という仰々しいタイトルであるが、実際は『 翔んで埼玉 』のレビュー考である。同作が日本アカデミー賞にノミネートされていることについて、様々な意見が出されている。大半はネガティブな意見である。つまり、『 翔んで埼玉 』は日本アカデミー賞にはふさわしくないという声が多い。Jovianは全くそうは思わない。
今日、テレビ放送の録画を見直して、本作には批評の精神と差別への反対声明があふれているとあらためて感じた。元のレビューでも書いたが、
東京の富、およびそれを生み出す生産力、労働力は一体どこから供給されているのか。それは埼玉であり、千葉である。東京という中心の繁栄は、周辺の協力なしには絶対に実現しないのである
という点をリアルタイムで指摘していた人はJovianぐらいであったと自負している。COVID-19が大流行の兆しを見せており、京都は観光客が激減している。東京もおそらくそうだろう。中国人観光客の多さは、彼ら彼女らがいなくなって初めて分かる。それと同じで、東京から埼玉県民や千葉県民がいなくなったら・・・と思考実験してみてはどうだろうか?東京がどれほど埼玉や千葉に助けられているか、一目瞭然になるだろう。
曽野綾子が「白人、黒人、アジア人と居住区は分けるべき」と主張して、国際的な非難を浴びたことは記憶に新しい。これを通行手形の存在=都民や神奈川県民、千葉県民や埼玉県民の居住区は分けるべき、という制度と比較すれば、差別と排除の論理が共通していることは明らかである。ただし、差別する側には差別される側のことは分からない。
生まれも育ちも東京(≠東京都)です、というハイソな人、あるいは児童相談所の建設に頑なに反対する、一部の南青山の住人などには、刺さるものが無いのではないか。
本作公開時のレビューで上のように指摘したが、『 翔んで埼玉 』の日本アカデミー賞ノミネートにケチをつけるレビュワーや評論家、エッセイストの大半は精神的に東京都民なのだろう。そのことを責めはしない。生まれも育ちも大都市の大阪というJovianの嫁さんも本作の秘める現実批評の精神は理解できなかった。そんなものである。
自分の理解していることを理解しない者を責めようとは思わないし、自分が理解できないものを理解している人に対して「酸っぱいブドウ」な態度を取ろうとも思わない。Jovianは作品や製作者を厳しく批判することはあるが、他人の鑑賞眼を批判することはない。Jovianは作品の本質が分からなければ、分からないと正直に言う。たとえダメ作品だと思っても、波長が合わなかったと思うように努めているし、その作品と波長が合う人が存在すると思うようにしている。
だからこそ、『 翔んで埼玉 』を面白がる人、高く評価する人を小馬鹿にしたような文章をものす一部の評論家や文筆家には頭に来ている。作品を批評する権利は誰もが持っている。だが、批評する人間を批評する権利など誰にもない。誰とは言わないが「だから邦画を観る奴はダメなんだ」という論調に持っていく人間などは、撃ち殺してやりたいとすら感じる。自分の理解できないものを排除する。埼玉や千葉の出身であるというだけで理解や交流を拒絶する東京都民と同じである。それは差別だ。差別には断固反対する。
あらためて言う。『 翔んで埼玉 』は日本アカデミー賞にふさわしい。日本アカデミー賞の品位や権威、格がどういったものであるかはどうでもいい。本作は娯楽性と社会性の両方を備えた良作である。Jovianはあらためてそう宣言する。