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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 凛 りん 』 -青春ものとしては及第点、ミステリ要素は落第点-

Posted on 2019年3月9日2020年1月10日 by cool-jupiter

凛 りん 30点
2019年3月3日 イオンシネマ京都桂川にて鑑賞
出演:佐野勇斗 本郷奏多
監督:池田克彦

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190309024301j:plain

『 火花 』はそれなりに面白い私小説であり、映画であった。又吉本人は心外に思うだろうが、あれはどう見ても私小説である。エンターテインメントの本質はフィクションにある。小説家にしてJovianの兄弟子(と勝手に私淑させてもらっている)奥泉光もそのような趣旨の発言をたびたびしている。あらすじだけ読んで、又吉の作家、クリエイターとしての本領を味わえると直感した。しかし、期待した分だけ、落胆も大きかった。

 

あらすじ

北関東の田舎で小さな子どもが消えた。同じ地方の高校で、野田耕太(佐野勇斗)は仲間たちとお気楽に暮らしていた。何者も何事も永続はしない。それが彼の信条だった。そこに東京からの転校生、天童義男(本郷奏多)がやってきた。寡黙な彼は周囲になじめなかったが、野田のグループは彼を温かく迎え入れる。彼らは次第に打ち解けていくが、ある時、町で二人目の子どもが消えた。人々はそれを「100年に一度起こる神隠し」の再発であると考えるようになり、天童が疑われるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

意外なほどにメッセージ性を持っている。母子家庭、一昔前の言葉で言えば欠損家庭に生きる主人公。そして、それぞれ家族や家庭に問題を抱える親友たち。(邦画において)キラキラまばゆいものとして描かれることの多い高校生活と仲間たちとの友情を、永続しないものと最初から諦観して受け入れている(かのように見える)主人公。環境面の設定だけ見れば、これまでに1万回は観てきたような作品だが、これほど各キャラクターが闇を抱えている作品というのは、湊かなえの『 告白 』、『白ゆき姫殺人事件 』、そして『 チワワちゃん 』ぐらいだろうか。このような緊張感ある設定は歓迎したい。何故なら、友情の美しさを無条件に肯定するような作品はこれまでにうんざりするほど量産されてきたからだ。

本郷奏多と千葉雄大は、どのように若々しさを保っているのかを個人的に尋ねてみたいと常々思ってきた。土屋太鳳が女子高生役を演じるたびにブーイングが巻き起こるが、本郷に対してそのようなリアクションは全く出てこない。彼の fountain of youth は何なのだろうか。もちろん、肌が白いから褒めているのではなく、ニヒリストに見えても、内面に熱くドロドロとしたものを持っていることが、言葉の端々から感じられるような複雑な、一筋縄ではいかないようなキャラクターを上手く表現できているからこその称賛である。

本作は『 グーニーズ 』のような友情もの、冒険ものとして味わうべきである。そうすれば、それなりに楽しめる。というか、楽しむにはそれしかないとでも言おうか・・・

 

ネガティブ・サイド

ポジティブと裏腹だが、本作の持つメッセージ性がそのまま弱点にもなっている。一体、話の軸足をどこに置きたいのだろうか。主人公たちの高校生とは思えないニヒリズム?それと対称を為すような友情の永続性への確信?それとも神隠しのミステリ?これらすべてが互いに干渉することなく成立していれば、それは脚本と監督の卓越した手腕によるものだ。しかし、これらの要素がどれも底浅く、互いが互いを一切補完しないのであれば、メッセージ性を詰め込み過ぎて失敗した作品と評価されても仕方がないだろう。

具体的には、主人公の耕太のキャラクターが首尾一貫していない。特に天童に対しての接し方に一貫性を欠いている。特に親友の一人への接し方と比較してみると、不自然さが際立つ。冒頭で語られるような、ややニヒリスティックな哲学ゆえのことであれば、天童に対して疑惑や怒りを向けるのであれば、もう一人の親友に対しても同様の態度を取れと思う。また、東京行きに興味は無いし、地元で普通の職に就くと常々語るのなら、なぜ東京から来た女性に胸キュンするのか。いや、恋というのは気が付いたら落ちているものだから、そこは目をつぶれる。しかし、それは幼馴染の女子を無下に扱う理由にはならない。そして、そのような態度こそが、天童を東京の高校から転校せしめたある事情と見事な相似形をなしている。つまり、耕太の天童への怒りは滑稽至極なものとして映らざるを得ない。キャラがぶれまくっているのだ。

問題があるのはキャラクター造形だけではない。誘拐の真相もだ。ここでいう真相とは、神隠しの真相である。というか、横溝正史の『 八つ墓村 』に言及するまでもなく、田舎というのは人間関係が良くも悪くも濃密である。だからこそ、他人の家の複雑な事情なども簡単に周囲にシェアされるし、転校生は既存の人間関係の輪になかなか溶け込めない。そうした中で何らかの犯罪が行われれば、それによって誰がどのような利得を上げるのかがすぐに明らかになってしまう。つまり、地元民の犯行であれば、すぐに露見するのである。

また100年に一度の神隠しというのも笑止千万である。日本のどこを探しても100年毎に○○が起きるなどという伝承はないのである。理由は考えるまでもない。100年に一度の何某かの現象が法則性を帯びると考えられるには、少なく見積もっても300~400年は必要である。問題は誰がそれを語り継ぐのか、あるいは記録に残すのかである。もしも貴方の住む地域に何らかの伝承があれば、それは誰かが人為的にごく最近作ったものだと思ってよい。まさに『 八つ墓村 』である。

神隠しの真相も噴飯ものである。というか、真相など無い。こんな結末など許してよいものか。ミステリの賞に応募すれば、編集者が原稿を破り捨てること請け合いである。とにかく物語の核心がどこにあるのか分からず、またミステリ要素についても、特に驚かされるものがあるわけでもない。又吉に書けるのは、やはり私小説だけなのだろうか。

 

総評

『 ミステリーを科学したら 』の由良三郎先生が本作を鑑賞したら、何と言うだろうか。あるいは綾辻行人あたりなら、何と評すだろうか。確かなのは、彼は決して本作を褒めないだろうということだ。映像作品としても光るところに乏しい。佐野ファン、または本郷ファン、または又吉ファンでなければ、敢えて観るまでもない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ミステリ, 佐野勇斗, 日本, 本郷奏多, 監督:池田克彦, 配給会社:KATSU-doLeave a Comment on 『 凛 りん 』 -青春ものとしては及第点、ミステリ要素は落第点-

『 パズル 』 -シチュエーション・スリラーの駄作-

Posted on 2019年2月26日2019年12月23日 by cool-jupiter

パズル 20点
2019年2月20日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マーシエン・ドワイヤー  マット・デラピーナ
監督:プレストン・デフランシス

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TSUTAYAで何故か新作料金で借りてしまった。カバー、そしてあらすじだけでゴミ作品と分かったが、Sometimes I’m in the mood for garbage.

 

あらすじ

アレックス(マーシエン・ドワイヤー)は恋人のネイサン(マット・デラピーナ)と共に切り裂きキャンプ(Slasher Sleepout)という野外キャンプ、お化け屋敷、脱出ゲームを組み合わせたようなイベントに参加する。集まったのは個性的な男女6名。イベントをこなしていく彼らは、しかし、メンバーの一人が殺されてしまったことで混乱に陥る。アレックスとネイサンは果たして生き延びられるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

原題は“Ruin me”である。「私を壊して」とでも訳すのだろうか、しかし、素直に訳してしまうと、おそらく誰も手に取らないタイトルであろうし、上述したような Slasher Sleepout というのは非常に訳しにくい言葉である。『 切り裂きキャンプの悪夢 』などと、エルム街をパロったようなタイトルをつけてもダメであろう。様々な要素を一気に表す言葉として「パズル」はギリギリセーフの邦題であると評価したい。

 

そうそう、謎解きシーンでは「面白いな」と感じるシーンが一か所あった。英語と日本語の最大の違いの一つは、前者は文字と音が必ずしも一致しないことで、後者は文字と音が見事に一致するということである。この英語の特徴を活かした謎解きがあって、個人的には膝を打った。

 

ネガティブ・サイド

まず、DVDカバーのようなモンスター的なキャラは出てこない。看板に偽りありだ。普通にslasherと聞けば、『 13日の金曜日 』のジェイソンのようなモンスターか、『 ハロウィーン 』のマイク・マイヤーズ、または『 悪魔のいけにえ 』のレザーフェイスのような殺人鬼を想像するが、本作に出てくるslasherは実に小物だ。別にそれはいい。だが、このようなカバーで釣るのは犯罪的ではないか。

 

本作はマイケル・ダグラス主演の『 ゲーム 』とブライアン・デ・パルマ監督の『 キャリー 』を無造作に組み合わせて、そこかしこにシチュエーション・スリラーの要素を散りばめた、『 キャビン 』になろうとしてなれなかった粗悪品である。特に夜の森のシーンは、めちゃくちゃ暗いシーンと不必要なまでに明るいシーンが混在し、観る者の目を惑わす。勘弁してくれ。

 

キャラの変貌ぶりについても、本来はホラー映画ではない『 シンクロナイズドモンスター 』のジェイソン・サダイキスの方が遥かに怖かった。さらに一部の芸能リポーターが騒いだ有安杏果関連のニュースを事前にチェックして本作を見れば、更にしらけること請け合いである。

 

総評

見つけたら借りるな、借りても観るな。それが本作への評価である。しかし、今をときめく監督や、撮影監督、脚本家や役者連中も、メジャー作品を手掛けることができるようになるまでは、このようなクソ作品で腕を磨いてきたのだ。もしもあなたが、完成されたボクサーよりも未完の粗削りなボクサーの方が好きだ、という香川照之のような熱病的思考法の持ち主ならば、どうしても他にすることが無いという時にだけ観るのもありかもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, アメリカ, ホラー, マーシエン・ドワイヤー, マット・デラピーナ, 監督:プレストン・デフランシスLeave a Comment on 『 パズル 』 -シチュエーション・スリラーの駄作-

『 雪の華 』 -映像美だけは及第点-

Posted on 2019年2月19日2019年12月22日 by cool-jupiter

雪の華 35点
2019年2月11日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:中条あやみ 登坂広臣 
監督:橋本光二郎

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190219024702j:plain

『 羊と鋼の森 』の橋本光二郎監督ということで期待をしていた。期待は禁物なのだが、それでも期待するのが人の性。そして、その期待は少し裏切られてしまった。元々は10年以上前の中島美嘉の楽曲にインスパイアされたようだが、確かに当時はテレビでもカラオケボックスでも『 雪の華 』が流れまくっていたのを覚えている。

 

あらすじ 

平井美雪(中条あやみ)は小さな頃から病弱で、医師からは遂に余命一年を宣告されてしまう。失意の美雪はひったくりに遭うも、綿引悠輔(登坂広臣)に荷物を取り戻してもらう。雄輔は美雪に、「声を出していけ」と激励して去っていく。ある日、街で偶然雄輔を見かけた美雪は、雄輔の勤めるカフェにまでついて行き、そこで100万円で一カ月だけ自分の恋人になって欲しいとお願いするが・・・

 

ポジティブ・サイド

アメリカ、カナダ、オーストラリア、英国、韓国、中国、メキシコ、エジプト、インド、スペインなどではなく、フィンランドにフォーカスした作品とは本邦初ではないだろうか。知人の話では冬のフィンランドは朝の9時頃からようやく明るくなり、昼の3時過ぎを回ったあたりから薄暗くなり始めるということだった。しかし、本作は夏のフィンランドと冬のフィンランド、両方をしっかりと収めてくれる。ただ収録は夏と冬に分けて行ったわけではないと思われる。フィンランドの工芸品、街並み、ホテル、景観そして旅情ある景色を味わわせてくれる、非常に貴重な映画である。そして本作の価値およびオリジナリティはそこまでであった。

 

ネガティブ・サイド

主役二人の芝居のクオリティが低い。もちろん、素人っぽさというか普通の人がちょっとした偶然から付き合うようになり、ドラマチックな関係を育んでいく過程を映し出したいというのは理解できる。しかし中条あやみの演技が端的に言ってキモイ。恋に恋する乙女を演じているのは理解できるが、ラノベのキャラクターではあるまいし、初心でありながらも百戦錬磨的な雰囲気を出しているのは何故なのだ。たとえば幼少の頃から病弱で、小説や文学の世界に没頭していたり、または映画や少女漫画の世界に憧れていたり、という描写があれば、まだ理解できる。しかし、そうしたキャラクターのバックグラウンドを特に描くことなく、「お兄ちゃんを私に取られたと思って、嫉妬してる?」などと言うのは、唐突過ぎる。その一方で、フィンランドのホテルで部屋が一室しかないというところで慌てふためいたり、そうかと思えば部屋に一人籠りながら、期するところありげにドアの方に振り返るなど、キャラクター属性に一貫性を欠いている。

 

ここからは少しネタばれ気味であるが、ネタばれではあっても、大したものではないと判断できるのであえて書く。Jovianは冬のフィンランドに行ったことはまだないが、それでも終盤の展開が荒唐無稽であることは分かる。地元の人が「そんな服装じゃ無理だ」というのに、雪降りしきる森林そして雪原を日本のちょっと寒い日ぐらいの服装で駆け抜けていく悠輔の姿は決して感動的なものではない。滑稽を通り越してお粗末でさえある。日本映画に特有の「主役級のキャラクターが駆けていくのを横から追いかけていくショット」にはうんざりである。これまでに唯一、こうしたショットで意味を見出せたのは『ちはやふる -下の句- 』で千早が学校のグラウンドを遠景に走り出すシーンぐらい。競技かるたを個人競技と見誤ってしまった千早が、サッカーや野球の練習をする生徒達を背景に走るシーンは、仲間の元へと帰ろうとする千早の内面の心象風景と合致していた。このように意味のあるショットは認める。しかし、ただ単にそれがよく使われている手法だからといって採用するのならば、単なるクリシェの拡大再生産をしているに過ぎない。橋本監督には期待するところ大なのである。次作での奮起を期待したい。

 

総評

中条あやみファンなら観よう。しかし、彼女の今後の成長の伸び代に関しては、あまり良い感触は得られないだろう。なにか一つ、殻を破る役をオーディションに出まくってでも掴みとって欲しい。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ロマンス, 中条あやみ, 日本, 登坂広臣, 監督:橋本光二郎, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 雪の華 』 -映像美だけは及第点-

『 十二人の死にたい子どもたち 』 -真新しさに欠ける子供騙し映画-

Posted on 2019年2月3日2019年12月21日 by cool-jupiter

十二人の死にたい子どもたち 35点
2019年1月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:新田真剣佑 北村匠海 高杉真宙 萩原利久
監督:堤幸彦

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出演に男4人だけをリストしたのは、単純にスペースの問題であって、それ以上の意味もそれ以下の意味もない。本当は自分の好み的には萩原利久だけでもよかったのだが、それだけではアンバランスだなと感じただけのことに過ぎない。それにしても、堤幸彦監督というのは、良作と駄作を一定周期で生み出してくるお人である。本作はどちらか。残念ながら駄作であった。まさに文字通りの意味で子供騙しであった。

 

あらすじ

廃病院。集められた十二人の少年少女。皆、闇サイトの呼び掛けに応じ、集団自殺する為に集って来た。しかし、そこには十三人目が既に先着していた。物言わぬ死体として・・・

 

ポジティブ・サイド

期待の若手俳優をずらりと並べたのはインパクトがあった。Jovianは萩原利久を推しているので、彼の登場は素直に嬉しい。他にも杉作や北村など、確かな演技力、表現力を有するキャスティングは、タイトルの持つインパクトとの相乗効果で、多くの映画ファンを惹きつける。

 

劇中に何度もフォーカスされる謎めいた絵画やオブジェも興味深い。妊婦を想起させるだけではなく、♂と♀のマークの複合体、つまりは性行為を意識させるようなデザインでもあり、デストルドーに衝き動かされる子どもたちの奥底に眠るリビドーを模しているかのようでもある。これからご覧になる方々は、これらの絵や像のショットがどういう場面で挿入されてくるかに是非注意を払って見て欲しい。

 

ネガティブ・サイド

端的に言ってしまえば、どこかで観た、もしくは読んだ作品のパッチワークである。タイトルから『十二人の怒れる男 』を思い起こした方は相当数いることは間違いないし、あらすじを読んで、または予告編を見て『 11人いる! 』や『 ソウ 』の影響を受けた作品なのだなという印象を持った人も多いだろう。あるいはmislead目的としか思えない「死にたい」連発のトレイラーを見て、『 インシテミル 7日間のデス・ゲーム 』や『 JUDGE ジャッジ 』の類のデスゲームなのかと勘違いさせられた人も一定数いただろうことは想像に難くない。原作者が冲方丁だと知って、意外に感じた向きも多かったのではないだろうか。Jovianはてっきり、米澤 穂信か土橋真二郎の小説が原作なのだと思い込んでいた。何が言いたいかと言うと、オリジナリティに欠けるわけである。

 

本作をジャンル分けするならば、シチュエーション・スリラー風味のミステリ兼ジュブナイル映画ということになるだろうか。だが、ミステリとして鑑賞させてもらうと、粗ばかりが目立って仕方がない。あまりにもご都合主義に満ちているのだ。堤監督は明らかに『 イニシエーション・ラブ 』を意識した画作りおよび演出を施したシークエンスを用意してくれているが、説得力が全く違う。まさに月とすっぽんだ。それはもちろん、『 イニシエーション・ラブ 』が月で、本作がすっぽんという意味である。あれを見せられて、「ははあ、なるほど、そうなっていたのか」と膝を打つ人がいるのだろうか。

 

とにかく論理的に破綻している、または都合が良すぎる点を指摘してしまうときりがない。なので、ひとつだけ余りにも間抜けすぎる台詞を紹介しておきたい。廃病院前に軽トラが止まったのを見て「なんで?!改修工事はまだ先のはずよ?」とは・・・ どこからどう見ても積み荷ゼロの軽トラック一台にそこまで焦る必要があるのは何故だ。某人物が廃病院に来るまでに使った車いす対応タクシーの運転手が警察に通報するという可能性は考慮しなかったのだろうか。

 

総評

はっきり言って面白くない。ミステリとしてもスリラーとしてもサスペンスとしても、中途半端すぎる。キャスティングに魅力を感じるのであれば鑑賞も可だろう。しかし、ちょっと面白そうだから観てみるかという気持ちで劇場に行くと、ガッカリさせられる可能性が高いだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ミステリ, 北村匠海, 新田真剣佑, 日本, 監督:堤幸彦, 萩原利久, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 高杉真宙Leave a Comment on 『 十二人の死にたい子どもたち 』 -真新しさに欠ける子供騙し映画-

『 グリンチ(2018) 』 -深みと奥行きを欠いた絵本の忠実なアニメ化-

Posted on 2018年12月29日2019年12月7日 by cool-jupiter

グリンチ 30点
2018年12月23日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ベネディクト・カンバーバッチ
監督:スコット・モシャー ヤーロウ・チェイニー

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Dr. Seussの絵本“How The Grinch Stole Christmas!”を原作とするアニメ映画で、ジム・キャリー主演で実写映画化された『 グリンチ(2000) 』をIllumination Entertainmentがアニメ化したものである。同僚のイングランド人1人とアメリカ人2人に尋ねたところ、Dr. Seussは作家としてかなり有名人で、グリンチというキャラクターも、バットマンやスーパーマン並みに知名度があるという。そのグリンチというキャラクターの魅力を本作は十二分に引き出せたか?様々な見方があろうが、個人的には否定的である。

 

あらすじ

フー達の村、フーヴィルではもうすぐクリスマス。人々の心は浮き立ち始める。しかし、村はずれの山の頂近くには、グリンチが住んでいた。彼はクリスマスが心底嫌いだった。一方で、フーの少女シンディ・ルーはクリスマスを前にある計画を胸に秘めていた・・・

 

ポジティブ・サイド

 

この美麗なCGはどうだ。さすがにUniversal Studios系列の会社だけあって、日本のアニメ映画スタジオとは基礎体力=予算が違う。これだけのCGを作成するだけの予算の、おそらく十分の一でもあれば、『 GODZILLA 星を喰う者 』のギドラもよりアクティブに動かせたであろうし、モスラも影だけでの登場ということにならなかったはずだ。先立つ物はカネである。そしてカネがあれば美麗な映像を作ることができる。個人的にはジブリのような手描きのアニメーションの方が味わい深いと感じられるが、こと美麗であること、eye-catchingであることにおいてはビッグ・バジェットの映画にはかなわない。

 

ダニー・エルフマンの音楽も素晴らしい。この人は『 ダーク・シャドウ 』や『 フランケンウィニー 』など、ちょっとおかしいキャラや独特すぎる世界観を表現させればピカイチである。劇中の“YOU’RE A MEAN ONE, MR. GRINCH”とエンドロールの“I am the Grinch”は特に強く印象に残る。グリンチのテーマソングとして両曲とも及第点以上の出来である。

 

そして愛犬マックスの活躍。ペットモデルというのは確かに産業としてもビジネスとしても成立しているが、動物を思うがままに動かすのは実写では難しい。しかしアニメならば容易い。そのことを製作者は十分に理解しているため、本作のマックスの存在感の大きさ、その活躍は実写版を大きく上回る。というか、このマックスは一家に一頭欲しい。

 

残念ながら、賞賛に値するのはここまでであった。

 

ネガティブ・サイド 

まず、シンディ・ルーのキャラクターが極端に変わり過ぎている。もちろん、児童文学も一定の普遍性を有しているし、逆に時代の要請に応えて柔軟に読み変えていくという仕事も必要である。しかし、無邪気な幼児または赤ん坊であるはずのシンディ・ルーが、腹に一物抱えたようなガキンチョになって、子どもたちを相手に一人前の友情論をぶつような頭でっかちに描かれているのは何故なのだろうか。はっきり言って、このシンディ・ルーは可愛くない。実写版では、フーヴィルの法典を盾にあれやこれやの理屈をつける町長を、無邪気で素直な質問を投げかけることで著しく狼狽させたシンディ・ルーであったからこそ、村人たちもグリンチを排除することはおかしいという空気に(あまりにも無邪気に)染まれたのである。そうした描写がないことが、本作のグリンチとフーヴィルの関係を非常にあやふやにし、それゆえにグリンチがクリスマスを憎み、それを盗んでやろうと思い立つところに一切共感できないのである。

 

可愛くないのはシンディ・ルーだけではない。グリンチも同様である。原作の絵本にはなく、ジム・キャリー版の実写映画が補足したグリンチの幼少時代の描写を一切省いてしまったのは何故なのだ。予告編や販促物では、ちびグリンチを散々露出させ、「この後、どんどんひねくれる」と煽っておきながら、そのちびグリンチの描写がないとはこれ如何に。実写版が生々しくも描き出した、幼少グリンチのトラウマは、観る者にグリンチの孤独とねじくれてしまった精神構造を納得させるに足るものであった。それがあるが故にグリンチの精神に、文字通りに大きな変化が起こるということが逆説的にではあるが、分かり易く受け入れることができるのだ。原作絵本ではグリンチは困惑すること3時間、ようやくクリスマスはリボンや包みや箱と一緒にやって来るものではないと気付くのだが、本作のグリンチは回心が早すぎる。これではグリンチの物語ではなく、シンディ・ルーの物語ではないか。時代に合わせて柔軟に解釈を変えていくことは文学上の重要な仕事として見なされうるが、英語圏では super famous なグリンチというキャラクターに関して、これではリスペクトが無さ過ぎる。

 

総評

これは古典的名作のアニメ化ではない。昨今のクリエイターが、無難に生み出したお涙ちょうだい物語の文法をなぞっただけの底浅い作品である。小学校高学年ぐらいまでならそれなりに楽しめるのかもしれないが、それ以上の年齢層には実写版を見せてあげるべし。高校生以上で、英語力には少し自信があるという人は、ここにオリジナル絵本のPDFがあるので、是非そちらも参照してみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, アニメ, アメリカ, コメディ, ベネディクト・カンバーバッチ, 監督:スコット・モシャー, 監督:ヤーロウ・チェイニー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 グリンチ(2018) 』 -深みと奥行きを欠いた絵本の忠実なアニメ化-

『 来る 』 -新たなジャパネスク・ホラーの珍品誕生-

Posted on 2018年12月19日2019年11月30日 by cool-jupiter

来る 35点
2018年12月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:岡田准一 黒木華 小松菜奈 松たか子 妻夫木聡 柴田理恵
監督:中島哲也

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原作は小説『 ぼぎわんが、来る 』で、こちらはまあまあ面白い。『 リング 』の貞子より怖いと評す向きもあったが、恐怖を感じる度合いは人それぞれであろう。しかし、小説、そして映画としての怖さと面白さは『 リング 』の圧勝である。本作は映画化に際して原作の持つメッセージをかなり削ぎ落としてしまっている。そのことが残念ながら裏目に出た、残念な映画化作品である。

 

あらすじ

田原秀樹(妻夫木聡)は妻、香奈(黒木華)と幸せな結婚生活を送っていた。そして香奈が妊娠。秀樹は理想的な父親となるべく努力を始めるが、周囲では怪異が起こり始める。不安を覚えた秀樹は友人の伝手からジャーナリストの野崎(岡田准一)を紹介してもらい、そこから霊感の強い真琴(小松菜奈)を紹介してもらうも、事態は好転せず・・・

 

ポジティブ・サイド

本作の最大の見どころは2つ。1つは小松菜奈の露出である。美脚やへそを遠慮なく披露し、入浴シーンのおまけつき。『 恋は雨上がりのように 』でも、艶のある表情、そして姿態・・・ではなく肢体を見せてくれたが、有村架純の次にラブシーンを解禁してくれるのは、小松で決まりか。

 

もう1つは、黒木華のベッドシーン。これまでもいくつかラブシーンはあったが、今回は一味違う。といっても露出具合とかそういう話ではない。女性性ではなく、動物性を感じさせるような演技。理性ではなく本能の赴くままに抱き合う様はよりいっそう官能的だった。

 

と手放しで褒められるのはここまで。もちろん、妻夫木聡の高レベルで安定した演技力や、そのキャラクターに知らず自身を重ね合わせて見ることで慄然とさせられる男性映画ファンは多かろう。しかし、それが映画の面白さにつながっているかというとそうではない。それが惜しい。そうそう、柴田理恵も良い味を出している。はっきり言ってギャグとホラーの境目を頻繁に行ったり来たりする本作の中で最も象徴的なキャラにして、最も振れ幅が大きいキャラを演じ切ったのはお見事。彼女のシリアス演技だけで笑いながら震えてしまった。

 

ネガティブ・サイド

まず、原作の三部作構成および語り手=人称=視点の変更というアイデアを中途半端に取り込んだのが、そもそも間違いだった。取り入れるなら全て取り入れる。映画的に翻案するなら、すべて映画文法に従わせる。そのどちらかのポリシーを選んで、貫くべきであった。同じように、視点があちこちに移動する小説を原作とする映画に『 白ゆき姫殺人事件 』がある。こちらは原作のテイストを維持しながらも、Twitterのツイートを終盤に一挙に爆発させるという手法を取ることで、映画的なカタルシスを倍増させることに成功した。このように、何か新しいアイデアがあるのでなければ、原作にとことん忠実になるか、もしくは原作をとことん映画的に料理してしまうべきだ。中途半端は良くない。この批評は原作既読者ならばお分かり頂けよう。

 

秀樹のパートは妻夫木聡の卓越した演技力もあり、一見して理想的な夫そして父に透けて見える厭らしさ、あざとさ、狡猾さ、弱さ、狡さなどの負の要素が観る者に特にショックを与える。それは妻役を演じた黒木華にしても同じで、口角をゆっくりを上げながらニヤリと笑うその顔に震え上がった男性諸氏は多かっただろうと推測する。しかし、こうした裏のあるキャラたちが物語の序盤にあまりにも生き生きと描かれるためか、主役であるはずの岡田准一演じる野崎のキャラが全く立たない。もちろん、彼には彼なりのストーリー・アークがあるのだが、そのインパクトが非常に弱い。男が水子の霊に苛まされるというのは新しいと言えば新しいが、その恐怖をもっと効果的に描く方法はあったはずだ。例えば、あり得たはずの美しい家庭、そして家族のビジョンをほんの十数秒で良いので映すだけでも、その喪失感と絶望感、後悔、苦悩などが描けたのではなかったか。あるいは撮影はしたものの、尺や演出の関係でカットしてしまったのか。観客が対象に対して感じる恐怖というのは、観客がキャラと一体化してこそ効果的に感じられる。ある意味で世捨て人になってしまっている野崎ではなく、平凡な、しかしありふれた幸せを享受する野崎を想像させてこその恐怖ではなかろうか。

 

クライマックスはほとんどカオスである。壮大なセットを組み、日本中から除霊の腕っこきを集めるのだが、ギャグと見まがうシーンとシリアスな描写とが入り混じるのには、苦笑を禁じ得なかった。優れた原作小説を調理する方法が分からない中島監督が、自身の混乱と嗜好の分裂をそのまま映像で表現したのかと考えさせられるぐらい、統一感に欠けるクライマックスが展開される。これを怖いと思う人は、恐怖の閾値があまりにも低い。全体を通じてペースが悪く、ぼぎわんという怪異の存在に対する恐怖を登場人物たちが描き切れていない。そのため、それを見物する我々観客に恐怖がなかなか伝わらない。ホラー映画なのに、さっぱり怖くないのだ。これは致命的であろう。

 

総評

はっきり言ってキャスティングの無駄遣い。脚本段階のミスで、大物の俳優らが出てくるのが遅すぎるし、原作にあった“視点の変更”というアイデアも、視覚言語たる映画にうまく換骨奪胎できなかった点が、兎にも角にも悔やまれる。キャスティングに魅力を感じる人ほど、観終わった後に徒労感を抱くだろう。同工異曲の満足感=ホラーを求めるなら『 不安の種 』のオチョナンさんの方がお勧めである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ホラー, 妻夫木聡, 小松菜奈, 岡田准一, 日本, 松たか子, 監督:中島哲也, 配給会社:東宝, 黒木華Leave a Comment on 『 来る 』 -新たなジャパネスク・ホラーの珍品誕生-

『 プラネタリウム 』 -アウトサイダーの悲哀を描いた凡作-

Posted on 2018年11月18日2019年11月22日 by cool-jupiter

プラネタリウム 30点
2018年11月13日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン リリー=ローズ・デップ エマニュエル・サランジェ
監督:レベッカ・ズロトブスキ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181118020552j:plain

降霊術の歴史は長い。科学の発達と共に霊の領域はどんどんと狭められていっているが、日本でも30歳以上の年齢なら、こっくりさんについて聞いたことがあるはずだし、実際にやってみた人もいるだろう。霊とは、それが無くなった肉親の霊であろうと、見も知らぬ他人の霊であろうと、常に好奇の対象である。しかし、霊とは同時に現世から疎外された者でもある。そして、疎外は生者と死者を分けるだけではなく、生者と生者の間でも起きる事象である。

 

あらすじ

ローラ(ナタリー・ポートマン)とケイト(リリー=ローズ・デップ)のアメリカ人姉妹は、パリで死者を呼び寄せる降霊術を行い、日銭を得ていた。ある時、映画会社役員のコルベン(エマニュエル・サランジェ)は二人の降霊術に感銘を受け、自分でもそれを体験したいと言いだした。二人の呼ぶ霊との交流に感激したコルベンは、姉妹の力を使って映画を撮影しようと考える。時あたかも第二次大戦前夜。異邦人にとっては忍従の時代だった・・・

 

ポジティブ・サイド

ナタリー・ポートマンの美貌とリリー=ローズ・デップの爛熳さについてはくどくどとのべつ必要性は無い。Their blossoming beauty and innocence speak for themselves. である。それ以上にエマニュエル・サランジェの存在感が際立つ。目は口ほどにものを言うというのは往々にして事実(Maybe your smile can lie, but your eyes would give you away in a second.)であるが、それを演技で表現できる役者は存外に少ないのではないか。サランジェはそれができる俳優だ。パリジャン然とした伊達男ばかりがフランスの俳優ではないということを見せつける様は、清々しくもある。本作を観る人の半分以上はナタリー・ポートマンの熱心なファンであろうが、こうした未知のタレントとの出会いがあれば、それだけで20点増しである。

 

ネガティブ・サイド

あまりにもストーリーに起伏がない。いや、姉妹の協力と成功、そこからの失敗と破局的な結末と上がり下がりはするのだが、それがあまりにも典型的というか、妹を霊媒師に設定する意味は特になかった。というか、科学の力で霊の存在を証明するというプロットは、現代人たる我々の目から見て、意義あるものではない。なぜなら科学の発展は世界の神秘の数々を解き明かしていくほどに、科学で説明できないものはストレートにそのまま信じるべし、という信念の持ち主も増加しつつあるからだ。そこまで極端な考えをしないまでも、天文学者や物理学者には無神論はほとんどいないと言われている。1930年代を舞台にすることで、科学的に霊を証明しようとする試みが逆に陳腐化してしまった感は否めない。

 

また、ビジネスの世界を描く必要もあったのだろうか。リュミエール兄弟が産み育てたフランスを舞台にするのだから、あくまで映画という文化・芸術・科学という媒体で姉妹の力と秘密に迫っていくようなプロットで良かった。ただでさえ戦争勃発前の陰鬱な時代に金勘定やら役員の追放やらを見ても感動も興奮もしない。ただ溜息が出るだけである。

 

本作は establishing shot の段階で結末が見えているとも言える。タイトルがプラネタリウムなのだから、汽車が疾走する平原の頭上に広がる無窮の星空がプラネタリウムであることが何を暗示、いや明示するのかを観る者はあまりにもあっさりと悟ってしまう。映画の基本的な文法、技法に則ったものとは言えるが、それが面白さを増すことに資するのかというと甚だ疑問であった。

 

総評

なにやら軸の定まらない映画である。その場に属すことのできないアウトサイダーの悲哀を描き出したいのは分かるが、様々な要素を盛り込もうと欲張ったせいで、何もかもが中途半端になってしまった残念な作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, エマニュエル・サランジェ, スリラー, ナタリー・ポートマン, フランス, ベルギー, ミステリ, リリー=ローズ・デップ, 監督:レベッカ・ズロトブスキ, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 プラネタリウム 』 -アウトサイダーの悲哀を描いた凡作-

『ビブリア古書堂の事件手帖 』 -シリーズ化を狙うなら、監督と脚本の交代が必須-

Posted on 2018年11月8日2019年11月22日 by cool-jupiter

ビブリア古書堂の事件手帖 30点
2018年11月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:黒木華 野村周平 成田凌 夏帆 東出昌大
監督:三島有紀子

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『 幼な子われらに生まれ 』の三島有紀子監督作品ということで期待をしていたが、裏切られた。はっきり言って、脚本の時点で失敗作になると予見できていなければおかしい。何か監督オファーを断れない事情でもあったのか。それとも自ら手を上げたものの、スタジオからこの脚本を使うように圧力があったとでも言うのだろうか。

 

あらすじ

五浦大輔(野村周平)は祖母の遺品整理をしている最中に、夏目漱石直筆の署名入りと思しき『 それから 』を見つける。それは、彼が小さな頃に手に取ったことで、祖母の勘気を被り、二発も殴られたきっかけになった本だった。鑑定のためにビブリア古書堂を訪れた大輔は、若き女店主・篠川栞子(黒木華)に出会う。物静かで陰に籠った感のある栞子はしかし、本については並々ならぬ知識と愛着を持っていた・・・

 

ポジティブ・サイド

黒木華は称えねばならない。楚々として、そこはかとない色気を感じさせながらも、どこか無防備で、だからこそ守ってあげたいと思わせる原作の雰囲気が醸し出せていた。ボソボソと話はするが、決して訥々とは語らず、社交面に弱点を抱えているものの、頭脳の明晰さは随一というキャラであることを演技で証明した。

 

また、大輔の祖母の若い頃を演じた夏帆。『 ピンクとグレー 』あたりから本格的にベッドシーンもこなし、『 友罪 』ではAVやレイプシーンにも取り組むなど、役者としての成長と充実を感じさせる。桜井ユキもそうだが、ラブシーンをこなせる女優には敬意を払わねばならない。次は広瀬アリスあたりかな?

 

ネガティブ・サイド

あまりにも原作各話の扱いに差がありすぎる。三島監督は原作を読まなかったのだろうか。いや、そんなことはあるまい。原作小説のみならず、必要とあらば漫画やテレビドラマ版(剛力は論外、演技力云々ではなく似ていない。オールデン・エアエンライクとハリソン・フォードの似ていなさ加減よりも、篠川栞子と剛力彩芽の似ていなさ加減の方が遥かに大きい)ですらチェックしているはずだ。

 

栞子の博識っぷりを引き出すためには、彼女の本に対する知識を様々な角度から様々な方法で描写する必要がある。通常の2D映画では不可能だが、嗅覚を使うシーンは面白いと思った。が、そのことをもう少し明示的に示す必要もあった。本シリーズの面白さは、栞子は本にとってのシャーロック・ホームズもしくはハンニバル・レクター博士か、とこちらに思わせるだけの静かな迫力にある。決して、カーチェイスやアクションにあるのではない。そのアクションでも大輔に見せ場は無し。というよりも、あのタイミングでこうした事件が起きるなら、犯人は必然的にこいつしかあり得ない、という論理的な思考ができないのか。そもそも警察が存在しない alternate reality での物語なのか、これは?

 

総評

黒木華と夏帆以外に見るべきものが無かった。そんなところでそんな映像美を演出する意味があるのか?というシーンも多く、キャラクターだけではなく映画製作者側の意図や行動原理も不明なところが多い。黒木と夏帆のファン以外には正直、鑑賞はきついだろう。どこか嫌な予感がしたので無料鑑賞クーポンを発行したが、その勘は正しかった。鑑賞する場合にはモーニング・ショーか、レイト・ショーで。正規のチケット代は払うべきではない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ミステリ, 夏帆, 成田凌, 日本, 東出昌大, 監督:三島有紀子, 配給会社:20世紀フォックス映画, 配給会社:KADOKAWA, 野村周平, 黒木華Leave a Comment on 『ビブリア古書堂の事件手帖 』 -シリーズ化を狙うなら、監督と脚本の交代が必須-

『 タイヨウのうた 』 -深夜ドラマのクオリティから脱却できていない残念な作品-

Posted on 2018年11月3日2019年11月21日 by cool-jupiter

タイヨウのうた 30点
2018年10月31日 レンタルDVD鑑賞
出演:YUI 塚本高史 麻木久仁子 岸谷五朗 通山愛里
監督:小泉徳宏

 

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『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』の元ネタである。近所のTSUTAYAがリコメンドしていたので借りてみたが、色々な意味で残念な作品であった。『 ちはやふる 』の脚本/監督を努めた小泉徳宏も、こういった作品を撮ることて腕を磨いていたと思うべきなのだろう。

 

あらすじ

太陽光アレルギーの薫は、いつも窓からバス停を眺めていた。そこに気になる男の子がいるからだ。夜に外出しては駅前で歌う薫(YUI)は、しかし、ひょんなことからいつも見ていた男子高校生の孝治(塚本高史)と出会い、パニックに。素っ頓狂な猛烈アピールをしてしまうのだが、そこを親友に制止されてしまう。しかし、薫と孝治の距離は確実に縮まっていく・・・

 

ポジティブ・サイド

岸谷五朗はアメリカ版のリメイクと比較しても、説得力のある父親像を描出できていた。言葉と行動が直結しているタイプ、直情型の親父で、だからこそ娘への愛情が時には大声であったり、大げさなアクションであったりという分かりやすい形で表出されていた。我が子が難病だからといって自分まで暗くなるまい。病気の娘にはできるだけ普通の形で接してやりたい。そうした気持ちをストレートに出す父親として良い味を出せていた。しかし、諸手を上げて褒められるのはそこまでで、後はことごとく後発のリメイクに軍配が上がる。

 

ネガティブ・サイド

酷評をさせてもらえるならば、これは映画ではない。ミュージック・ビデオだ。薫はキャラクターであって、YUIという歌手ではない。映画製作側にどのような思惑があったのかは邪推するしかないが、映画は歌手のプロモーションのために製作されているのではない。なぜ薫の歌を聴かせなければならないシーンで、スタジオ録りの歌のアフレコを聞かされなければならないのか。もちろん、YUIを見たくて本作を見る人も一定数存在することは確かだ。しかし、銀幕の中では本人ではなくキャラクターになってもらいたい。

 

更に指摘せねばならないことは、総じて役者の演技力が低いということ。特に薫の親友役の通山愛里は、高校の学芸会並みの棒読み演技を披露する。というよりも、脚本家の罪も重い。日本語のネイティブスピーカーが、「彼」とか「彼女」といった三人称を使うことがあるのかどうか、普通の頭で普通に考えてもらいたい。

 

さらにドラマ版にある程度、忠実であろうとした結果、存在感・・・というよりも存在意義の疑われるキャラクターも出てきた。その最たるものは母親、ついで孝治の悪友2人。リメイクはこれらをバッサリと切り捨ててしまうことで、かえってドラマ性を高めることに成功した。なぜなら家族の団らんシーンを削り、その分、ケイティ(=薫)とクイン(=美咲)のガールズ・トークに時間を割くことで、ケイティは卑屈でも何でもない、非常に少女らしい感性や思考の持ち主であることが強調されていた一方で、元祖の方では病気持ちの可哀そうな女の子として見られたくないという心理を示唆する場面がほぼゼロという有様。もちろん観る側としてはそこを想像できるわけだが、ドラマ的なノリであれもこれもと詰め込んだせいで、主役にとって、もしくは物語全体にとって不可欠な描写が削られては本末転倒だろう。Re・リメイクを期待したいが、10年後でも厳しいだろうなと思わざるを得ない。

 

最後に、物語後半のバス停のシーンで、影の向きが決定的におかしいシーンがある。なぜ人間の影の向きだけがその方向にその長さで伸びるのだ?と思わされるシーンが存在するのだ。もちろん、その反対方向に照明がいるからなのだが、編集時点で誰もこれに気がつかなかったのだろうか。本作はある意味、XPという悲劇的な病気のせいで、太陽光の有無、その強弱、向きなどに過敏にならざるを得ないのだ。それは登場人物にしても観客にしても同じ。にも関わらず、このような初歩的かつ致命的なミスを犯してしまっては・・・

 

総評

深夜ドラマのダイジェストだと思えば鑑賞に堪えないことはない。しかし、これ一作で原作の世界観を受け手に伝えられているかというと甚だ疑問が残る。本作を見たならば、その直後にアメリカ版リメイクも直後に観るべし。作品の優劣に関して、残念なコントラストが見出されるであろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, E Rank, YUI, ラブロマンス, 塚本高史, 岸谷五朗, 日本, 監督:小泉徳宏, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 タイヨウのうた 』 -深夜ドラマのクオリティから脱却できていない残念な作品-

『 あのコの、トリコ。 』 -漫画の技法を映画に持ち込むべからず-

Posted on 2018年10月14日2020年1月3日 by cool-jupiter

あのコの、トリコ。 20点
2018年10月11日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:吉沢亮
監督:宮脇亮

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全く立たないキャラクター、中学か高校の学芸会レベルの演技。あまりにもご都合主義過ぎるプロット展開などなど、誰が何をどのように作れば、これほどの駄作になるのか。調べてみると、映画の監督はこれが初という宮脇亮氏。テレビ番組作りと同じノリで映画を作ってしまったのだろうか。テレビ番組というのは、基本的には明るい部屋で、比較的小さな画面で、ご飯を食べたり、携帯やPCをいじったり、料理をしたりしながら観ることが多い。視聴者を画面にくぎ付けにするのではなく、ゆる~く、ライトに観られる。それがテレビの本質の一部である。対照的に、映画は真っ暗な空間で、大画面と大音響で、観客をスクリーンに吸い寄せるかのごとく美しい光と影のコントラストを映し出さねばらない。本作は映画であったのか。答えは残念ながら否である。

 

あらすじ

鈴木頼(吉沢亮)、立花雫(新木優子)、東條昴(杉野遥亮)の3人はいずれも役者を夢見る幼馴染。3人でオーディションを受けるものの、頼はいつも不合格。親の転勤でいつしか2人とも離れ離れに。しかし、ある時、雫がモデルとして雑誌に出ているのを目にし、心の奥底に燻っていた想いが蘇ってきた。雫のそばに行きたい。俳優になりたい。頼は上京し、雫と同じ学校に転入し、雫との再会を果たす。そして、何故か雫の付き人になってしまうのだが・・・

 

ポジティブ・サイド 

残念ながら、そのようなものは無かった・・・で、終わらせるのはあまりにも容易い。しかし、『 銀河英雄伝説 』でラインハルトがキルヒアイスを評したように「ゴミ溜めの中にも美点を見出す」ことも時には必要であろう。

 

強いて挙げれば、主演の吉沢と岸谷五朗の演技だけが及第点~合格点に近い。特に吉沢に関しては、冒頭の5分で主人公の頼の属性をナレーションに頼ることなく過不足なく演技だけで説明できていた。押しの弱さ、声の小ささ、やたらと広いパーソナル・スペース、猫背でトボトボと歩く様、LINEの他愛のないスタンプで心ときめかせてしまう初心さ、人と極力、目線を合わせようとしない=軽度の視線恐怖症の症状など、対人スキルの未熟さを一気に見せた。そして、そこがピークだった。

 

岸谷は、舞台・映画の監督役として、寡黙でいて妙な迫力を醸し出し、現場ではカリスマ性と統率力を併せ持つキャラクターを演じていた。今でも岸谷のベストパフォーマンスは『 月はどっちに出ている 』とテレビ映画の『最後のストライク~炎のストッパー・カープ津田恒美 』だと思っているが、本作は岸谷のキャリアの中ではトップ15に入るかもしれない。プロミスのCMの谷原章介のような服装、格好が以外にハマる。Jovianは岸谷の演技力や存在感を少し見誤っていたのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

こちらはもう何から挙げて、何で終わればいいのか分からない。何よりも雫役の新木優子、昴役の杉野遥亮ともに演技が下手すぎる。かろうじて棒読みではないというだけで、声の強弱のコントロール、抑揚の付け方、リズム、区切りなどなど、自主製作映画界に連れて行っても、演技偏差値は50前後ではなかろうか。それに表情についても、もっと研究し、鏡の前で練習すべきだ。それだけではもちろん不足で、演技指導者にきっちりフィードバックをもらう必要もある。雫に関しては劇中で二度、感情を吐露というか、一気に吐き出すシーンがあるのだが、その二つともが単にいつもより大きな声を出してみました、という演技。しかも表情に変化はほとんど無し。監督は何故これをOKテイクにしたのか。それとも何十通りと撮り切って、最もマシなものを編集でつなぎ合わせたのがコレだと言うのか。とうてい納得がいくものではない。実際にJovianが映画を観終わってトイレに向かう途中ですれ違った女子高生と思しき二人組は「新木優子、あかんわ。演技下手すぎ」「なー、ホンマに!」と実に忌憚のない感想を述べ合っていた。新木には1,800円の内、300円を返せと言いたい。

 

さらに輪をかけて酷いのが二人いる。一人は杉野遥亮だ。あまり率直に評すと批評ではなく攻撃になりそうなので止めておく、としか言えない。ただ、新木ともども、この程度の演技力で俳優、女優を演じ、トントン拍子に映画の世界の出世階段を昇っていくというのは、リアリティに欠ける。映画というのは、というよりも一般に娯楽とされるものの多く(それは小説であったり、ゲームであったり、遊園地やテーマパークのアトラクションであったりだ)は、リアリティを積み重ねて大きな幻想を作り上げるというコンセプトで成り立っている。その最大の媒体はやはり映画だ。その映画の作り手として、この監督を持ってきてしまったこと自体が最大のミスだ。杉野と宮脇には1,800円の内、1,000円を返せと言いたい。

 

宮脇監督に(こんな声など届かないと知りつつ)強く言っておきたいのは、観客を信用しなさい、ということだ。主演三人の中で唯一、まともな演技ができる吉沢の心の声をナレーションにして観客に聞かせる一方で、表情や立ち居振る舞いで思考や感情を表現することができない未熟な役者二人にはそれをさせないというのは、「この映画を見に来る一番の客層は吉沢ファンの中高生女子だろう。だったら吉沢のパートを丁寧に描いて、ついでに分かりにくいかもしれないから心の声も聞かせてやれ。漫画の吹き出しと同じ原理だ」などと考えていたとしてら、それは失敗であり侮辱である。漫画の技法をそのまま映画に持ち込んでも成功するとは限らない。いや、往々にして失敗する。持ち込むべきはキャラクターであって、描写や演出方法ではない。

 

他にもシーンとシーンのつながりの不自然さ(昼間のシーンなのに、太陽の位置が下がっていたり)や、キャラの立たせ方の不自然さ(頼の演技力の不自然な高さ)など、99分の上映時間に収めたのは立派かもしれないが、もう5~10分を費やして詰めるべき細部があったのではなかろうか。あまりに詳細を書き出すときりがないため、残りは割愛せざるを得ないが、物語以前の部分で破綻してしまっているシーンが多いし、それが目に付いてしまうのである。大きな減点対象だ。

 

総評

『 ママレード・ボーイ 』も度肝を抜かれるような駄作だったが、吉沢の出演作は外れになるというジンクスでもあるのだろうか。『 BLEACH 』も酷い出来だった。MIYAVIも大根だったが、杉野も負けてはいない。五十歩百歩である。どちらが五十歩であるかは観る人それぞれの判断に委ねたい。よほど原作に強い思い入れがある、もしくは吉沢亮の大ファンであるという以外の向きにはお勧めは難しい。または、新木優子の下着姿に興味があるという健全な男子は、そこを見終えたら静かに退出するというのも一つの選択肢ではある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ロマンス, 吉沢亮, 日本, 監督:宮脇亮, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 あのコの、トリコ。 』 -漫画の技法を映画に持ち込むべからず-

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