惡の華 20点
2019年9月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:伊藤健太郎 玉城ティナ 秋田汐梨
監督:井口昇
劇場で予告編を何度か観ただけで鑑賞。予備知識ほぼ無し。なぜこんなクソ作品を観ねばならんのかとも思うが、カネを出して観てみないことには良いか悪いか分からない。大切なのは、作品を鑑賞した上で意見を述べることであろう。
あらすじ
春日高男(伊藤健太郎)は自分が灰色の無味乾燥した世界に生きていると感じる中学生。ボードレールの『 惡の華 』に惑溺することで自尊心を満たしていた。ある日、衝動的に憧れの女子である佐伯奈々子(秋田汐里)の体操服を盗んでしまったところを、問題児の仲村佐和(玉城ティナ)に目撃されてしまう。佐和に脅迫される形で契約を結んだ春日は、仲村に翻弄され、徐々に暴走していく・・・
ポジティブ・サイド
『 L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。 』や『 青夏 きみに恋した30日 』で、うっすらと秋田汐里は印象に残っている。どことなく南沙良を思わせる獣性が感じられ、個人的には良い感じである。『 町田くんの世界 』の関水渚の良いライバルになりそう。切磋琢磨して頑張って欲しい。彼女らのハンドラーはしっかりと仕事をしてほしい。中高生あたりにありがちな意図しないお色気シーンや水着姿を楽しむ向きもあるかもしれない。というか10代半ばなのに、よくこんな○○○○(未遂?)シーンの撮影を引き受けたものだと素直に感心する。
飯豊まりえも、登場シーンはそれほど多くないものの、地に足のついたキャラクターを好演した。『 暗黒女子 』よりも、こういうキャラクターの方がより説得力を出せる。女王蜂キャラにはまだ足りないが、クラスの人気者キャラならば充分に見ることができた。
ネガティブ・サイド
主人公たる春日高男の中二病の根の深さが全く伝わらない。冒頭の街のシーンを多少セピア調に加工しても、そんなものは小手先のテクニックに過ぎない。街に自分の意識を閉じ込められて、精神に変調をきたしていく物語ならば『 タクシードライバー 』という不朽の名作(怪作?)もある。仲村さんが叫ぶ「どいつもこいつもセックスことしか考えてねえ!」という言葉は、原作を改変してでも高男の心の声にしてしまうべきだった。そうでないと高男が精神の平衡を失ってしまう過程に説得力が生まれない。または邦画の例に倣うなら『 ここは退屈迎えに来て 』で描かれたような、どこまで車で走っても全く変わり映えのしない同じような街並みがエンドレスで続いていくという地方都市の没個性さも使えたはずである。他にも小学生から中学生になっても街並みが何一つ変わっていかないという時系列的な描写があれば、それも高男の精神の変調を説明する役には立ったはずだが、それもなかった。ボードレールを読み耽っているだけの自意識過剰少年には何の共感も抱けないし、彼が壊れていく過程にもリアリティを認められない。「今この瞬間に抑圧された青春を過ごしている、またはかつてそうだった大人たちに本作を捧ぐ」みたいな序文から作品は始まったが、そのメッセージは果たしてどれくらいの人にどれくらいの迫真性をもって届いたのだろうか。疑問である。
佐和がエキセントリックなキャラクターであることは分かるが、そんな佐和と高男が共依存のような関係になる描写が決定的に弱い。自分が特別であると思い込まなければやっていられないような家庭環境で育ったわけでもなさそうだし、なにより高男のような読書家がこのような狭量な世界観を持つのだろうか。Jovian自身も相当に鬱屈した青春を過ごしたという自覚症状は今でもあるし、当時もそうした自覚はあったし、はっきり言って根拠のない自信に基づいて周囲の人間をクソムシ扱いしていた。けれどそれが自分の弱さであるという自覚もあった。自分が他人と何も変わるところがないとは認めたくないという過剰な自意識を、自分で意識することができていた。高男と佐和の物語にどうしても入り込めなかったのは、テロ紛いのことでしか意見表明ができない、遅れてやって来たプチ過激派にしか見えなかったからだろう。だが、そうした物語にも名作はある。リブート(続編?)に期待と不安の両方を抱かせる『 ぼくらの七日間戦争 』が好個の一例である。
何らかの場面の転換が、すべてキャラクターの絶叫で締めくくられるのもワンパターンすぎる。雨の中で叫べば、確かに何かが決定的に終わってしまったようにも感じられるが、一つの作品の中で似たような展開を繰り返すのはいかがなものか。そもそも高男自身にほんのちょっとの勇気があれば、佐伯さんに「付き合ってください」ではなく「ずっとずっと好きでした」と言えれば、円満に解決していた。というか、最近は「好きだ」と伝えずに、「付き合ってください」だけで男女の交際が始まるものなのか。『 勝手にふるえてろ 』でも松岡茉優による「付き合ってくれとは言われたが、好きだとは言われていない」と高揚が一気に冷めるシーンがあった。結局は高男がチキンなだけである。あるいは読書家ではあっても、書物から人間模様を学ぶことができなかった愚か者である。
総評
酷評させてもらったが、確かにこうした共依存の関係や過剰な自意識の防衛機制に共感を覚える人もいるだろうとは想像できる。すべては波長が合うかどうかだ。Jovianは、はっきり言ってクソ映画であるとは思うが、それはキャラクターがクソなのであって、演じる役者やそのキャラの生みの親たる原作者、さらに監督その人までがクソとはまでは思わない。『 覚悟はいいかそこの女子。 』では“欠損家庭”、“貧困家庭”といった社会派の要素を込めてきた井口監督であるが、個人の内面を描く物語に関しては、さらなる精進が必要ということだろう。捲土重来に期待。
Jovian先生のワンポイント英会話レッスン
I am a pervert, too.
劇中で仲村さんは「私も変態なんだ」と言っていたように記憶している。変態=pervert、と覚えておけば、ほぼ間違いはない。もう一つ、kinkyという単語もある。英語圏の人間に妙な勘違いをされたくないということから、近畿大学は英語名をKinki UniversityからKindai Universityにしたということである。変態は hentai という International Language にも実はなっている。これも、ある意味ではクール・ジャパンだろう。