ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 50点
2018年12月1日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー クアリソン・スドル エズラ・ミラー ゾーイ・クラヴィッツ ジョニー・デップ ジュード・ロウ
監督:デビッド・イェーツ
原題は“Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald”、『 ファンタスティック・ビースト:グリンデルバルドの罪 』というわけだが、ウィザーディング・ワールドでは罪の概念がマグル/ノーマジの世界とは異なるのだろうか。個人的には、グリンデルバルドはそこまでつの罪を犯しただろうか?と首をかしげてしまった。
あらすじ
悪の大魔法使い、グリンデルバルド(ジョニー・デップ)が移送中に逃亡に成功。ダンブルドア(ジュード・ロウ)と接触したニュート(エディ・レッドメイン)は、彼に代わってグリンデルバルドの追跡を依頼される。大魔法使いのダンブルドア自身がその任にあたらないことに訝しさを覚えつつも、ニュートはロンドンからパリへと向かう・・・
ポジティブ・サイド
シリーズと呼ばれる作品は映画界に数多く存在する。しかし、Saga / サーガ と見なされうるだけの力と奥深さを持つ作品は少ない。『 スター・ウォーズ 』や『 ロード・オブ・ザ・リング 』は間違いなくサーガだが、『 猿の惑星 』や『 ミッション・インポッシブル 』はサーガではないと感じている。サーガとは英雄譚であると同時に、魅力的なキャラクターと物語を生み出す世界観そのものだろう。「ルークやダース・ベイダー(≠アナキン)が出てこないから、新三部作はスター・ウォーズではない!」と怒るファンはいなかった。我々スター・ウォーズファンが怒り、嘆き悲しんだのは、フォースと言う銀河に満ちる神秘的な力を生物学的に解釈してしまったところだった。世界観を破壊されたからなのだ。そういった意味では、キャラクターではなく世界観こそが、シリーズとサーガを分ける一つの大きな指標だろう。『 ハリー・ポッター 』は紛れもないもサーガだった。本作もサーガの一端を担っていると言える。それはニュートやティナが登場していること以上に、魔法や魔法生物の存在によるところが大きい。前作でかなり唐突にアメリカに舞台を移したことには面食らったが、今作はパリ、さらには中国の妖怪も大暴れし、日本の妖怪も一瞬だけ登場する。世界の奥深さ、広大さを切り取った素晴らしい構成だと感じた。
ネガティブ・サイド
登場人物が一気に増えすぎた感は否めない。前作のニュート、ティナ、ジェイコブ、クイニーのリユニオンが期待されていたはずだが、そこへ持ってきてニュートの兄、その兄の婚約者、さらにクリーデンスの親など、メインのプロットであるグリンデルバルドの追跡とは直接に関連しないサブプロットが多すぎる。『 アントマン&ワスプ 』でもそうだったが、ストーリーは詰め込めば詰め込むだけ良いというものではない。過剰なサービス精神が必ずしもエンターテインメントになるわけではない。
冒頭でも述べたことだが、本作の最大の弱点は、グリンデルバルドが多くの魔法使いを扇動するばかりで、罪と呼べるのはオープニングの闘争および逃走シーンぐらい。だいたい、こんな危険な魔法使いが逃げ出したというのに、魔法省は数ヶ月間も動かず。ハリポタ世界でもヴォルデモートの復活を信じず、闇の軍団の成長に楔を打ち込もうとする動きは大きくならなかった。魔法使いは皆、基本的に能天気なのだろうか。闇祓いというのはアラスター・ムーディのような、好戦的・・・とは言わないまでも、闘うことに慎重になりすぎず、闘うとなれば手足や目玉ぐらいは犠牲に闘うものではないのか。ニュートが闇祓いを忌み嫌うのは、自分たちの知識や理解の範疇に収まらない生物を駆除しようとするからではなかったか。なぜグリンデルバルドにもっと立ち向かっていかないのか?映画的ご都合主義が見え隠れしていた。これは大きな減点材料だ。
総評
本シリーズは全5作で完結するとされている。であるならば、次作ではマクゴナガル先生の若い頃versionが登場してもおかしくない。個人的には、ハリポタ世界でスネイプ先生に次いで最も好きなキャラクターだ。ダンブルドアがストーリーに絡んできたからには、彼女の登場も期待される。作品としてはもう一つだが、Wizarding Worldの広大さを感じられるという意味では及第点。