題名:ラプラスの魔女 40点
場所:2018年5月4日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:桜井翔 広瀬すず 福士蒼汰 豊川悦司
監督:三池崇史
悪い予感はしていた。個人的には東野圭吾の小説とは全く波長が合わないのだ。これまでに2冊試しに買って読もうとしてみたものの、その両方とも最初の20ページで放り出してしまった。とにかく文章の波長が合わない。そうとしか言いようのない相性の悪さがある。さらに三池監督が手がけた東野小説の映画化作品では『麒麟の翼』は普通に面白いと感じられたが原作東野、監督大友啓史の『プラチナデータ』は控えめに言って珍作、率直に言えば駄作だった。豊川悦司が無能すぎる刑事を好演していたから尚更だ。だからこそ悪い予感を抱いていたのだ。その予感は裏切られなかった。
まず主演の片方、広瀬すずの魅力を引き出せていない。広瀬自身、『第三の殺人』や『先生! 、、、好きになってもいいですか?』で、これまでの天真爛漫一辺倒キャラ(もちろん『海街diary』のような例外というかキャリア初期作品もあるが)からの脱皮を模索しようとしているようだが、残念ながらその試みはここまで実を結んではいない。小松菜奈や中条あやみに抜かれてしまうかも?
さらに主役の桜井の演技力が絶望的なまでに低い。彼の場合は当たり役に出会えていないだけかもしれないが、それなりの長さのキャリアを積み重ねてきてこの体たらくでは、今後も事務所、グループの看板だけでしか勝負できない三流役者のままだ。厳しい評価だが、そう断じるしかない。TVドラマ『謎解きはディナーの後で』の頃から演技のぎこちなさは際立っていたが、もう伸び代はなさそうだ。ただ同テレビドラマおよび原作小説は、そのお嬢様の推理、執事の推理ともに噴飯物だったのだが。
その他、福士蒼汰、リリー・フランキーや志田未来などのキャストは完全に予算の無駄使いだろう。脇を固めるキャラはそれに長けたベテラン、もしくは今後に期待できる若手に任せるべきだ。
脚本に目を向けると、元ネタであるラプラスの悪魔を何か捉え違えているように思えてならない。森羅万象を知りうる、計算しうる知性というものが存在するとしても、それが人間の心理を読めるものと同義ではないだろうし、ましてや知能や知識が向上するわけでもないだろう(”知能”と”知性”の違いについては山本一成著『人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?』参照のこと)。こうした新人類、超知性の描き出し方については高野和明の『ジェノサイド』という大傑作の小説が存在するわけで、素手で乱闘する公安などを劇中に登場させては、かえってサスペンスやリアリティを失わせるという逆効果になる。知性をテーマに物語を組み立てるなら、徹頭徹尾そこに拘るべきで、ちょっと格闘シーンも入れておくか、という気持ちで脚本を作ったのなら大間違いだ。原作未読者にこんなことを言う資格はないかもしれないが、小説を映像化するのなら、原作の描写に忠実である必要などない。原作が伝えようとしているエッセンスの中で、映像の形で最も上手に伝えられる、見せられるものを映像化すべきなのだ。
その他に気になったシーンとしては、サイコロの目を予測するシーン。計算に必要なデータ全てがあれば、超知性のリソースならサイコロの出す目を計算で導き出すことも可能だろうが、明らかにサイコロそのものが見えない状態から振られたサイコロの出目まで言い当てるのは矛盾だ。紙飛行機のシーンは建物全体の空調や、場合によっては外の風の流れまで計算しなくてはならないし(そしてそのデータは得られない)、鏡を使うシーンでは、日光の強さや角度は密室の中でも時計さえあれば計算できるとして、雲やその他の人工的遮蔽物の可能性はどのようにして除外できたのか。途中から全てがご都合主義になってくる。
ただ、こうした酷評は全てJovianの個人的感性が原作者や映画製作者の感性と波長が合っていないことから来ているので、異なる人が観れば異なる感想を抱いても全く不思議はない。主要キャストや原作者、監督のファンだという人にとっては良いエンターテインメントに仕上がっているのかもしれない。