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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 監督:新海誠

『 すずめの戸締り 』 -もっと尖った作品を-

Posted on 2022年11月20日 by cool-jupiter

すずめの戸締り 45点
2022年11月18日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:原菜乃華 松村北斗
監督:新海誠

 

仕事帰りについつい行ってしまった。映像美には文字通りに息をのんだが、Jovianが抱く新海誠のイメージがどんどん薄まっていく気がした。

あらすじ

女子高生のすずめ(原菜乃華)は、廃墟を探す謎の青年・草太(松村北斗)と出会う。打ち捨てられた温泉街で、偶然にも扉を開けてしまったすずめは、常世からの災厄を呼び込んでしまう。草太と共になんとか鍵を閉めたすずめだが、今度は草太が謎の猫によって椅子に変えられてしまう。すずめと草太は、謎の猫を追いかけて・・・

 

以下、ネタバレあり

 

ポジティブ・サイド

美麗な映像は日本アニメの中でも間違いなくトップ。トップクラスではなくトップ、それは間違いない。冒頭で映し出される光彩陸離な常世の情景には息を呑んだ。宮崎県の山や海の美しさも素晴らしかった。

 

本作の設定はかなりユニーク。日本列島の地震の発生源を常世に住む「ミミズ」に求めるというのは面白い。C・ダーウィン最後の研究対象であり、『 DUNE デューン 砂の惑星 』でもフィーチャーされたミミズが常世から現世に抜け出てきて倒れることで地震が発生するというメカニズムは、風水的でありながら日本的でもある。そのミミズが出てくる後ろ戸を閉じる「閉じ師」という存在も興味深い。風水師+陰陽師のようなイメージで捉えるとちょうど良いのだろう。

 

草太とすずめを普通に旅させてはつまらないと、草太を椅子に変えてしまうというのも衝撃的。逃げる猫とそれを追う椅子というのは、今後10年は出てこないシュールな画だったと思う。椅子であることに意味もあった。椅子だからこそ物も置けるし、誰かが座れる。その上に立つこともできる。椅子にされてしまった草太が、実は要石になってしまうことで、日本列島を支え、さらには日本に住まうもの全てを支えているというアナロジーの壮大さには唸ってしまった。トレイラーを見た時点で「新海誠は狂ったんかな?」と感じてしまったが、謹んで撤回させていただく。

 

日本を震災から救うということと、すずめ本人のトラウマからの解放が、草太と共に旅をすることとしっかりリンクしていて、これはこれで令和のセカイ系という印象を受けた。いなくなってしまった人々が残した想いを掬い取るというのは、ある意味で物語にしか成し得ないこと。そのように観る側の想像力を刺激しようと試みるところに本作の最大の価値があると言えるかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

なんというか、作品を重ねていくごとに新海誠の新海誠らしさが少しずつ失われていっているように感じる。ミュージックビデオであることは本作でも変わりがないが、その点でも退行しているかな。『 ルージュの伝言 』やら『 男と女のラブゲーム 』、『 けんかをやめて 』など、劇中の芹澤の言葉を使えば懐メロになるが、これも中年世代へのマーケティングに感じられてしまう。ひねくれすぎか?いや、前二作は映像と楽曲をがっつり戦わせていたが、今作ではストーリーが音楽に従属させられていると感じた。

 

新海誠の一番の特徴というか特質は『 秒速5センチメートル 』で見せた、まさに言葉そのままの意味の中二病的な執着だったはずではないか。『 君の名は。 』、『 天気の子 』ではオタクに媚びるセカイ系文学的な世界観は残しつつ、若年層への露骨なアピールのためか、よくできたミュージックビデオになっていた。それでも、そこには社会的なメッセージの類は非常に薄かったので、まだ新海誠という作家個人の色が出ていた。本作が東日本大震災や人口減少、それに伴う過疎化をテーマに盛り込んだことは否定しないが、明らかに作家性は薄まったと感じた。新海誠はヒットメーカーよりも、異端の作家でいてほしかった。

 

無能な大臣揃いで震災復興やコロナ対策ができずに右往左往したり朝令暮改したり、さらに公文書を黒塗りにして恥じることのない日本政府を様々に揶揄している作品とも受け取れるが、新海誠はセカイ系の系譜の作家であって、そういう社会批判からある意味で最も遠い人のはず。チケット購入特典についてくる冊子をザーッと読んだ限りでは、新海本人が社会に訴えたいことがある様子。この分だと次回作もヒットするのだろうが、どんどん普通のエンタメ作品に近づいていきそう。もっと尖った作品を見せてほしいのだが・・・

 

総評

映像や音楽の素晴らしさそのものにケチはつけられない。しかし、宮崎駿や庵野秀明の作品の影響が垣間見えるのはオマージュなのか、チャレンジなのか、それともマーケティングなのか。次回作に対しては、個人的には不安を覚えてしまう。本作を面白いと感じたアニメファンは『 風の電話 』という実写映画を観るべし。震災によって傷つけられた少女の癒やしと祈りのロードムービーという点では、本作よりもはるかに面白いはずだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

speak

劇中で2度ほど「猫がしゃべった!?」みたいなシーンがあるが、ここでの「しゃべる」は talk ではなく speak を使う。talk と speak の最大の違いの一つが、talk は話題について話す、 speak は言語を話すということ。a Germen speaker というのはドイツ語話者で、a German talker だとよくしゃべるドイツ人という感じ。

 

次に劇場鑑賞したい映画

『 ザ・メニュー 』
『 ザリガニの鳴くところ 』
『 ある男 』

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, アドベンチャー, アニメ, ファンタジー, 原菜乃華, 日本, 松村北斗, 監督:新海誠, 配給会社:東宝『 すずめの戸締り 』 -もっと尖った作品を- への2件のコメント

『 天気の子 』 -不完全なセカイ系作品-

Posted on 2019年7月26日2020年4月11日 by cool-jupiter

天気の子 55点
2019年7月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:醍醐虎汰朗 森七菜
監督:新海誠

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190726005346j:plain

あらすじ

関東は異常気象で数十日も雨が降り続いていた。家出少年の帆高(醍醐虎汰朗)は、ふとした縁から、オカルト記事ライターの事務所で職を得る。精勤する穂高は、ある時、陽菜(森七菜)という少女のピンチを救う。弟と二人暮らしの陽菜は、しかし、実は祈ることで天気を晴れにすることができるのだった・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190726005428j:plain

以下、ネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

雨、雨、雨で気分が滅入るが、その分、晴れ間の美しさはとびきりである。そして『 シン・ゴジラ 』を思わせる、近未来的な東京(武蔵小杉は神奈川か)の景観はファンタジーとリアリティの境界線上にあると感じられた。現実の世界での突拍子もない事象にリアリティを持たせるためには、まずは舞台となる世界そのものを現実<リアル>から少しずらすことが必要である。本作はその導入部で成功している。何故なら、東京の爛熟した発達模様と、大都市に特有の不潔で冷酷な生態系が発達する場所の両方がフォーカスされるからだ。そして、穂高と陽菜の二人、いや主要なキャラクター達は全員、比喩的な意味での日の当たる場所に出ることはない。東京という摩天楼のひしめく街区ではなく、木造のおんぼろアパートや、明らかに空襲を免れた痕跡である、込み入った狭い路地が錯綜する地域に住まうのが穂高や陽菜である。この舞台設定により、我々はほぼ自動的にこの若い男女に感情移入させられるのである。

 

メインヒロインの陽菜のキャラクターは本作を救っている。はっきり言って、狙って作ったキャラクターである。新海誠の趣味が全開になったようである。あるいは、全ての男に媚びを売るためなのだろうか。器量良し、料理良し、家事良し、人柄良し、そしてなによりも年上と思わせておきながら年下である。これは反則もしくは裏技である。姉萌えと妹萌えの両方を満足させるからである。といっても、前振りや伏線はしっかりと用意されているので、アンフェアではない。

 

そして穂高についても。本作は典型的なボーイ・ミーツ・ガールであるが、同時に A Boy Becomes a Manのストーリーでもある。A Child Becomes an Adultでないところに注意である。大人とは何か。それは『 スパイダーマン ホームカミング 』で、ピーターとトニーが交わす会話に集約されている。つまり、責任ある行動を取れるかどうかなのだ。しかし、少年と男は違う。我々はよくプロ野球選手などが「優勝して、監督を男にしたい」と言ったりするのを聞く。ここでいう男が生物学的な意味での雄を意味するわけではないことは自明である。男とは、自らの信念に忠実たらんとする姿勢、生き様のことなのだ。そういう意味では、穂高は子どもから大人になろうとしているのではなく、少年から男になろうとしている。大人であっても男ではない男はたくさん存在する。むしろ、大人になってしまうと男になることは難しい。それは大人だらけのプロ野球の歴史を見ても、“男”という枕詞が定冠詞の如く使われる選手は、「男・前田智徳」ぐらいしか見当たらないことからも明らかである。そして、穂高は確かに男になった。その点においては、自らの信念に忠実であり続けた新海誠監督を評価すべきなのだろう。

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ネガティブ・サイド

これは周回遅れのセカイ系なのか。ひと組の男女の関係がそのまま世界の命運に直結するというプロットを、我々は90年代後半から00年代終盤にかけて、これでもかと消費してきたのではなかったか。『 君の名は。 』も、確かにそうした系譜に連ねてしまうことはできなくもないが、星というこの世(地球)ならざるものの存在が、世界をセカイに堕してしまうことを防いでいた。天気は、しかし、それこそ身近すぎて、世界がいともたやすくセカイに転化してしまう。それがJovianの受けた印象である。宇宙的なビジョンが挿入されるシーンがあるが、そのようなものは不要である。蛇足である。天気・天候と宇宙の関係を追求したものとしては梅原克文の伝奇・SF小説の傑作『 カムナビ 』がある。話のスケールもエンターテインメント性も、こちらの方が遥かに上である。惜しむらくは、梅原の著作はどれも映像化が非常に困難だということである。しかし、いつか勇気あるクリエイターたち(できれば『 BLAME! 』をアニメ映像化したスタジオにお願いしたい)が『 二重螺旋の悪魔 』をいつか銀幕上で見せてくれる日が来ると信じている。

 

Back on track. セカイ系は既にその歴史的な役目を終えたというのが私見である。それは西洋哲学史が、神、絶対者、歴史という抽象概念な概念としての世界から、フッサール以降は「生活世界」にフォーカスするようになり、さらに現代哲学は言葉遊びと現象学、脳神経科学、、心理学などが複雑に絡み合う思想のサーカス状態である。セカイ系は、思想的には「生活世界」=森羅万象という思考に帰着するものだ。自らの生きる、実地に体験できる範囲の世界のみを現実と認識することだ。しかし、そこには重要な欠落がある。想像力だ。人間の持つ最も素晴らしい能力である、想像力を弱めてしまうからだ。穂高は陽菜のために関東を犠牲にしたと言えるが、それは少年が男になる過程としては受け入れられても、子どもが大人になる過程としては違和感しかない。穂高もそうだが、それは須賀というキャラクターに特に象徴的である。この人物は、大人にも男にもなり切れず、大人のふりをした決断をする。もちろん、アニメ映画の文法よろしく、最後には主人公の味方になるのだが、それまでに見せる須賀の想像力の無さには辟易させられる。まるで自分というおっさんの至らない面をまざまざと見せつけられているようだ。「大人になれ」という須賀の台詞には、軽い怒りさえ覚えた。それも監督の意図するところなのだろうが。

 

雨を降らせ続けるという決断を下したのであれば、それがどれほど甚大な被害をもたらす決断であるのかをしっかりと描かなくてはならない。昨年(2018年)の西日本豪雨の被害はまだ我々の記憶に新しい。土砂災害もそうであるが、長雨により発生するカビ、金属の腐食、農作物の不作、疫病の発生、生態系への影響など、「昔に戻る」で決して済まない事態が出来することは日を見るより明らかだ。だいたい、あの銃があの状況で使えてしまうことがそもそもおかしい。いずれにせよ、穂高と陽菜の決断の結果、世界が“想像を超えた災厄”に見舞われていないと、それはセカイ系の物語としては不完全だ。というよりも、セカイ系の文法からも外れているではないか。特に世界全体がリアリティを欠いている。児童相談所は一体何をやっている?地域の公立小中学校は?警察も無能すぎる、と言いたいところだが、富田林署から逃げ出した男が実在するわけで、ここは減点対象にしない方が良いのだろう。

 

空の世界の描写も『 千と千尋の神隠し 』の白と式神のオマージュなのだろうか。もっとオリジナリティのあるビジョンは描けなかったのだろうか。細かい部分にも不満は残るが、全体を通じてやはりミュージック・ビデオ的な作りであるとの印象は避けられない。愛にできることを問うのは美しいが、愛が必然的に伴うネガティブな部分の描写の弱さ故に、子ども向け作品としてしか評することができない。

 

総評

最近、特に年齢を感じる。肉体的にそうだ。風邪をひいて、回復するのに4~5日を要するようになってしまった。精神的な老いも感じる。対象の新しい可能性を探ろうとするよりも、既知のものとのアナロジーで語ることが多いことは自覚しているが、仕事でも私生活でも何かを変えなければならない時期に来ているのかもしれないと感じた次第である。本作について言えば、オッサンの鑑賞に堪える部分は少ないだろう。しかし、中高大学生カップルあたりは、『 君の名は。 』と同じくらいに楽しめるのではなかろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ファンタジー, 森七菜菜, 監督:新海誠, 配給会社:東宝, 醍醐虎汰朗Leave a Comment on 『 天気の子 』 -不完全なセカイ系作品-

『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

Posted on 2019年7月21日 by cool-jupiter

君の名は。 65点
2019年7月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:神木隆之介 上白石萌音 長澤まさみ
監督:新海誠

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これはStar-crossed loversの物語である。Starには星や、スター誕生のスターなど色々な意味を持っているが、「運命」という意味もある。そうしたことは『 グレイテスト・ショーマン 』でのゼンデイヤとザック・エフロンのデュエットが『 リライト・ザ・スターズ 』(Rewrite The Stars)『 きっと、星のせいじゃない 』の原題が“The Fault In Our Stars”(英語学習者で意欲のある人は、何故fault in our starsであって、fault with our starsなのか調べてみよう)であったりと、星は運命を司るものの象徴だった。そのことを真正面から描いた作品には希少価値が認められる。確か封切の週の日曜日の夕方に東宝シネマズなんばで鑑賞した記憶がある。あまりの観客の多さに、上映時間が20分ぐらいずれたと記憶している。『 天気の子 』の予習的な意味で再鑑賞してみる。

 

あらすじ

地方の田舎町に暮らす宮水三葉(上白石萌音)と東京に暮らす立花瀧(神木隆之介)は、互いの身体が入れ替わるという不思議な夢を見る。しかし、それは夢ではなく、二人は本当に入れ替わっていた。決して出会うことのない二人は互いへの理解を深めていく。その時、1200年に一度の彗星が迫って来ており・・・

 

ポジティブ・サイド

 

以下、ネタばれに類する記述あり

 

グラフィックは美麗の一語に尽きる。特に森の木々や空の雲、水面が映す光など、オーガニックなものほど、その美しさが際立っている。映画とテレビ番組の最大の違いは、映像美、そのクオリティにある。大画面に生える色彩というのはインド映画で顕著であるが、アニメーションの世界でも、いやアニメーションの世界だからこそfantasticalな色使いを実現することができるのだ。そのポテンシャルを存分に追求してくれたことをまずは讃えたい。

 

ストーリーも悪くない。星を身近に感じない文化はおそらく存在しない。要は、星をどのようなものとして捉えるか。その姿勢が、観る者の心を掴むことにもつながる。劇中でも言及されるシューメーカー・レヴィ第9彗星、それに百武彗星、ヘールボップ彗星などは一定以上の年齢の人間には懐かしく思い出されるだろう。また、こうした彗星を懐かしく思える人というのは、小惑星トータチスや、さらにはノストラダムス絡みの終末論などをリアルタイムで“楽しんだ”世代の人間だろう。新海誠氏はJovianのちょっと年上であるが、For our generation, stars are romanticized symbols. 星とは死と再生、破壊と創造の架け橋なのだ。そうしたモチーフとしてのティアマト彗星が、RADWIMPSの楽曲とよくフィットしている。七夕を現代的に大胆にアレンジすれば、このようなストーリーになってもおかしくない。

 

逢魔が時、黄昏時、誰彼時。確かに夏の日などには、ほんの数分、世界が紫の光に包まれる瞬間がある。生と死、陰と陽(これも分かりやすく町長の部屋にあった)、そうしたものが溶け合い混じり合う瞬間こそが、本作のハイライトである。それは夢現である。夢なのか、それとも現実なのか。『 となりのトトロ 』の「夢だけど夢じゃなかった」という、あの感覚である。そして、夢ほど忘れやすいものはない。たいていの人は、どうしても忘れられない強烈な夢の記憶が二つ三つはあるだろう。しかし、昨日見た夢さえ人は忘れてしまう。いや、悪夢にうなされて目覚めても、わずか数分でどんな夢だったかすら、我々は簡単に忘れてしまう。身体を入れ替える。それは、ある意味では究極の愛の実現である。アンドロギュヌスは男女に分裂してしまった。だからこそ、互いに欠けた状態を求め合う。それがエロスである。性欲や性愛ではなく、失われた半身を無意識のうちに探してしまう。それが瀧と三葉の関係である。そして、瀧は愛する三葉のために三葉になる。アガペーとも概念的に融合したキリスト教的な愛である。我々は愛する人が病気などで苦しんでいる時に、できることならその苦しみを自分が代わりに引き受けてやりたいと願う。しかし、それは神ならぬ身の自分にはできない。キリスト教の神は、人の罪を購うために一人子のイエスを遣わし、自ら死んだ。愛する人の代わりに死ぬ。それが究極の愛なのかもしれない。久しぶりに、ロマンチックな物語を観たと思う。

 

ネガティブ・サイド

普通に考えれば、瀧と三葉が入れ替わっている時に周囲の人間は異常事態に気付くはずである。「昨日はちょっと変だったぞ」では済まない。絶対に。ファイナルファンタジーⅧのジャンクションではなく、本当に中身が入れ替わっているのだから。例えばJovianの中身が、Jovianを非常によく知る人と入れ替わったとしても、Jovianの妻は一発で見破るであろう。夫婦の間でしか通じないパロールやジェスチャーがあるからだ。

 

また日本中の何十万人もの人が突っ込んだに違いないが、一応自分でも突っ込んでおくと、瀧の時間と三葉の時間にずれがあることは絶対にどこかで気付くはずだ。携帯電話でも、テレビでも、カレンダーの日付と曜日でも、新聞でも、なんでもよい。さらに、入れ替わる先の時間が異なっているというのは、ファイナルファンタジーⅧだけではなく、ゲームのPS2ゲーム『 Ever17 -the out of infinity – 』(厳密には入れ替わりではないが・・・)がネタとしては先行している。または同系列のPS2ゲーム『 12RIVEN -the Ψcliminal of integral- 』にも同じトリックが仕込まれていた。さらに遡れば『 市民ケーン 』も、一本道のストーリーと見せて、時間が大胆に飛ぶ構成になっていた。リアルタイムで展開されていると思われた二つの事象が時間線上の異なる点での出来事だったというのは、個人的にはこの上ないクリシェであった。

 

全体を通じて感じられるのは、RADWIMPSのためのミュージック・ビデオのような作りになっているということである。映像は美しく、キャラクター達もそれなりに魅力があり、ストーリーは陳腐ではあるが、美しくもある。しかし、そうした作品の長所や美点を支えているのが、音楽であるかのように感じられるのは何故なのだろうか。前世、運命、未来。そうしたバナールなお題目は、物語全体を以って語らしめるべきで、優れた楽曲に仮託するものではないだろう。本作のテーマは『 ボヘミアン・ラプソディ 』ではないのだから。

 

総評

悪い作品では決してない。むしろ優れている。ただ、新海誠監督の美意識というか様式美というか、『 秒速5センチメートル 』や本作などに見られるように、現実と非現実、此岸と彼岸、現世と幽世の境目、そこにある断絶の広がりを追い求めるのが氏のテーマである。今作はそれが若い世代の嗜好にマッチして爆発的なヒットになったことは記憶に新しい。しかし、もうそろそろ違うテーマを探し始めてもよいのではないだろうか。『 天気の子 』も同工異曲になるのだろうか。そこに一抹の不安を感じている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, ラブロマンス, 上白石萌音, 日本, 監督:新海誠, 神木隆之介, 配給会社:東宝, 長澤まさみLeave a Comment on 『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

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