愛がなんだ 70点
2019年4月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:岸井ゆきの 成田凌
監督:今泉力哉
愛とは何かと問われて即座に返答できるのは、宗教学者や哲学者であろう。しかし、彼ら彼女らの出す答えというのは往々にして一般人の肌感覚とは合わない。それなら、「愛とはためらわないことさ!」と、どこかで聞いた台詞でごまかすのも一つの手だ。本作はそんな愛の形を非常に興味深い形で映し出す。
あらすじ
山田テルコ(岸井ゆきの)は、マモちゃんこと田中守(成田凌)にぞっこんで、呼ばれれば深夜に赴き、飯炊きから風呂掃除まで甲斐甲斐しく彼の世話をしていた。だが、守はテルコを恋人にするつもりはさらさらなかった。ある時、守とついにベッドインを果たしたテルコは有頂天になるも、突然部屋から追い出され、それから守からの連絡が途絶えてしまうのだが・・・
ポジティブ・サイド
まずは岸井ゆきのの演技に敬意を表したい。『 娼年 』における桜井ユキと、『 食べる女 』における広瀬アリスの両方の属性をさらに誇張したようなキャラを見事に体現してくれた。入浴シーンや、直接的ではないベッドシーンもあるので、スケベ視聴者はその辺にも期待して良い。何よりも注目したいのは、テルコが自分を客観視する視線の痛々しさと、自分で自分をまるで客観視できない痛々しさを同居させているキャラであること。特に即興ラップのシーンと銭湯のシーンには笑わされてしまった。こうした自己と対象との間に距離が生じた時、同一もしくは類似の対象への認識にずれが生じた時に、笑いが励起される。「人のふり見て我がふり直せ」と言うが、テルコの恋愛面での痛々しさは、多くの人間、おそらくはテルコと同じ20代後半女子の共感を呼ぶことだろう。ここで言う共感とは、テルコがマモちゃん一辺倒になって仕事も何もかもそっちのけで尽くそうとする様に対して「分かる、その気持ち」と感じることと、「えー、そんなのダメ」という相反する気持ちの両方を抱かせるということだ。このことは劇中でも一種のフラクタル構造になっていて、他キャラクターがもう一方のキャラクターへの接し方、大げさに言えば存在の在り様が、自分に重なりつつも自分とは違うという感情を呼び起こす。それは自己認識のずれであり、多くの人間が陥る「恋は盲目」状態である。そうした姿を時には激しい口論の形で提示する本作は、非常に上質なエンターテインメントである。恋やら愛やらは美しいものであること以上にドロドロとした醜悪なものでもある。テルコのストーカーまがいの気持ちは、美醜両方を兼ね備えていて、それゆえに岸井ゆきのの演技が光っている。
成田凌は、ようやくエキセントリックではない男の役がまわってきたか。いや、本作のキャラも充分に下衆な男ではあるが、それは守というキャラの一面に過ぎない。冒頭から玲淡とすら思わせる言動を見せつけてくれるが、それが物語終盤に鮮やかにひっくり返るロングのワンテイクの対話シーンがあり、守という男が単なる嫌な男ではなく、まず一人の人間であって、必死に甲斐甲斐しく尽くそうとするテルコに全く見合わない男なのではなく、彼自身にも彼の在り方があるのだということがしっかりと伝わってきた。注意すべきは、守というキャラクターもまた、様々な人間模様のフラクタル構造の一部であるということ。テルコに対する彼の姿勢は、そのまま江口のりこ演じるキャラの守への姿勢として跳ね返って来ているということ。
本作はテルコと守の閉じた関係を描くのではなく、テルコの親友やその友人男性(この男もまた痛々しい、それが泣けるし笑わせてくれる)らを巻き込んで、物語のあちらこちらに人間模様の相似形が展開されていく。これが何ともリアルである。中盤以降に、江口のりこのキャラクターが、あるキャラの一途な想いをぶち壊そうと口舌を振るうが、これが『 君が君で君だ 』における向井理とYOUのように、偏執的な想いに凝り固まったキャラの頭にガツンと一発見舞ってくる。そこからフラクタルは崩壊に向かい、一つの模様に帰着するのだが、これまた何とも痛々しい。テルコに拍手。テルコに乾杯だ。
本作は撮影に関しても優れている。カメラの長回しをするのであれば、それはキャラクターに焦点を強く長く当てたい時だ。であるならば、彼ら彼女らの表情や息遣いをそこに収めなければならない。少女漫画の実写化で何故か遠景からのショットを延々と撮り続ける意味不明なワンカットが一頃横行していたが、本作のような基本に忠実で、観る者に本当に見せたいショットをワンカットで提供するようにしてほしい。
ネガティブ・サイド
成田凌演じる守を「かっこいい」と「かっこよくない」に二分法で「かっこよくない」に分類するのは難しいのではないか。かっこいいの定義は人による。しかし、何よりも映像や絵を見せる映画という媒体では、かっこいい=外見、見目麗しさを指すものだと捉えられる。ならば原作小説を翻案して、「いいひと」か「あんまりいい人じゃない」のように変えてしまう必要性も認められたのではないだろうか。
後はテルコ目線で、もう少し守の最大の魅力である手を描いたり、あるいはたいてい何かをパクついているテルコの食べ物をもう少し映し出してほしかった。テルコの良いところは(?)は、はたから見れば疲れてしまう環境、状態におかれてもお腹はしっかり減るところ、何かをがっつり食べるところで、それは一般的な恋愛模様とは真逆である。典型的には、女子は恋をすると食べ物がのどを通らなくなり、痩せる。したがって綺麗になる。テルコは逆で、常に何かを食べている。テルコは無償の愛を与える側ではなく、むしろ対象から栄養を吸い取るような、屈折した愛情の持ち主であるというフラクタル構造が見て取れる。だから、テルコが食べているもの=テルコ目線での男の良いところ、を観る側にもっとシェアして欲しかった。そう思えてならないのである。
また、愛をアガペーやエロス的なもの、もしくはキリスト教的な愛(=対象に変わりたい)という、やや哲学的、宗教的な匂いのする観念が散りばめられているのが、個人的には少々ノイズであった。このあたりは気にしない人も多いだろうけれど。
総評
久々に良い邦画を観たと感じた。今泉監督の、観る側や原作者に媚びない姿勢というか、「俺の世界解釈はこうなのだ」というビジョンを共有できた気がする。人間関係というのは自己と他者の関わり以外にも、自己と自己の関わり、自己内対話でも成り立っている。単なる恋愛感情以上のものがそこにあることを提示してくれる本作は、20代以上の男女に是非とも観て欲しいと思わせる逸品である。