品を撮れる力があることが分かった。次作があれば、ぜひチェックしてみようと思う。