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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 香川照之

『 るろうに剣心 』 -コスプレ映画以上、傑作映画未満-

Posted on 2021年4月9日 by cool-jupiter

るろうに剣心 60点
2021年4月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:佐藤健 武井咲 香川照之
監督:大友啓史

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漫画『 るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 』をジャンプ連載時にリアルタイムで読んでいた世代としては、本作が映画化された時は素直に嬉しかった。ただし初めて劇場鑑賞した時、そして今回のリバイバル上映を観ても、感想は同じ。ストーリーをもっと練ることができたはずだ。

あらすじ

明治維新から10年。東京では神谷活心流を名乗る懸隔による謎の惨殺事件が頻発していた。流浪の剣客である緋村剣心(佐藤健)は、神谷活心流の薫(武井咲)と出会い、道場に逗留することになる。一方で、実業家の武田観柳(香川照之)は阿片の密売を進めようと画策していて・・・

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ポジティブ・サイド

佐藤健が緋村剣心にそっくりである。もちろん役者の容姿だけではなく、そこにはヘアスタイリストやメイクアップアーティスト、衣装の力があることを忘れてはならない。それでも、佐藤の演技に漫画の剣心をストレートにイメージできた人は多いのではないだろうか。剣心のユニフォームと言うべき、朱色の着物を身に着けるようになるエピソードもなかなかである。『 続・夕陽のガンマン 』でブロンディが最終盤近くでポンチョを身にまとうシーンを思い起こした。もちろんアクションでも魅せる。剣心というキャラクターの魅力は、華奢で天然の入った優男が実は凄腕の剣客であるというギャップ。実際に刀を振るってのアクションは迫力満点。キャラの外見は漫画的だが、チャンバラやその他のバトルシーンは映画的だ。ワイヤーアクションをふんだんに使ってのソード・アクションは必見。観柳邸の庭で大人数の浪人相手の立ち回りでは、カメラワークの巧みさもあり、漫画的なショットの連続で神速の体術と刀裁きが光っていた。飛天御剣流のお約束的なポーズもしっかり再現されていて、ファンサービスも抜かりなし。

剣心以外でキャラの再現度が高いと感じられたのは相楽左之助。演じた青木崇高に拍手。原作ではどこかクリーンなイメージの外見だが、映画では粗野で不潔で喧嘩っ早いという属性そのままの容姿。さらに斬馬刀を振り回すという迫力あるアクションに、本物の元格闘家を相手にして徒手空拳で挑むバトルも、漫画的でどこか笑える雰囲気でありながら、痛みを感じさせるリアルなシーンに仕上がっていた。特に観柳邸の台所でのバトルは、すぐそこにあるもので相手を殴りまくっており「これは痛い」と実感できた。

鵜堂刃衛役の吉川晃司もコスプレはもちろん、アクションを相当に頑張っている。警察署への討ち入りから剣心との決闘まで、チャンバラ活劇の迫力では佐藤健に一歩も引けを取っていなかった。背車刀の実演も見事。連載時に「うおっ、なんかすげえ!」と感じた中学生の頃をおっさんになった今でも思い出せた。本職は俳優ではなかったはずだが、この多芸多才ぶりは賞賛に値する。物語序盤の敵であるため目立たないが、スーパー実力者である鵜堂刃衛をコスプレ以上の意味で体現した、本作の影の立役者である。

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ネガティブ・サイド

るろ剣という壮大な物語の導入とキャラ立てとストーリー展開を同時並行でやろうとして、見事に失敗している。るろ剣ほどのヒット漫画の映画化なのだから、第一作目ではキャラをじっくり作りこみ、キャラ同士の関係の発展に焦点を当てるか、あるいは観る側がキャラ設定をすでに十分に承知したうえで鑑賞するものと想定して、一気に物語を動かすか。そのどちらかすべきだった。

本作の弱点は明らかで、キャラの立て方が中途半端になってしまっている。相良左之助と剣心の出会いが留置所というのはいかがなものか。いや、左之助と剣心の出会いの物語を原作漫画通りやっていたら、それだけで40~50分はかかる。それは理解できる。だが、なぜ警察絡みにしてしまうのかが解せない。原作のこの段階では出てこず、かつ左之助とはまったく馬が合わない斎藤一を、プロローグ段階でバンバン出してしまっていることで、キャラの人間関係や背後関係が妙なことになっているように見える。左之助を捕縛できる警察など斎藤以外にいないが、それでは話のつじつまが色々と合わない。

その一方で観柳はコスプレではなく、香川照之の独演会、ワンマンショーになっている。他のキャラは漫画のコスプレをしているのに、一人だけオリジナルキャラクターになってしまっている。もちろん観柳は観柳なのだが、なにもかもが over the top で、インテリヤクザではなくただのヤクザになっているのだ。

斎藤一のキャラもぶれている。というよりも、斎藤の代名詞である「悪・即・斬」が一度も聞かれないので、斎藤がただの腕の立つ警察官になり下がってしまった。なぜ幕府側だった斎藤が明治政府の要人の下でその腕を振るっているのか、それは原作で執拗なほどに描写された、斎藤自身の正義感=悪・即・斬という哲学・信念に常に忠実であり続けているからに他ならない。だが、そういったキャラ立てに最も必要とされる部分がすっぽりと抜け落ちてしまっているせいで、斎藤が単なる体制側の人間に見えてしまう。

最も許せないと感じたのは弥彦の扱いだ。それまで単なるにぎやかし要員だった弥彦が、観柳邸に向かう剣心と左之助から薫と道場の警護を託されるシーンは名場面だったし、漫画『 ベルセルク 』でガッツがイシドロに殿を任せる場面は、るろ剣のここからインスパイアされたものだと勝手に解釈している。そんな弥彦が、警察、それも斎藤一のところに駆け込むか?斎藤の口から語られるべきだったのは「お前らのところのちびが来た」ではなく、「神谷道場が襲撃されたと近隣住民から通報があった。急行してみたら、子どもが奮戦むなしくやられていたが、最後まで立派だった」みたいなことでなければならなかった、絶対に!るろ剣というのは主人公が最初から超絶強いわけで、読者は「かっこいい!」とは思えても、自己同一視はできないタイプのキャラである。そういう意味で弥彦というキャラは同時期の漫画『 ダイの大冒険  』で言うところのポップのような、成長型の人間、つまり普通の読者が自己を重ね合わせやすいキャラだった。そこを読み誤った、あるいは脚本に盛り込めなかった大友啓史には猛省を促したい。

総評

コスプレ映画以上の出来であることは間違いない。しかし、脚本があまりにも粗い。ストーリーを詰め込み過ぎている。また重要キャラクターの描写にも原作軽視あるいは無視の傾向が見て取れるのが残念である。逆に言えば、単純にアクションを楽しむ分には何の問題もない。チャンバラに関して言えば、韓国英語がにもハリウッド映画にも負けていない(というか、絶対に負けてはいけないのだが)。るろ剣の実写映画の最終章の公開前に復習鑑賞するという意味では、ファンならばチケットを買うべきだろう。

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

no-kill

殺さず、の意味の形容詞。英語でも no-kill trap や no-kill animal shelter などの言葉は、あちらのドキュメンタリーなどを観ていると聞こえてくる。不殺の誓いは、no-kill oathとなるだろうか。初期以外のバットマンは犯罪者を殺さないというポリシーを持っているが、それも時々 no-kill oath と言われている。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アクション, 佐藤健, 日本, 武井咲, 監督:大友啓史, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 香川照之Leave a Comment on 『 るろうに剣心 』 -コスプレ映画以上、傑作映画未満-

『 七つの会議 』 -誰が為に働くのかを鋭く問う意欲作-

Posted on 2019年2月11日2019年12月21日 by cool-jupiter

七つの会議 65点
2019年2月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:野村萬斎 香川照之
監督:福澤克雄

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働くことの正義を問うとは大仰な煽り文句だ。しかし、『 空飛ぶタイヤ 』が結構なカタルシスをもたらしてくれる娯楽作品であると同時に、現実を鋭く抉る批評的作品でもあったことから、本作も同工異曲の映画であろうと予想していた。働くことの正義なるものについての論評はしがたい作品であるが、水準以上の面白さは有していた。

 

あらすじ

東京建電の八角民夫(野村萬斎)は、居眠り八角の異名を持つ怠け者。しかし、八角の排除を試みようとした社員は皆、謎の異動に処されてしまう。八角の勤務態度の裏にあるものとは?上司の北川(香川照之)と八角の関係は?そこには東京建電の抱える深い闇が広がっていて・・・

 

ポジティブ・サイド

どのキャラクターも見事に立っている。主人公の八角演じる野村萬斎がまさに狂言回しである。それに輪をかけて北川演じる香川照之がブラック企業の幹部を体現している。それはリアリティを追求する方法ではなく、一部の特徴を誇張・肥大化させることで達成されている。それは正しいドラマの作り方でもある。古代ギリシャの時代から、ドラマツルギーとは人間の一側面を過大に描くことで成り立ってきたとさえ言える。本作に登場するキャラクターは、誰もかれもが典型的なキャラをその役割や職務に応じて演じている。「現実的であるということは陳腐なことである」とは小説家・奥泉光の言だが、いわゆるブラック企業の在り方やダメ社員の処遇については、我々は実はほとんど知らないのではないか。我々の耳目に入る情報は極端なものか、メディアが編集したものか、もしくはひときわ声の大きい個人が知らせてくれるものぐらいだろう。そうした意味で、この映画に出てくるあらゆるキャラクターはリアルさには欠けるものの、典型的と評してよい。キャラクターが立っているというのは、そういうことである。

 

さらに池井戸潤作品の特徴である現実批評の精神は本作にも通底している。特に政府による文書の改竄や統計データの不正が明らかになった昨今、明らかに我々が本作を視聴する目は厳しくなる。厳しいというのは審美眼のことではなく、フィクションと現実を重ね合わせてみようとする姿勢のことである。東芝やオリンパスのような巨大企業の不祥事の構造の全貌が判明せず、チャレンジなる曖昧模糊とした言葉で管理職は平社員にプレッシャーを与え、そして責任のはっきりしない不祥事が発生する。本作はそんな現実世界の出来事を忠実になぞるかのように、次から次へと悪役候補が現れては消え、そしてまた現れてくる。これは面白い。我々はあまりにも「皆が悪いのだ」という論調に慣れ過ぎている。これは『 華氏119  』の当時のB・オバマ米国大統領の言葉でもある。しかし、元凶というものは確かに存在し、そしてそれは追及されねばならないと、本作は宣言している。特に上位の会社が下位の会社の財布の中身まで覗き込み、カネの使い方にまであーだこーだとくちばしを突っ込んでくるところは、某愛知の自動車メーカーと某大阪・寝屋川市自動車部品メーカーの関係を見るかのようだった。不正とは、現場レベルやノンタイトルの従業員が行うようなものではない。それは上からの圧力によるものであることがほとんどだろう。一部のサラリーマンや公務員にとっては、本作は非常に胸のすく展開であるに違いない。

 

ネガティブ・サイド

残念だが細部にリアリティが不足しているように思う。『 真っ赤な星 』にもあった不倫ネタ、「俺、お前とのことを真剣に考えているから」という台詞は陳腐であるからこそリアルなのであるが、これはお仕事ムービーであり、サラリーマン映画なのである。前半の不倫プロットのパートは不要というか、八角の存在感の無さ、そして神出鬼没さ、目敏さ、そして意外なコミュニケーション力を演出したかったのだろうが、この部分がかなり冗長だったように感じた。

 

また東京建電の抱える闇であるが、こんな事実が発覚しなかった方がおかしいとすら感じる。あの業界やあの業界は独自に部品のスペックをチェックしているし、特に福知山線の脱線事故からこちら、列車の製造およびメンテナンスの主眼は安全性に置かれていると聞く。キャラクターは典型的でも良いのだが、ストーリーにはやはりリアリティを求めたい。製造業や営業という職務に従事する人が鑑賞すれば、かなり突っ込みどころの多い作品になっていることは、容易に想像がつく。そこが本作の惜しいところである。

 

総評

単体の映画として見れば『 空飛ぶタイヤ 』に軍配が上がる。しかし、社会全体を風刺する、または国民性を追究する、サラリーマンという生き物を“生態模写”するという意味の面白さでは優るとも劣らないものがある。新元号になってから就業していく、世に出ていく中高生たちが見てみれば、平成という世の働き方に良い意味でも悪い意味でも感じ入ることがあるのではないだろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, サスペンス, 日本, 監督:福澤克雄, 配給会社:東宝, 野村萬斎, 香川照之Leave a Comment on 『 七つの会議 』 -誰が為に働くのかを鋭く問う意欲作-

『 ゲド戦記 』 -父殺しを果たせず、端的に言って失敗作-

Posted on 2018年9月22日2020年2月14日 by cool-jupiter

ゲド戦記 15点

2018年9月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:岡田准一 手嶌葵 菅原文太 田中裕子 香川照之 風吹ジュン
監督:宮崎吾朗

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冒頭から、息子による父殺しが行われる。文学の世界においては、父親殺しはオイディプス王の頃から追究される一大テーマである。吾朗は、駿を殺す=乗り越えると、高らかに宣言している。そしてそれは失敗に終わった。それもただの失敗ではない。悲惨な大失敗である。

凶作や英奇病に苦しむ王国の王子アレン(岡田准一)は、父王を殺し出奔する。その途上、大賢人ハイタカ(菅原文太)に巡り合い、世界の均衡を崩す要因を追究する旅に同行する。そして、テルー(手嶌葵)とテナー(風吹ジュン)と邂逅しながらも、人狩りのウサギ(香川照之)やその主のクモ(田中裕子)との争いにその身を投じていく・・・

まず宮崎吾朗には、商業作品で自慰をするなと強く言いたい。『 パンク侍、斬られて候 』は石井岳龍の実験なのか自慰なのか、判別できないところがあったが、今作は完全に吾朗の自慰である。それもかなり低レベルな。それは原作小説の『ゲド戦記』の色々なエピソードを都合よく切り貼りしてしまっているところから明らかである。まずゲド戦記のすべてを2時間という枠に収めることは不可能である。であるならば畢竟、どのエピソードをどのように料理していくかを考えねばならないが、吾朗はここでハイタカとアレンの物語を選ぶ。少年と壮年もしくは老年の旅を描くならば、そのたびの過程そのものに父親殺しのテーマを仮託すればよいのであって、冒頭のシーンは必要ない。『太陽の王子 ホルスの大冒険』のように、いきなり狼の群れにアレンが囲まれるシーンに視聴者を放り込めばよいのだ。本作は父殺しをテーマにしているにも関わらず、アレンがハイタカを乗り越えようとする描写が皆無なのだ。影が自分をつけ狙うというのもおかしな話だ。影がハイタカをつけ狙い、隙あらば刺し殺そうとするのを、アレンが止めようとするのならばまだ理解可能なのだが。これはつまり、偉大なる父親を乗り越えたいのだが、結局は父の助力や威光なしには、自らの独立不羈を勝ち得ることはできないという無意識の絶望の投影が全編に亘って繰り広げられているのだろうか。

本作のアニメーションの稚拙さは論ずるに値しない。一例として木漏れ日が挙げられよう。『 耳をすませば 』でも『借りぐらしのアリエッティ』でも『 コクリコ坂から 』でも何でもよい。光と影のコントラスト、その自然さにおいて雲泥の差がある。別の例を挙げれば、それは遠景から知覚できる動きの乏しさである。ポートタウンのシーンで顕著だが、街の全景を映し出すに際しては、光と影から、時刻や方角、季節までも感じさせなければならない。随所に挿入される如何にも平面的なのっぺりとした画を、『もののけ姫』でも『風立ちぬ』でも何でもよい、駿の作品と並べて、比べてみればよい。その完成度の高さ、妥協を許さぬ姿勢において、残念ながら息子は父に全くもって及ばない。

はっきり言って、15点の内訳は香川照之の演技で15点、菅原文太の演技で15点、手嶌葵の演技でマイナス15点の合計点である。哲学的に考察すればいくらでも深堀りできる要素がそこかしこに埋まっている作品であることは間違いないが、吾朗はそれをおそらく自分の中だけで消化してしまっており、観る側がイマジネーションを働かせるような余地というか、材料を適切な形で調理することなく皿に載せて「さあ、召し上がれ」と言ってきたに等しい。こんなものは食べられないし、食べるにも値しない。ゆめ借りてくることなかれ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, F Rank, アニメ, ファンタジー, 岡田准一, 日本, 監督:宮崎吾朗, 配給会社:東宝, 香川照之Leave a Comment on 『 ゲド戦記 』 -父殺しを果たせず、端的に言って失敗作-

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