続・夕陽のガンマン 95点
2019年3月25日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クリント・イーストウッド リー・ヴァン・クリーフ イーライ・ウォラック
監督:セルジオ・レオーネ
これは西部劇という枠を超えた、20世紀の映画の一つの到達点である。映像と音楽の幸福なる結婚、役者と演技の完璧なシンクロ。Timeless Agelss Classicである。いかなる西部劇が今後生み出されても、本作を超えることはできないだろう。
あらすじ
時はアメリカ南北戦争の最中。賞金稼ぎのブロンディ(クリント・イーストウッド)と賞金首のトゥーコ(イーライ・ウォラック)、そして北軍士官のエンジェル・アイ(リー・ヴァン・クリーフ)の3名は、20万ドルもの大金がどこかに隠されていることを知り、互いに協力し、互いに出しぬき合い、金貨の隠し場所を探っていき・・・
ポジティブ・サイド
本作の進行はビジュアル・ストーリーテリングの極致である。最初の10分、およびラストの10分(厳密にはエンディング直前に叫び声があるが)に台詞がないのである。だが、それで充分に話が通じるのだ(キャラ紹介のために文字がスーパーインポーズされるが、これぐらいは大目に見よう)。これは実験的にこのような作りにしたのではなく、全編を通じてのセルジオ・レオーネの作家性の発露と捉えるべきだろう。映像によって物語を語らしめる。それこそが映画の基本にして究極の技法なのだが、本作では全編通じて台詞が非常に少ない。一番ペラペラしゃべるのはThe Uglyのトゥーコで、The GoodのブロンディやThe Badのエンジェル・アイはぼそぼそと話すことはあれど、むしろ表情、目の動き、立ち居振る舞いで自己表現している。このあたりは『 荒野の用心棒 』、『 夕陽のガンマン 』にも共通していたが、それがさらに洗練されたと言える。劇中のとあるシーンでのトゥーコの台詞、“When you have to shoot, shoot. Don’t talk.”は至言であろう。映画製作者たる者、この台詞を胸に刻まぬこと無かれ。Shootには「撃つ」という意味に加えて、「撮影する」という意味もあるのだ。
セルジオ・レオーネ監督は絵コンテを作らなかったと言われているが、どうやって数々のシーンを構想し、それを一発で撮影したのだろうか。汽車から飛び降りるシーンや手錠を切るシーン、さらにブロンディが砂の斜面を転げ落ちるシーンに、トゥーコがそこに瓶を転がしてブロンディにぶつけるシーンなどは、リハーサルなどできるものではないだろう。仮に何度も練習できたとしても、莫大な時間と労力が必要だっただろう。全てのシーンが絵になると称賛される本作であるが、その芸術性は元より、そうした絵作りの裏にあった労苦はどれほどのものだっただろうか。裏方さんたち及び俳優陣には相当にきついものだったろう。特に、南北戦争シーンでは大量の火薬を使用。結構危ない距離で大砲の弾が着弾するようなシーンがそこかしこにあり、しかもそれがワンテイクで近距離と遠距離、画面の奥深くでも煙が上がり、兵士が吹っ飛ぶのである。撮影当時のスペイン・フランコ軍事政権から兵士1000名を借りてきたということだが、軍隊同士の容赦ない火力がぶつかりあうシーンは、時代も手法も全く異なるが、迫真性において『 ハクソー・リッジ 』にも負けていない。橋を爆破するシーンでは本当にレンガ大の岩が猛スピードでカメラ手前に弾着する。塹壕に身を隠していたのは替え玉だったというから、もう何と言うか・・・
本作の素晴らしさは、そうしたマスの部分だけではなく、ディテールにも宿る。象徴的なのは、トゥーコが武器屋で銃を調達するシーン。まず銃の質感が良い。Jovianは2003年にロサンゼルスを旅行した時に、実弾を何発か撃ったことがある。その時の銃の重み。それを思い出した。木の台に銃身を置いた時の「ゴトリ」、「ガチャ」という擬音語。邦画が毎回疎かにするシーンである。例えば『 アウトレイジ 』で椎名桔平演じる水野が、逃亡前に調達した銃をテーブルに置く時のカチャ、コト、というしょぼい音が思い出される(『 アウトレイジ 』そのものは佳作である)。トゥーコが色々な銃の色々なパーツをあれこれと吟味するシーンに、我々はこの男がただの醜い男なのではなく、立派な賞金首であり、腕利きのガンマンであり、自分の商売道具に一方ならぬ知識と執着を持った仕事人であることを知る。イーライ・ウォラック会心の演技であろう。それはトゥーコがブロンディを追跡する際の煙草を拾い上げて吸うシーンで頂点に達する。役者の演技と監督の意図する絵作り、ストーリーテリングが完璧に一致した瞬間の一つである。
リー・ヴァン・クリーフ演じるエンジェル・アイにも、どれほどの称賛を贈っても贈り足りない。『 夕陽のガンマン 』の弱点というか、観る者の期待を裏切ったところに、一流のプロフェッショナル同士が闘うと一体どうなるのかということを、最後まで追求しなかったところである。クリーフの眼光炯炯たる目つき、顔つきは元々悪玉のそれに近い。その悪玉っぷりが存分に味わえることで、ドル箱シリーズファンのストレスも本作で一挙に解消される。
クリント・イーストウッド演じるブロンディは最初はトレンチコート姿で登場するが、物語の終盤に無言のうちに、The Good=善玉であることを証明するシーンがある。そこでのブロンディの変身は鳥肌ものである。馬さばき、射撃、煙草をつねにくゆらせるダンディズム、それら全ても、この瞬間を成立させるための小道具だったのかと思われた。この瞬間に我々は思い知る。「 この世には2種類の人間がいる。クリント・イーストウッドに痺れる者と、クリント・イーストウッドにこれから痺れる者だ」と。
クライマックスは映像と音楽と迫真の演技に圧倒されるばかりである。ブロンディの薄い切れ長の目とエンジェル・アイの射抜くような目、そしてトゥーコのぎょろ目が交錯し、互いが互いを視線だけで制し合うこの緊張感は、あらゆる映画体験の中でもトップであろう。エンニオ・モリコーネの ”The Trio” は20世の映画サントラの最高傑作のひとつであると評しても異論は出まい。もちろん、“The Ecstasy of Gold”もその一つである。
ネガティブ・サイド
強いて挙げるとするなら、メッセージ性の弱さだろうか。北軍所属のエンジェル・アイが悪玉であるのは分かりやすいが、それは軍事力批判というよりも、内戦批判だろうか。暴力を礼賛するわけではないが、決して否定はしない。法を無視するわけではないが、自らが自らに課したルールの方を重んじる、そうした強かな個の在り様が入り乱れる様は、善だ悪だと一緒くたにはできない。だからこそ、最後の最後の叫び声なのだろう。強いて挙げれば、原題が弱いのかもしれない。
総評
これは傑作中の傑作である。20世紀最高の映画のひとつであると勝手に宣言させてもらう。おそらく世界にはこの意見に賛同してくれる人が一千万のオーダーで存在するはずだ。もうこの映画を観終わった瞬間の放心状態よ。気がついた時にはサントラを自分用に編集していた。本作は映像の面でも音楽の面でもキャラクターの面でも、世界中のあらゆる表現媒体に影響を及ぼしたと言っても過言ではない。我々は今後もこのような古典的名作を語り継いでいかなければならない。