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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 成田凌

『 くれなずめ 』 -青春を終わらせるな-

Posted on 2021年5月30日 by cool-jupiter

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くれなずめ 70点
2021年5月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:成田凌 高良健吾 若葉竜也 藤原季節 浜野健太 目次立樹  
監督:松居大悟

 

プロデューサーの和田大輔、なんとJovianの大学の後輩である。隣の寮に住んでいた脳筋の変人だったが、いつの間にやら文化人かつ商売人になっていた。今後もプロデューサーとして活躍していくと思われるので、和田大輔プロデュース作品には是非とも注目してくだされ。

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あらすじ

友人の結婚式のために久しぶりに集まった吉尾(成田凌)や明石(若葉竜也)らだったが、余興が盛大にすべってしまった。気まずい空気に包まれたまま、彼らは二次会までの時間をつぶそうとする。そして、かつての自分たちの友情を回想していき・・・

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ポジティブ・サイド

タイトルに反応して、「くれ~なず~む街の~」と口ずさむのは立派なオッサンだろう。くれなずむというのは、今の季節だと午後6:30から午後7:00ぐらいの逢魔が時が続いていく感じを指す。結婚式に出席するということは、同年代が結婚しつつあるという意味で、独身貴族の時期の終わりを予感させる。しかし、まだ一人を楽しみたい。まだ完全に大人になりたくない。そのような若者のパトスを象徴的に表すタイトルである。

 

成田凌や若葉竜也、藤原季節など売り出し中の若手のエネルギーがそのまま画面にみなぎっている。そこに混じる高良健吾が『 あのこは貴族 』の時と同じく、 condescending  な感じを出すか出さないかのギリギリの線の演技で、若者と大人、フリーターと社会人の境界線上のモラトリアム人間を好演していた。かつての親友たちが各々に成長していたり、あるいは社会参加を拒んでいたり、まるでかつての自分や自分の友人たちとの関係を思い出す世代は多いだろう。特にJovianのようなロスジェネ世代には、その傾向が強いのではないか。

 

アホな男たちのアホな乱痴気騒ぎが延々と続くが、それぞれがロングのワンカットになっているのが印象深い。ワンカットによって場の臨場感が高まるし、観ている側もその場に参加している感覚が強くなる。対照的に回想シーンでは随所にカットを入れ、カメラのアングルを変えていく。まるで記憶を色々と編集しているかのように。こういうことは結構多い。友人の結婚式などに参加して、昔の写真や映像を観ると、自分の記憶と実は少し違っていたりすることが往々にしてあるからだ。

 

主人公である吉尾とその悪友たちの現在のまじわりが、過去の様々なエピソードに繰り返し、あるいは焼き直しになっているところが面白く、リアリティがある。野郎どもの友情というのは時を超える、あるいは時を止めるのだ。おそらく本作の登場人物たちのような30歳前後の男性には、非常に突き刺さる者が多い作品であると思う。

 

割とびっくりするプロットが仕込まれているが、開始数分で非常にフェアな伏線が張られているので、これから鑑賞するという人は、そこに注意を払えれば吉である。

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ネガティブ・サイド

前田敦子は悪い演技を一切していなかったが、これは大いなるミスキャストではなかったか。観た瞬間から「ああ、このキャラの因果はこれだな」と想像がつく。

 

ある時点で舞台が切り替わるが、そこからの展開がどうしようもなく陳腐で、映像としてもお粗末だ(ガルーダ・・・)。下手なCGやVFXなど使わず、素直に高校時代の回想シーンと同じで良かった。原作の舞台のノリを持ってくるのなら、それを映画的に翻案しなければならない。映画→舞台→映画という感じで、トーンの一貫性を大いに欠いていた。

 

また結婚式場から二次会の会場に向かうはずの最終盤の「くれなずむ街」のシーンが、どう見ても盛り場からは遠く離れた場所。ロケーションありきで、絵的なつながりが無視されていた。

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総評

藤原季節が出演していること、そして青春の象徴との別れという意味では『 佐々木、イン・マイマイン 』の方が個人的には面白いと感じた。だが決して駄作ではない。良作である。モラトリアムが長くなった現代、青春ときっぱり決別するのはなかなか難しい。むしろ、青春をできるだけ長く生き続けようとする、つまり日が暮れようとしていながらも、まだまだ暮れないという人生を送る人が増えている。日暮れて途遠しとなる人も同じくらい増えているように思うが、それでも今という時代にを生きる人間にエールを送る作品に仕上がっている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

afterparty

「二次会」の意。これは実際にネイティブも頻繁に使う表現である。ちなみに三次会はafter-afterpartyと言う。大学生の頃にアメリカ人留学生に教えてもらった時は、”You gotta be kidding me, right?”と反応してしまった。嘘のようだが、本当にそう言うのである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, 成田凌, 日本, 浜野謙太, 監督:松居大悟, 目次立樹, 若葉竜也, 藤原季節, 配給会社:東京テアトル, 青春, 高良健吾Leave a Comment on 『 くれなずめ 』 -青春を終わらせるな-

『 ホムンクルス 』 -原作を改悪するな-

Posted on 2021年4月6日 by cool-jupiter

ホムンクルス 40点
2021年4月4日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:綾野剛 成田凌 岸井ゆきの 石井杏奈
監督:清水崇

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ホムンクルスという言葉に初めて触れたのは手塚治虫の『 ネオ・ファウスト 』だった。腎臓の人間ではなく、人間の深層心理を擬人化したものが見えるというのは面白いアイデア。どうせ漫画を映画化するなら。これぐらい毒のある作品にトライしてほしいもの。ただチャレンジ精神と結果は別物である。

 

あらすじ

記憶喪失でホームレスとして暮らす名越(綾野剛)に、謎めいた男・伊藤(成田凌)はトレパネーション手術を持ちかけられる。その手術を受けた名越は左目だけで見ると他人の深層心理が見えるようになってしまい・・・

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ポジティブ・サイド

綾野剛の演技が光る。ホームレスでありながらAMEXのブラックカードを持ち、高級ホテルの展望レストランで食事をする。記憶がないのだが、記憶を取り戻すことに拘泥しない。どこか底知れない雰囲気の男を好演した。感情の無い男が徐々に感情を表出するようになっていく過程は見応えがあった。特にホームレス仲間の命の値踏みを淡々と進めていくところは、感情がないようでいて感情があった。つまり、元々路上生活者たちのことを何とも思っていなかったわけで、ストーリーの持つメッセージの一つ、「見てはいるけど、見ていない」を体現していたわけだ。

 

成田凌も平常運転。『 スマホを落としただけなのに 』や『 ビブリア古書堂の事件手帖 』と同じく、インテリなサイコパスを怪演した。青っ白い肌に奇抜な髪の色と髪型、そしてファッション。映画『 セブン 』的な精神病者気質の部屋。ちょっと頭がいっちゃってる役を演じる成田凌としては、本作は過去作よりも上かもしれない。

 

石井杏奈と岸井ゆきのもしっかりと脇を固めている。特に石井杏奈の方は女優としてはまだまだ駆け出しでありながら、結構ハードなシーンに挑んでいる点には好感が持てる。『 記憶の技法 』とか本作のような暗めの作品ではなく、広瀬すずや橋本環奈がキャピキャピするような映画でヒロインの親友役を狙った方がプロモーション上は吉なのでは?

 

本作の特徴の一つに、効果音の不気味さが挙げられる。特にトレパネーションを実施する際のドリルの音は、歯科医の使う器具の音でありながら、頭蓋骨に穴を空けるというその行為の気持ち悪さによって、不快指数を否が応にも高めてくれる。その他にも、音が印象的なのが本作の特徴である。フォーリー・アーティストを称えようではないか。

 

ネガティブ

綾野剛がトレパネーションを受けて、はじめて右目を隠して街を観るシーンは緊張感が漂った。が、実際に目にした光景を見てずっこけた。何じゃこりゃ?と。まず、CGがしょぼい。唯一ちょっと面白いなと感じたのは体が右半身と左半身に別れて、左右反転した形で歩いているサラリーマンぐらい。その他の意味不明な姿は本当に意味不明だ。トラウマが目に見えると伊藤は推測していたが、だったら「今から会える?」と電話しながら下半身、特に腰部だけをクルクルと回転させていたミニスカ女子は一体なんなのか。普通に考えれば「お、今日はセックスする気満々だな」ぐらいにしか思えないのだが、それもトラウマなのか?

 

トレパネーションの結果、ホムンクルスが見えるようになったというのは受け入れられる。だからといって内野聖陽演じる組長が、ドスを握った手を不随意にプルプルと震わせるのは理解できない。百歩譲って名越の言葉に動揺したせいで震えてしまったことにしてもよい。だが、それをあたかも名越自身の何らかの超能力であるかのように描写するのはいかがなものか。また、組長がトラウマから解放されるくだりはあまりにも安直過ぎないか。たったそれだけで心の傷が癒えるのなら、これまで切り落としてきた小指七十数本については胸が一切痛まなかったというのか。精神医学の歴史を変える治療だと伊藤は言うが、とてもそうは感じられない。古典的なカウンセリングにしか見えなかった。

 

同じことは石井杏奈演じる女子高生にも当てはまる。そもそも名越に携帯の中を見られたことをさも当然のことであるかのように振る舞っていたが、どうやってパスを解除したのか、まずそこを不審に思わないところがおかしい。また性についてのコンプレックスがあるのはさして珍しいことではないが、それがあんな形で治療扱いになるのか?むしろ新たなトラウマを植え付けただけだろう。なぜ組長は言葉で治療しながら、女子高生には『注射』で治療するのか。原作がこうなのか?それとも注射に至る過程の描写が映画では削られているのか?どちらにせよ、見ていて気持ちいいものではなかったし、筋が通っているとも感じられなかった。

 

肝心の名越が記憶喪失になった経緯も、中途半端にしか説明されていない。何が起こったのかは分かった。だが、あのような出来事があれば、必ず葬式やら入院退院やら警察からの事情聴取などがあるはずなのだ。そこで必ず身分証明がなされているはず。そうした社会的に当然の事象を全部すっ飛ばして記憶喪失でござい、と言われて納得などできるはずもない。原作は未読だが、エピソードを端折り過ぎているか、あるいは大幅に改変、いや改悪しているのは間違いない。

 

本作の放つメッセージとして「相手の心を見ろ」というものがあるのだろうが、そこが上手く伝わってこない。なぜホムンクルスが見える人間とそうでない人間がいるのか?名越の目にホムンクルスが見える人間に何らかの共通点はあるのか(友達を傷つけた、性体験、父親からの愛の不足)?伊藤がホムンクルスを見てななこを誤認したのは理解できなくもないが、肌と肌を合わせて気が付かないことがあるのか?それこそ無意識レベルで何か思い出すのでは?また伊藤の顔の吹き出物は何なのか?伊藤のトラウマは金魚ではなく水槽ではないのか?などなど、疑問が尽きない。

 

総評

『 犬鳴村 』や『 樹海村 』よりは面白いが、素材の持つ毒を完全に調理しきれているかと言うとはなはだ疑問である。『 オールド・ボーイ 』や『 藁にもすがる獣たち 』のような振り切れた日本産の作品の映像化に大成功している韓国が本作を映画化したら、いったいどうなっていたのだろうか。悪い出来ではないが、ミステリ、スリル、サスペンスのいずれの面でも、少し足りないという印象である。実力ある役者を集めてみたものの、総合的な味付けで失敗したという印象。綾野剛や成田凌のファンなら鑑賞してもよい。逆に言うとそうでない映画ファンはスルーもひとつの選択肢である。というかスルーしてよい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Why are you shaking?

劇中である人物が「なんで震えてるの?」と言う場面がある。その私訳である。「震える」の最も一般的な動詞は shake だが、感情または肉体が原因での震えは tremble、寒さが原因の震えには shiver を使うことも覚えておきたい。

 

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, D Rank, スリラー, 岸井ゆきの, 成田凌, 日本, 監督:清水崇, 石井杏奈, 綾野剛, 配給会社:エイベックス・ピクチャーズLeave a Comment on 『 ホムンクルス 』 -原作を改悪するな-

『 まともじゃないのは君も一緒 』 -会心のラブ・コメディ-

Posted on 2021年3月21日 by cool-jupiter

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まともじゃないのは君も一緒 75点
2021年3月20日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:成田凌 清原果耶
監督:前田弘二

 

これは久々のヒット作である。近年の邦画コメディとしては『 私をくいとめて 』に次ぐ面白さであると感じた。デートムービーとして最適なので、高校生や大学生にはデートで観て、大いに感想を語り合ってほしい。

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あらすじ

予備校で数学講師をしている大野(成田凌)は対人能力を著しく欠いていた。現状に満足しているものの、独りで居続けることに不安を覚えた大野は教え子の香住(清原果耶)に「普通とは何か」を教えてほしいと頼む。引き受ける香住だったが、彼女には彼女の思惑があり・・・

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ポジティブ・サイド

成田凌のコミュ障ぶりが光る。Jovianのかつての勤め先は塾・予備校系の英会話スクールだったので、塾や予備校の講師の社会人失格っぷりや大人としてのコミュニケーション力の低さはそれなりに知っている。その代わり、彼らは子ども相手には話が上手いし、授業力も高い(が、教務力は低い)。ところが主人公の大野は、そんじょそこらの予備校講師も裸足で逃げ出すコミュニケーション障害者だ。女子にご飯に連れていけと言われて、いつも行っている定食屋に連れて行ってしまうという、恋愛レベルが小学2年生で止まっているとしか思えない行動をとってしまう。まったくもって目も当てられない惨事で、これにツッコミを入れまくる香住とのハイテンポの会話劇がべらぼうに面白い。事実、TOHOシネマズの別館の劇場内では、コンスタントに劇場のあちらこちらから「ワハハ」、「クスクス」といった声が漏れ聞こえていた。劇場内でここまで笑いがシェアされるのは、おそらく『 カメラを止めるな! 』以来である。

 

清原果耶もコメディエンヌとして魅せる。普段の学校では、周りのキャピキャピ女子高生に無理に合わせてゴシップに花を咲かせているのだが、その実態は単なる耳年増、というよりもそれ以前だ。それでも女の勘というか、本能的にというか、コミュニケーションの機微のあれこれを読み取るのが上手い。その一方で自分の気持ちのコントロールとなるとお手上げという、普通の女子高生的な一面もちゃんと併せ持っている。このあたりのナチュラルとアンナチュラルのバランス加減が絶妙だ。自分が恋慕する大人の相手の女を、予備校講師を使って離反させようなどと、アラサーOLでもないと思いつかなそうなアイデアを立案し、作戦を立て、実行してしまうのだから、面白くないはずがない。

 

二人のズレ具合が、逆に大野と美奈子のなんでもない会話やそこに流れる空気の心地よさを倍増させている。映画の、特にコメディの面白さはやはりギャップにあるのだ。この大野と香住の“噛み合っていない”感と大野と美奈子の“噛み合っている”感のギャップが、観る側に最高のもどかしさを提供してくれる。

 

アホのように量産されている漫画原作の高校生の恋愛もの映画と違って、本作は恋愛の本質をしっかりと捉えている。恋愛の本質とは何か。それは「共有」である。たいていの恋愛ものは、恋に落ちる瞬間を劇的な現象として捉えている。それは恋愛ではなく、単なる片思いだ。凡百の恋愛漫画や恋愛映画は、告白したら終わり、付き合い始めたら終わり的な世界観に基づいている(ように見受けられる)が、事の本質はそこにはない。相手を好きになる、そして相手に好きになってもらう/もらいたいと思うのは「共有」を通じてこそだと思う。その意味で『 花束みたいな恋をした 』はリアルだった。まさに、他人からすれば他愛もない会話に没頭できる。ファミレスの決まったテーブルを二人で占有する。そうした「共有」体験を存分に描いていた。本作でも耳年増の香住が同級生の女子とその彼氏を質問攻めしていくシーンは、清原の迫真の演技と、出てくる答えのリアルさが嚙み合った、屈指の名シーンに仕上がっている

 

今春で最もお勧めできる映画の一つであることは間違いない。

 

ネガティブ・サイド

大野の予備校講師という背景がどうにも薄っぺらかった。あれはどう見ても個別指導の塾講師だろう。それに高3相手の予備校講師、しかも数学担当なら、夏は夏季集中講座で手一杯ではないのか。自分で結構いい給料をもらっている的な発言をしていたが、予備校講師など時給制なのだから、本当は夏のあの時期にのほほんと遊びまわってはいられないはずだ。ポスドク、または医学部受験対策専門の家庭教師とかの方が説得力があった。

 

あとはクライマックス、大野が香住に長広舌を垂れるシーンの違和感かな。これこそ正に時間と空間の究極の「共有」だなと観ている時には感じたが、それが特別なものになるのは、他者の知覚に晒された時だ。要するに、他人に見られたり聞かれたりしても、自分たちだけの世界に入っていられるということだ。いわゆるバカップル状態だ。このシーンはバカップルとはちょっと違うのだが、他人の目を気にしないという点では同じである。そしてこのシーン、本当に他人の目がない。耳もない。予備校なのに。「なんだあいつら、こんな時間にこんな場所で自分たちだけの世界に入りやがって」という他者の無言の圧力こそが必要なシーンだったのに。

 

総評 

細かな弱点や欠点はいくつもあるが、それらのほとんどすべてを吹っ飛ばしてしまうパワーを持った作品である。成田凌と清原果耶のワンカットの会話劇の豊富さ。そこにあるユーモア。二人のズレから生まれるハラハラドキドキ。ラブコメはラブコメなのだが、漫画的な面白さを追求した『 センセイ君主 』とは違って、フィクション全開のリアル路線。こんな奴ら、実在するわけねーだろと思える一方で「頑張れ!」とエールを送りたくなる二人。カップルでも夫婦でも楽しめる一作だ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

normal

「普通」や「まとも」の意味。元々はnorm=規範という語に接尾辞-alをつけて形容詞化した語。normの意味を知っていれば、abnormalやenormousといった関連語の意味やイメージも把握しやすい。

 

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, B Rank, ラブコメディ, 成田凌, 日本, 清原果耶, 監督:前田弘二, 配給会社:エイベックス・ピクチャーズLeave a Comment on 『 まともじゃないのは君も一緒 』 -会心のラブ・コメディ-

『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

Posted on 2020年3月22日2020年9月26日 by cool-jupiter

弥生、三月 君を愛した30年 45点
2020年3月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:波瑠 成田凌 杉咲花
監督:遊川和彦

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一つの物語の中でキャラクターの成長や老いを描く作品は星の数ほどある。だが、本作は三月の一日から三十一日の1日を経るごとに、1年(何年か飛ばすところもあるが)が経過していく。この見せ方と構成は非常にユニークである。

 

あらすじ

山田太郎(成田凌)と結城弥生(波瑠)は、心の奥底では惹かれ合いながらも、親友のサクラ(杉咲花)の病気、そして死によって、いつしか別々の人生を歩むことになった。互いに結婚や別離を経験しながらも、二人はいつしか引き寄せられて・・・

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ポジティブ・サイド

専門家は映画を評価する際には Form と Content の面から行う。Formとは本で言うならば、装丁であり、文字のサイズやフォントであり、テキストのレイアウトであると言える。一方でContentは物語の中身そのものである。一般に映画や本の面白さは、コンテンツで決まる。だが、時にFormそれだけで桁違いの面白さやユニークさを生み出す作品が現れることがある。クリストファー・ノーラン監督の『 メメント 』が好個の一例である。本作の、一日経つごとに一年が過ぎていくという見せ方は非常に面白い。

 

高校生から50歳手前までを同一の役者で描く試みもユニークだ。『 ぼくは明日、昨日のきみとデートする 』でも、小松菜奈が大学生から35歳ぐらいまでを演じていた。本作はその幅をはるかに上回っており、ある意味で大河ドラマ並みである。こういった大胆な試みにもっともっと邦画も取り組んでもらいたい。たとえその作品が大ヒットはしなくても、たとえばメイクアップアーティストやヘアドレッサーの技、照明の調節や光の当て方といった裏方スタッフの技術は確実に蓄積され、向上していくことだろう。その先に、第二第三のカズ・ヒロを生む土壌ができていく。突然変異を待ってはならない。豊かな才能の種を発見し、開花させなければならない。

 

本作では光と影の使い方も印象に残った。明るい背景では明るい場面と心情、薄暗い場面ではどこか沈みがちな心情、黄昏時の西日には関係の終わりが暗示されていたり、あるいは西日で満たされた病室を去る人物が完全に黒いシルエットとして映しだすことで、キャラクターの内面の闇、虚無感を表すなど、随所に工夫が目立った。なんでもかんでも光あふれる演出を施す作品が邦画には特に多い(『 君は月夜に光り輝く 』などはダメな一例だ)。真っ暗な映画館で見るからこそ光を強くしたいと思うのは理解できる。だが、真っ暗な映画館だからこそ光と影のコントラストも映えるのである。

 

今作はいまのところ波瑠のベスト・パフォーマンスになるのかな。笑顔よりも仏頂面の方が絵になる女性も一定数いる。波瑠はそんな一人だろう。『 コーヒーが冷めないうちに 』では、神経質な女性役だったが、どちらかというと感情表現を抑えた役柄の方が似合っている。ドラマや映画なら社長秘書や医師がマッチしそう。クール・ビューティー路線ではなく、満島ひかりや南果歩のような実力派路線を目指してほしい。

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ネガティブ・サイド

フォームには感銘を受けたが、コンテンツ=内容には少々興ざめした。ストーリーのほとんどはトレイラーで分かってしまう。なぜにあのような予告編を作ってしまうのか。様々なシーンの演出やメッセージも、古今東西の映画で使い古されてきたものばかり。あらゆるシーンでデジャヴを感じたと言うと大げさに聞こえるかもしれないが、本作がオリジナリティに欠けるのは確かである。

 

まずもって病気で死んでいく高校生の名前が「サクラ」という時点で『 君の膵臓をたべたい 』の桜良ともろにかぶっている。そして、満開の桜に過ぎ去った幾星霜とかつての友の姿を見出すのも『 君の膵臓をたべたい 』の二番煎じである。

 

また、ラストの教室のシーンは『 傷だらけの悪魔 』と『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のクライマックスをそれぞれ足して10で割ったような迫力のなさ。というか震災をプロットに組み込むのはまだしも、放射能関連のイジメを絡める必要はあるか?いや、それをやるなら『 風の電話 』並みに取り組んでもらいたい。

 

サクラの好きだったという歌が作中の随所で重要な役割を果たすが、最後のデュエットは必要だったか。それに最後の最後のスキットも必要だろうか。日が昇り、そして沈んでいく。時は流れ、また物語が繰り返す。普遍的な事象であり、それゆえに既に陳腐化したテーマである。現に近年でも『 ライオンキング 』が再制作され、“Circle of Life”が熱唱されている。敢えて邦画がそれを繰り返す必要はない。

 

細部のリアリティに関しても改善の余地を認める。特にサクラの墓や、そこに佇立する桜の木が30年にわたって変化なしに見えるのはいかがなものか。サンタか、あるいは弥生が墓をきれいにしているという描写が一瞬でもあれば、まだ納得できたのだが。

 

電車のドアが閉まる瞬間に抱きよせる、あるいは飛び出るという描写もクリシェ以外の何物でもない。ボールを追いかけて車道に飛び出る子どもというのも、いい加減見飽きた。新しい形の表現を模索することにエネルギーの大半を費やしたのかもしれないが、中身にもほんの少しでいいから新奇さを求めてほしかった。

 

サンタの息子の歩の台詞にもおかしいところがあった。「おばさんに、『 ボールを蹴れ! 』って叱られた」と回想していたが、そんなシーンはなかった。あるいは撮影段階ではあったにせよ、編集作業の段階で誰もこの矛盾に気が付かなかったのだろうか。細部の詰めが甘いという印象ばかりが残った。

 

総評

このような新しい表現の形態は歓迎されるべきである。一方で、中身がほとんどすべてどこかで見た構図や展開のパッチワークである。評価が非常に難しい。ただ、固定電話が携帯電話に代わっていく時代の流れは面白い。40~50歳ぐらいの世代の人は本作の時間の流れに違和感なく入っていけるだろうし、若い世代は逆に古い世代のもどかしい恋愛模様を客観的に見て楽しめるのではないだろうか。ストーリーは陳腐だが、だからこそ万人に受け入れられやすいとも考えられる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Let’s not meet anymore.

「もう会わないようにしよう」の私訳。~しよう = Let’s ~。~しないようにしよう = Let’s not ~ である。Let’s not V. というのは実際によく使う表現なので、積極的に使っていきたい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ラブロマンス, 成田凌, 日本, 杉咲花, 波瑠, 監督:遊川和彦, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

『 スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 』 -完全にネタ切れ-

Posted on 2020年3月10日2020年9月26日 by cool-jupiter

スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 40点
2020年3月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:千葉雄大 成田凌 白石麻衣
監督:中田秀夫

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前作『 スマホを落としただけなのに 』の続編。前作はスマホという文明の利器の闇を描いたという点では意欲的な作品だったが、本作はただのハッキング+シリアル・キラーもの。それも先行する作品のおいしいところばかりを頂戴して、ダメな料理を作ってしまった。

 

あらすじ

刑事の加賀谷(千葉雄大)が天才ハッカーにしてシリアル・キラーの浦野(成田凌)を逮捕して数か月後。浦野が死体を埋めていた山中から新たな死体が発見される。浦野は加賀谷に「それはカリスマ的なブラック・ハッカー、Mの仕業ですよ」と語る。時を同じくして、加賀谷の恋人である美乃里(白石麻衣)に魔の手が忍び寄っていく・・・

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ポジティブ・サイド

千葉雄大が前作に引き続き好演。闇を秘めたキャラであると見ていたが、それなりに納得のいくバックグラウンドを持っていた。こういうところでも、日本は律義にアメリカに20年遅れている。しかし、こうしたことがリアルに感じられるのも現代ならではである。最近、自動相談所が小学生女児を親の元に帰してしまったことで悲劇が起きたが、こうしたことは実は全国津々浦々で起こってきたのではないか、そして見過ごされてきたのではないか。そうした我々の疑念が、加賀谷という刑事の背景に逆に説得力を持たせている。

 

白石麻衣、サービスショットをありがとう。

 

役者陣では、成田凌の怪演に尽きる。まあ、ハンニバル・レクターもどき、もといハンニバル・レクター的アドバイザーを体現しようとしているのは十分に伝わってきた。犯罪を楽しむ、いわゆる愉快犯ではなく、社会的な規範にそもそも収まらない異常者のオーラは前作に引き続き健在だった。千葉と成田(というと地名みたいだが)のファンならば、劇場鑑賞もありだろう。

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ネガティブ・サイド

何というか、ありとあらゆる先行作品を渉猟しまくり、あれやこれやの要素をパッチワークのようにつなぎ合わせたかのような作品という印象を受けた。『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクターとスターリング捜査官の関係、『 トップガン 』のマーヴェリックの入隊理由、『 ハリー・ポッターと賢者の石 』のスネイプ先生など、さらには高畑京一郎の小説『 クリス・クロス 混沌の魔王 』および『 タイム・リープ あしたはきのう 』の「あとがきがわりに」に登場する江崎新一など、メインキャストの二人、千葉と成田を評すにはクリシェ以外の言葉がなかなか見当たらない。千葉は童顔とのギャップで、成田は持ち前の演技力でなんとかこれらの手あかのつきまくった設定を抑え込もうとしたが、残念ながら成功しなかった。作品全体を通じて感じたのは、スリルでもサスペンスでもなく退屈さである。

 

凶悪な犯罪者が野に放たれたままであるという可能性が高い。そいつを捕まえんと警察も全身全霊で奮闘するが及ばない。獄中の天才犯罪者の力をやむなく借りるしかないのか・・・ こうした描写があればストーリーに説得力も生まれる。だが、本作における警察はアホと無能の集団である。しかも、そうした設定に意味はない。単に観る側にネットやスマホの技術的な解説や悪用方法を説明したいからだけにすぎない。この室長(?)キャラはただただ不愉快だった。無能でアホという点では、浦野の監視についた脳筋的ギャンブル男もどうかしている。浦野の食事に嫌がらせをするから不快なのではない。相手が大量殺人鬼であると分かっていながら油断をするからだ。というよりも、PCを使うのに支障がない程度に、浦野は両手両足は拘束されてしかるべきではないのか。ハンニバル・レクター博士並みというのは大げさだが、それぐらい警戒しなければならない相手のはずである。だいたい、なぜ監視が一人だけなのだ?現実の警察(富田林署除く)がこれを見たら、きっと頭を抱えることだろう(と一市民として信じている)。

 

浦野がMを追う手練手管はそれなりに興味深いものだったが、ブログ解説はいかがなものか。いや、ブログの中身ではなく、ブログ記事執筆者としての加賀谷の写真をいつどうやって撮影したのか。シリアスな事件の捜査中に、笑顔でPCに向かう写真を撮ったというのか。考えづらいことだ。それとも合成・生成なのか。また【 Mに告ぐ 】というメッセージをクリックさせるという罠にはめまいがした。そんなもの、M本人がクリックするわけないだろう。ダークウェブに潜み、あらゆるネット犯罪に精通するカリスマ的ブラックハッカーが聞いて呆れる。そもそも、こいつが怪しいですよというキャラクターをこれ見よがしに登場させるものだから、すれっからしの映画ファンやミステリファンならずとも、Mを名乗る者の正体は容易に分かってしまう。こういうのはもう、スネイプ先生に端を発するお定まりのキャラである。

 

他にも珍妙な日本語も目立った。脳筋ギャンブラーによる、ラーにアクセントを置く“ミラーリング”や、「とりあえずメール送った相手に注意勧告してください」(そこは注意喚起だろう・・・)など。撮影中、最悪でも編集中に誰も気付かないのだろうか?こんなやつらがサイバー犯罪を取り締まっているようでは、邦画の中での日本の夜明けは遠いと慨嘆させられる。

 

後はリアリティか。獄中生活が長い浦野が、毛根まで銀髪というのはどういうことなのか。最近の留置場は髪染めもOKなのだろうか。普通に黒髪でいいだろうに。

 

総評

ミステリやサスペンスものの小説や映画に馴染みがない人ならば、前作と併せて楽しめるのだろうか。ストーリーの根幹の部分は悪くないのだ。ネット社会、PC社会の闇というのは今後広がっていくのは間違いない。だが、そこに至るまでの過程に説得力がない。『 羊たちの沈黙 』とはそこが最大の違いである。続編作る気満々のようだが、原作者、脚本家、監督の三者で相当にプロットを練りこまないことには、さらなる駄作になることは目に見えている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

the most safest

劇中のダークウェブ侵入前にブラウザに上の表現を使った文章が現れていた。the most safestは、もちろん文法的には誤りである。the safestか、またはthe most safeとすべきだろう(後者のような形はどんどん受け入れられつつある eg. the most sharp, the most clearなど)。受援英語で the most 形・副 estと書けば間違いなく×を食らうが、実際にポロっとネイティブが使うことも多い表現である。Jovianの体感だと、the most awesomestという二重最上級が最もよく使われているように思う。受験や大学のエッセイ、ビジネスの場では使わないこと!

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, サスペンス, スリラー, ミステリ, 千葉雄大, 成田凌, 日本, 白石麻衣, 監督:中田秀夫, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 』 -完全にネタ切れ-

『 カツベン! 』 -リアリティの欠落した駄目コメディ-

Posted on 2019年12月23日2020年9月26日 by cool-jupiter

カツベン! 30点
2019年12月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:成田凌 黒島結菜 永瀬正敏 高良健吾
監督:周防正行

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成田凌は個人的にかなり買っている。出演作の多さとパフォーマンスの高さから、2018年の国内最優秀俳優の候補にも考えていた。本作ではどうか。素晴らしい演技だった。しかし作品としてはダメダメである。

 

あらすじ

時は大正。染谷俊太郎と栗原梅子は、活動写真館に潜り込んでは活動写真を楽しんでいた。しかし、俊太郎はキャラメルを万引きしたことで捕まってしまう。時は流れ、俊太郎(成田凌)は泥棒一味の中でニセ活動弁士になっていた。アクシデントからカネと共に足抜けを果たした俊太郎は、正道に立ち返るべく、青木館という活動写真館に住みこみで働き始めるが・・・

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ポジティブ・サイド

今年の夏、大阪でJAZZ講談を聞いた時、玉田玉秀斎氏の話芸に驚嘆した。日本には数百年にわたる噺の伝統があり、それが外来の活動写真と結びついたのは必然であったとも言える。そこに周防監督が目を付けたのには、おそらく2つの事由がある。

 

一つには、映画と人々との関わりの変化である。『 アバター 』あたりから少しずつ、しかし本格的に興隆し始めた3D映像体験、IMAXやドルビーシネマといった映像や音響技術の進歩、さらに4DXやMX4Dといった視覚や聴覚以外の感覚にも訴える映画体験技術の導入と普及、さらにイヤホン360上映など、映画館や劇場という場所でしか提供できない価値が生み出されている。ケーブルテレビやネット配信など、映画と人々との距離や関わり方は過去10年で劇的に変化した。今一度、映画の原点を振り返ろう、そして日本の映画が世界的にも実は相当にユニークなものであったという歴史的事実を再確認しようという機運が、映画人たちの中で盛り上がったことは想像に難くない。

 

もう一つには、技術の進歩によって仕事を奪われることになる人間の悲哀の問題である。歴史的な事件としてのラダイト運動や、映画『 トランセンデンス 』のような科学者襲撃事件が起こる可能性は高いと思っている。AIが将棋や囲碁のプロを完全に上回り、レントゲンなどの画像の読影でも専門医を凌駕するようになった。今後10年、20年で消える職業も定期的なニュースになっている。また、RPAにより定型的な事務作業のほとんどが代替される時代も目前である。活動弁士だけではなく、映写技師や楽師といった職業がかつて存在し、映画という媒体の黎明期を支えていたという事実を顕彰することには意義がある。そこになにがしかのヒントを見出すことが、現代人にもできるはずである。

 

成田凌は2018年から2019年にかけて最も伸びた俳優の一人である。それを支える永瀬正敏や音尾琢真は(最後の最後を除いて)素晴らしい仕事をしたと思う。ポジティブな面は以上である。

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ネガティブ・サイド

本作は『 閉鎖病棟 それぞれの朝 』と同じく、一部の役者の演技力に頼るばかりで、プロットの面白さや細部のリアリティが突きつめられていない。非常に残念な出来である。

 

まず、関西人以外が作った、あるいは関西人以外が演じた役者の関西弁というのは、どうしてこれほど下手くそなのか。下手くそという表現が過激ならば、稚拙と言おう。大俳優の小日向文世にして「 血ぃは争えんな 」を「 地位は争えんな 」と発話してしまっている。関西弁は一文字語をしばしば伸ばして発音する。「 目 」は「 目ぇ 」、「 手 」は「 手ぇ 」、「 胃 」は「 胃ぃ 」、「 蚊 」は「 蚊ぁ 」となる。この時、抑揚はつかない。語尾に来る小文字の音程は前音のままとなるのが絶対的ルールである。関西以外の人はテレビなどで関西人の喋りに耳を傾けて頂くか、あるいは身近な関西出身者に尋ねてみて頂きたい。

 

また、最終盤で音尾琢真もやらかしている。ネタばれにならないと思うので書いてしまうが、「 手間かけやがって! 」という謎の日本語を吐く。文脈によってはこれも正しくなるだろう。たとえばお弁当箱を開けてみると、非常に凝った食事が入っていた時などは、弁当の作り手に感謝をこめて「 手間かけやがって 」と言うことはありうる。しかし、この場面は違う。正しい日本語は「 手間取らせやがって! 」か「 手間かけさせやがって! 」である。脚本段階のミスか?それとも、撮影段階に気付かなかった監督はじめスタッフのミスである。『 旅猫リポート 』でも不可思議な日本語があったが、邦画の世界にまで日本語の乱れが広がっているのだろうか。憂うべきことである。

 

大正時代の雰囲気を出そうと頑張っているのは分かるが、細部にリアリティが宿っていない。まず街が清潔すぎる。舗装されていない往来を人や自転車や大八車や自動車が行き交えば土ぼこりも舞う。しかし建物や看板がどれもこれもあまりにもきれいすぎる。作り物感がありありである。また、ネタばれにならない程度に書くが、当時の火消しや官憲がまったくの無能のように描かれているのは、いったい何なのか。現代の官憲の無能さを遠回しに揶揄する意図があるわけでもなさそうであるし、火消し=消防に周防監督はいったい何の不満があるというのか。

 

本作はコメディに分類されるべきなのだろうが、ギャグやユーモアに笑えるところが本当に少ない。タンス攻撃の応酬のいったいどこを笑えというのか。こういうのは吉本新喜劇の舞台のように、やりあう二者が同時に目に入ってこそ面白いのである。一回ごとにカットして場面転換しては面白さが激減してしまう。しかも、くどい。笑いというのは一瞬で喚起されるべきもので、何度も何度も同じことを繰り返して笑わせる手法というのは、故・島木譲二以外が使ってはいけないのである。

 

キャラクター造形もおかしい。俊太郎が活動写真の撮影に割り込むのは、子どものすることなので許せないこともない。しかし、万引きはれっきとした犯罪で、長じてから泥棒一味に加わることに違和感はない。問題は、「自分は騙されたのだ」という俊太郎の被害者意識である。『 ひとよ 』の斎藤洋介の言を借りるまでもなく、万引きは小売業の天敵である。俊太郎の幼少期の万引き常習者という背景は不要である。普通に梅子が引っ越していく。俊太郎はその後、騙されて泥棒の片棒を担がされる。どうしてこのような流れにならなかったのか。これで充分に納得できるはずだし、カネを奪って逃げたのも咄嗟のことで魔が差してしまったで説明できるはずだ。小さな頃から泥棒というのは、キャラクターの高感度を著しく下げるだけで、逆効果である。

 

クライマックスのカメラワークにも不満が残る。活動写真ではなく弁士や楽士のアップをひたすら映す意図がよくわからない。時代に翻弄された職業人たちであるが、これはドキュメンタリーや伝記ではないだろう。映すべきは彼らの仕事=彼らの遺産たる活動写真とそれを鑑賞、堪能する観衆たちとの一体感ではないのか。個々人の顔面を延々と映し出すことに芸術的な意味も娯楽的な意味も見出せない。本当に訳が分からないクライマックスである。

 

総評

『 それでもボクはやってない 』はまぐれだったのか。周防監督の手腕を疑問視せざるを得ない。成田凌のファンでなければ、チケット代と2時間をつぎ込む価値は認められない。時代の転換点に映画はどうあるべきかを考えるきっかけを与えてくれはするものの、それに対して一定の答えを出しているわけでもない。残念ながら駄作と評価せざるを得ない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Let me do it.

俊太郎の言う「俺にやらせてください」の英訳である。Let は「させてやる」の意で、ビートルズの名曲“Let it be”やアナ雪主題歌“Let it go”でもお馴染みである。また『 ロケットマン 』でも“Don’t Let The Sun Go Down”が使われていた。つまり、よく使われる動詞ということである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, コメディ, 成田凌, 日本, 永瀬正敏, 監督:周防正行, 配給会社:東映, 高良健吾, 黒島結菜Leave a Comment on 『 カツベン! 』 -リアリティの欠落した駄目コメディ-

『 さよならくちびる 』 -見事に切り取られた鮮烈な青春の一コマ-

Posted on 2019年6月16日2020年4月11日 by cool-jupiter

さよならくちびる 75点
東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:小松菜奈 門脇麦久 成田凌
監督:塩田明彦

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Jovianはアメリカ人ではヘイリー・スタインフェルドとアニャ・テイラー=ジョイ推しであるが、日本人では小松菜奈推しである(『 渇き 』と『 溺れるナイフ 』はWOWOW放送場を録画したままで未視聴なのだが・・・)。そして門脇麦にも高い評価を与えている。その二人が出演する作品が、どういうわけか flying under my radar. 大慌てで出勤前に劇場鑑賞してきた。

 

あらすじ

ハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)は、シマ(成田凌)という元ミュージシャンかつ元ホストをローディーにして、「ハルレオ」というインディーバンドを組んでいた。しかし、ユニット内のメンバーの思いは微妙にすれ違い続け、そして解散前のツアーが始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

『 ここは退屈迎えに来て 』で、やや調子っぱずれに歌っていた門脇麦。『 坂の上のアポロン 』で、結局歌わずじまいだった小松菜奈。この二人が予想以上の歌唱力を披露してくれた。成田凌も含めて、ギターを弾く演技もなかなか堂に入っていた。ギターを弾く姿というのは、手元よりも全身、立ち姿や座った時の姿勢で決まるような気がする。ピアノを弾く姿も、手元よりも全身の方がしっかり、はっきり表現されているように思う。『 グリーンブック 』のマハーシャラ・アリ然り、『 ラ・ラ・ランド 』のライアン・ゴズリング然り。

 

閑話休題。本作はバンドメンバーを巡る物語であるが、音楽以外の面も良い。ハルとレオとシマの報われない三角関係が、説明的な台詞もほとんどなく描かれる。ビジュアル・ストーリーテリングの面で秀逸なのである。レオが料理をしないこと、そのレオがハルの料理に胸を打たれる一連のシークエンスに、我々は否応なくレオのこれまでの境遇に思いを馳せずにいられなくなる。冒頭のシーンからレオは観る者に「なんなのだ、この尻軽は」と感じさせるばかりなのだが、それはきっと求められることが無かったが故の反動なのだ。単なる美少女キャラから複雑な事情や内面を抱えたキャラを演じられるようになった小松菜奈の今後がますます楽しみである。決してベッドシーンを期待しているわけではない。これまで見せてくれなかった歌唱シーンを見せてくれたのだから、今後も作品ごとに新たな地平を切り開いてほしいということである。

 

ハルを演じた門脇麦にも称賛を。100人に9人はLGBTがいるということで、もはや彼ら彼女らは珍しい存在ではない。しかし、ただ単に存在するということと、その存在が他者に認知されること、そして受け入れられるということは別物である。シマとレオの必要最低限の会話だけから、ハルの過去から現在に至る苦悩と懊悩の全てが見えてくる。ハルとレオの interaction の一部には重要な示唆が含まれている。それはLGBTもパートナーを選ぶということである。当たり前だが、ノーマルな男が全ての女性を恋愛の対象(≠欲望の対象)にするわけではないし、ノーマルな女性が全ての男性を恋愛対象にするわけでもない。それと同じことである。本作はハルとレオという対照的な人物の繋がり方を映し出すことで、我々がいかに人間関係を恋愛感情や肉体関係でもって規定したがっているのかを逆説的に炙り出す。ハルとレオは我々が期待するような関係で結びついているわけではない。にも関わらず我々は彼女らのユニットの存続を心から願ってしまう。この脚本、そして演出は見事である。唸らされる。

 

シマを演じた成田凌は、私的2019年国内最優秀俳優の認定は間違いのないところ。元ミュージシャンにして元ホストという雰囲気を確かに漂わせていた。それは、煙草を取り出した女性に即座にライターを差し出すところではなく、レオの恋慕を頑なに無視し、安易な肉体関係を結ぼうとしないところだ。また、ライブでもギターやタンバリンを演奏するところで、スポットライトを浴びようとしない佇まいも良い。そして演奏シーンで手元が移るのは、実はほとんど全部シマだったりと、音楽映画の音楽映画らしいところ、役者ではなく本当のミュージシャンですよ、と思わせたい部分の演出をほとんど一手に引き受けているところも渋い。一番スポットライトから遠い男が多分一番楽器の練習を積んできたのだろう。ハルレオのユニットメンバーの中で、おそらく最も劇的な変化を見せるのはシマであると思う。それはJovianが男性であることと無関係ではないだろうが、彼の人生において非常に重要なピースが入れ替わる瞬間の目の演技が素晴らしい。そして声も。言っていることと、心の中で思っていることが見事に一致していない。クズな男ばかりを演じてきた成田であるが、本作は期せずしてクズ男のビルドゥングスロマンとしても成立しているのである。かなりご都合主義的な展開もあるが、この着地の仕方にも唸らされた。

 

演出面では、各キャラの歩調に注目してみて欲しい。普通、誰かと一緒に歩いていると、歩調というのは合ってくるものだ。誰しも経験があるだろう。しかし、本作のハル、レオ、シマは見事に歩調が合わない

 

本作の肝は「さよならくちびる」というタイトルにもなっている楽曲である。そしてそのくちびるが誰のものなのかを、本作はオープニングのタイトルシーンで示唆する。くちびるというのは不思議なもので、くっつかないと出せない音声、離れていないと出せない音声がある。本作を見終わったら、ぜひ「さよならくちびる」の歌詞を意味を考察してみて欲しい。そこには豊穣な意味の世界が広がっていることを約束する。

 

ネガティブ・サイド

歌詞を画面にスーパーインポーズする演出は個人的には好ましくなかった。ハルが作詞に使っているノートをアップにするか、もしくはスーパーインポーズするにしても字体をハルの筆跡に近いものにしてほしかった。そうすればもっと彼女たちの音楽や歌詞の世界に入っていきやすくなったのにと思う。

 

またレオの痣が化粧であまりにも呆気なく消え過ぎである。いや、ステージ上でそれを消すぐらいは容易いのかもしれないが、車の中やレストランでまで綺麗に消えているというのは・・・ 途中でハルレオの追っかけファンである女子中学生ぐらいのペアが登場するが、その片方の子の歌唱力たるや・・・ ハルレオより普通に上手いのである。LGBTとしての生きづらさを抱えている自分が、ハルレオの楽曲によって救われたという実感を歌の形で吐露する非常に象徴的なシーンであるが、もうちょっと歌を普通に歌うようにディレクションできなかったのだろうか。

 

後は重箱の隅をつつくようで申しわけないが、シマの運転シーンである。背景が合成なのは構わない。ただ、それなりのカーブをゆるーく曲がっていくのに、ハンドルを全く動かさないというのはどうなのだろうか。直進の道路でやたらとハンドルをちょこまか動かすのも目に付くが、曲がるべきところではそれなりにハンドルを切ろうではないか。

 

総評

『 ボヘミアン・ラプソディ 』的なテーマと構成である。もちろん、映画の構想から実際の製作に要する時間を考えれば剽窃とは考えられない。むしろ、原案/脚本も務めた塩田監督の先見性、時代を読む慧眼に敬服すべきなのだろう。素晴らしい作品が世に送り出された。これは劇場鑑賞必須である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 小松菜奈, 成田凌, 日本, 監督:塩田明彦, 配給会社:ギャガ, 門脇麦, 音楽Leave a Comment on 『 さよならくちびる 』 -見事に切り取られた鮮烈な青春の一コマ-

『 愛がなんだ 』 -この不条理な愛という心の形-

Posted on 2019年4月29日2020年1月28日 by cool-jupiter

愛がなんだ 70点
2019年4月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:岸井ゆきの 成田凌
監督:今泉力哉

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愛とは何かと問われて即座に返答できるのは、宗教学者や哲学者であろう。しかし、彼ら彼女らの出す答えというのは往々にして一般人の肌感覚とは合わない。それなら、「愛とはためらわないことさ!」と、どこかで聞いた台詞でごまかすのも一つの手だ。本作はそんな愛の形を非常に興味深い形で映し出す。

 

あらすじ

山田テルコ(岸井ゆきの)は、マモちゃんこと田中守(成田凌)にぞっこんで、呼ばれれば深夜に赴き、飯炊きから風呂掃除まで甲斐甲斐しく彼の世話をしていた。だが、守はテルコを恋人にするつもりはさらさらなかった。ある時、守とついにベッドインを果たしたテルコは有頂天になるも、突然部屋から追い出され、それから守からの連絡が途絶えてしまうのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

まずは岸井ゆきのの演技に敬意を表したい。『 娼年 』における桜井ユキと、『 食べる女 』における広瀬アリスの両方の属性をさらに誇張したようなキャラを見事に体現してくれた。入浴シーンや、直接的ではないベッドシーンもあるので、スケベ視聴者はその辺にも期待して良い。何よりも注目したいのは、テルコが自分を客観視する視線の痛々しさと、自分で自分をまるで客観視できない痛々しさを同居させているキャラであること。特に即興ラップのシーンと銭湯のシーンには笑わされてしまった。こうした自己と対象との間に距離が生じた時、同一もしくは類似の対象への認識にずれが生じた時に、笑いが励起される。「人のふり見て我がふり直せ」と言うが、テルコの恋愛面での痛々しさは、多くの人間、おそらくはテルコと同じ20代後半女子の共感を呼ぶことだろう。ここで言う共感とは、テルコがマモちゃん一辺倒になって仕事も何もかもそっちのけで尽くそうとする様に対して「分かる、その気持ち」と感じることと、「えー、そんなのダメ」という相反する気持ちの両方を抱かせるということだ。このことは劇中でも一種のフラクタル構造になっていて、他キャラクターがもう一方のキャラクターへの接し方、大げさに言えば存在の在り様が、自分に重なりつつも自分とは違うという感情を呼び起こす。それは自己認識のずれであり、多くの人間が陥る「恋は盲目」状態である。そうした姿を時には激しい口論の形で提示する本作は、非常に上質なエンターテインメントである。恋やら愛やらは美しいものであること以上にドロドロとした醜悪なものでもある。テルコのストーカーまがいの気持ちは、美醜両方を兼ね備えていて、それゆえに岸井ゆきのの演技が光っている。

 

成田凌は、ようやくエキセントリックではない男の役がまわってきたか。いや、本作のキャラも充分に下衆な男ではあるが、それは守というキャラの一面に過ぎない。冒頭から玲淡とすら思わせる言動を見せつけてくれるが、それが物語終盤に鮮やかにひっくり返るロングのワンテイクの対話シーンがあり、守という男が単なる嫌な男ではなく、まず一人の人間であって、必死に甲斐甲斐しく尽くそうとするテルコに全く見合わない男なのではなく、彼自身にも彼の在り方があるのだということがしっかりと伝わってきた。注意すべきは、守というキャラクターもまた、様々な人間模様のフラクタル構造の一部であるということ。テルコに対する彼の姿勢は、そのまま江口のりこ演じるキャラの守への姿勢として跳ね返って来ているということ。

 

本作はテルコと守の閉じた関係を描くのではなく、テルコの親友やその友人男性(この男もまた痛々しい、それが泣けるし笑わせてくれる)らを巻き込んで、物語のあちらこちらに人間模様の相似形が展開されていく。これが何ともリアルである。中盤以降に、江口のりこのキャラクターが、あるキャラの一途な想いをぶち壊そうと口舌を振るうが、これが『 君が君で君だ 』における向井理とYOUのように、偏執的な想いに凝り固まったキャラの頭にガツンと一発見舞ってくる。そこからフラクタルは崩壊に向かい、一つの模様に帰着するのだが、これまた何とも痛々しい。テルコに拍手。テルコに乾杯だ。

 

本作は撮影に関しても優れている。カメラの長回しをするのであれば、それはキャラクターに焦点を強く長く当てたい時だ。であるならば、彼ら彼女らの表情や息遣いをそこに収めなければならない。少女漫画の実写化で何故か遠景からのショットを延々と撮り続ける意味不明なワンカットが一頃横行していたが、本作のような基本に忠実で、観る者に本当に見せたいショットをワンカットで提供するようにしてほしい。

 

ネガティブ・サイド

成田凌演じる守を「かっこいい」と「かっこよくない」に二分法で「かっこよくない」に分類するのは難しいのではないか。かっこいいの定義は人による。しかし、何よりも映像や絵を見せる映画という媒体では、かっこいい=外見、見目麗しさを指すものだと捉えられる。ならば原作小説を翻案して、「いいひと」か「あんまりいい人じゃない」のように変えてしまう必要性も認められたのではないだろうか。

 

後はテルコ目線で、もう少し守の最大の魅力である手を描いたり、あるいはたいてい何かをパクついているテルコの食べ物をもう少し映し出してほしかった。テルコの良いところは(?)は、はたから見れば疲れてしまう環境、状態におかれてもお腹はしっかり減るところ、何かをがっつり食べるところで、それは一般的な恋愛模様とは真逆である。典型的には、女子は恋をすると食べ物がのどを通らなくなり、痩せる。したがって綺麗になる。テルコは逆で、常に何かを食べている。テルコは無償の愛を与える側ではなく、むしろ対象から栄養を吸い取るような、屈折した愛情の持ち主であるというフラクタル構造が見て取れる。だから、テルコが食べているもの=テルコ目線での男の良いところ、を観る側にもっとシェアして欲しかった。そう思えてならないのである。

また、愛をアガペーやエロス的なもの、もしくはキリスト教的な愛(=対象に変わりたい)という、やや哲学的、宗教的な匂いのする観念が散りばめられているのが、個人的には少々ノイズであった。このあたりは気にしない人も多いだろうけれど。

 

総評

久々に良い邦画を観たと感じた。今泉監督の、観る側や原作者に媚びない姿勢というか、「俺の世界解釈はこうなのだ」というビジョンを共有できた気がする。人間関係というのは自己と他者の関わり以外にも、自己と自己の関わり、自己内対話でも成り立っている。単なる恋愛感情以上のものがそこにあることを提示してくれる本作は、20代以上の男女に是非とも観て欲しいと思わせる逸品である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ラブロマンス, 岸井ゆきの, 成田凌, 日本, 監督:今泉力哉, 配給会社:エレファントハウスLeave a Comment on 『 愛がなんだ 』 -この不条理な愛という心の形-

『 チワワちゃん 』 -リアルで陳腐な青春群像劇の佳作-

Posted on 2019年2月15日2019年12月22日 by cool-jupiter

チワワちゃん 70点
2019年2月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:門脇麦 成田凌 吉田志織
監督:二宮健

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門脇麦と成田凌という『 ここは退屈迎えに来て 』でも見れらた若手の実力者の共演である。それだけでもチケットを買う価値はある。実際に I got my money’s worth. 

 

あらすじ

「チワワ」(吉田志織)が死んだ。バラバラ殺人だ。ミキ(門脇麦)はチワワの恋人だったヨシダ(成田凌)やその取り巻き、友人、知人らにチワワがどんな人間だったのかを確かめていく。そこで知ったのは、自分が全く知らないチワワの姿で・・・

 

ポジティブ・サイド

非常にドラッギーな映像から始まる。まるで、これから見るのは映像麻薬ですよ、とでも宣言しているかのようだ。そして実際にその通りである。女子の下着パーティーあり、プール内での美少女同士のキスありと、いったい何を観に来たのだろう?と頭がクラクラしてくるような映像を二宮監督は放り込んでくる。Good jobである。

漫画が原作であるということで敬遠することなかれ。いわゆる少女漫画を原作とする十把一絡げの青春ムービーとは明らかに一線を画す映画である。大ヒット(少女)漫画のストーリーというのは、基本的にファンタジーである。王子様に見出されるお姫様のお話である。なので、そうした映画を観ながら「ああ、俺にもこんな甘酸っぱい、青っちい時代があったなあ」という風にはとても感じられないのである。もしもそのように感じられる映画ファンがいれば、相当に幸運な人生を送れた証である。リア充爆発しろ。しかし、本作の描く青春模様はファンタジーではない。それは青春の一面を異常に肥大化させた、あるいは極度に誇張させたものである。美少女または美男子が転校して来て、自分の隣の席に座るようになる、やがてその相手と劇的展開を経て恋仲になるなどという漫画のような、というか漫画そのものの経験をしたことのある人など、一万人に一人ぐらいしかいないのではなかろうか(分母が十万人でも五千人でも、希少性が高いという意味では大差ないだろう)。しかし、本作で描かれるような若気の無分別を経験したことのない人というのは、あまりいないように感じる。もちろん、危ない筋から大金を強奪するというのは論外だが、ちょっとしたあぶく銭を一瞬の享楽のために溶かしてしまっただとか、行きずりの相手とベッドインしただとか、家に帰れない事情があって知人友人宅を転々としただとか、クラブで飲んで踊り明かしただとか、そういう経験である。Jovian自身もこの映画ほどのクレイジーな経験はしていないが、大学時代には先輩の車に同級生らと乗り込めるだけ乗り込んで、吉祥寺の「ホープ軒」でアホほどラーメンを喰ったその足で、環七沿いの「なんでんかんでん」でやはりしこたま豚骨ラーメンを喰い、そのまま何故か港の見える丘公園に乗り込んで大騒ぎし、返す刀で井の頭公園に戻って、やはり乱痴気騒ぎに興じたことがあった。良い思い出であると同時に、今思い起こしてみても、何故あれほど全力で騒いで遊んで楽しめたのか分からない。

本作はチワワがなぜ殺さなければならなかったのかについては明確な答えは出さない。その筋の仕業だろうとは推測されるが、もはやそれは重要でも何でもない。本作には大人と言えるキャラクターが数えるほどしか出てこない。その一人、浅野忠信は圧倒的な迫力と存在感でカメラ小僧を威圧する。このカメラ小僧はある意味で子どもの代表であり象徴でもある。チワワに恋焦がれるも、カメラのファインダー越しにしかチワワを見ることができず、チワワと個人的な関係を築きたいという欲望が隠しきれないにもかかわらず、自分の撮る映画に出演して欲しいという願いを伝えることでしか、コミュニケーションが取れない。映画に出て欲しいというのは、自分にとっての理想的なキャラクターになって欲しいという意味だろう。浅野忠信はチワワという「現存在」が未来に「投企」されていないという事実を冷徹にも暴きだした。一方でカメラ小僧は美しく天真爛漫で無邪気に快楽を享受するチワワを記録しようとして、ヨシダにそれをぶち壊される。この成田凌演じるヨシダは大人と子どものちょうど境目である。B’zの“Pleasure’91 〜人生の快楽〜”の「あいつ」のような男なのだ、と言えばピンと来るB’zファンあるいは邦楽ファンも多いだろう。青春群像劇としては異色の野心作に仕上がっている。吉田志織という原石がこれからどういう光を放つようになるのかは未知数だが、期待の若手勢ぞろい作品という点では『 十二人の死にたい子どもたち 』よりも本作の方が面白い。

 

ネガティブ・サイド

舞台を現代に設定し直す必要はあったのだろうか。確かにSNSが効果的なガジェットして使用はされていたが、チワワという存在の皮相性と深層性を際立たせるものではなかった。舞台を原作のまま1990年代にして、『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』の如く、若さゆえの暴走、若さゆえに無分別、それゆえの刹那的な輝きを記憶に留めるような物語の方がより印象的になったのではと思う。SNSが発達した時代というのは、携帯のカメラやデジカメなども相当に進化している世界なわけで、チワワの画像や映像、音声やテキスト情報などが膨大な量で残っていても全く違和感がない、というかチワワに関するそうした記録。情報の類があまりにも少なすぎて、「本当に現代なのか?」という違和感が最後までどうしても拭えなかった。

 

これは完全に自分が監督になったつもりでのぼやきだが、劇中でチワワが歌って踊る“Television Romance”を何故エンドクレジットシーンに採用しなかったのだろうか。チワワとその周辺の人間関係はほとんど全部この歌で描写されてしまっているではないか。チワワの物語の余韻に浸るべき瞬間にこそ、このテーマソングがより強く輝けるのではないのか。そこのところを非常に惜しいと思う。

 

総評

「くだらなかったあの頃に 戻りたい 戻りたくない」という“Pleasure’91 〜人生の快楽〜”の一節が強烈に脳裏に浮かんでくる。そんな一作である。もちろん、いい年こいたオッサンの抱く感傷と、まさに20歳前後の登場人物たちと同世代の映画ファンの抱く感想は、大いに異なるはずだ。観る者によって呼び起される感覚が異なるというのは、それだけ良い作品なのだ。一面ではなく多面的に見ること、見られること。それを是非、劇場で大画面で体験しよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, ミステリ, 吉田志織, 成田凌, 日本, 監督:二宮健, 配給会社:KADOKAWA, 門脇麦Leave a Comment on 『 チワワちゃん 』 -リアルで陳腐な青春群像劇の佳作-

『ビブリア古書堂の事件手帖 』 -シリーズ化を狙うなら、監督と脚本の交代が必須-

Posted on 2018年11月8日2019年11月22日 by cool-jupiter

ビブリア古書堂の事件手帖 30点
2018年11月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:黒木華 野村周平 成田凌 夏帆 東出昌大
監督:三島有紀子

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『 幼な子われらに生まれ 』の三島有紀子監督作品ということで期待をしていたが、裏切られた。はっきり言って、脚本の時点で失敗作になると予見できていなければおかしい。何か監督オファーを断れない事情でもあったのか。それとも自ら手を上げたものの、スタジオからこの脚本を使うように圧力があったとでも言うのだろうか。

 

あらすじ

五浦大輔(野村周平)は祖母の遺品整理をしている最中に、夏目漱石直筆の署名入りと思しき『 それから 』を見つける。それは、彼が小さな頃に手に取ったことで、祖母の勘気を被り、二発も殴られたきっかけになった本だった。鑑定のためにビブリア古書堂を訪れた大輔は、若き女店主・篠川栞子(黒木華)に出会う。物静かで陰に籠った感のある栞子はしかし、本については並々ならぬ知識と愛着を持っていた・・・

 

ポジティブ・サイド

黒木華は称えねばならない。楚々として、そこはかとない色気を感じさせながらも、どこか無防備で、だからこそ守ってあげたいと思わせる原作の雰囲気が醸し出せていた。ボソボソと話はするが、決して訥々とは語らず、社交面に弱点を抱えているものの、頭脳の明晰さは随一というキャラであることを演技で証明した。

 

また、大輔の祖母の若い頃を演じた夏帆。『 ピンクとグレー 』あたりから本格的にベッドシーンもこなし、『 友罪 』ではAVやレイプシーンにも取り組むなど、役者としての成長と充実を感じさせる。桜井ユキもそうだが、ラブシーンをこなせる女優には敬意を払わねばならない。次は広瀬アリスあたりかな?

 

ネガティブ・サイド

あまりにも原作各話の扱いに差がありすぎる。三島監督は原作を読まなかったのだろうか。いや、そんなことはあるまい。原作小説のみならず、必要とあらば漫画やテレビドラマ版(剛力は論外、演技力云々ではなく似ていない。オールデン・エアエンライクとハリソン・フォードの似ていなさ加減よりも、篠川栞子と剛力彩芽の似ていなさ加減の方が遥かに大きい)ですらチェックしているはずだ。

 

栞子の博識っぷりを引き出すためには、彼女の本に対する知識を様々な角度から様々な方法で描写する必要がある。通常の2D映画では不可能だが、嗅覚を使うシーンは面白いと思った。が、そのことをもう少し明示的に示す必要もあった。本シリーズの面白さは、栞子は本にとってのシャーロック・ホームズもしくはハンニバル・レクター博士か、とこちらに思わせるだけの静かな迫力にある。決して、カーチェイスやアクションにあるのではない。そのアクションでも大輔に見せ場は無し。というよりも、あのタイミングでこうした事件が起きるなら、犯人は必然的にこいつしかあり得ない、という論理的な思考ができないのか。そもそも警察が存在しない alternate reality での物語なのか、これは?

 

総評

黒木華と夏帆以外に見るべきものが無かった。そんなところでそんな映像美を演出する意味があるのか?というシーンも多く、キャラクターだけではなく映画製作者側の意図や行動原理も不明なところが多い。黒木と夏帆のファン以外には正直、鑑賞はきついだろう。どこか嫌な予感がしたので無料鑑賞クーポンを発行したが、その勘は正しかった。鑑賞する場合にはモーニング・ショーか、レイト・ショーで。正規のチケット代は払うべきではない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ミステリ, 夏帆, 成田凌, 日本, 東出昌大, 監督:三島有紀子, 配給会社:20世紀フォックス映画, 配給会社:KADOKAWA, 野村周平, 黒木華Leave a Comment on 『ビブリア古書堂の事件手帖 』 -シリーズ化を狙うなら、監督と脚本の交代が必須-

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