カツベン! 30点
2019年12月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:成田凌 黒島結菜 永瀬正敏 高良健吾
監督:周防正行
成田凌は個人的にかなり買っている。出演作の多さとパフォーマンスの高さから、2018年の国内最優秀俳優の候補にも考えていた。本作ではどうか。素晴らしい演技だった。しかし作品としてはダメダメである。
あらすじ
時は大正。染谷俊太郎と栗原梅子は、活動写真館に潜り込んでは活動写真を楽しんでいた。しかし、俊太郎はキャラメルを万引きしたことで捕まってしまう。時は流れ、俊太郎(成田凌)は泥棒一味の中でニセ活動弁士になっていた。アクシデントからカネと共に足抜けを果たした俊太郎は、正道に立ち返るべく、青木館という活動写真館に住みこみで働き始めるが・・・
ポジティブ・サイド
今年の夏、大阪でJAZZ講談を聞いた時、玉田玉秀斎氏の話芸に驚嘆した。日本には数百年にわたる噺の伝統があり、それが外来の活動写真と結びついたのは必然であったとも言える。そこに周防監督が目を付けたのには、おそらく2つの事由がある。
一つには、映画と人々との関わりの変化である。『 アバター 』あたりから少しずつ、しかし本格的に興隆し始めた3D映像体験、IMAXやドルビーシネマといった映像や音響技術の進歩、さらに4DXやMX4Dといった視覚や聴覚以外の感覚にも訴える映画体験技術の導入と普及、さらにイヤホン360上映など、映画館や劇場という場所でしか提供できない価値が生み出されている。ケーブルテレビやネット配信など、映画と人々との距離や関わり方は過去10年で劇的に変化した。今一度、映画の原点を振り返ろう、そして日本の映画が世界的にも実は相当にユニークなものであったという歴史的事実を再確認しようという機運が、映画人たちの中で盛り上がったことは想像に難くない。
もう一つには、技術の進歩によって仕事を奪われることになる人間の悲哀の問題である。歴史的な事件としてのラダイト運動や、映画『 トランセンデンス 』のような科学者襲撃事件が起こる可能性は高いと思っている。AIが将棋や囲碁のプロを完全に上回り、レントゲンなどの画像の読影でも専門医を凌駕するようになった。今後10年、20年で消える職業も定期的なニュースになっている。また、RPAにより定型的な事務作業のほとんどが代替される時代も目前である。活動弁士だけではなく、映写技師や楽師といった職業がかつて存在し、映画という媒体の黎明期を支えていたという事実を顕彰することには意義がある。そこになにがしかのヒントを見出すことが、現代人にもできるはずである。
成田凌は2018年から2019年にかけて最も伸びた俳優の一人である。それを支える永瀬正敏や音尾琢真は(最後の最後を除いて)素晴らしい仕事をしたと思う。ポジティブな面は以上である。
ネガティブ・サイド
本作は『 閉鎖病棟 それぞれの朝 』と同じく、一部の役者の演技力に頼るばかりで、プロットの面白さや細部のリアリティが突きつめられていない。非常に残念な出来である。
まず、関西人以外が作った、あるいは関西人以外が演じた役者の関西弁というのは、どうしてこれほど下手くそなのか。下手くそという表現が過激ならば、稚拙と言おう。大俳優の小日向文世にして「 血ぃは争えんな 」を「 地位は争えんな 」と発話してしまっている。関西弁は一文字語をしばしば伸ばして発音する。「 目 」は「 目ぇ 」、「 手 」は「 手ぇ 」、「 胃 」は「 胃ぃ 」、「 蚊 」は「 蚊ぁ 」となる。この時、抑揚はつかない。語尾に来る小文字の音程は前音のままとなるのが絶対的ルールである。関西以外の人はテレビなどで関西人の喋りに耳を傾けて頂くか、あるいは身近な関西出身者に尋ねてみて頂きたい。
また、最終盤で音尾琢真もやらかしている。ネタばれにならないと思うので書いてしまうが、「 手間かけやがって! 」という謎の日本語を吐く。文脈によってはこれも正しくなるだろう。たとえばお弁当箱を開けてみると、非常に凝った食事が入っていた時などは、弁当の作り手に感謝をこめて「 手間かけやがって 」と言うことはありうる。しかし、この場面は違う。正しい日本語は「 手間取らせやがって! 」か「 手間かけさせやがって! 」である。脚本段階のミスか?それとも、撮影段階に気付かなかった監督はじめスタッフのミスである。『 旅猫リポート 』でも不可思議な日本語があったが、邦画の世界にまで日本語の乱れが広がっているのだろうか。憂うべきことである。
大正時代の雰囲気を出そうと頑張っているのは分かるが、細部にリアリティが宿っていない。まず街が清潔すぎる。舗装されていない往来を人や自転車や大八車や自動車が行き交えば土ぼこりも舞う。しかし建物や看板がどれもこれもあまりにもきれいすぎる。作り物感がありありである。また、ネタばれにならない程度に書くが、当時の火消しや官憲がまったくの無能のように描かれているのは、いったい何なのか。現代の官憲の無能さを遠回しに揶揄する意図があるわけでもなさそうであるし、火消し=消防に周防監督はいったい何の不満があるというのか。
本作はコメディに分類されるべきなのだろうが、ギャグやユーモアに笑えるところが本当に少ない。タンス攻撃の応酬のいったいどこを笑えというのか。こういうのは吉本新喜劇の舞台のように、やりあう二者が同時に目に入ってこそ面白いのである。一回ごとにカットして場面転換しては面白さが激減してしまう。しかも、くどい。笑いというのは一瞬で喚起されるべきもので、何度も何度も同じことを繰り返して笑わせる手法というのは、故・島木譲二以外が使ってはいけないのである。
キャラクター造形もおかしい。俊太郎が活動写真の撮影に割り込むのは、子どものすることなので許せないこともない。しかし、万引きはれっきとした犯罪で、長じてから泥棒一味に加わることに違和感はない。問題は、「自分は騙されたのだ」という俊太郎の被害者意識である。『 ひとよ 』の斎藤洋介の言を借りるまでもなく、万引きは小売業の天敵である。俊太郎の幼少期の万引き常習者という背景は不要である。普通に梅子が引っ越していく。俊太郎はその後、騙されて泥棒の片棒を担がされる。どうしてこのような流れにならなかったのか。これで充分に納得できるはずだし、カネを奪って逃げたのも咄嗟のことで魔が差してしまったで説明できるはずだ。小さな頃から泥棒というのは、キャラクターの高感度を著しく下げるだけで、逆効果である。
クライマックスのカメラワークにも不満が残る。活動写真ではなく弁士や楽士のアップをひたすら映す意図がよくわからない。時代に翻弄された職業人たちであるが、これはドキュメンタリーや伝記ではないだろう。映すべきは彼らの仕事=彼らの遺産たる活動写真とそれを鑑賞、堪能する観衆たちとの一体感ではないのか。個々人の顔面を延々と映し出すことに芸術的な意味も娯楽的な意味も見出せない。本当に訳が分からないクライマックスである。
総評
『 それでもボクはやってない 』はまぐれだったのか。周防監督の手腕を疑問視せざるを得ない。成田凌のファンでなければ、チケット代と2時間をつぎ込む価値は認められない。時代の転換点に映画はどうあるべきかを考えるきっかけを与えてくれはするものの、それに対して一定の答えを出しているわけでもない。残念ながら駄作と評価せざるを得ない。
Jovian先生のワンポイント英会話レッスン
Let me do it.
俊太郎の言う「俺にやらせてください」の英訳である。Let は「させてやる」の意で、ビートルズの名曲“Let it be”やアナ雪主題歌“Let it go”でもお馴染みである。また『 ロケットマン 』でも“Don’t Let The Sun Go Down”が使われていた。つまり、よく使われる動詞ということである。