ブレス あの波の向こうへ 70点
2019年8月13日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:サイモン・ベイカー エリザベス・デビッキ
監督:サイモン・ベイカー
嫁さんは以前はTVドラマ『 リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線 』にハマっていた。そして今は『 メンタリスト 』の最終シーズンおよび『 グッド・ワイフ 』を鑑賞中である。サイモン・ベイカーを映画で観るのは『 プラダを着た悪魔 』以来だろうか。『 メンタリスト 』のリズボンといつか映画で共演を果たしてほしい。
あらすじ
やや内気な少年パイクレットは無鉄砲なルーニーと、危険を顧みずに遊びまわっていた。ある日、彼らは海でサーファーたちが波に乗るのを見て、えもいわれぬ感覚に襲われる。自分たちもサーフィンをしてみたいと思い立った彼らは、サンドー(サイモン・ベイカー)とその妻イーヴァ(エリザベス・デビッキ)と知り合う。サンドーに導かれ、彼らはどんどんとサーフィンに魅せられていくが・・・
ポジティブ・サイド
BGMを極力排して、風の音、潮騒、鳥の鳴き声などのオーガニックな音を聞かせようとするところが、『 君の名前で僕を呼んで 』とよく似ている。オーストラリアと言えば砂漠のイメージが強いが、一切はグレート・バリア・リーフのように海も巨大な観光資源になっている。大自然と言えば、夏。夏と言えば山か海が定番である。オーストラリアならば海だ。その海の波も、葛飾北斎の名画『 神奈川沖浪裏 』のような大波荒波である。その波の青と白を雄大な波音を交えてスクリーンいっぱいに叩きつけんばかりの勢いで映し出せば、大自然=wildernessの力強さがそのままこちらに伝わってくる。特に、何を海面下から見上げるショットは海の深さ、荒々しさ、激しさを伝える興味深いショットだった。
サイモン・ベイカーのオーストラリア英語を始めて聞いたように思うが、『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』でスウェーデン語を話すステラン・スケルスガルドのように、本来の素の自分を出せていた。彼の演じるサンドーという男はミステリアスでセクシーでワイルドながらも、父親らしさがある。ルーニーとパイクレットの二人がある意味で飢えていた、人生におけるpositive male figureを巧みに体現していた。
そのルーニーは『 スタンド・バイ・ミー 』におけるテディ(コリー・フェルドマン)、または『 IT~”それ”が見えたら終わり~ 』におけるリッチー・トージアのようなクソガキで、確かに男というものは悪い奴、またはアホな奴とつるんでしまう時期というものがある。若気の至りや若気の無分別という言葉そのままに突っ走るルーニーは、愛せそうで愛せない、しかし憎むこともできない困ったキャラクターを存分に表現した。
主人公たるパイクレットは前半と後半でまるで違う人間になっている。つまり、少年から大人になったのである。子ども=労働と性から疎外された存在、という近代的な定義をこれまでにも何度か紹介したが、パイクレットが一夏の間に持つ性体験は、言葉そのままの意味で劇的である。同級生の良い感じの女子とボール(ダンス)で良い感じに燃え上がりながら、相手の娘の方からセックスに誘ってきたのに、それに乗らない。その代わりに、サンドーとルーニーがインドネシアに旅立っている間、孤閨を託つイーヴァとのセックスに耽る。イーヴァの元に自転車で猛スピードで向かうパイクレットを観て、苦笑する大人は多かろう。セックスそのものよりも、セックスを求める様が滑稽で、なおかつ真剣味に溢れているからだ。サンドーが良き父親代わりを演じる反面で、イーヴァはパイクレットやルーニーの恋人になるには年齢が上過ぎるし、かといって母親的な役割を演じるには年齢的に若すぎる。つまり、イーヴァはパイクレットにとって、恋人でも母親でもない存在として立ち現われてくるのである。この展開は見事である。
パイクレットはサーフィンと出会い、海に魅了されながらも、翻弄はされなかった。海に出ることの怖さを知ったからだ。しかし、彼は臆病になったのではない。自分にできることとできないことを弁別できるようになったのだ。爽やかな余韻を残して物語は幕を閉じる。これはビルドゥングスロマンの佳作である。
ネガティブ・サイド
昔にMOVIXあまがさきで観た『 ソウル・サーファー 』との共通点も感じる。海とは異界への入り口であり、芳醇な恵みをもたらしてくれると共に、容赦なく命を奪う凶暴なる存在でもある。劇中でも示唆されたように、ホオジロザメなどは恐怖の対象である。だが、それが出てこない。バーニーとは結局のところ何だったのか。『 ハナレイ・ベイ 』のような展開を予感させつつ、これではただの虚仮脅しではないか。
パイクレットと父親の距離感も気になった。もう少しだけで良いから、ラストの親子の対話に至る前振りが欲しかった。洋の東西を問わず、父親と息子の対話は一大テーマなのである。
前半と後半の転調の落差が激しく、違う映画になってしまったのかとすら感じてしまった。一夏のアバンチュールを機にストーリーの方向が変わっていくのはクリシェである。トーンの一貫性が映画監督サイモン・ベイカーの今後の課題なのかもしれない。
総評
嫁さんに連れられて行ってみたが、これは思わぬ掘り出し物である。スクリーンに広がる大自然の驚異、サーフィンの躍動感はそれだけでfeast to the eyeである。また、エリザベス・デビッキの美貌とエロチシズムはおっさん観客を満足させるであろう。ストーリーはどこかで観たり読んだりした映画や文学のパッチワーク的ではあるが、少人数の大人と子どもが限られた時間と空間で濃密な時を共有するドラマは、静かでいて力強さに満ちている。