趣旨は『 ゴジラ映画考および私的ランキング 』と同じである。だが、多くの人にとってそうであるように、『 スター・ウォーズ 』はJovianにとっては特別な物語なのである。『 サッドヒルを掘り返せ 』でJovianは『 スター・ウォーズ 』を【おとぎ話】であり【昔話】であり【童話】であると説明した。だが、文学論的に言えば、
1.超自然的な要素がある
2.時代や場所を特定できない
3.王族が登場する
といったところから、『 スター・ウォーズ 』は本質的には【おとぎ話】に分類されるのだろう。自分にとっても映画の原体験の一つであり、極端に言えば人生にも影響を及ぼした作品が、もう間もなく完結を迎える。その前に、自分の頭と心を整理しておきたい。本稿はそうした試みである。
『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』
スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 95点
出演:マーク・ハミル キャリー・フィッシャー ハリソン・フォード
監督:ジョージ・ルーカス
今でもよく覚えている。Jovianが初めて観た映画は、映画好きの父の影響もあり『 王様と私 』だった。そこで「エトセトラ」という言葉を覚えたが、それだけしか印象に残らなかった。次に観たのは『 オズの魔法使 』、そして次に観たのが『 スター・ウォーズ 』だった。当時はタイトルに他に何もなく、『 スター・ウォーズ 』だった。ちなみに次に観たのが『 ダリル D.A.R.Y.L. 』だった気がするが、正直なところ、『 スター・ウォーズ 』以降の映画作品については、古典ミュージカル作品以外は記憶があやふやである。
当時は6歳だった。その時はデス・スターへの潜入やブラスターの撃ち合い、ミレニアム・ファルコンのワープ、XウィングとTIEファイターの戦い、そしてオビワンとダース・ベイダーの電光剣(が当時のVHSの字幕だった)対決、そしてデス・スター爆破などのアクション・シーンに心を奪われて、何度も何度も観ていた。おそらく現在までにDVD、ブルーレイで20回以上は観ている。けれど中学生ぐらいだったろうか。ある時、ルークが二つの太陽の夕焼けをやるせない表情で眺め、そのBGMにジョン・ウィリアムズの“Binary Sunset”が流れるあの瞬間にルークと自分がシンクロした。兵庫県から岡山県に引っ越した頃、自分はあるべき場所におらず、なるべき自分になっていないと直感した。そんな自分も、未知なる宇宙に飛び出すことができる。まだ見ぬ冒険をすることができる。『 スター・ウォーズ 』はそんな予感を自分に与えてくれた。だからこれは誰にも当てはまらず、誰にでも当てはまる物語なのだろう。やはり、おとぎ話なのである。
VHSやレーザーディスクでリミテッド・エディションが販売され、当然のようにJovianの父も購入。しかし、デス・スターの爆発の様子が異なっている部分に大きな違和感を覚えたことを覚えているし、グリードーが発砲したりしたシーンでも???となった。DVDではハン・ソロの首が動いたところでギョッとしたのを覚えている。後年になって、『 スター・ウォーズ 』がおとぎ話であることに気付いたのは、これらの違和感や異物感からだった。シリーズが完結しても、おそらく最も多く見返すのは本作だろうと思う。
『 スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 』
スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 90点
出演:マーク・ハミル キャリー・フィッシャー ハリソン・フォード
監督:ジョージ・ルーカス
本作で思い出すのは、ミレニアム・ファルコンがひたすらにかっこいいということ。すぐに故障するボロ船でありながら、常にピンチを脱する。本作でC-3POが「訛りがひどい」と評したことで、ファルコン号は乗物からキャラクターに正式に進化した。
本作ではC-3POがバラバラにされるシーンでショックを受けた。というかトラウマになった。前作でもドロイドがドロイドに痛めつけられるシーンは存在したが、何故かあまり印象に残らなかった。
本作で最も強く心に刻まれたのは、ファルコン号内でのハン・ソロとレイアのキスシーンである。『 ロッキー 』で、ロッキーが自宅にエイドリアンを誘って、キスをするシーンと並んで、Jovianがこれまでに観てきた中で最もロマンティックなシーンだと思っている。これも小学生ぐらいの頃は映画の中の普通のワンシーンだった。それが中学生高高校生ぐらいになってくると全く異なるシーンに見えてきた。変わったのは物語ではなく、自分だったのだろう。
ダース・ベイダーの言う“I am your father.”は、その後のどんな推理小説のトリックにも、どんなミステリ映画のプロットにも優る衝撃を少年時代のJovianの心に与えた。ルークが右手を斬り飛ばされ、ハン・ソロが冷凍され、ヒーロー側が惨敗して終わり・・・というエンディングは、子どもだった自分に強烈なインパクトを残した。初めて観た時は、「早くこの続きを!」という焦りで頭がいっぱいになった。
『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』
スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 90点
出演:マーク・ハミル キャリー・フィッシャー ハリソン・フォード
監督:ジョージ・ルーカス
ルークがパワーアップして、颯爽と帰ってきた。ハン・ソロも復活した。レイアも解放された。序盤の30分だけで満足した記憶がある。
地上と宇宙で同時進行する展開に、単身でデス・スターに乗りこむルーク。正式に反乱軍の将校になったハン・ソロとチューバッカにランド・カルリジアンらが、戦闘ではなく戦争をする。前作や前々作は、主人公側が逃げる展開がメインだったが、本作でようやく乾坤一擲の大勝負に出る。助っ人がイウォークというのも良い。惑星エンドアのローカル・クリーチャーでありながら、宇宙戦争に参戦する意気やよし。姿かたちや話す言葉が違っても分かり合える存在が宇宙にはたくさんいる。アクバー提督など、人間ではない生き物と連合する反乱軍に、アイデンティティに迷っていたJovian少年は自分を投影していたように思う。
多種多様な生き物を包括して組織される反乱同盟軍と一律にホワイト・トルーパー達で構成される帝国軍の対比は、現代の視点で見返してもコントラストが鮮やかだ。ジョージ・ルーカスは STAR WARS と題しながらも、決して戦争を描くことは望んでいなかったという。戦うことではなく耐えることでジェダイとしてのアナキン・スカイウォーカーを帰還させたルークは、自らの中で永遠のヒーローとなった。
『 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 』
スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 40点
出演:ユアン・マクレガー リーアム・ニーソン ナタリー・ポートマン
監督:ジョージ・ルーカス
これは確か大学二年生の夏休みに劇場公開された時にすぐに観た。Jovianの母校は6月末から夏休みだったのだ。劇場で観た。そしてがっかりした。絶望したと言ってもいい。その理由の第一は、通商連合である。いきなりそんな現実世界と地続きの事象を説明されて、一気にシラケたことを覚えている。「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」いきなりゼニカネの話。おとぎ話の世界が現実の経済の論理に侵食された瞬間であった。だが、これはまだ許せた。
最も腑に落ちなかったのはミディ=クロリアンである。『 スター・ウォーズ 』のファルコン号内で、オビ=ワンはフォースを銀河を結びつける力と説明した。それとミディ=ファッキン=クロリアンはどう考えても結びつかない。フォースの神秘性が失われて、一つの世界が音を立てて崩れ去っていくかのように感じた。
パドメ(替え玉)の衣装と化粧があまりにもけばけばしく、スター・ウォーズ世界で浮いているようにも感じたし、ジャー・ジャー・ビンクスはひたすらに気持ちが悪い。ジャー・ジャー以上に不快なのがグンガンの族長。パドメとの交渉でいちいち顔面をけいれんさせながら唾液をまき散らすことに何のartistic meritsがあるというのか。ジョージ・ルーカスがマーシアと離婚したことで暗黒面に堕ちた(正確に言えば、外部社会との接点が極めて小さくなり、クリエイティブ面で馬耳東風になってしまった)ことはよく知られているが、女性を必要以上に醜く描き、その顔面に唾を吐きかけてやりたいという欲望をそのままストレートに映像化してしまったジョージ・ルーカスは、まさにシスの暗黒卿になってしまったわけだ。そんな男の作品を評価するのは困難極まりないことである。
それでも若きオビ=ワンとその師クワイ=ガン・ジンとダース・モールとのライトセーバー・バトルは圧倒的なスペクタクルだった。褒められるところは、それぐらいだった。
『 スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃 』
スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃 65点
出演:ユアン・マクレガー ヘイデン・クリステンセン ナタリー・ポートマン
監督:ジョージ・ルーカス
これは確か2002年7月3日にアメリカはロスアンゼルスで二番目に大きいと言われるモールの中のミニシアターで観た。2002年7月1日から7月7日まで親戚のところに逗留させてもらっていた。4~5割ぐらいしかリスニングできていなかったと思うが、最後のどぅーく―伯爵vsオビ=ワン&アナキンのライトセーバー・バトル、そして真打ヨーダとドゥークー伯爵のライトセーバー・デュエルのおかげで大満足で劇場を後にしたことを覚えている。
しかし日本に帰国後、あらためて劇場鑑賞して、「何だそりゃ?」と突っ込まざるを得なかった箇所も多数あった。ジェダイ評議会は動きが遅すぎる。“過激な交渉”で通商連合を封じ込めたパドメが過激な手段で報復されることなど予見できてしかるべきだし、護衛がひよっこのアナキン一人というのも、いかにも不自然だ。星図には何もない=そこには星が存在しない、という思考もクエスチョンマークだ。グーグル検索に引っかからない=検索対象が存在しない、とは普通は考えないだろう。誰かが情報を改竄したか隠蔽していると考えないあたり、ジェダイの騎士はかなりナイーブなようである。
それでもアナキンとパドメの逢瀬は美しくも健全な背徳感があり、ロマンスが盛り上がれば盛り上がるほどに悲劇の予感が強まっていく。このあたりも健全な結婚生活を送ることができていたジョージ・ルーカスが理想的な過去の心象風景を銀幕に投影したと考えられなくもない。
前作に続き、パドメが戦う姫を体現し、これでこそレイアの母親という印象を観る者に強く刻みつけた。青年アナキンを演じたヘイデン・クリステンセンも、ルーク・スカイウォーカーの父親というビジュアルを体現。ドロイド軍団とジェダイ軍団の大激突から、全面的な戦闘、そしてクライマックスの決闘シーンまでの流れだけならパーフェクトだが、ジャー・ジャー・ビンクスが懲りずにパルパティーンに権力移譲を発議。政治ネタをジャー・ジャーを使ってぶち込んでくるとは、ジョージ・ルーカスはどういう了見をしていたのだ?長所と短所、両方を兼ね備えた評価の難しい作品になってしまった。
『 スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 』
スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 80点
出演:ユアン・マクレガー ヘイデン・クリステンセン ナタリー・ポートマン
監督:ジョージ・ルーカス
アナキンがダース・ベイダーになることは確定している。ならば、どのように暗黒面に堕ちていくのか。ルーカスはその答えを“愛”に求めた。より正確に言えば、愛を失うという恐れに求めた。素人の精神分析学的に言えば、ルーカスはマーシアの愛の喪失により、自らが暗黒卿になってしまった。そして巨万の富を築き、帝国とすら呼べる企業を作り上げてしまった。ジェダイ評議会とは、彼のような異端の映画製作者を認めようとしない既存のハリウッドの映画製作システム全体を象徴していたのだろう。
アナキンとドゥークー伯爵のリマッチ、オビ=ワンとグリーヴァス将軍のライトセーバー・バトルなど序盤から大チャンバラ活劇である。おとぎ話に政治的な要素は不要である。本作はとにかくバッタバッタとライトセーバーで敵も味方も斬っていくストーリーを堪能すべしである。孤高のオビ=ワンと孤独なアナキンのコントラストが映えるし、二人の“Duel of the Fate”は、映画史(邦画除く)においては屈指のチャンバラ劇に仕上がっている。同時進行するヨーダと皇帝パルパティーンのライトセーバー・バトルとフォース・バトルも見応えは十分だ。
本作は当時、戸田奈津子の珍妙な訳に首を傾げたのを覚えている。オビ=ワンの“So uncivilized.”が「掃除が必要だ」だったり、アナキンの“He must live!”が「お慈悲を!」だったりと、色々と映画の外側のことも覚えている。それでも、全てのバトルが決着し、最後にパドメがルークとレイアを出産、そのルークがタトゥイーンのオーウェン夫妻に引き取られていくシーンでは身震いしたことは、まるで昨日のことのように覚えている。このPrequel Trilogyは、この瞬間のためだけに存在したと言っても過言ではない。
『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』
スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 80点
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー ハリソン・フォード キャリー・フィッシャー ジョン・ボイエガ オスカー・アイザック
監督:J・J・エイブラムス
まさかの続編。しかも、『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』の30年後の世界。公開時、劇場で7回観た。ブルーレイを入手後に、確か5回観た。実質的に『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』をフェミニスト・セオリーに則して脱・構築し、再構築したリメイクと言っていい。それだけに、おとぎ話として雰囲気を全編にふんだんに湛えている。
劇場が暗転し、20世紀FOXのロゴとファンファーレはなかったものの、
A long time ago in a galaxy far,
far away….
が表示され、画面にジョン・ウィリアムズのあのテーマ曲とともに
STAR
WARS
の文字が表示された時、一気に『 スター・ウォーズ 』の世界に引き込まれた。劇場に何度も足を運んだのは、ほとんど全部この瞬間のためだった。初期三部作を劇場でリアルタイムに鑑賞できなかった世代であるJovianは、プリクェル・トリロジー、特に『 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 』には心底がっかりさせられた。その時の落胆の気持ちを、本作は忘れさせてくれた。いや、薄めてくれたと言うべきか。いずれにせよ、傷がかなり癒されたのは間違いない。
本作制作および公開の報が流れた時、最初のトレーラーを観た。砂漠の背景に、『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』を想起した。そして第二弾のトレーラーの最後で、ハン・ソロがチューバッカに “Chewie, we’re home.” と呟くシーンに接して、文字通り鳥肌が立った。ハリソン・フォードの老け具合、つまり現実世界の時間の流れが、スター・ウォーズ世界の時間の流れと一致したように感じられた。あのおとぎ話の世界が延長され、拡張されたように感じられたのだ。ハン・ソロの言う ”We’re home.” とは、我々ファンの心の声を代弁したものだった。我が家に帰ってきたのは、ハン・ソロとチューバッカだけではなかった。
ストーリーは全くもって陳腐である。『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』の焼き直しだからである。メッセージを携えたドロイドが、砂漠を漂流。ここではないどこかへの脱出を夢想する少年・・・ではなく、今回は少女と出会い、そこから宇宙を駆ける大冒険が始まるからである。少し違うのは、オリジナルのスター・ウォーズにはオビ=ワンという師匠が存在したが、本作は伝説となったルーク・スカイウォーカーを探し求める筋書きである。それが心地好い。ルークとレイアとハン・ソロとミレニアム・ファルコン号と魅力的なドロイドたちあってこそのスター・ウォーズだからである。特にルークである。
本作でハン・ソロという映画史上屈指のヒーロー・キャラクターが退場してしまった。Jovianは落涙を禁じ得なかった。キャリー・フィッシャーの訃報が届いたのは、本作公開の約一年後。戦う女性の元祖が逝ってしまった。
それでもデイジー・リドリーとアダム・ドライバーは、伝説を見事に継承したと思う。完結する前からそう断言させてもらう。この二人の光と闇の戦いに胸踊らされないファンもいるようだが、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々である。
『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』
スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 75点
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー マーク・ハミル キャリー・フィッシャー ジョン・ボイエガ オスカー・アイザック
監督:ライアン・ジョンソン
遂に巡り合えたルーク・スカイウォーカー。しかし、彼は初登場時のヨーダのような世捨て人だった・・・。ユーモアなのかギャグなのか、よく分からない雰囲気が全編を覆っている。それもライアン・ジョンソン監督なりの深い考えがあってのことだろう。ミディ=ファッキン=クロリアンのような、世界観そのものをぶち壊す概念やガジェットでない限り、Jovianは何でも歓迎したいと思っている。それがレイア姫=オーガナ将軍が宇宙空間でスーパーマン化して復活することでも、宇宙空間を超えて交信することでも何でも良い。
レイとレンがタッグを組んで、スノークの親衛隊と戦うシーンを劇場で初めて観た時には脳汁が出た。ベイダーがパルパティーンに叛逆して、ルークを救ったシーンを思い出したからだ。『 ジェダイの帰還 』とは、ルークではなくアナキンのことだった。今作は基本的に『 スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 』と『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』のマッシュアップなのだから、一瞬ではあってもそのように夢想したファンは世界中で数百万人はいたはずである。
本作と『 ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 』によって、超光速航法それ自体が武器になるという新しいアイデアが提起された。『 銀河英雄伝説 』以来、宇宙空間での戦闘はレーザービームを旨とすべしという不文律に、明確に反している。が、それも時代の流れだろう。
クライマックスでルークが夕陽を浴びて、ウォーカーの大軍と対峙するシーンは鳥肌モノである。そして最後の最後にルークが二つの太陽の夕焼けを眺めて消えていくシーンでは、不安と期待の入り混じった予感を残した。ヨーダが本作で登場したことは、何らかの布石になるはずである。
エンドクレジットの途中の、
In Loving Memory of our Princess
CARRIE FISHER
という文字が画面に現れ、壮大なシンフォニーに一瞬、“愛のテーマ”のメロディが挿入された瞬間、劇場で滂沱の涙が流れた。自分でも心底アホだと思うが、劇場で8回観て、8回同じタイミングで泣いた。
ランキング
1位 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望
2位 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還
3位 スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲
4位 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒
5位 スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐
6位 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ
7位 スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃
8位 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス
総評
『 スター・ウォーズ 』の分析や考察をすることに意味はあるだろうか。自分のアイデンティティ形成にこの物語がどれくらい関わっているのかを考えることには意味がある。しかし、このサーガが歴史や世界に与えたインパクトについては、学者や業界人、筋金入りのファンが既に微に入り細を穿って論じている。興味のある向きは『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』というドキュメンタリーを観るべし。もしくは『 ファンボーイズ 』も良いだろう。キャリー・フィッシャーに出会えるからだ。2015年、余命幾ばくもないファンが特別に『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』を劇場公開前に観ることができたというニュースがあった。そして今年、2019年にもほとんど同じニュースが報じられ、実際に『 スター・ウォーズ エピソード9/スカイウォーカーの夜明け 』を末期がん患者が観たという。粋なことである。観ずに死ねるか、という映画はなかなかない。それがこの物語のパワーである。
“スカイウォーカーの夜明け”は英語では“The Rise of Skywalker”である。スカイウォーカーが人名である以上、夜明けという訳語の選定には少々違和感が残る。この三部作におけるスカイウォーカーとは誰か。普通に考えればルークだが、カイロ・レンも母レイアからスカイウォーカーの血を受け継いでいる。アナキンが最後の最後にジェダイとして帰還したように、カイロ・レンも暗黒面から光に帰ってくることが予感される。それをありきたりと見るか、それとも王道と見るかは人によるだろう。またはルークがフォース・ゴーストとして“復活”することも考えられる。前作でヨーダが登場したことには何らかの意味が絶対にあるはずだ。パルパティーンが復活するからには、アナキンやオビ=ワンが復活しても良いように思える。
Jovianは英語教師の端くれでもあるので、自分でも色々と訳してみたくなる。
『 スカイウォーカーの復活 』
『 スカイウォーカーの再臨 』
『 スカイウォーカーの再誕 』
『 スカイウォーカーの再生 』
『 スカイウォーカーの目覚め 』
・・・・・・どれもこれもイマイチである。とりあえず、金曜の朝イチに観に行く。できれば土日にもう1~2回は劇場鑑賞したいと思っている。少年時代にもう一度戻れるのか。おとぎ話の世界に浸れるのか。完結作の公開を楽しみに待ちたい。