約束のネバーランド 20点
2020年12月19日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:北川景子 浜辺美波 板垣李光人
監督:平川雄一朗
私的年間ワースト候補の『 記憶屋 あなたを忘れない 』の平川雄一朗がまたしてもやらかした。原作漫画は未読(Jovian嫁は序盤だけ読んだ)だが、それでも色々とストーリーが破綻しているのは明白である。
あらすじ
グレイス=フィールドハウス孤児院ではママ・イザベラ(北川景子)によりたくさんの子ども達が養われ、里親に引き取られる日を待っていた。ある日、里親に引き取られたコニーが忘れたぬいぐるみを届けようとエマ(浜辺美波)とノーマン(板垣李光人)は孤児院の門へと向かった。そこで彼女たちが目にしたのは、コニーの死体、人を食らう巨大な鬼、そしてママ・イザベラだった・・・
ポジティブ・サイド
孤児院の建物および周囲の自然環境が素晴らしい。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した西洋建築だと言われても全く驚かない。また草原および森林も風光明媚の一語に尽きる。陽光とそよかぜ、そして鬱蒼とした森はまさに別天地で、現実離れした孤児院の設定に大きなリアリティを与えている。
浜辺美波の顔と声の演技は素晴らしい。嫁さん曰はく、「漫画と一緒」ということらしい。嫁さんの評価は措くとしても、イザベラとの探り合いで披露する「演技をしているという演技」は圧巻。20歳前後の日本の役者の中では間違いなくフロントランナーだろう。ノーマン役の板垣李光人も良かった。オリジナルの漫画を知らなくとも、原作キャラを体現していることがひしひしと伝わってきた。
北川景子と渡辺直美の大人キャラも怪演を披露。特に渡辺の演技は一歩間違えれば映画そのもののジャンルをホラー/ミステリ/サスペンスからコメディ方向に持って行ってしまう可能性を秘めていたが、出演する場面すべてに緊張の糸を張り巡らせていた。北川景子も慈母と鬼子母神の二面性を見事に表現していた。彼女のフィルモグラフィーに今後くわえるとすれば『 スマホを落としただけなのに 』の被害者のような役ではなく、逆にサイコなストーカー役というものを見てみたい。
ネガティブ・サイド
以下、マイナーなネタバレに類する記述あり
演技者の中で断トツに印象に残ったのは城桧吏。好印象ではない。悪印象である。『 万引き家族 』では元々無口な役柄だったせいか悪印象は何も抱かなかったが、今作の演技はあらゆる面で稚拙の一言。はっきり言って普通の中学生が暗記した台詞を学芸会でしゃべっているのと同レベル。これが未成年でなければ、返金を要求するレベルである。普段から発声練習をしていないのだろう。表情筋の動かし方も話にならない。能面演技とはこのことである。身のこなしも鈍重で、数少ないアクションシーン(殴られるシーンや回し蹴り)でもアクションが嘘くさい。本人の意識の低さにも起因するのだろうが、それ以上に周囲のハンドラーの責任の方が大きい。本作に限って言えば、これでOKを出した平川監督に全責任がある。クソ演技・オブ・ザ・イヤーを選定するなら、城桧吏で決定である。
頭脳明晰な年長の子ども達とママ・イザベラとの頭脳戦・神経戦が見どころとなるはずであるが、そこにサスペンスが全く生まれない。3人で密談するにしても、ハウス内の扉も閉まっていない部屋で、秘密にしておくべき事項をあんなに大きな声で堂々と話すのは何故なのか。「壁に耳あり障子に目あり」という諺を教えてやりたい。だったら屋外で、というのもおかしい。ママ・イザベラは発信機を探知する装置を常に携帯しているわけで、誰がどこにどれくらいの時間集まっているのかは、探ろうと思えば簡単に探れるわけで、密談をするにしても、その時間や場所や方法をもっと吟味しなければならないはずだ。例えば3人の間でしか通用しないジャーゴンや暗号を交えて話す、手紙や交換日記のような形式でコミュニケーションするなど、ママの目をかいくぐろうとする努力をすべきではなかったか。ミエルヴァなる人物が送ってきてくれた本から、いったい何を読み取ったというのか。もちろん、この部分をある程度は納得させてくれる展開にはなるのだが、そこまでが遅すぎるし、途中の展開にはイライラさせられる。
シスター・クローネの扱いにも不満である。渡辺直美演じるこのキャラおよび他キャラとの絡みはもっと深掘りができたはず。途中で退場してしまうのが原作通りのプロットであるならば仕方がない。だが、彼女がエマやノーマンやレイに見せつけた心理戦の駆け引き、その手練手管がエマにもノーマンにも伝わっていない。その後に見事にママを出し抜くのはストーリー上の当然の帰結として、そこに至るまでの過程には必然性も妥当性もなかった。本当にこいつらは頭脳明晰なのか。仮に鬼のテリトリーを脱出して人間の世界に入れたとしても、これでは人間に騙されて別のプラントにさっさと収容されて終わりだろう。
最後の脱出劇も無茶苦茶もいいところだ。あるアイテムを使うこともそうだが、それ以上に、カメラアングルが変わった次の瞬間にロープの片側がありえない地点に固定されていることには失笑を禁じ得なかった。そんな技術と身体能力があるのなら、それこそ回りくどく迂回などせず、正攻法で谷を降りて崖を昇れば済むではないか。
建築や自然が素晴らしかった反面、小道具のしょぼさや不自然さにはがっかりである。特にこれ見よがしに出てくる大部の書籍は、どれもただの箱にしか見えなかったし、実際にただの箱だろう。開けられるページは常に最初のページのみ。手に持った時の重みの感じやページ部分がたわむ感じが一切なかった。外界とほぼ完全に隔絶されたハウスに、ボールペンや便せんといった消耗品がたくさん存在するところも不自然だし、食料も誰がどこでどのように調達しているのだ?原作には説明描写があるのだろうが、映画版でそれを省く理由はどこにもない。世界の在り方をエマたちと共に観客も知っていく過程にこそ面白さが生まれるのだから、この世界観を成立させるためのあれやこれやの小道具大道具はないがしろにしてはならないのである(大道具は頑張っていたと評価できる)。
劇中ではずっと“脱獄”と言われているが、別に監禁や留置をされているわけではないだろう。正しくは脱走または脱出と言うべきだが、これについても何も説明がなかった。全編を通じて、正しい日本語が使われておらず違和感を覚えまくった。
アメリカのヤングアダルトノベルの映画化『 メイズ・ランナー 』の劣化品で、実写化失敗の『 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN 』と並ぶ邦画の珍品の誕生である。
総評
予備知識がほぼゼロの状態で観に行ったが、映画を通して原作の良いところと悪いところが結構見えたような気がする。おそらく原作漫画ファンでこの映画化を喜ぶのは10代の低年齢層だろう。そうした層をエンターテインしようとしたのなら、平川監督の意図は理解できるし、実写化成功と評しても良い。だが、上で指摘したような欠点の多くを改善することで、10代の若い層が本作を楽しめなくなるか?ならないと勝手に断言する。そうした意味では、平川監督は流れ作業的に映画を作った、原作ファン以外のファン層を開拓する努力を怠ったことになる。2021年も邦画の世界は小説や漫画の映画化に血道を上げ続けるのだろうが、それをするなら一定以上の気概と技術を持って欲しいものである。
Jovian先生のワンポイント英会話レッスン
edible
食用の、食べられる、の意。一応辞書には載っているが、eatableとはまず言わない。同じようにdrinkableもほとんど使われない。飲用可能はpotableと言う。portableとしっかり判別すること。