サラブレッド 65点
201910月3日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:オリビア・クック アニャ・テイラー=ジョイ
監督:コリー・フィンリー
Jovianは『 ウィッチ 』以来、アニャ・テイラー=ジョイの大ファンである。映画ファンならば、○○が出演していたら観る、あの監督の作品は観る、あの脚本家の作品は絶対にチェックする、そういう習性があるものだろうが、アニャはJovianの一押しなのである。
あらすじ
感情のないアマンダ(オリビア・クック)と彼女の家庭教師を引き受けている旧友のリリー(アニャ・テイラー=ジョイ)。二人は奇妙な友情を育んでいた。そして、リリーは憎い継父の殺害計画をアマンダと共に練るようになるが・・・
ポジティブ・サイド
これまでも胸元を露わにする服装はちらほら着用してくれていたが、今回は遂に水着を解禁。アニャのファンは狂喜乱舞すべし。というのは冗談だが、それでもプールに潜るアニャは大画面に大いに映える。彼女はどこかファニー・フェイスなのだが、水中で目を閉じて黒髪がたゆたうに任せるアップのショットはひたすらに cinematic である。
オリビア・クックも魅せる。『 ラ・ラ・ランド 』でエマ・ワトソンが桁違いの演技力を見せつけたが、冒頭のリリーの住む屋敷を散策して回るシーンと、テレビを観ながら泣いて見せるシーンは、オリビアの演技力の高さを大いに物語っている。
監督のコリー・フィンリーは舞台の演出家で、映画の監督はこれが初めてのようだ。先に述べたアマンダの屋敷を見て回るシーンはロングのワンカットで撮影されており、カメラ・オペレーターが役者との絶妙な距離感を保ちつつ、どこか『 バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』を彷彿させるドラムを主旋律にした人間の不安を掻き立てるようなBGMが奏でられる。『 記憶にございません! 』の中井貴一と吉田羊の情事前のシーンは技術的に際立っていたが、映画的な技法としての完成度は本作のオープニングシーン(馬の後である、念のため)の方が上である。Establishing Shotの極致であり、迷走する人間関係と心理のメタファーになっている。
殺人を計画するにあたって、チンケなドラッグ・ディーラーを使うところもよい。やるかやらないか分からない、そんな根性がありそうでなさそうな pathetic な男と、獣性を秘めた女性たちのコントラストがサスペンスを盛り上げている。男という生き物は本質的には女の引き立て役なのかもしれない。Rest in peace, Anton Yelchin.
ネガティブ・サイド
登場人物があまりにも少ないせいで、オリビアの感情の欠落が周囲の人間にどのように受けとめられてきたのか、あるいは受け入れられずにきたのかが分からなかった。ちょっとエキセントリックな奴、と思われるだけならいいが、「サラブレッドを殺した奴」というのはちょっと違うと思う。走れなくなった馬を安楽死させるのは、割とよく知られた事実であるし、レースに勝てず気性が穏やかな馬は、乗馬クラブに行き、レースに勝てず気性が荒い馬は動物園で肉食動物のエサにされている。これもよく知られた事実である。馬を殺したこと、その方法が残虐であったことを指してアマンダを「ヤバい奴」に認定するのはちょっと納得がいかなかった。これはJovianの実家がかつては焼肉屋で、Jovian自身も小学校6年生の時に牛の屠殺場に実際に親子で見学に行った経験を持つからかもしれない。
継父を殺したいほど憎く思っている背景の描写も弱い。登場シーンからして張りつめた空気が二人の間に漂っているが、そうした緊張感の漲るシーンをもう2,3か所、時間にして2~3分ほどでよいので、各所に挿入されていれば、劇中に二つ存在する真夜中のシーンのサスペンスがもっと盛り上がったのにと思う。
総評
女は怖い。つくづくそう感じさせてくれる。女性に対して満腔の敬意と言い知れぬ恐怖を抱くJovianのような小市民は、本作のような女の物語を非常に怖く、危うく感じる。これはネガティブにではなく、作品に対するポジティブな賛辞である。小市民男性は本作を観て、男と言う生き物のケツの穴の小ささを再確認しよう。亭主関白を自認する人は観ないことをお勧めする。
Jovian先生のワンポイント英会話レッスン
outside the box
しばしば think outside the box という使い方をする。直訳すれば「箱の外で考える」だが、意訳すれば「固定観念にとらわれることなく考える」、「既存の枠組みを超えて思考する」ということ。これができるかどうかが、学生にとっても社会人にとっても、ますます重要になってくるだろう。