ある少年の告白 70点
2019年5月4日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ルーカス・ヘッジズ ニコール・キッドマン ジョエル・エドガートン ラッセル・クロウ
監督:ジョエル・エドガートン
ルーカス・ヘッジズとティモシー・シャラメが、Jovianの考える20代のアメリカ人俳優のトップランナーの二人である。『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』では嫌なガキンチョでありながら傷心を隠せない少年、『 レディ・バード 』では可愛い男子からのゲイ、『 スリー・ビルボード 』では、姉の喪失と母親の支配に何とか抗おうともがく少年と、非常にゲイ達者・・・ではなく、芸達者であることが分かる。Jovian一押しのH・スタインフェルドとの共演を早く実現して欲しいものである。
あらすじ
ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)はカーディーラーにして牧師の父マーシャル(ラッセル・クロウ)と母ナンシー(ニコール・キッドマン)によって、同性愛矯正プログラムを実施している施設に送られる。そこで彼が体験したのは、プライバシーの侵害やマッチョイズムへの盲信、体罰に近い行為や言葉の暴力だった・・・
ポジティブ・サイド
こうした事実は小説よりも奇なりを地で行く物語には、ドラマチックさは必要であっても、シネマティックさは不要かもしれない。そう感じさせるほどに、全編に乾いた空気が流れている。光や音の鮮やかさによって魅せるのではなく、それらの欠如によって逆に浮かび上がってくる人間の心の仄い領域を本作は映し出す。単なるダークサイドではなく、それを正義であると思い込む人間の恐ろしさが、静かに、しかし確実に伝わってくる。監督も務めたジョエル・エドガートンは、ジャレッドの送り込まれる施設の長をしているのだが、この男の言動に漂う危うさは何なのか。それは、言葉に論理性も一貫性もないところである。同性愛を忌避の対象と最初から決め付け、なおかつその性的志向の源を家族のアルコール歴、ドラッグ歴、その他諸々に求める姿勢は滑稽千万である。しかし、観る側からすれば吐き気すら催すような男が、劇中ではそれなりにリスペクトされ、権威と権力を有し、数多くの子女に教育的指導を行っている。ジョエル・エドガートンはそうした“矛盾”を内包したキャラクターを卓越した演技力で体現してみせた。
彼の課すプログラムの一つにこのようなものがある。アルコール中毒や薬物中毒、刑務所での服役などを経た男による講話である。エドガートン演じるサイクス施設長によれば、地獄から生還した男は、男の中の男である。その男の話は、同性愛者にとって有意義である、ということだ。普通に考えれば、まともな男なら、酒にも薬物にも溺れないし、塀の向こうで過ごすようなことはしない。『 セッション 』におけるJ・K・シモンズとサイクスの共通点は、両者ともに信念に基づいて行動していること。相違点は、前者の虐待的行為にはプロの信念があるが、後者の虐待的行為には何の裏付けもないということである。ホームワークとしてジャレッドが過去を回想することと、現在進行形の矯正プログラムを交互に映し出していくことで、サイクス施設長の存在感が徐々に薄れ、その化けの皮が剥がれていく。いかに不条理なプログラムなのかがどんどんと浮き彫りになっていき、最後には魔女狩り、異端審問的なところにまでたどり着く。
ジャレッドがこうしたプログラムに対して突き付ける拒絶の反応は痛快ですらある。それは彼が自身の考えや感情に基づいて行動するからである。彼は宗教的に厳格な父親との間に葛藤を抱えている。父親の言葉は全くの正論ではあるが、それは聖書の権威の押し売り以外の何物でもない。劇中で旧約聖書のヨブ記が言及されるが、これは誠に象徴的である。義人ヨブはある時、突然に神からすべての祝福を奪われ、財残を無くし、家族も無くし、自身の身体にもダメージを負う。それでもヨブは神を呪わなかったのだが、友人達との対話の末に、理不尽な仕打ちを止めるようにと遂に神に異議申し立てを行う。我々は神をしばしば「彼」と男性化して呼び表すが、ジャレッドが異議申し立てを行った相手は誰だったのか。これが本作の真のテーマなのではないだろうか。自分の心に問いかけよ。権威に盲目的に従うなかれ。同性愛者に向ける眼差しは、自分のものなのか、それとも他人のものなのか。
ニコール・キッドマンは母親役ばかりをオファーされ、受けているようだが、その演技は実に堂に入ったもの。キャリアの円熟期を迎えつつあるようだ。ラッセル・クロウもルーカス・ヘッジズもジョエル・エドガートンも素晴らしい仕事をしていたのに、最後にニコール・キッドマンがすべて持っていた感じがした。彼女のファンなら最後の最後まで席を立ってはならない。
ネガティブ・サイド
原作の書籍もこのように起伏に乏しいのだろうか。施設で行われていた矯正プログラムはどれも衝撃的というか、少年院もしくは刑務所と見紛うような代物なのだが、観る側が受けるショックと、作り手側が与えたいショックの種類が異なっていたようである。いや、Jovianのこの見方もずれている可能性がある。というのも、隣の隣の席にはえらい年配の男性同士が来ており、上映後に「あんなん日本では考えられんで。やっぱりアメリカやからやろうなあ」という感想を漏らしていた。Jovianからすれば、アメリカのような合理主義の国が、何の根拠もなく単純にマッチョイズムを信仰しているだけの人間に、かくも多くの人間が同性愛者の子女の矯正を依頼するところに驚きがある。逆にこの舞台が現代日本なら、そもそも施設など存在しないだろう。対象の子は座敷わらしになるだろうからだ。元々、織田信長や武田信玄の頃から同性愛は盛んだったはずだが、ハンセン病と同じく、そうしたものは忌避の対象になってしまったからだ。
神様と犬のネタでサイクスを攻撃する場面も見てみたかった。施設の恐ろしさは、何の学問的な裏付けも存在しないにもかかわらず、堂々と「治療する」「矯正する」というポリシーが罷り通ってしまっているところだった。それを可能にするのが、神への過剰ともいえる帰依、信仰である。そうした連中へのレジスタンスとして、神と犬ネタを使わなかったのはなぜだったのだろうか。尋常ではないダメージを与えられたと思うのだが。
総評
ルーカス・ヘッジズの静的な演技よりも、ジョエル・エドガートンの怪演が勝ってしまった。そんな印象である。しかし、だからこそ本作のメッセージ性はよりクリアになったも言える。異質な者を見る時、なぜ自分はその対象を異質だと感じるのか。異質だとして、それが矯正や、究極的には排除の対象になるのか。同性愛者に向ける眼差しを、乳幼児や高齢者、外国人に向けていないか。自分がそうだったらという想像力を持てるかどうか。特定の事象だけではなく、もっと普遍性のあるテーマが本作には隠れている。