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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』 -動物の向こうに人間が見えてくる-

Posted on 2019年1月24日2019年12月21日 by cool-jupiter

劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 70点
2019年1月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:葵わかな

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Jovianは民放は基本的に観ない。NHKを時々観るぐらいだ。しかし、その中でも欠かさず録画する番組が3つある。『 将棋フォーカス 』、『 コズミックフロント NEXT 』、そして『 ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜 』である。そのうちの一つが映画化されるとあっては、劇場に足を運ばねばなるまい。

 

あらすじ

アフリカ大陸。様々な動植物が生きる大地。そこにはプライドの王を目指す若獅子ウィリアム、一匹で子育てに奮闘する雌ライオンのナイラ、右腕を無くしたゴリラのドドとそのドドを見守る群れの長のパパ・ジャンティの物語が展開されていた・・・

 

ポジティブ・サイド

1時間30分程度の作品だが、おそらくこれだけの映像を作るには、軽く1万時間超の撮影が必要ではないだろうか。もしかすると10万時間超かもしれない。

 

本作でフィーチャーされるライオン達およびゴリラ達を動物と思うなかれ。これは動物賛歌の形を借りた人間社会へのメッセージなのである。そのメッセージを痛烈な批判と受け取るか、それとも厳しくも暖かい信頼のメッセージと取るかは受け手の生きる社会や家族に依るのだろう。ただし、NHKがこの映画を届けたいのは日本社会に生きる我々であることは意識せねばなるまい。好むと好まざるとに依らず、社会は多様化していく。多様化していくということは、盛者必衰、優勝劣敗、弱肉強食がはっきりしていくということでもある。それは昭和後期が成長と安定に結実した一方で、平成は激動の時代になっていたことからも明らかである。潰れるはずがないと思われた企業が倒産し、サザエさん的な家族の風景はもはやフィクションとなった。一方で、都市部の駅や公共施設、大型ショッピングモールやデパートメントストアではバリアフリー化、ノーマリゼーションが進み、街中や駅、電車内でも車イス使用者を見かけることは珍しくなくなった。白杖を持った弱視者やダウン症を持った人なども家や施設ではなく、外に行き場と生き場を求められるようになってきた。

 

本作がメインに取り上げる若獅子ウィリアム、孤軍奮闘する雌ライオンのナイラ、そして右腕の肘から先を無くしたゴリラのドドには共通点がある。それは集団から疎外されてしまった個が、それでも仲間と共に生き抜く姿である。ライオンのオスはしばしば兄弟で放浪するし、最近ではこのような動画も世界中でバズった。ライオンのオスは高等遊民であるかの如く暮らす。千尋の谷に突き落とされることはないが、それでもプライドを追い出され、過酷な環境で自らの生存を確保しなくてはならない。国営放送がニートに向けたメッセージであるというのは深読みが過ぎるだろうか。

 

女手一つで6頭もの子どもを育てるナイラを指して「母は強し」というのはいとも容易い。しかし、それこそ昭和の価値観だろう。今、国が実施している求職者支援訓練の受講者には、かなりの割合のシングルマザーが含まれている。平成とは、離婚率と未婚率の増加の時代、少子化の時代とも総括できよう。もちろん、それも多様化の一側面である。だからシングルマザーを良しとしたいわけではない。逆だ。ライオンの雌がこれほどの苦境に陥るのは、仲間がいないからだ。サポート役がいないからだ。幼い子どもと一緒に狩りをするナイラの姿に、高校生の子どものバイト代までも家計に回さなければならない世帯が存在することに、我々はもっと意識しなくてはならないだろう。

 

ゴリラのパパ・ジャンティについても同様の考察が可能である。通常、動物の群れは奇形や障碍を有する個体には厳しい。少数を救おうとすることが全体を危機に晒すことになりかねないからだ。オオカミの群れなどは老齢の個体にも厳しい。しかし、パパ・ジャンティはその名の通りにgentlemanである。劇中でも描かれるが、当初は群れの他個体はドドにサポートを与えなかった。リーダーたるパパ・ジャンティの行動が集団全体に波及したのだ。障がいを能動的に負おうとする者などいない。しかし、障がいを負うことそのものは誰にでも起きうることだ。そうした時に、疎外をされないこと。誰かが手を差し伸べてくれるということ。そうした仕組みや意識が社会の成員に共有されているということ。それこそが生きやすい社会の一つの形だと思う。そうした気付きをもたらしてくれるゴリラのパパに、我々は敬意を表すのである。

 

ネガティブ・サイド

せっかく1時間半もの時間を費やすのなら、1種類の動物だけにフォーカスしても良かったのではないだろうか。ライオンならライオンに絞ってしまうという選択肢もあったはずだし、その方がよりドラマチックに編集できたろうにと思う。全体的なペースとトーンが。ライオン物語とゴリラ物語の間で一定していなかったように感じられた。監督は誰なのだろうか?

 

総評

いつもはテレビで観ているものを劇場で観ることの意味は何か。映像や音響が優れていることは当然として、暗転した環境なのでスクリーンに没頭できることが大きい。アフリカの豊かな自然と様々な動植物の世界にスッと入っていくことができた。第二、第三の劇場版が観たいし、『 コズミックフロント NEXT 』の劇場版も作ってくれないだろうか。映像美という点では、動物よりも天体の方に分があるだろう。特に暗い劇場では。子どもを連れて観に行くも良し。大人だけで鑑賞しても良し。ライトにもディープにも楽しめる作品である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ドキュメンタリー, 葵わかな, 配給会社:ユナイテッド・シネマLeave a Comment on 『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』 -動物の向こうに人間が見えてくる-

『 メリー・ポピンズ 』 -1960年代ミュージカルの傑作-

Posted on 2019年1月20日2019年12月21日 by cool-jupiter

メリー・ポピンズ 70点
2019年1月15日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジュリー・アンドリュース ディック・ヴァン・ダイク
監督:ロバート・スティーブンソン

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元々は絵本である。しかし日本では、おそらく歌の『 チム・チム・チェリー 』の方が有名かもしれない。一部の世代や地域の人であれば、小学校もしくは中学校の音楽の教科書に載っていたかもしれないし、今でも幼稚園や保育園では歌っているかもしれない。エミリー・ブラント主演の新作が公開される前に、復習鑑賞も乙なものかもしれない。

 

あらすじ

時は1910年、ところはロンドン。バンクス家のジェーンとマイケルは悪戯ばかりで、乳母役が次から次に辞めていく。父は厳格な銀行家。母は参政権獲得運動に没頭と、家庭を顧みない両親。ジェーンとマイケルは自分たちが望む乳母役募集の広告をしたためるも、父はそれを破いて暖炉に捨ててしまう。しかし、その紙切れは雲の上の魔法使い、メリー・ポピンズ(ジュリー・アンドリュース)の元に届いて・・・

 

ポジティブ・サイド

ジュリー・アンドリュースの歌声の美しさ。そしてそれ以上に、彼女の演技力。決して優等生ではない子どもたちに接するに、優しさや包容力、ユーモアだけではなく、一定の厳しさ、威厳を以ってする乳母役を見事に体現した。これはそのまま『 サウンド・オブ・ミュージック 』のマリア役に結実したわけである。もちろん、ダンスの面でも卓越した技量を見せる。

 

だが、それよりもストリートパフォーマーにして煙突掃除人のバートを演じたディック・ヴァン・ダイクの歌唱とダンス、パントマイムには驚かされた。『 グレイテスト・ショーマン 』のヒュー・ジャックマンやザック・エフロンよりも、エンターテイナーとして上質なパフォーマンスを披露してくれたように感じた。特に、煙突掃除人の大集団を率いる形の歌とダンスは圧巻の一語に尽きる。『 マジック・マイク 』と『 マジック・マイクXXL 』のチャニング・テイタムでも渡り合えない(マジック・マイクはそもそも歌わない・・・)。特に夕焼けを背景に掃除人たちのシルエットが躍動するシーンは印象的だった。Jovianは今でも映画で最も衝撃的な体験といえば、『 オズの魔法使 』でモノクロがカラーに切り替わる瞬間を挙げる。映画は第一に映像の美しさ=光の使い方を追求すべきものだが、1960年代に、印象的な影の使い方があったのかと感心させられた。

 

小道具や特殊効果の使い方にも工夫と手間が見られる。部屋を片付ける魔法などは当時の映画製作技術からすれば、数時間ではとても撮れなかっただろうし、大砲の振動で家が揺れるシーンも、カメラを揺らして、それに合わせて小道具を落下させたりしていたはずだ。日本でも映画製作技術が発達したことで、例えばラドンやモスラやキングギドラを大人数でピアノ線で操演する技術は、ロスト・テクノロジーになってしまったと言われている。CGや特殊効果全盛の今、知恵と工夫で魅せる映画は逆に新鮮である。

 

ラストで、メリー・ポピンズが傘と共に帰っていくシーンには哀愁が漂う。しかし、それさえも54年ぶりの続編を予感させるものと受け止めれば、肯定的に映る。これは良作である。

 

ネガティブ・サイド

メリー・ポピンズ登場までが長い。何と開始から21分以上、メリー・ポピンズが姿を現さない。雲の上にいるのがちらりと映りはするものの、ディック・ヴァン・ダイクの熱演をもってしても、相当に長く感じた。このあたりのペース配分には一考の余地があったことだろう。

 

また、メリー・ポピンズ初登場シーンで、面接希望で長蛇の列をなしている女性たちを魔法で文字通りに吹き飛ばしたのは、参政権運動に熱を上げたり、職を求めたりする女性を貶める意図があってのことだろうか。時代が時代とはいえ、少し気になった。ロンドンでも当時は『 未来を花束にして 』のようなムーブメントが盛んだったのは間違いないが、それが(おそらく公開当時でも笑えない)ユーモアにされているのは、現代視点からするとさらに笑えない。

 

また、銀行家たちの貴族意識、選民思想に凝り固まった姿も鼻についた。Jovianのかつての同僚にヨークシャー出身のイングランド人がいたが、彼は時々、”Americans destroyed our English.”と言って、アメリカ人の文法的に破格な英語をネタにしていた。これはユーモアだが、本作に描かれる銀行家たちの歴史観は、ちょっと笑えない。もちろん時代背景が異なることは重々承知しているが、こういった考え方をいたいけな子どもたちに注入しようとすることの是々非々は、地域や時代に関わらず常に問われるべきことであろう。古今東西の古典的な名作と言うのは、時代を超えた普遍的なテーマに挑んでいるから、古典なのである。その意味では本作は傑作ではあれど古典ではない。

 

総評

1960年代は、伝説的なミュージカルが多く生み出された時代である。『 ウェストサイド物語 』、『 チキ・チキ・バン・バン 』、『 サウンド・オブ・ミュージック 』、『 マイ・フェア・レディ 』など。それらに優るとまでは言えないが、決して劣りはしない。エミリー・ブラントによる続編が上映されるまでにDVDや配信サービスで鑑賞しておくのは、悪い考えではないだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1960年代, B Rank, アメリカ, ジュリー・アンドリュース, ディック・ヴァン・ダイク, ミュージカル, 監督:ロバート・スティーブンソン, 配給会社:ブエナビスタLeave a Comment on 『 メリー・ポピンズ 』 -1960年代ミュージカルの傑作-

『 イヴの時間 劇場版 』 -ロボットと人間の関係性をリアリスティックに描く-

Posted on 2019年1月14日2019年12月21日 by cool-jupiter

イブの時間 劇場版 70点
2019年1月9日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:福山潤 野島健児 田中理恵 佐藤利奈
監督:吉浦康裕

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TSUTAYAでDVDなどをあれこれと渉猟していると、松尾豊の書籍『 人工知能は人間を超えるか 』の表紙にそっくりのキャラをカバーボックスに発見した。10年近く前のアニメであったが、これが思わぬ掘り出し物。”Don’t judge a book by its cover.”とは、良く言ったものである。

 

あらすじ

未来、たぶん日本。“ロボット”が実用化されて久しく、“人間型ロボット”(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。高校生のリクオとマサキはひょんなことから、ロボットと人間を区別しない喫茶店、「イヴの時間」の常連客となる。マスターのナギと過ごすうちに、彼らはロボットに対する認識を改めていく・・・

 

ポジティブ・サイド

実に数多くの先行テクスト、先行作品の上に成り立つ、あるいはその系譜に連なる作品である。人間とアンドロイドとの関係については、劇中でも触れられることだが、『 ブレードランナー 』を始め、コミックおよび映像化された『 攻殻機動隊 』、『 エクス・マキナ 』、『 アイ、ロボット 』、そして山本弘の傑作小説『 アイの物語 』などと相通ずる点が多い。数ある先行作品にも共通するテーマを本作は提示する。それは「人間らしさは人間だけに宿るわけではない」ということである。

 

一見して人間と見分けがつかないロボット=アンドロイドが普及し始めている世界を本作は描写する。そこにはドリ系と呼ばれる、アンドロイドとの関係に極度にハマってしまう者たちが存在する。そして、ロボット倫理委員会なる組織は、人間とロボットとの関係を人間的なそれにさせまじと美辞麗句に彩られたプロパガンダを放送するのである。近未来的であるとも言えるし、古典的なSF作品的であるとも言える。人間は人間以外とも対等な関係を結べるのだということは『 スター・ウォーズ 』シリーズを彩る数々のロボットやアンドロイドから一目瞭然である。極端な例では映画『 her / 世界でひとつの彼女 』も挙げられるし、もっともっと極端な例ではゲーム『 ラブプラス 』のキャラクターと結婚式を挙げた男性も存在したのである。フィクションの世界でも現実の世界でも、人間はしばしば人間以外の存在に人間らしさを見出してきたのである。「そんわけねーだろ」と思うだろうか?しかし、車を所有する男性の中には一定の割合で車を恋人もしくは相棒と見なす者が確かに存在するのである。

 

本作の世界では、パッと見では人間とアンドロイドの区別ができない。それどころかアンドロイド同士の会話でも、お互いをアンドロイドであると認識できないようなのだ。チューリング・テストがあっさりとクリアされた世界!これは凄い。本作は『 her / 世界でひとつの彼女 』以降で『 ブレードランナー 2049 』以前の世界なのだろう。喫茶店イヴで過ごすアンドロイドたちの挙動は、『 アイの物語 』の最終章「 アイの物語 」と共通する点が多い。

 

イヴで過ごす時間が長くなるほどにリクオはロボットに対する認識を深め、マサキはロボットに対する(自分なりの)認識をより強固にしていく。それは彼の過去のトラウマに根差すものなのだが、その見せ方が上手い。セクサロイドが存在する世界において、人間がロボットに対して純粋な友情や愛情を抱くことができるのか。本作では、アンドロイドではない、いかにもロボットロボットしたロボットが見せる振る舞いや言動にこそ、人間らしさが潜んでいる。それはとりもなおさず、我々が思う人間らしさは人間の姿かたちだけに宿るものではないことを意味している。そのことを非常に逆説的に示した映画に『 第9地区 』がある。反対に人間らしさを感じない、嫌悪感を催させるものの正体とは何か。それは人間の姿かたちをしたものが、およそ人間とは思えない動き、立ち居振る舞い、言動を見せた時であろう。それこそがゾンビに対して我々が抱く恐怖の源泉であり、『 ターミネーター 』に対して抱く恐怖でもあり、『 攻殻機動隊 』の草薙素子が自身の身体の女性性にあまりにも無頓着であることにバトーが思わず赤面し視線を逸らすことに対して、我々が違和感を覚える理由である。

 

SFというものはマクロ的には文明と人間の距離感を、ミクロ的には人間と非人間の距離感を描くものである。信じられないかもしれないが、「電卓など信じられない。そろばんの方が計算機として優れている」と考える人が一定数存在した時代があったのだ。そのことを実に象徴的に描いた作品として『 ドリーム 』がある。宇宙飛行士ジョン・グレンが人間コンピュータのキャサリン・G・ジョンソンに、コンピュータの計算結果を検算させるというエピソードがあるのだが、それはフィクションではなく史実なのである。本作は極めて純度の高いSFの良作である。

 

ネガティブ・サイド

ところどころに珍妙な英語が出てくる。その最も端的な例は“Androld Holic”である。正しくは“Android-aholic”である。Workaholicという単語をしっかりと分解すれば分かる。

 

Are you enjoying the time of EVE?というのもやはり珍奇な英語である。文法的には何も間違ってはいないが、こんな言い方はそもそもしない。Are you having a good time at The Time of EVE?の方が遥かにナチュラルだろう。

 

イヴの時間というカフェの名前に込められた意味をもっと追求して欲しかった。それともオリジナルのアニメ(全6話)では、そうした側面にもっと光が当たっているのだろうか。イヴと言えば、アダムとイヴであろう。男アダムの肋骨から作られた女イヴ。しかし、始原の男は土くれから生み出されたが、以降の人間は全て女から生まれた。イヴの時間というカフェが人間とアンドロイドの新たな関係の揺り籠になるのだという期待が、もう一つ盛り上がってこなかった。ナギはレイチェルなのか、ガラテアなのか。

 

総評

アニメ作品に、安易なアクションやロマンスを求めるライトなファンには不適であろう。本格SFファン向け作品とさえ言えるかもしれない。2010年に発表されたということは、構想はその数年前から原作者の頭の中では練られていたはず。RPAという言葉が、もはや概念ではなく実用一歩手前の技術として語られ始めた現代、ロボット、アンドロイド、そして人工知能とヒトとの関係が巨大な地殻変動を起こす、まさに今は前日(Eve)なのかもしれない。古さが全くない、逆に今こそ再発見され、再評価されるべき作品である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, SF, アニメ, 日本, 田中理恵, 監督:吉浦康裕, 福山潤, 配給会社:アスミックエースLeave a Comment on 『 イヴの時間 劇場版 』 -ロボットと人間の関係性をリアリスティックに描く-

『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

Posted on 2019年1月4日2019年12月20日 by cool-jupiter

こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 70点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:大泉洋 高畑充希 三浦春馬 萩原聖人
監督:前田哲

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日本にも障がい者を正面から捉える映画が増えてきた。それが正しいか、もしくは多くの人々に受け入れられるかどうかは別にして、障がいもまた個性であるという考え方が提唱されて久しい。『 ブレス しあわせの呼吸 』の、ある意味では正統的な続編と言えるのかもしれない。

 

あらすじ

時は1994年、鹿野靖明(大泉洋)は34歳。筋ジストロフィーのため、動かせるのは首より上の筋肉と手首より先ぐらい。そんな鹿野は、我がままの言いたい放題でありながらも、ボランティア達とは不思議な縁で結ばれていた。医大生の田中(三浦春馬)とそのガールフレンドの美咲(高畑充希)もひょんなことからボランティアのメンバーになってしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

実在の人間をモデルにしているのだから、当たり前と言えば当たり前だが、鹿野という人物が非常に生き生きと活写されている。『 聖の青春 』の村山聖もそうだったが、自分に残された命がそう長くはないと悟っている人間というのは、後悔をしたくないのだ。だからこそ、食べ物や雑誌のあれやこれやに非常に細かい注文をつけてくる。なぜなら、それが人生最後の食事や娯楽になるかもしれないから。劇中でも言及されるが、彼ら彼女らのわがままはは単なる駄々っ子のそれではない。生きるということを誰よりも真剣に捉えた上でのことなのだ。鹿野の言い放つ「医者の言う命って何なんだ?」という台詞は、劇中の時代から20年以上を経た今でも、非常に重い問いとして我々に圧し掛かってくる。その問いに対する答えはエンドクレジット中に示されるので、結末部分だけを見てさっさと劇場を後にするなどということは努々することなかれ。ここでは某韓国映画が持っていて、日本版リメイクが削ぎ落としてしまった、命に関する重要なメッセージが語られるのである。

 

それにしても『 パーフェクト・レボリューション 』や『 パーフェクト・ワールド 君といる奇跡 』など、日本もかつての無意識の差別意識がかなり薄まり、あらゆる人を社会的に包摂するにはどうすればよいのかを問うようになってきたようだ。作り出される映画の質は措くとしても、そのラインナップに可能性を感じる。『 博士と彼女のセオリー 』にあったような、ある意味での孤閨をかこつ女の寂しさと、ストレートに愛情をぶつけてくる男というのは、いとも容易くドラマを生む。高畑充希は『 アズミ・ハルコは行方不明 』で結構な尻軽を演じていた記憶があるが、今作でも体当たりの演技を披露してくれる。といっても脱いだりはしないからスケベ視聴者は期待すべからずだ。その代わりに、高畑の大ファンが聞いたら卒倒するような台詞も言ってくれるから、そこは期待していいだろう。しかし、赤ん坊の世話、高齢者介護においても、絶対に避けては通れないような問題をしっかりときっちりと描く本作の姿勢には非常に好感が持てる。

 

ブラックボランティアなる言葉がある。2020年の東京オリンピックでは、高度なスキルや経験を持つ人材数万人を手弁当で動員しようというプランがあるようだ。そのことの是非はここで判断すべきではないが、本作ではボランティア=無償の労働力とは捉えない。Volunteerという英語は、元はラテン語のvolo = I am wishingから来ている。鹿野は大げさでも何でもなく世界変革の夢を見ている。その夢に参画したいという者をボランティアとして募っているのだ。こうした個人が日本という国で確かに息をしていたということに驚かされるし、そうした人物を見事に銀幕に蘇らせた大泉洋に拍手。

 

ネガティブ・サイド

終盤のとあるシーンで、ドン引きさせられるシーンがある。人によってはぶん殴ってくるだろう。それも鹿野の人徳かもしれないし、もしかしたら映画化に際してのドラマチックな脚色かもしれない。しかし、個人的にはあの展開はないだろうと感じた。

 

田中の医学部生としての描写も弱い。体位交換のことを体交とボランティアが略して言うのに、気管切開のことを医大生の田中が気切(きせつ)ではなく、あくまで気管切開というのには違和感を覚えた。その他、様々な場面で田中に医者の卵らしさが見られてしかるべき場面があったのに、そのいずれでも田中は輝けなかった。それが事実だったと言ってしまえばそれまでだが、こういったところこそ脚色してナンボだろうと思う。映画とは一にかかってリアリティの追求なのだ。

 

最後に、音楽が重要なモチーフになる本作であるが、なぜジャズがフォーカスされなかったのか。鹿野が美咲につられて、あっさりとジャズからロックに宗旨替えしてしまうのは納得がいかなかった。ロックを魂の叫び、体制への反逆と定義するのならば、鹿野の生き方に合致しないこともない。しかし、ジャズは?『 ラ・ラ・ランド 』のセブが力説したように、ジャズはバンドのミュージシャンたちがその瞬間ごとに文脈を考慮しながら、新たに曲を書き、編曲し、そして演奏するのではなかったか。鹿野自身の来たし方はロックかもしれないが、ボランティアとの交流は間違いなくジャズだろう。ジャズの要素をもっともっと交えたシーン、ジャズ音楽そのものと協働するようなシーンが欲しかったと思うのは、決してない物ねだりではあるまい。

 

総評

これは素晴らしい作品である。高校生あたりの道徳の副教材に採用しても良さそうだ。障がい者を見る時、人はその相手に自分が障がいを負った時の姿を見ると言う。鹿野という人間が確かに生き、確かに死に、しかし今も人々の心に残っているのは何故か。それこそが生きるということであると本作は高らかに宣言する。ほんの少し性的な要素も描写されるが、聡明な中学生ぐらいなら逆にそれも勉強の糧にできるような良作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 三浦春馬, 伝記, 大泉洋, 日本, 監督:前田哲, 萩原聖人, 配給会社:松竹, 高畑充希Leave a Comment on 『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

『 ステータス・アップデート 』 -虚構とリアルを適切に織り交ぜた佳作-

Posted on 2018年11月30日2019年11月23日 by cool-jupiter

ステータス・アップデート 70点
2018年11月25日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ロス・リンチ オリビア・ホルト コートニー・イートン グレッグ・サルキン ロブ・リグル ジョン・マイケル・ヒギンズ
監督:スコット・スピア

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『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』のスコット・スピア監督の作品ということで迷わず鑑賞。やはり今後は、自分の頭の中の心象風景を、自分なりにチョイスした音楽に乗せられる監督がどんどん台頭してくるのだろうなという印象をさらに強くさせられた。かの武満徹や伊福部昭は映画音楽を手掛けることはあっても、サントラの発売には当初、かなり否定的だったと言われる。映像+音楽=映画音楽という信念の持ち主であったことと、あくまで自分たちは音楽家であって実業家ではないという信念の持ち主であったためと考えられている。しかし、今後はジャンルの混合・混淆もますます進み、音楽畑や文学畑から映像畑に進出してくる、あるいはその逆の流れも生じてくるのだろう。スピア監督は、そうした時代の潮流の象徴の一人であるように思う。

 

あらすじ

両親が別居することになったカイル(ロス・リンチ)はカリフォルニアから4800km離れたコネティカットに引っ越し、母と祖父、妹と暮らし始める。しかし、学校や地域そのものに馴染めず苦悩する。そんな中、モールのショップで「ユニバース」というアプリ入りのスマホを手に入れたカイルは、そこに投稿した内容が実現することを知る。次々に願いを叶え、望みのものを手に入れていくカイルだが・・・

 

ポジティブ・サイド

ドラえもんのひみつ道具を一つだけ手に入れることができるなら、何がいいだろうか?と夢想したことのある人は多いはずだ。タケコプターやどこでもドア、ほんやくコンニャクあたりが有力候補だろうが、Jovianは間違いなく、もしもボックスを選ぶ。本作のカイルは、そういう意味で自分と重なる。そしてその願いも、まるでのびたのそれのようなのだ。小学生でも高校生でもオッサンでも、結局願うことは同じレベルなのだと思うと気恥ずかしいやら面映ゆいやら。世界征服のようなスケールの大きな願いではなく、あくまで自分の生活世界の中で完結するような願い。カイルが叶えたいと思うのは、非常に小市民的な夢なのだ。

 

本作はアメリカのスクール・カーストの実態も活写する。『 THE DUFF/ダメ・ガールが最高の彼女になる方法 』や『 ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界 』で描かれていたように、アメリカのハイスクールでカースト上位に来るのは、フットボールチームのスターとチアリーダーなのであるが、本作はその地域性もあって、アイスホッケーチームのエースが序列のトップに来る。アメリカという国の広さを物語ると共に、自分がアメリカに対して知らず先入観を抱いていたことも思い知らされた。このアイスホッケーというのがミソで、思わぬユーモアを生み出してくれる。また『 ピッチ・パーフェクト  』並みに歌唱とダンスにも力を入れているシーンがあり、ここはスコット・スピア監督の趣味と手腕が爆発した箇所であると言える。ビジュアルの力でストーリーテリングを行うのは映画の基本にして究極だが、そこに音楽や歌謡を効果的に用いることのできる、いわば新世代の監督たちも台頭してきた。トップランナーはエドガー・ライトだろうが、スコット・スピア監督も、今後はほぼ無条件で観るべき監督リストに載せておこう。

 

非常に陳腐ではあるのだが、本作はカイルという主人公を決してミヒャエル・エンデの『 はてしない物語 』のバスチアンのようには描かない。というよりも、この世界のバスチアンとファンタージェンのバスチアンを丁寧に切り取り、前者をカイルに、後者をカイルの親友、デレクに仮託したようである。どこまでも子どもの目線を貫くプロット構築は見事である。

 

そして子どもと対比されるのは大人である。具体的にはカイルの父と母である。母は息子に非常に現代的なアドバイスを送る。それはおそらく多くの子どもたち、いや、それよりも大人たちに突き刺さるメッセージである。在野の歴史家にして小説家の八切止夫は「人間関係は、いかに相手に誤解されるかにかかっている」と著書『 信長殺し、光秀ではない 』で喝破した。このメッセージは、ロブ・リグル演じる父親に実はそっくりそのまま当てはまる。それにしても、このコメディアンは一癖ある父親を演じさせれば天下一品である。『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』でも強烈なインパクトを残したが、スピア監督と相性が良いのだろうか。素晴らしいケミストリーが生まれている。

 

最後に、ジョン・マイケル・ヒギンズに触れねばならない。『 ピッチ・パーフェクト 』シリーズの毒舌解説者と言えばお分かり頂けよう。単なる勘だが、この人は多分、台本半分、アドリブ半分で喋っているのではなかろうか。韓国のイム・ヒョンシクに並ぶアドリブの帝王であるような気がしてならない。これは褒め言葉である。

 

ネガティブ・サイド

祖父はこの物語に必要だったか?コミックリリーフならロブ・リグルがいるし、デレクも単独で充分に面白い。祖父の存在は完全にカットして、上映時間を数分で良いから短くするか、または編集でそぎ落とした他のシーンの増量に回してほしかった。

 

またエンディングのクレジットシーンに10秒程度のスキットが挿入されるが、これも果たして必要だったのだろうか。

 

「ユニバース」というアプリの効力の範囲や期間が不透明であったり、一度アップデートされたステータスを再びダウングレードすることは可能か?などの疑問も湧いてきてしまうが、これをちょっと不思議な青春映画と見るか、それとも現代的な本格ファンタジーと見るかで評価が分かれるかもしれない。

 

総評

これは面白い。こういった作品こそ、配給会社はもっと数多くの箱で見られるように努力してもらいたい。娯楽あり、哲学ありと面白さと深さの両方を追求している作品で、小学校の高学年から大人まで幅広い層のビューワーを楽しませることができるポテンシャルを秘めた作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジョン・マイケル・ヒギンズ, ファンタジー, ロス・リンチ, ロブ・リグル, 監督:スコット・スピアLeave a Comment on 『 ステータス・アップデート 』 -虚構とリアルを適切に織り交ぜた佳作-

『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

Posted on 2018年11月23日2019年11月23日 by cool-jupiter

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 75点
2018年11月18日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ケイシー・アフレック ルーニー・マーラ
監督:デビッド・ロウリー

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どんな文化にも、太陽と月に関する神話、そして幽霊に関する物語が存在するものである。そして太陽、月、幽霊の中で最も多彩に解釈されるのは幽霊ではないだろうか。小説や映画の世界では、幽霊は往々にして悲哀または恐怖をもたらすものとして描かれてきた。本作はそこを転換させ、幽霊のパトス、そこから生まれるエートスを描く。視点が人間→幽霊ではなく、幽霊→人間なのである。これは全く新しい視点からの物語であると言える。

 

あらすじ

ある若い夫婦が郊外の一軒家に暮らしていた。誰もいないはずのところで物が落ちたりするなどの不可解なこともあるが、二人は平和に暮らしていた。ある時、夫が死んでしまった。悲嘆に暮れる妻。しかし、夫は遺体安置所のベッドからシーツをかぶった姿のまま起き上がり、歩いて妻の待つ家へと帰る。幽霊となった男の不思議な旅が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

本作のプロットについて説明するのは非常に難しい。ほんのちょっとしたことが重大なネタばれになりかねないからである。幽霊となった男が、妻を見守る話・・・というわけではない。それは話の一側面であって、テーマではない。ある意味で、映画製作者は観る者をかなりの程度まで信用しているとも言える。何と言っても『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』でアカデミー主演男優賞を受賞したケイシー・アフレックに、真っ白のシーツをかぶせて、目と鼻の部分にだけ穴を開けた幽霊を演じさせるのである。『 るろうに剣心 京都大火編 』と『 るろうに剣心 伝説の最期編 』で藤原竜也が顔面に包帯をぐるぐる巻きにした際の演技も素晴らしかった。顔が一切見えないというのは、表現をする上で翼を半分もがれたようなものだが、あれにはまだ音声とアクションという片翼が残されていた。本作のケイシー・アフレックは、全身を白いシーツで覆う、小さな子どもが考え付いたようなゴースト像でほぼ全編を通して登場する。台詞もない。過激なアクションもない。それでいて幽霊の感じる執着、困惑、怒りなどのパトスを見事なまでに我々に伝えてくる。歩き方であったり、振り返り方であったり、ほんのちょっとした指先の動きであったりで、これほどまでに内面の心理を描き出せるものなのかと驚嘆させられる。この幽霊の動きや仕草は、大学の映画サークルや同好会のシリアスなメンバー(特に役者志望や劇団員)は必見であろう。

 

今作はできれば英語字幕で鑑賞することをお勧めしたい。というのも、ある時点では言語が英語ではなくスペイン語に切り替わるからだ。といっても字幕などは一切出ない。スペイン語が分からない人には、画面上で何が起こっているのかを把握するのが全くもってお手上げ・・・とはならないのである。ビジュアルストーリーテリングの極致とも言うべきで、幽霊とスペイン語ファミリーの存在のコントラストが、何よりも雄弁に一連のシーンを語ってくれるのである。このシーンもまた、映画製作を志す者にとっては必見であろう。

 

本作はここから、予想外の展開を見せる。というよりも観る側の想像力を裏切る、または試すかのような展開と言うべきかもしれない。ここで幽霊の生前の職業を思い起こすべきだろう。彼は音楽家だったのだ。作曲し、歌い、レコーディングもする、コンポーザーにしてシンガーにしてオーディオ・エンジニアでもあったわけだ。音楽が瞬間ではなく全体で成り立っていることは、アンリ・ベルクソンの時間=意識の持続という説を援用せずとも理解できる。時間は直線でも等間隔でもない。メロディがありリフレインがあるのだ。これ以上は、劇場で本作を鑑賞して考察をしていただきたいと思う。

 

ネガティブ・サイド

パーティーで酔ってべらべらと喋る男は果たして必要だったのだろうか。あまりにも説明的で、観ている最中は「ほうほう、なるほど」と思えたが、観終わってしばらくしてからは印象が変わった。このシーンはノイズである。

 

もうひとつ弱点を挙げるとするなら、序盤の妻の食事シーンだろうか、おそらく4分ほど固定カメラでロングのワンカットを映すシーンがあるが、ここは2分程度に抑えられなかったのだろうか。典型的な悲嘆のシーンで、物語の進行上ではずせないことは理解できるが、Jovianの嫁さんや左隣の人などは、ここで寝てしまっていた。惜しいかな、序盤でもっと多くの人を引き付けることさえできていればと思う。

 

総評

細部に突っ込むべきところや、説明されないままの箇所も残る。そうしたモヤモヤを許容できなければ、観るべきではないのだろう。しかし、この幽霊を通じて世界を追体験すれば、「生」の意味に新たな発見があるであろう。死および死以後に関しての新たな仮説が提示されたわけで、文学ではなく映画がこれを行ってくれたことに意義を認めたい。非常に野心的な傑作映画である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ケイシー・アフレック, スリラー, ルーニー・マーラ, 監督:デビッド・ロウリー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

『 日日是好日 』 -茶道の向こうに人生の真実が見えてくる-

Posted on 2018年11月9日2019年11月22日 by cool-jupiter

日日是好日 75点
201811月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:黒木華 樹木希林 多部未華子
監督:大森立嗣

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181109014742j:plain

樹木希林との惜別のために劇場へ。彼女の作品で印象に残っているのは『 風の又三郎 ガラスのマント 』、『 39 刑法第三十九条 』、『 東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜 』、『 海街diary 』、『 万引き家族 』。平成の日本映画史を支えた女優が逝ってしまった。合掌。

 

あらすじ

20歳の典子(黒木華)は、自分が本当にやりたいことを見つけられないまま、惰性で大学に通っていた。ある時、母が茶道を習ってみたらと提案するも乗り気になれない。しかし、従妹の美智子(多部未華子)が乗り気になったことから典子も茶道教室へ。それが典子と武田先生(樹木希林)、そして自分が探していた何かとの邂逅だった・・・

 

ポジティブ・サイド

黒木華は幸薄そうな役がよく似合う。『 散り椿 』、『 ビブリア古書堂の事件手帖 』は正直なところ、物語世界の構築には成功しなかった。しかし、そうした作品においても黒木華はキャラクターに息吹を与えていた。黒木華が出ているだけで「観ようかな」と思わせられるだけの存在感を発するようになってきた。今後も楽しみである。

 

本作は典子と美智子の茶道に対するアプローチの対照が前半の見どころである。何でも理屈で解釈しようとする美智子と、五感で茶菓子や茶器、茶室、書、掛け軸、生け花、そしてお茶を賞翫する典子、という構図である。茶道の作法に意味があるのか、それとも無いのか。これはそのまま典子の抱える疑問、大学に行くことに意味があるのか、それとも無いのか。古い映画を観ることに意味があるのか、それとも無いのか。将来の仕事を決めることに意味があるのか、それとも無いのか。これらは頭で考えてどうにかなる性質の問いではない。もちろん、無理やり答えを出して前に進むこともできる。ただ、それは典子の性(さが)ではないのだ。前半は観る者に、「あなたは典子型ですか?美智子型ですか?」と尋ねてくるかのようだ。それが不思議と心地よい。どちらの生き方も否定されないからだろう。

 

茶道が主題となると、画的にさびしいと思ってしまうが、さにあらず。『 クレイジー・リッチ! 』でも用いられた手法だが、多種多様なガジェットを画面いっぱいに次々と映していくことでもダイナミックさは生まれるのである。『 クレイジー・リッチ! 』では色々な食べ物が印象的で、本作では茶器と茶菓子、掛け軸が特に印象的である。特に掛け軸の瀧直下三千丈は、その書の雄渾さだけではなく視覚的なイメージで典子に、つまり我々に訴えかける。こうした技法はピーター・J・マクミランが『 英語で読む百人一首 』の三番、柿本人麻呂の「足引きの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を 一人かも寝む」という有名な句を英訳する際に使用している技法である。瀧という文字を、意味ではなく視覚で受け止めるべしというメッセージであり、同時に茶道というものを理性ではなく感覚で経験すべしというメッセージでもある。ナレーションもなく、わざとらしい説明の台詞もなく、ただただ書に見入る典子の姿を映し出すことで、観る者にメッセージを送る。これこそ映画の基本にして究極の技法である。このシーンだけでもチケット代の半分以上の価値がある。

 

作中では、ある重大な出来事を受け止めた典子が、止め処なく溢れ出てくる気持ちを爆発させるシーンがある。どことなくニヒリスト的であった典子が、自分のこれまでの生を肯定できるようになる重要なシーンである。ニーチェの言うニヒリズムと永劫回帰は、茶道の一期一会と、案外と近縁の思想なのかもしれない。ゲーテの『 ファウスト 』にも通底する思想で、生の一瞬一瞬を愛でることができれば、人生に悔いを残さないようになれるのかもしれない。小説『 神様のパズル 』で綿さんがコメを食べながら得た「閉じた」という感覚を、典子も抱いたことだろう(ちなみに、映画版の『 神様のパズル 』は原作小説の改悪なので、映画はスルーして小説の方を読むことをお薦めする)。茶道の向こうに人生の真実が、確かに見えてくる。

 

ネガティブ・サイド

典子のライフコースにおける一大イベント前に、美智子が絶対に現れると思っていたが、元々の脚本になかったのか、それとも編集でカットされたのか。序盤のコメディ・タッチがどんどんと鳴りをひそめ、シリアスとまではいかないものの、それなりに重いテーマを扱う後半こそ、美智子の軽さが必要だったのではないだろうか。

 

また、シーンごとのメリハリに一貫性も欠いていた。BGMやナレーションを極力使わず、映像と音だけでストーリーを紡ぐシーンもあれば、あまりにもナレーションや心の声を聞かせすぎるシーンもあった。中学生以下ならいざ知らず、高校生以上であれば、本作の各シーンが持つ意味や意義は掴めるはずだ。もう少し、受け手を信用した作りをしてほしいと思う。

 

総評

扱う主題は茶道だが、その奥に潜むテーマは深いとも浅いとも言える。それは観る者の人生経験や哲学、識見によって変わってくる。しかし、これをきっかけに両親や祖父母に電話をしよう。あいさつをしよう。部屋をちょっと模様替えしてみよう。料理の組み合わせを少し考えてみよう。などなどの、目の前の瞬間を大切に生きてみようという気持ちにさせてくれる力を持つ作品に仕上がっている。劇場でいつまで公開されているか分からないが、是非とも多くの方に観てもらいたい映画である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 多部未華子, 日本, 樹木希林, 監督:大森立嗣, 配給会社:ヨアケ, 配給会社:東京テアトル, 黒木華Leave a Comment on 『 日日是好日 』 -茶道の向こうに人生の真実が見えてくる-

『 華氏119 』 -アポなし突撃は控え目だが、現実を抉る鋭さは健在-

Posted on 2018年11月7日2019年11月21日 by cool-jupiter

華氏119 75点
2018年11月4日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ドナルド・トランプ
監督:マイケル・ムーア

 

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マイケル・ムーアと言えば、アメリカ随一の社会派映画監督。その視線は、アメリカ社会の内包する問題を常に捉え、それを独自の映像世界に落とし込むことで、アメリカのみならず全世界に警鐘と啓蒙の映画を送り込んできた。それでは今作はどうか。アポなし突撃は控え目だったが、中間選挙目前というこのタイミングでリリースしてくることで、全米の有権者に揺さぶりをかけてきた。果たしてその効果のほどは・・・

 

あらすじ

時は2016年、全世界がアメリカの大統領選に注目しながらも、どこか楽観的な雰囲気が漂っていた。まさかトランプの勝利はあるまい。そう誰もが思っていた時に、トランプ大統領は誕生した。その深層にはアメリカの民主主義および社会が内包する矛盾や対立構造が深く根を張っていた。アメリカ随一の社会派映画監督のマイケル・ムーアがトランプ大統領誕生と、そこに潜む社会問題を独自の視点と手法であぶり出していく。

 

ポジティブ・サイド

ムーアの眼差しは、ドナルド・トランプ大統領個人の資質に向けられるのではなく、そうした大統領を生み出してしまったアメリカ社会、アメリカの有権者、アメリカの政治制度に向けられる。なぜ独裁的傾向を持つ個人を支持する層が存在するのか。なぜメディアに真摯に答えない個人が大衆の支持を集めたのか。なぜ権力を持つ者が、その権力をさらに強固にしてしまおうという試みに歯止めがかけらないのか。ムーアの問題意識は明確だ。個々人の意識や意見が正しく集約されない仕組みに彼は大いに不満を抱いているというわけである。そうしたアメリカ社会の抱える矛盾が一挙に噴出した証明として、彼はトランプ大統領出現を読み解く。

 

実際に、トランプ大統領誕生の報に触れた時の世の反応を覚えている諸賢も多いと思われる。わずか二年前のことなのだ。2020年、アメリカにおいて女性の参政権獲得の100周年を祝って、第7代大統領のアンドリュー・ジャクソンには20ドル札の表面からは退場を願い、代わって奴隷解放および女性の社会的地位向上の旗手、ハリエット・タブマンに登場願う年に大統領職にあるのは、誰もがヒラリー・クリントンであると半ば盲目的に信じていた。いや、信じたがっていた。そのヒラリーを奉る民主党も、およそ民主主義国家とは思えぬ方法でサンダースを締め出していたという疑惑を、本作はまず追求する。

 

ムーアの視点はミシガン州のフリントという町の水道水問題にも向けられる。州知事がビジネスマンであり、州の政治も会社を経営するように行うと、まるでリー・クアンユーであるかのように宣言、その政治手腕を振るったところ、執政は失政となった。また教師のストライキ、銃乱射事件の多発を受けての高校生の草の根運動など、ムーアはアメリカ社会に強い憤りを感じつつも、問題の解決に動いていってくれるであろう次代の芽に希望を見出している。

 

本作をアメリカ社会の問題と思うなかれ。かの国を蝕む社会構造の矛盾は、そのまま東洋の某島国にも当てはまる。美辞麗句が蔓延るのは、独裁政権誕生の前触れとは、蓋し炯眼であろう。「美しい国」というのは“Make America great again”というキャッチ・コピーと比喩的な意味では大差はないのだ。2018年、日本では『 万引き家族 』の是枝監督が、賞賛と批判の両方を受けた。多様な意見の存在は、民主主義社会では歓迎すべきことである。しかし、日本に内在する最大の問題は、アメリカのそれと同じく、右か左か、0か1か、全か無か、という意識の二極化だ。政治に関して言えば、自民党かそれ以外か。これはアメリカの政治が、民主党か共和党かのほぼ二者択一になってしまっているのと構造的に同じである。

 

社会の矛盾とは、社会を構成する個人に矛盾が生じていることを意味する。労働者階級に属する人々の中に一定数のトランプ支持者が存在する。そのトランプは、富裕層を相手に商売をし、ブルーカラーやレッドネックを見下すような男であるにもかかわらず。日本も同様である。富裕層や大企業を厚く遇しながら、庶民や中小企業から搾り取る現政権を支持するのは、なぜか社会の下層民に多い(とされる)。いや、日本はもしかするともっと救いが無いのかもしれない。ムーアは本作の水道水問題で、オバマの化けの皮を剥いでしまったが、日本では西日本豪雨の被災地を視察すらせず酒盛りに興じていた為政者連中が今も権力の中枢に鎮座している。

 

本作は、個々人の問題意識≒希望にフォーカスしつつも、その限界点にも着目する。希望を抱くだけでは意味がない。行動こそがいま最も求められているものだ。本作はそれを高らかに宣言する。健全なる社会の健全なる構成員であれかしと願う者は絶対に観るべし。

 

ネガティブ・サイド

トランプを過去のトンデモ権力者とダブらせる演出があるが、これは失敗であろう。トランプ政権に限らず、極右的、排外的性向を持つ政権の登場をアナロジーで理解するべきではない。それをしてしまうと、≪歴史は繰り返す≫。目の前で展開する事象を、すでにあったこととして捉えてしまうような見方をさせてしまいかねない演出は個人的に評価しない。

 

高校生らの運動を力強く支持する姿勢を見せるのは構わないが、自分たちの世代が残してしまった負の遺産、自分たちの世代が広げてしまった断絶などについての反省がもっと見られても良かった。Jovianの元同僚にはシカゴ出身のアメリカ人がいるが、彼が日本に来た理由(というよりもアメリカを去った理由)は、誰もかれもが銃を持っている、ということだった。日本でもこの1~2年で、修学旅行の行き先としてアメリカは除外されるようになってきた。ドローン・ウォーの批判も結構だが、銃乱射事件が起きると銃が売れるというには、あの忌まわしき米ソの冷戦時代、核実験や核開発の報の旅に核軍備を増強したというのと、現代のアメリカ社における銃の増加は奇妙な相似を為す。ムーアの世代こそが冷戦を総括し、反省しなければならないはずだが、そうした≪歴史は繰り返す≫ということに対する危機感の薄さが、やはりどうしても気になってしまった。

 

総評

いくつか気になる点はあるものの、日本にも通じる問題が数多くフォーカスされる。ある意味で非常にアメリカらしいアメリカ映画である。現代アメリカの世相を読み解く重要な示唆が得られるので、大人だけではなく受験を控えた高校生や浪人生にもお勧めできる。小論文やエッセイのネタを本作から拾ってきてもよいだろう。また、ムーアの視点や思考回路は「現実を多層に見る」際のヒントになるだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, ドナルド・トランプ, 監督:マイケル・ムーア, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 華氏119 』 -アポなし突撃は控え目だが、現実を抉る鋭さは健在-

『 ハナレイ・ベイ 』 -異国の島で見出すは夢か現か幻か-

Posted on 2018年11月3日2020年9月21日 by cool-jupiter

ハナレイ・ベイ 70点
2018年10月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:吉田羊 佐野玲於 村上虹郎 佐藤魁 栗原類 
監督:松永大司

 

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原作は村上春樹とのこと。Jovianは読書家であると自負しているが、村上春樹は読んだことが無い。これからも読まないだろう。同じことは東野圭吾にも当てはまる。彼の作品は2冊だけ買ったが、どちらも最初の20ページで挫折した。本作品を鑑賞するに際して、一抹の不安があったが、それは杞憂であった。

 

あらすじ

サチ(吉田羊)は一人息子のタカシ(佐野玲於)がハワイのハナレイ・ベイで死亡したと連絡を受ける。サメに襲われ、右足を噛みちぎられた死体の身元確認を粛々と行うサチ。手形を取ったので持ち帰ってほしいという地元の女性の声も聞き入れることができない。息子との関係は決して良好なものではなかった。しかし、あまりに突然の息子の死を受け止める術を知らないサチは、それから10年間、毎年ハワイのハナレイ・ベイを訪れ、日がな一日、読書をして過ごすようになる。ある時、日本人サーファーから「片足の日本人サーファーがいる」との噂を耳にしたサチは・・・

 

ポジティブ・サイド

ハワイの自然の美しさと恐ろしさは誰もが知るところである。キラウエア火山からの噴石が遊覧船を直撃したというニュースもあった。しかし、そんな自然の猛威、暴威などは描写されない。冒頭のタカシの死で充分だ。島民が「この島を嫌いにならないでほしい」という切なる願いは、しかし、サチには受け入れられない。まるでDV被害に遭った妻が、それでも家に帰ってしまうように、カウアイ島を毎年訪れてしまうサチに対して、無性に悲しみと憐れみを感じてしまった。サチは島を愛しているのではない。島を受け入れようとしても、それができない。息子の命が絶たれた呪われた土地に縛りつけられているのだ。一人息子を失ったという、行き場を無くした悲しみを胸にハワイを彷徨するサチは、まるで鬼子母神のようですらある。

 

鬼夜叉にも心は有る。E・キューブラー・ロスの『 死ぬ瞬間 』の考え方を敷衍、援用するとすれば、サチはタカシの死を「 受容 」する段階の手前で止まってしまっている。死とは、『 君の膵臓をたべたい 』や『 サニー 永遠の仲間たち 』で述べたことがあるが、生物学的な意味での生命活動を終えること=死では決してない。死とは、相手が生き生きとしていた記憶をこれからも持ち続けるのだという決意によって規定される現象である。葬式とは死を確認する儀式ではなく、思い出を共有する儀式だ。その意味で、サチは息子の死を受け入れられない。タカシの生の記憶があまりにもネガティブなそれであるからだ。そんな形で息子と離別したくはなかった。そのような後悔の念に心の奥底で苛まされている女の心情を、あてどもなく彷徨い続けることでこれ以上なく描出してくれた吉田羊は、表現者としての階段をまたさらに一歩上ったのではないか。『 ラブ×ドック 』や『 コーヒーが冷めないうちに 』といった珍品への出演が目立っていたが、ここに来て一気に株を上げてきた。この母親像は『 スリー・ビルボード 』のミルドレッドに迫るものがあるし、片親像としては『 ウィンド・リバー 』のランバートと相通ずるものがある。

 

本作は大人の映画でもある。安易にナレーションや、説明的な台詞を使わない。ドラマチックなBGMを挿入しない。兎にも角にも、ひたすら吉田羊にフォーカスすることで、いかに彼女の抱える闇が暗く、深いものであるのか、それが逆説的に愛の大きさを表すのだということ、観る者に明示しない手法を称賛したい。何でもかんでも説明したがる作品が増えてきている中、もう少し観客を信用してもよいのではないかと常々思っていた。本作には我が意を得たりとの思いをより一層強くさせられた。

 

そうそう、吉田羊の英語。あれこそが、日本の普通の学習者が目指す姿であるべきだ。はっきり、ゆっくり、難しい語彙などは用いずに、相手の目を見て話す。外国語を話すときは、この姿勢が大切だ。自身の英語力の低さに悩まされるサラリーマンも、ここから何某かのインスピレーションを得られるはずだ。

 

ネガティブ・サイド

これは監督の意向なのだろうが、サーファー役の二人は、少し滑舌が悪いのではないだろうか。素人っぽさを意識したと言えばそれまでなのだろうが、この2人組が喋ると、ただでさえゆったりと感じられるハワイの時間が、さらにスローに感じられた。また、ブルーシートを使った疑似サーフィンシーンでのカメラ目線は必要だったか。全体的にスリムダウンすれば、もう5~10分は短縮できたはずだ。本作のように、ただひたすらに歩くシーンを追う映画は、存外に観る者の体力を消費させる。90分ちょうどぐらいが望ましかった。

 

総評

これは高校生~大学生ぐらいの男子向けなのではないだろうか。男という生き物は、どういうわけか何歳になっても、母親に何か言われると反発してしまう性の持ち主だ。だが、本作を見て何かを感じ取れれば、それは男として一皮むけた証になるかもしれない。静かだが、力強い余韻を残してくれる傑作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ファンタジー, 吉田羊, 日本, 監督:松永大司, 配給会社:HIGH BROW CINEMALeave a Comment on 『 ハナレイ・ベイ 』 -異国の島で見出すは夢か現か幻か-

『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

バーバラと心の巨人 75点
2018年10月18日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:マディソン・ウルフ シドニー・ウェイド イモージェン・プーツ ゾーイ・サルダナ
監督:アナス・バルター

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原題は ”I Kill Giants” 、「私は巨人殺し」の意である。小林繁を連想してはいけない。西洋文明世界において、竜と並ぶ邪悪で強力な存在、それが巨人である。西洋世界では常識とされていることも東洋ではそうではない。逆もまた然り。生き物ではないところでは、指輪の魔力を描いた『 ロード・オブ・ザ・リング 』シリーズが好個の一例である。主人公のバーバラが闘おうとする巨人は何であるのか。邦題を読まずしても、巨人が象徴するものは何であるのかを考えさせられるが、その正体についても、また映画の技法としても、こちらの予想の上を行くものがあった。

 

あらすじ

バーバラ(マディソン・ウルフ)は小学5年生。いつか町に襲来する巨人に備えて、罠、毒、武器、そして秘密基地まで拵えている。ひょんなことから知り合う転校生のソフィア(シドニー・ウェイド)も、心理カウンセラーのモル(ゾーイ・サルダナ)も、バーバラが主張する巨人の存在を信じてくれない。家でもTVゲームに熱中する兄、残業多めの職場に勤める姉も、バーバラのやろうとしていることに理解を示してはくれない。しかし、バーバラだけは確信していた。いつか必ず巨人がやって来るのだ、と。

 

ポジティブ・サイド

マディソン・ウルフという新鋭との出会い、これだけでもう満足ができる。ジェイソン・トレンブレイ以上の才能かもしれない。もちろん、年齢も性別も、出演している作品のジャンルも違うが、主演を張ったマディソンには『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の主演・南沙良を見た時と同じような衝撃を受けた。くれぐれもハーレイ・ジョエル・オスメントのようにならないように、彼女のハンドラー達には慎重な舵取りをお願いしたい。バーバラという大人と子どもの中間、現実世界と空想世界の狭間を生きる存在にリアリティを与えるという非常に難しい仕事を、満点に近い形でやってのけたのだ。今後にも大いに期待できるが、トレンブレイが『 ザ・プレデター 』なる駄作に出演してしまったような間違いは見たくない。

 

本作では冒頭に、巨人という存在が何であるのかを絵本形式で教えてくれる。これは有りがたい。物語の背景を理解するには、その物語が生み出された地域や時代、文化の背景を知る必要がある。我々が巨人と聞いてイメージするものは、他の文化圏の人々がイメージするものと必ずしも一致しないからだ。J・P・ホーガンの傑作SF小説『 星を継ぐもの 』、『 ガニメデの優しい巨人 』、『巨人たちの星』(ついでに『 内なる宇宙 』も。”Mission to Minerva”はいつ翻訳、刊行されるのだ?)を読んで、「巨人とは心優しい、素晴らしい頭脳の持ち主なのだな」と思うのは正しい。しかし、それは必ずしも西洋世界の一般的な巨人像とは合致しない。映画を観る人に、巨人とはこういう存在ですよと知らせることは、存外に大切なことなのである。

 

その巨人を殺すために、バーバラが学校や森、海岸に張り巡らせるトラップの数々、自作のアイテム、それらの有効性を検証したノートなどが、バーバラというキャラクターと巨人の実在性にリアリティを付与する。同時に、我々はこのいたいけな少女の奇行の数々に戦慄させられる。その発言のあまりの荒唐無稽さに困惑させられる。少女の抱える心の闇の濃さと深さは、それだけ目を逸らしたくなる現実が存在することの証左でもある。余談であるが、バーバラのトラウマと全く同質のものを『 ペンギン・ハイウェイ 』のとあるキャラが劇中で示した。幼年期から思春期にかけて、このような想念に取り憑かれたことのない者は少ないだろう。あるいは『 火垂るの墓 』の節子をバーバラに重ね合わせて見てもいいのかもしれない。最後の最後のシーンは『 グーニーズ 』のマイキーを思い起こさせてくれた。まさしくビルドゥングスロマン。

 

ネガティブ・サイド

まず配給会社に言いたいのは、ハリー・ポッターと殊更に絡めようとしなくてもよいのだ、ということだ。もちろん、実績のある会社、スタッフが製作に加わっていることをPR材料にすることは悪いことでも何でもない。むしろ当然のことと言える。しかし、それが misleading なものであってはいけない。本作はファンタジー映画ではなく、ヒューマンドラマ、ビルドゥングスロマン=成長物語なのだから。

 

邦題は、ほとんど常に批判に晒される。近年でも『 ドリーム 』が「 ドリーム 私たちのアポロ計画 」なるアホ過ぎる邦題を奉られるところだったが、本作も下手をすると猛烈な批判に晒されてもおかしくない。“心の巨人”としてしまうこと、巨人はバーバラの心が生み出す幻影であることが明示されてしまうからだ。だが、それは同時にハリー・ポッターの製作者が今作に関わっているというPRと矛盾しかねない。一方では巨人は現実であると言いながら、もう一方では「この映画はファンタジーですよ」と言っているようなものなのだから。日本の配給会社はもう少し、思慮と配慮を以って邦題を考えるべきだ。

 

ひとつストーリー上の弱点を上げるなら、モル先生の活躍が少ないことだろうか。GOGのガモーラというキャラクターの皮を脱ぎ去り、母性溢れる魅力的な女性を演じていたが、それをもう少し前面に押し出してくれた方が、バーバラの苦境と苦闘がより際立ったかもしれない。

 

総評

誰しもが抱えてもおかしくな心の闇を見事に視覚化した作品である。小学校の低学年でもストーリーは理解できるだろうし、高校生あたりが最も楽しめる作品でもある。親子で観るのにも適しているし、ぜひそのように観て欲しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イモージェン・プーツ, シドニー・ウェイド, ゾーイ・サルダナ, ヒューマンドラマ, ファンタジー, マディソン・ウルフ, 監督:アナス・バルター, 配給会社:REGENTS, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

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