さよならくちびる 75点
東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:小松菜奈 門脇麦久 成田凌
監督:塩田明彦
Jovianはアメリカ人ではヘイリー・スタインフェルドとアニャ・テイラー=ジョイ推しであるが、日本人では小松菜奈推しである(『 渇き 』と『 溺れるナイフ 』はWOWOW放送場を録画したままで未視聴なのだが・・・)。そして門脇麦にも高い評価を与えている。その二人が出演する作品が、どういうわけか flying under my radar. 大慌てで出勤前に劇場鑑賞してきた。
あらすじ
ハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)は、シマ(成田凌)という元ミュージシャンかつ元ホストをローディーにして、「ハルレオ」というインディーバンドを組んでいた。しかし、ユニット内のメンバーの思いは微妙にすれ違い続け、そして解散前のツアーが始まる・・・
ポジティブ・サイド
『 ここは退屈迎えに来て 』で、やや調子っぱずれに歌っていた門脇麦。『 坂の上のアポロン 』で、結局歌わずじまいだった小松菜奈。この二人が予想以上の歌唱力を披露してくれた。成田凌も含めて、ギターを弾く演技もなかなか堂に入っていた。ギターを弾く姿というのは、手元よりも全身、立ち姿や座った時の姿勢で決まるような気がする。ピアノを弾く姿も、手元よりも全身の方がしっかり、はっきり表現されているように思う。『 グリーンブック 』のマハーシャラ・アリ然り、『 ラ・ラ・ランド 』のライアン・ゴズリング然り。
閑話休題。本作はバンドメンバーを巡る物語であるが、音楽以外の面も良い。ハルとレオとシマの報われない三角関係が、説明的な台詞もほとんどなく描かれる。ビジュアル・ストーリーテリングの面で秀逸なのである。レオが料理をしないこと、そのレオがハルの料理に胸を打たれる一連のシークエンスに、我々は否応なくレオのこれまでの境遇に思いを馳せずにいられなくなる。冒頭のシーンからレオは観る者に「なんなのだ、この尻軽は」と感じさせるばかりなのだが、それはきっと求められることが無かったが故の反動なのだ。単なる美少女キャラから複雑な事情や内面を抱えたキャラを演じられるようになった小松菜奈の今後がますます楽しみである。決してベッドシーンを期待しているわけではない。これまで見せてくれなかった歌唱シーンを見せてくれたのだから、今後も作品ごとに新たな地平を切り開いてほしいということである。
ハルを演じた門脇麦にも称賛を。100人に9人はLGBTがいるということで、もはや彼ら彼女らは珍しい存在ではない。しかし、ただ単に存在するということと、その存在が他者に認知されること、そして受け入れられるということは別物である。シマとレオの必要最低限の会話だけから、ハルの過去から現在に至る苦悩と懊悩の全てが見えてくる。ハルとレオの interaction の一部には重要な示唆が含まれている。それはLGBTもパートナーを選ぶということである。当たり前だが、ノーマルな男が全ての女性を恋愛の対象(≠欲望の対象)にするわけではないし、ノーマルな女性が全ての男性を恋愛対象にするわけでもない。それと同じことである。本作はハルとレオという対照的な人物の繋がり方を映し出すことで、我々がいかに人間関係を恋愛感情や肉体関係でもって規定したがっているのかを逆説的に炙り出す。ハルとレオは我々が期待するような関係で結びついているわけではない。にも関わらず我々は彼女らのユニットの存続を心から願ってしまう。この脚本、そして演出は見事である。唸らされる。
シマを演じた成田凌は、私的2019年国内最優秀俳優の認定は間違いのないところ。元ミュージシャンにして元ホストという雰囲気を確かに漂わせていた。それは、煙草を取り出した女性に即座にライターを差し出すところではなく、レオの恋慕を頑なに無視し、安易な肉体関係を結ぼうとしないところだ。また、ライブでもギターやタンバリンを演奏するところで、スポットライトを浴びようとしない佇まいも良い。そして演奏シーンで手元が移るのは、実はほとんど全部シマだったりと、音楽映画の音楽映画らしいところ、役者ではなく本当のミュージシャンですよ、と思わせたい部分の演出をほとんど一手に引き受けているところも渋い。一番スポットライトから遠い男が多分一番楽器の練習を積んできたのだろう。ハルレオのユニットメンバーの中で、おそらく最も劇的な変化を見せるのはシマであると思う。それはJovianが男性であることと無関係ではないだろうが、彼の人生において非常に重要なピースが入れ替わる瞬間の目の演技が素晴らしい。そして声も。言っていることと、心の中で思っていることが見事に一致していない。クズな男ばかりを演じてきた成田であるが、本作は期せずしてクズ男のビルドゥングスロマンとしても成立しているのである。かなりご都合主義的な展開もあるが、この着地の仕方にも唸らされた。
演出面では、各キャラの歩調に注目してみて欲しい。普通、誰かと一緒に歩いていると、歩調というのは合ってくるものだ。誰しも経験があるだろう。しかし、本作のハル、レオ、シマは見事に歩調が合わない
本作の肝は「さよならくちびる」というタイトルにもなっている楽曲である。そしてそのくちびるが誰のものなのかを、本作はオープニングのタイトルシーンで示唆する。くちびるというのは不思議なもので、くっつかないと出せない音声、離れていないと出せない音声がある。本作を見終わったら、ぜひ「さよならくちびる」の歌詞を意味を考察してみて欲しい。そこには豊穣な意味の世界が広がっていることを約束する。
ネガティブ・サイド
歌詞を画面にスーパーインポーズする演出は個人的には好ましくなかった。ハルが作詞に使っているノートをアップにするか、もしくはスーパーインポーズするにしても字体をハルの筆跡に近いものにしてほしかった。そうすればもっと彼女たちの音楽や歌詞の世界に入っていきやすくなったのにと思う。
またレオの痣が化粧であまりにも呆気なく消え過ぎである。いや、ステージ上でそれを消すぐらいは容易いのかもしれないが、車の中やレストランでまで綺麗に消えているというのは・・・ 途中でハルレオの追っかけファンである女子中学生ぐらいのペアが登場するが、その片方の子の歌唱力たるや・・・ ハルレオより普通に上手いのである。LGBTとしての生きづらさを抱えている自分が、ハルレオの楽曲によって救われたという実感を歌の形で吐露する非常に象徴的なシーンであるが、もうちょっと歌を普通に歌うようにディレクションできなかったのだろうか。
後は重箱の隅をつつくようで申しわけないが、シマの運転シーンである。背景が合成なのは構わない。ただ、それなりのカーブをゆるーく曲がっていくのに、ハンドルを全く動かさないというのはどうなのだろうか。直進の道路でやたらとハンドルをちょこまか動かすのも目に付くが、曲がるべきところではそれなりにハンドルを切ろうではないか。
総評
『 ボヘミアン・ラプソディ 』的なテーマと構成である。もちろん、映画の構想から実際の製作に要する時間を考えれば剽窃とは考えられない。むしろ、原案/脚本も務めた塩田監督の先見性、時代を読む慧眼に敬服すべきなのだろう。素晴らしい作品が世に送り出された。これは劇場鑑賞必須である。