バジュランギおじさんと、小さな迷子 80点
2019年1月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:サルマーン・カーン ハルシャーリー・マルホートラ
監督:カビール・カーン
今年の初めにパンフレットを見た時に「おー、ジョン・ハムがインド映画に出るのか」と思ったのを覚えている。実際は全く別の役者さんだが、そのように見えてしまった映画ファンは全世界で数千人はいたのではないだろうか。
あらすじ
パキスタンの山奥で暮らす娘シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は口がきけない。お祈りのために訪れたインドで不運にも迷子になってしまう。そこでパワン、通称バジュランギ(サルマーン・カーン)と出会う。バジュランギは熱心なヒンドゥー教徒で、学歴は無いが素直で誠実で無邪気な男だった。彼はこの娘をムンニーと呼び、ビザもバスポートも無しにパキスタンに彼女を送り届けようと決意するのだが・・・
ポジティブ・サイド
『 バーフバリ 』二部作、そして『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』に続くインド映画の傑作がまたも現れた。と思ったら、現地での公開は2015年だったとのこと。『 ウィッチ 』のように2年経ってから公開されるケースはあるが、4年ものスパンを空けてというのはかなり珍しいのではないか。それだけ、今このタイミングで、日本で劇場公開する意義を配給会社が認めたということなのだろう。
何よりも、シャヒーダーがあまりにも可愛い。このような純粋無垢な少女を前に、大人はあまりにも無力である。つまりはベイビネスである。実際は6歳ぐらいなので、シャヒーダーをベイビーであると看做すの無理がある。しかし、シャヒーダーの口がきけないという特徴が、彼女を赤ん坊的な存在に留める大きな役割を果たしている。赤ん坊の特徴はその無垢さ、タブララサ tabula rasa であることが挙げられる。赤ん坊は白紙なのだ。シャヒーダーは白紙の存在ではない。彼女はパキスタン人であり、ムスリムであり、クリケット好きである。しかし、周囲のインド人の目には、そうした属性が可視化されていない。つまり、彼女は彼女の最も純粋な部分、つまりは人間としての部分が扱われる。彼女が肉を食べ、イスラム教のモスクに入り、クリケットのパキスタン代表チームを応援することで、周囲の人間は彼女を異物であると認識するようになる。非常に悲しいことではあるが、日本人の中には、コンビニ店員がベトナム人、中国人、韓国人、フィリピン人であるというだけのことで、非常に居丈高になり、時には高圧的、攻撃的にさえなる者が存在する。人間には様々な違いがあるものだが、そうした違いのいくつかは非常に皮相的で、自分では決定的だと思っていた差違も、実は自分の心が作り出していた幻想に過ぎないということを、本作はある意味では非常にあっけらかんと明かしてしまった。インドとパキスタンの歴史は、西ドイツと東ドイツ、北朝鮮と韓国のようには、なかなか理解はできない。なぜなら前者の差違は宗教的なもの、つまりは心の問題であって、後者の差違は社会システム、つまりは制度的なものであるからだ。シャヒーダー、いやムンニーと旅するバジュランギは、自分がどれほど狭隘な精神世界に住んでいたのかを、旅の中で認識するようになる。彼がモスクの中でムンニーを見つめるシーンは、終盤で非常に鮮やかなコントラストを生み出す。これには唸らされた。信じる対象は異なっても、信じるという心の営みそのものには何らの違いもなく、等しく尊重されるべき心の在り様であるということを、本作は観る者に提示する。ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思う。
本作はさらにもう一歩踏み込んで、梅田望夫が言うところの「不特定多数無限大への信頼」を体現するプロットも組み込まれている。ネットの世界には技術的には国境は無く、マスコミと同程度、時にはそれ以上の信頼をミニコミが生み出すことさえある。そうした、非常に現代的な世界の在り方を本作はリアリスティックに映し出す。傑作インド映画『 ボンベイ 』で描かれたような、圧倒的な憎悪と暴力が発露される場面があるが、その同じ力が負ではなく正の方向に作用する時、観る者に圧倒的な感動をもたらしてくれる。事実、シネ・リーブル梅田は『 カメラを止めるな! 』以来の満席であったが、クライマックスでは劇場内のそこかしこからすすり泣きの声が聞こえてきた。インド映画、そしてインドという国に対する見方を我々はアップデートしなければならない時期に差し掛かっている。
そうそう、主演のサルマーン・カーンのフィルモグラフィーを事前にチェックしておくと、劇中でクスリとさせられること請け合いである。興味のある方はお試しあれ。
ネガティブ・サイド
最後の最後のショットがやや腑に落ちない。そこに至るまでは非常にハイレベルにまとめられていたのに、あのような構図にする必要があったのだろうか。端的に言えば、この美しい映画の物語の余韻を少し壊すようにすら感じられた。
また、一部で露骨に『 ビバリーヒルズ・コップ 』をパクった、またはパロったシーンがあるが、こうした場面でこそ本作のオリジナリティを発揮して欲しかったと願う。
総評
『 search サーチ 』の監督アニーシュ・チャガンティの活躍にも見られるように、インド映画、およびインド系の映画人は今後ますます活躍していくものと予想される。そうした大きな流れの端緒の一つとして、本作は記録され、記憶されるだろう。傑作であると断言する。